婚約破棄宣言の前日譚 〜真実の愛の真相〜
王城内に、不穏な気配が立ち込めていた。
時は、秋の祝祭の大夜会を目前に控えた、ある早朝のこと。通常であれば謁見にも適さぬこの時間、王城の奥まった一室に、四人の男たちが集まっていた。
国王ジグムントと、第一王子アレクセイ、第二王子ラルフ──そして、ハーヴァー公爵。
公爵が王命で早朝の登城を命じられたのは、王国史においても異例であり、重大事に他ならなかった。召喚状の封蝋は黒──それは戦時や国家転覆の危機に用いられる緊急信号。
すなわち、この会談が平時の話で終わるはずがなかった。
八時間にわたる密議。外との接触を一切断ち、侍従も護衛も、誰一人として室内に近づくことを許されなかった。
その終わり、夕刻。
ようやく扉が開かれ、現れた四人の顔は一様に険しく、疲弊の色を隠せていなかった。
直後、口外厳禁のかん口令が発された。
この密談の内容を知る者は、四人以外には存在しない。だがそのとき、王国の未来を決定づける“ある決断”が成されたのである。
※※※
「明日は秋の祝祭の大夜会だ。アレクセイ殿下……まさか我が娘のエスコートを断るなどという話ではあるまいな?」
口火を切ったのは、ハーヴァー公爵であった。
椅子に腰かけるなり、声には穏やかな笑みが乗っていた。しかし、その眼光には牽制の鋭さが宿っている。
彼は知っていた。いや、公爵家の“影”たちの報せによって察していた。
第一王子アレクセイが、婚約者であるアレクサンドラを冷遇していること。そして男爵令嬢フェミニアを傍に侍らせ、過度に寵愛していること。
さらには、夜会の場で何かしらの“動き”を見せるのではという懸念。
黒の封蝋に込められた意味を読み取れぬ男ではない。
そしてこの場に自らを招いた目的が、「娘の婚約」にあると見抜いた上での一手──先手を打って、王と王子の腹を探ろうとしたのだ。
だが──
「アレクセイは廃太子とする」
王の口から絞り出されたその言葉に、思考が凍りついた。
「……はっ?」
公爵の口から、無意識に漏れた驚きの声。
会談の幕は、あまりに唐突な一言によって切って落とされた。
「アレクセイはお主の娘アレクサンドラへ、これから王命である婚約を独断で破棄する。それ故、廃太子とする」
言葉の意味を理解するのに、数拍を要した。
にわかには信じがたい発言。しかし、王の表情は真剣そのものだった。
「時期を見てラルフを立太子させ、アレクサンドラは引き続き王太子の婚約者としたい。ハーヴァーよ、どう考える?」
「ま、待たれよ……。そもそも、アレクセイ殿下が娘との婚約を破棄するというのは事実でしょうか? “独断”とおっしゃいましたが、陛下自らこうして言葉にしておられる以上、それは“王命”ではないのですか?」
「独断だ、私はそのようなことは知らぬ。そうでなくてはアレクセイを廃太子をする理由にならない。王命に反したという事実が必要なのだ。そうだな、アレクセイ?」
国王は、第一王子アレクセイへ話を振った。
微塵の狼狽えも見せず、アレクセイは頷いた。ハーヴァーへ話を切り出す以前に、この国王と王子の間でどのようなやり取りがあったのだろう。
ハーヴァーへ問いはしているが、アレクセイの廃太子は決定事項のように聞こえた。
「まずは公爵のご令嬢、アレクサンドラ嬢の婚約者となりながらこれを破棄すること、お詫びします」
そう言って、アレクセイは深々と頭を下げた。そうして彼はアレクサンドラに瑕疵があるわけではなかったのだとハーヴァーに語り始めた。
「わたしはアレクサンドラ嬢ほど素晴らしい女性を知りません。厳しいとされる王子教育に愚痴一つ溢すことなく、マナー、語学、歴史、地理、護身術、ダンス、どれもこれも完璧にマスターしました。
