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天才少女の転生した先  作者: 音ノ夜・T・姫桜
第1章 天才の最期
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第四話 天才の最期


 ──八月十三日、午前一時七分。


 パソコンのキーボードを叩く無機質で無感情な音だけが鳴り響く室内で、朝比奈歌恋は画面の右端に表示されたその数字を見てゆっくりと立ち上がると、窓から外の景色を眺めた。

 もうすっかり日は沈み、外は真っ暗な夜空が広がっていた。その中に小さな月が、自身の存在を主張するかのように光り輝いている。部屋の明かりが点いているところは見当たらない。

 今から数時間前の午後七時頃、河上春人は明日も来るよ、と言い残して帰宅していった。彼の家はここから自転車でも三十分くらいかかる。無理して来なくてもいい、と答えたが、会いたいから来てるんだよ、と笑って返していた。

 それから今までずっとパソコンと向き合っていたのだが、


 ──ぐううぅぅぅ


 空腹を訴える唸り声のような音が朝比奈歌恋のお腹から鳴り響く。

 春人が部屋に訪れてから今に至るまでケーキしか口にしていない。それだけでは流石に腹も減ってしまう。この時間じゃ配達もやっていないだろうし、冷蔵庫の中にケーキがあるもののその程度じゃ空腹は満たせない。

 残された選択肢はこのまま耐えるか自ら買いに行くかの二択だ。いつもならこのまま乗り切る方を選ぶのだが、幸いにもこのタワーマンションから歩いて五分くらいのところにコンビニがある。この空腹はさすがに耐えられそうにない。今から外に出かけるのは面倒だが、そこならおにぎりやパンくらいは残っているはずだ。

 歌恋は小さく溜息をついて、行くかと呟いた。

 しかし行くのはいいがまずは服を着替える必要がある。いくら人の少ない深夜のコンビニといえど今の姿のままで外を出歩くわけにはいかない。痴女にでも間違われて通報されてはたまったものじゃない。

 本来ならばここで着替えるのを面倒がって外出を諦めることも少なくないのだが、もう限界だとばかりに腹が一際大きな音を鳴らす。さっさと買いに行くべきだな、と歌恋は渋々今着ているカッターシャツを脱ぎ捨てて、下着だけの姿で自分の部屋に戻って服を探す。箪笥の引き出しを開けて一番上にあったものを適当に選んだ。

 無地のグレーのTシャツ、黒のショートパンツにニーソックスというシンプルな装いになった。だがそんなシンプルさこそ朝比奈歌恋という少女の可憐な美しさを際立たせていた。それほどまでに朝比奈歌恋は美しく、愛らしく、恵まれた容姿をしている。

 クレジットカード、スマホ、部屋の鍵と必要最低限のものだけを持って部屋を出る。鞄なんて持っていかなくてもレジで袋をつけてもらえばいいだけだ。

 自室のある五十四階からエレベーターで一気に一階へと降りる。こうも高いとそれだけの時間でも長く感じてしまう。一階に降りるまで他の階で一度も止まらなかったのは、出歩く人が極端に少ないこの時間帯のせいだろうか。一階に着いたエレベーターの扉が開き、そのまま真っ直ぐマンションの外へと出る。

 八月は真夜中といえど気温が高い。クーラーの効いた涼しい部屋から出て、外に出た瞬間に何もしていなくても汗が噴き出してくる。熱帯夜というものを肌で感じ取りながら、歌恋はゆっくりとした足取りでコンビニへと向かう。

 街灯だけが照らす夜道を歩いていると、目の前の異様な光景に思わず足を止める。

 二十メートルほど離れた先の街灯の下に一人の人物が立っていた。まるでスポットライトでも当てられているかのように街灯が放つ光がその人物の姿を露わにしてくれる。

 その人物は大きめのパーカーに下はジャージを履いている。体型が完全に隠されているため性別が判断出来ない。顔もキャップをした上からパーカーのフードを被り、サングラスにマスクとまるで絵に描いたような不審者の恰好をしている。 熱帯夜にわざわざ暑苦しい服装と、顔や身体を完全に隠し切ったその怪しすぎる恰好に歌恋は眉をひそめる。

 性別も年齢も何も分からないその人物は歌恋の姿を見ると、ゆっくりと歩み寄ってくる。その不審な人物に対し歌恋は当然の疑問を投げかけた。


「……誰だ、君は……?」


 質問に相手は答えない。聞こえていないのか、聞こえているがあえて答えないのか、ただ前に進む足を止めない。サングラス越しの瞳で真っ直ぐ歌恋を見つめながら、ゆっくりと近付いてくる。

 その様子に歌恋は得心がいったのか、小さく嘆息した。


「──また現れ始めたか。やれやれ……君たちは毎回どうやって特定しているんだ、まったく」


 目の前の不審な人物に対してか、或いは独り言か、歌恋は腕を組んでその人物を見遣った。いつものようなどこまでも冷めた冷徹な視線で睨むように目を細めると、ぶっきらぼうな口調で愚痴る。


「引っ越してしばらく穏やかな日常だったんだがな。引っ越しもタダじゃないんだぞ」


 歌恋が見知らぬ人物に待ち伏せをされるのは今回が初めてではない。以前から、正しくは歌恋が気まぐれで出演したクイズ番組が放送されてから何度か被害に遭っている。テレビに出演した際に美少女中学生だと宣伝されていたからか、そういった趣味の人間が何度か待ち伏せして歌恋に接近してきたことが何度も起こったのだ。もっとも明らかに不審者だと視覚に訴えかけてくる風貌の人物で、こんな真夜中に現れたのは今回が初めてだが。

 幸いにも事件になるようなことは起きず、気味悪がった歌恋が早々に引っ越したことで事なきを得たのだが、引っ越してからしばらく経った頃、また同様の被害に見舞われた。それからはその繰り返しで、最初の被害から今のタワーマンションに移るまで四回住居を変えてきた。

 警備やセキュリティがしっかりしているから安全だろうと踏んでいたが、ネット配信での件で変に注目されたことが仇となり特定されるに至ったのだろうと、歌恋は当時の自分の行為を悔いた。

 歌恋に言葉を投げかけれてもなお相手は足を止めない。一度も言葉を発さない。それも初めてではない。大抵こういう相手は目の前まで近付いてから口を開くのだ。

 しかしそんなことは歌恋には関係ない。ならば向こうが目の前に来るまでありったけの言葉を投げかけるだけだ。強い言葉と視線を続けていると大体半分ほどの確率で相手が怯んで退くことを歌恋は学んでいた。


「まだ何も起きてないから見送っていたが、そろそろ我慢の限界だな。いい加減警察に通報してやろうか」


 ──残り十メートル。


「それにぼくはファンサービスなんてしないし出来ない。ぼくはこの容姿を見世物にするつもりはない」


 ──残り五メートル。


「そうだ、顔の良い女子からのファンサービスを受けたいならうってつけの相手がいるぞ。恐らく今はひどく傷ついているだろうから、ちょっと近付いただけで簡単に心も、もしかしたら足も開くかもな」


 ──残り一メートル。


「その女の名前は鳥居愛冴。テレビで人気者らしいから君も知って──」


 ──残り0メートル。


 目の前に相手がやって来た瞬間、どんっと前からの衝撃が歌恋を襲う。こちらに真っ直ぐ向かって来ていた不審者は、歌恋の前で立ち止まることなくそのままぶつかって来たのだ。

 しかしそれだけではない。それだけではない"何か"を歌恋は感じ取っていた。

 不適で嘲笑うかのような表情のまま、それの正体を確かめるために歌恋はふと視線を落とす。

 そして"何か"の正体はすぐに明らかとなった。


 ──腹部にナイフが突き刺さっている。


 ナイフを握っているのは不審者だ。ナイフを握り締めるその手が鮮血で真っ赤に染まっている。

 ならこのナイフを突き刺されている腹は一体誰だ。


 ──朝比奈歌恋(ぼく)か──!?