これはアレクサンドラ嬢の不断の努力を継続する勤勉さと自らの責務に向き合う真摯な姿勢があってのもの。もちろん素の素質が優秀であるのでしょう、わたしが同じことを同じ時間学んだとて、おそらくアレクサンドラ嬢ほどにはならないでしょう。
まだわたしが九才でアレクサンドラ嬢が七才の頃、婚約者が決まったと父に言われ、彼女と初めて顔を合わせました。流れるような金髪とブルーエメラルドのような瞳がとても美しく印象的で、妖精のような女の子だと感嘆しました。
成長すると、アレクサンドラ嬢はますます魅力的な女性へと変貌を遂げました。妖精が女神になったのかと見紛うばかりに、美しさと高貴さを兼ね備えた我が国の誇る淑女となったのです。交流を深めていく都度、彼女の魅力に抗えなくなりそうな自分がいました
また、出会った当時わたしは幼い子どもでしたが彼女は既に一人の淑女でした。わたしは話題を提供したり相手を褒めたりという会話のマナーをまだ覚えておらず、只々、自分の思いついたことを話していたと思います。アレクサンドラ嬢はニコニコとわたしの話を聞き、ときには話の続きを促すような言葉を返してくれました。
七才の女の子が機知に富んだ会話をしていたと思うと、幼い頃からアレクサンドラ嬢が聡明だったことが分かります」
そこまで一息に言うと、アレクセイは一度視線を下げ、再びハーヴァーの目を凝視した。
「わたしは貴方を義父、と呼びたかった。残念でなりません」
その言葉は真実と思えた。よくよく彼の声を聞けば、微かに震えている。
ハーヴァーは、言葉を失った。
だが同時に、思考の奥で冷徹に問い続けていた。
──ではなぜ、娘を疎かにしたのか?
──なぜ、フェミニアなる娘を側に置いたのか?
男爵家の娘を傍に侍らせ、まるで正妃のように振る舞わせた。噂は貴族社会の中で瞬く間に広がり、公爵家の顔に泥を塗ったも同然だった。父として面白くないのは当然。だが、それ以上に、理解できなかった。
どう解釈しようとも、娘を蔑ろにした事実は確かに存在する。
男爵令嬢フェミニアを傍に侍らせ、未婚の男女間の適切な距離を保っていなかったのは、娘を軽視していた証左と言えよう。
耳聞こえの良くない評判を聞くたび、イライラを募らせた。
率直に、男親として、面白くはないのだ。ハーヴァーも世の男親が思うのと同じように、出来ることなら娘を嫁に出したくないと思う感情に苦しめられた。
──だがなぜ、“そこまで”してアレクサンドラとの婚約を破棄する必要があるのか?
政略結婚に愛は不要だ。
それでも、アレクサンドラには幸せになってほしかった。
娘の婚約は、わずか七つの年齢であった頃のことだ。
無邪気な笑顔の中に一滴の気高さを湛えた少女が、王城の広間でアレクセイと手を取り合い、舞踏の真似事をしたあの一日が、今も脳裏に焼きついている。
その時のアレクサンドラに、男女の愛などというものが理解できていたとは思わない。
ただ、少年に微笑みかけられたことが嬉しかったのだろう。彼の掌を握り締め、くるくると楽しげに回っていた。
だが、あの光景を見た妻がふと言ったのだ。
「──ゆっくりと時間をかけて、愛を育めばよろしいのですよ」
妻は、政略で嫁いできた。家同士の取り決めであり、心を交わしたのは結婚の後だった。
それでも今では、あれこれと細やかに世話を焼き、“おしどり夫婦”などと貴族の茶会で揶揄されるほどには、互いに欠かせぬ伴侶となった。
そんな彼女が、「将来の夫としてこれ以上の相手は望めない」と微笑んだのだ。
であれば、疑う理由もない。むしろ、王家と繋がるという最大の政治的果実を前にして、娘の婚約は、我が公爵家にとっても望外の慶事であったはずだ。
……それなのに、だ。
いまや事態は暗転し、王命という形で“婚約破棄”が突きつけられている。
過去を思い返してみろ──恋愛結婚などという甘やかな選択が、王国貴族にどれほど許されたか。
数えるほどもおるまい。
貴族にとって婚姻とは、家の存続を保障するもの、政の一部だ。血と権力を結び、時に領地を守る鎖ともなる。
それは百年以上、この国で変わらなかった不文律である。
それがたとえ王命であろうとも──納得は、できなかった。
どうしてアレクサンドラを想うのであれば、あえて傷つけるような形を取るのか。
なぜ、“破棄”という、明確に責任の所在を伴う言葉を用いるのか。
もし娘に非があるのならば、まだ分かる。だが、そうではない。アレクセイが娘を嫌っているという話も耳にしたことがない。むしろ、若き日の彼は人前で娘に丁寧に接していた。
我が公爵家の後ろ盾は、王家にとっても必要不可欠なはずだ。それを自ら壊す理由が、どこにある。
アレクサンドラに“瑕疵が付かぬ形”で事を運んでいるのは理解できる。それは、むしろ感謝すべき配慮とも言えるだろう。
だがそれと同時に、なぜ“アレクセイを廃太子”という極端な手段を取るのかは、なおさら理解できぬ。
あえて言えば──ただ婚約者でない女に心を寄せた程度のこと。
貴族の間では、側妃や妾を持つことは常識であり、愛の向きが少々逸れたとしても、それが婚約破棄や廃太子に直結することなどあり得ぬのが常である。
むしろ、本妻一人を深く愛し、正妻の座を守り抜く者のほうが珍しい。
であるならば、これは単なる恋の問題ではない。
王家の中枢における、より深い“事情”が隠れているのではないか。
そう思わざるを得なかった。
──廃太子。
その一語が、どれほどの波紋を呼ぶか。
第一王子アレクセイを支持していた貴族たちの失望、第二王子擁立への思惑と政争、そして次代の王位継承権を巡る混乱──
王国の屋台骨が軋む音すら聞こえてきそうだ。
聡明で穏やか、領民の評判も良く、唯一無二の存在として期待された男。そのアレクセイを手放すというならば──国王は何を考えているのか。
いや、真にこの策を進めたのは、国王なのか?
あるいは、アレクセイ自身が──
「……そもそもアレクセイ殿下との婚約が、“解消”ではなく“破棄”とされた理由の理解が出来ませぬ。王家の問題ゆえ、公爵家が意見すべきではないと重々承知の上で申し上げますが、アレクセイ殿下を廃太子される理由、それが分かりませぬ。
それはこの王国に混乱を招きかねない、と愚考します。
我が家としては、分からぬままに諾とは答えかねます」
静かな声で述べ終えると、部屋に沈黙が落ちた。
やがて──国王はゆっくりと瞼を閉じ、長い呼吸の後に言った。
「一つ、公爵に尋ねよう。王として、必要な資質、素養、能力──それらは多岐にわたる。
だが、唯一。たった一つ、それが欠ければ、他のどれほどの才があろうとも“王”にはなれぬものがある」
彼の声には、疲れと、痛みが滲んでいた。
貴族が守るべきものは、何なのか。
それを見誤れば、百年続く名家とて、あっけなく瓦解する。
──お前はそれを分かっているか、と、問いかけてくるようだった。
「なぜアレクセイが、国王たる私の言に従い、婚約破棄を受け入れたのか。
なぜ私が、そのうえで“廃太子”という結論に至ったのか。
……その“実”を見誤れば、貴族とは名ばかりの、ただの権威に堕する」
国王は、視線を正面に据えた。
「まず考慮しなければならなかったのが、アレクサンドラ嬢のことだ。
彼女は並外れて優秀で、王妃候補として国内に敵なし。
だからこそ我らは、すでに王妃教育を始めていた。
だが、アレクセイは“望まぬ”のではない。“望めぬ”と申したのだ。
──そうであったな、アレクセイ?」
「……はい。その通りです」
アレクセイは、明確に答えた。
「望めない」と。まるで何か、抗いがたい運命を口にするように。