 理解した途端、何ともなかった腹部が激痛を訴えてくる。痛いと熱いと苦しいが混ざって思考がまとまらず、脳がショートするような感覚が奔る。何をどうすればいいのか一切思い浮かばはい。

 傷口から溢れる血を止めるのが先か。警察に通報するのが先か。いや、まずは病院か。痛いいたいイタイ。熱いあついアツイ。苦しいくるしいクルシイ。死ぬのか、こんなところで。こんななんでもないことで命を落としてしまうのか。そんなことあっていいのか。

 生まれて初めて知る"死"に限りなく近い状態。息は乱れて上手く呼吸が出来ない。痛みでまともに顔を上げることもままならない。

 しかしそんなことはお構いなしに不審者は手首を左右に捻り、さらにナイフを深く突き刺していく。


「……ぅぐっ、ぅっ……!」


 歌恋の口から呻き声が漏れる。

 思考がまとまらないまま歌恋は咄嗟に腕を伸ばし、押しのけるように力いっぱいに相手の顔を殴りつける。その衝撃に相手は怯み、よろめくように後ろに数歩引き下がる。

 だが相手が力強くナイフを握っていたためか、よろめくと同時に歌恋の腹からナイフが引き抜かれる。刺された腹部からは血がとめどなく溢れてくる。

 意味はないことだと分かりながらも歌恋はその傷口を手で押さえながら、不審者の姿を瞳に映す。さっきの抵抗で不審者のサングラスとマスクが外れ、隠していた顔が露わになる。その顔を見た歌恋は、やっぱりな、と呟いた。


「…………ぼくを、襲撃するとしたら……き、君しか……いないと思ったよ……」


 足がガクガクと震えるが、何とか気合いで堪え倒れ込みそうになる身体を支える。上手く呼吸も出来ず、痛みに耐えながら歌恋はその名を告げる。


「……満足か……鳥居愛冴……!」


 目の前の襲撃者は憎悪に満ちた瞳で歌恋を睨みつけ、怒りを露わにしたように歯を食いしばっている。彼女は気が昂っているのか、歌恋より呼吸が乱れており肩を上下させている。

 そんな彼女の様子を見て、歌恋は小さく笑み浮かべる。


「……本当に、愚かだな君は……こんな、ことをして…………ぼくを、殺しても……君に対する世間の評価は……変わらない……! 暴力に及んだのは、浅はかだったな……愚行でしかない……」

「黙れ!! アンタのせいで、私と先生の人生はめちゃくちゃに……! アンタが私と先生、二人の人生を破綻させたのよ! これはその報いよ! アンタがいなければ……!」


 鳥居愛冴が言葉を詰まらせる。

 悔しさと悲しさが込み上げたのだろう。目尻に涙を浮かべる。まるで悲劇のヒロインだと言わんばかりの姿だ。しかし歌恋は呼吸を必死に整えながらその言葉の先を口にする。


「……不貞行為はバレなかった、か……? いいや、ぼくがやらずとも……いつかは暴かれていたさ……」


 途切れ途切れながらも、しかししっかりと歌恋は鳥居愛冴にそう告げる。

 そして恐らく歌恋の言うことは正しい。

 実際にあの場で公開された写真や録音データは、記者やジャーナリストではなく一般人から送られてきたものばかりだ。それくらいに彼女は警戒心が緩く、一般人に写真や音声を撮られてもおかしくない場所でそういった行為に及んでいたのだ。歌恋があの場で明らかにせずとも、時間の問題ではあっただろう。