その瞬間、すべてが変わった。
この“婚約破棄”は、国王の命によるものではない。
──アレクセイ自身の意志によって始まり、そして、
“王にはなれぬ事情”を抱えた彼自身の告白によって、廃太子という決断が下されたのだと。
「はい、そのとおりです。望めない、との言に間違いありません」
静かに、しかし断固たる口調でそう返すアレクセイの声には、迷いも、感情の揺らぎもなかった。だが、その落ち着いた物言いがかえって、父である公爵の胸に重く沈んだ。
──何かがある。何か、言えぬほどの。
「……理由をお尋ねしても?」
問いかけた公爵に、アレクセイは一度だけ目を伏せた。そしてそれを、ほんの刹那の沈黙で飲み込んだのは、国王だった。
「公爵、申し訳ないが、それは私の口から語るべきものではない。いや、語られるべきではないと言ってもいい」
その言葉に、公爵の眉がわずかに動いた。王命として、政略として、あるいは情愛として──それぞれに理解のつく構図はある。しかし今、自らの娘が、理由も分からぬまま王家から手を引かれるというのだ。
「理由を明かせぬまま、我が娘の婚約が破棄され、しかもその相手は廃太子とされる。腑に落ちぬことが多すぎます。アレクセイ殿下に何かしらの不祥事が……?」
「違う。決して、アレクセイが過ちを犯したわけではない」
国王の言葉は速く、強かった。まるで、その疑念を封じるかのように。
「ただ一つ、王にとって最も重要な資質を、彼は……備えていなかった。それだけだ」
「……それは、いかなる?」
「それは――語るに及ばぬ。知ってしまえば、貴公はきっと余計な義憤に駆られるだろう。だが、貴公の娘に一切の瑕疵が無いこと、そしてアレクセイが誠実にこの決断を選んだことだけは、疑わないでいてほしい」
公爵はしばし無言だった。だがその表情は、静かな怒りと、見えない不安に満ちていた。王国の未来を担うはずだった王太子が、何かを抱えて身を引く。しかも、その理由を語ることすら許されぬとは。
「……アレクセイ殿下。お尋ねいたします。望めない、とのことですが、それは娘に対して情が湧かなかったと、そういうことですか?」
「いえ。アレクサンドラ嬢は賢く、聡明で、未来ある方です。尊敬しておりますし、敬意と敬愛の念を抱いております」
「ではなぜ、婚姻が望めぬのです?」
アレクセイは静かに、目を閉じた。そして、それ以上を語ろうとしなかった。
──語れないのではない。語らないと、決めたのだ。
その沈黙の重さに、公爵は気付いた。
そして、国王の次の一言が、場の空気を変えた。
「公爵、アレクセイは己の欠けを認め、それでも王家の威信を損ねぬために、自ら責任を負う覚悟をした。その覚悟に、私は王として応じたまでだ。――これ以上、彼に言葉で傷を負わせることは、許されぬ」
「……王命とあらば、従いましょう。ただ、これだけは覚えておいてください。アレクサンドラは泣きます。何も知らされず、ただ捨てられたと信じて」
「その痛みは、すべて我が王家が背負う」
国王の言葉は、静かで、そして重かった。
公爵はゆっくりと立ち上がり、深く礼を取った。娘のためにも、家のためにも、そして理解しきれぬ“真実”のためにも。
密議を終え、部屋を去る公爵の背中を見送りながら、アレクセイは口を閉ざしたまま拳を握り締めた。
──子を成せぬ身体で、どうして王になることができよう。
その言葉は、誰にも告げられぬまま、アレクセイの胸の底に沈み続けていた。
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婚約破棄を宣言された令嬢側の物語
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