 しかしそれほど警戒心が緩いにも関わらず、世間に明るみにされていないのも事実だ。だがその理由に関しても歌恋はある程度の予測を立てていた。


「……親が金で、口封じをしていたんだろうな……全く、奔放な娘を持つと……親は苦労するな……」


 彼女の父親は大手企業の重役だ。たとえ数々の写真や録音データでゆすられたとしても、親が金を出せばそれらの事実を闇に葬り去ることが出来る。

 そしてそれも一度二度ではないはずだ。そういったものが出回る前に親が揉み消し、本人はのうのうとメディアに顔を出し続ける。都合の悪い事実は無かったことにして、清楚な優等生というスタンスを演じ続ける。

 呆れた性根だ、歌恋は嘲笑う。


「……ぼくが親なら、勘当するがね……君みたいな娘……。君の親は頭を抱えているだろうさ……折角整った容姿、聡明な頭脳を持っているのに……自分たちよりも年上のロリコンおじさんと肉体関係があったんだからな……」


 歌恋のその言葉によって鳥居愛冴の眼光に鋭さが増す。ナイフを持ったまま近付き、今度は彼女の右肩を突き刺した。


「……かっ、は……ぁ……!」


 歌恋は掠れた声を漏らし、今度は口から血を吐いた。

 そして鳥居愛冴はそのまま立て続けにナイフを歌恋の身体へ次々と突き刺していく。太もも、腹、胸、腕──数え切れないくらいの傷痕を刻みつけられ、遂に歌恋の身体は仰向けに転がった。だがそれで終わらない、鳥居愛冴はそのまま馬乗りになりナイフを突き付ける。


「先生を侮辱するな! 全部お前のせいだろ! お前のせいで私は大学で居場所を失ったんだよ! 先生は家族に逃げられたし、お父さんは仕事を失くした! 全部全部お前のせいで──!」


 あれだけのことを暴露されたのだ。当然の帰結というべきだろう。本人の信用は失くなるし、自分の教え子と関係を持っていたなんて知ったら、妻や子供に見捨てられるのも当たり前だ。

 しかしまさか今までの隠蔽が原因なのか、父親も失業に追い込まれるとは。まさに全ての人生が狂わされたというべきだろう。

 荒々しい口調になり鬼のような形相で睨みつける鳥居愛冴に対し、しかし朝比奈歌恋は不敵な笑みを浮かべて迎え撃つ。


「……自分の、蒔いた種だろ……ぼくに罪をなすりつけるな……! 自業自得だよ、絵に描いたような転落人生だな……これから君が、どう人生を巻き返すか、見物だな……」

「…………ッ!!」


 馬乗りになった鳥居愛冴は無言で歌恋の身体にナイフを突き立てていく。刺しては引き抜き、また刺しては引き抜き──歌恋を文字通り滅多刺しにしていく。


「お前に、明日は来ない! 今すぐ私が! ここで! 殺す!! 殺してやる!! アハ、アハハハハハハハッ!! 私たちの人生をめちゃくちゃに壊したこと、あの世で後悔しろ──!!」


 ──血を流しすぎた。


 ──もう何かを考えることもできない。


 ──指はおろか瞼を動かすことさえできない。


 歌恋は死を実感した。

 身体の感覚が無くなっていく。もう痛みさえも感じない。何も聞こえない。何も見えない。ただ"無"という感覚が歌恋の頭の中を支配する。


 ──ああ、ぼくは死ぬのか──


 そのことに恐怖はない。

 死というものはこんなに静寂に包まれたまま迎えるものなのか。それなら悪くない、と歌恋は薄れゆく意識の中で思った。

 未練はない。後悔もない。


 ──ただ惜しい。惜しいのだ。


 ──この知識をこの世に遺せないことと、"死"を迎える感覚を記録できないことが、ただ惜しい──


「────────ぁ────────」


 ──朝比奈歌恋の心臓が止まる。


 ──この日、朝比奈歌恋は死亡した。


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