第三話 天才なる少女と凡庸なる少年
──八月十二日。
昨日よりもさらに強い日差しが照りつけ、真夏日となった都内某所。街ゆく人はハンカチやタオルで溢れ出す汗を拭きながら歩いており、見ているだけでも汗が吹き出してくるような光景だ。
そんな地上を睥睨するかのように高層ビルやタワーマンションが林立する中、頭ひとつ抜けた高さのタワーマンションがある。およそ半年ほど前に出来た地上五十四階建ての新築タワーマンションで、地上から見上げると首が痛くなってしまうほどの高さがある。
その最上階にある四室のうちのひとつ、「5401」号室。その部屋には今、一人の少女がベッドの上で眠っていた。肩あたりで揃えられた焦げ茶色の髪に、目を閉じていても分かるくらいの端整な顔立ちをした少女だ。長い睫毛に色白の肌、小柄で華奢な体格、気持ち良さそうに優しく静かな寝息を立てるその姿はまるで天使のようで、彼女のいるベッドはさながら聖域のように思えてしまう。
カーテンの隙間から差し込む日差しが、狙ったかのように天使のような少女の目元を照らす。それを嫌ったのか寝返りを打って回避する。
しかしその動きで目が覚めたのか、その少女はゆっくりと瞼を持ち上げた。開かれた彼女のその瞳は、天使のような寝顔とは真逆の印象を与える鋭く冷たいものだった。
寝起きでまだ上手く働かない脳を動かして、ひとまず身体の上体を起こしてから、その場で思い切り伸びをする。固まった身体がほぐれていく感覚に心地よさそうな吐息を漏らしベッドから立ち上がった。
彼女の寝室はとても広い。およそ10帖ほどの部屋には彼女が眠るための一人用にしては大きめなベッドと、枕元にいくつかの小物を置くための台しかなく、その台の上にも充電器に繋がれたスマホが置いてあるだけだ。ただでさえ広い部屋がさらに広く感じられてしまうほど、最低限の物しか置いていない。
カッターシャツ一枚だけで首の下から太ももの真ん中辺りまで隠れる彼女は、その姿のままで大きな欠伸をひとつしてから寝室を後にした。
──彼女の名前は朝比奈歌恋。
十七歳の現役高校生でありながら高校は疎か、国内の難関大学をも優に卒業出来るほどの明晰な頭脳を持ち、海外の名門大学からも注目されるほどの才媛だ。
昨日の講演会でも主役の演説を酷評し、さらには世間に周知されることのない事実を暴き、その上で彼女の講演会に訪れた観客全員が絶賛するほどの演説を披露してみせた。
だがそれは自分の才能を誇示するためではなく、ただ単に"その場の流れ"でそうなっただけだ。
写真や録音データは事前に用意してはいたものの、彼女の講演会の内容次第では歌恋も動くことはなかったし、なによりネット配信のコメントが荒れることもなかっただろう。入手していた彼女のイメージダウンの証拠は墓場まで持っていくつもりだった。
ああなったのは全て彼女のせいだ。自分は流れに乗って行動したに過ぎない。そもそも調べれば調べるほど裏があるような人物だ。まともな講演会にはならないだろうと歌恋も予想はしていたが。
彼女がやって来たのはリビング、ダイニング、キッチンが繋がったかなり広いスペースだ。大体30帖ほどはあるだろうか。しかし置いてある物はとことん少ない。25帖ほどのリビングとダイニングスペースには三人掛けの大きなソファに、ノートパソコンとリモコンだけが置かれた重厚感のある大きなリビングテーブル、そしてソファの正面には65インチの大型液晶テレビが設置されている。
やや広めなキッチンには大きな最新冷蔵庫、ポット、電子レンジ、食洗機などは置いてあるものの調理器具や炊飯器などは見当たらず、部屋の隅に大きなゴミ袋が三、四つ放置されている。大きな食器棚にもグラスとスプーン、フォーク、箸、お皿や茶碗など一通りの物はあるが、わざわざ大きな食器棚に納めるほどの量ではない。
生活感が少なくモデルルームのようなこの「5401」号室は彼女一人のための部屋だ。この部屋の住人は彼女以外にはいない。兄弟姉妹はもちろん、祖父母や両親もこの部屋にはいない。
そして同階にある他の三つの部屋も彼女のものだ。最も出入りはほとんどせず、住居としても物置としても使われていない、仮の住所として使っているだけだが。
歌恋はゆっくりとした足取りで冷蔵庫に向かいその扉を開く。中には麦茶のペットボトルがあるだけで他には何も無い。彼女はそのペットボトルを手に取ると、グラスに注ぐことなくそのままリビングに持っていく。
大きなソファを独り占めするかのように無造作に座ると、いつもこなしているのか流れ作業のような動作でノートパソコンを起動させ、エアコンのスイッチを押す。どちらも最新型の電化製品で、ノートパソコンは電源をつけてからすぐに画面が立ち上がり、エアコンからは涼しい風が送られてくるが、稼働音は全然気にならないほど静かだ。
ペットボトルの麦茶をそのまま直飲みしながら、パソコンを操作していると受信メールのフォルダに新着メールが来ていることに気付き内容を確認する。
メールの文章は全て英文で記されていた。それを表情も変えないままで読み終えると、やがてつまらなそうに鼻を鳴らす。
「……また海外の大学からか……まあ、海外に目を向けるのもひとつの手ではあるか──」
ピンポーン──
歌恋が言い終わるより僅かに早く部屋のインターホンが鳴った。その音に反応しおもむろにソファから腰を上げ、テレビドアホンに映し出された人物を確認すると、返事をすることなく解錠ボタンを押し、訪問者を招き入れる。
ソファに戻りしばらくすると、部屋の鍵が開けられ訪問者が部屋の中に入ってくる。どうやら相手は部屋の鍵を持っているようだ。その人物の足音には迷いがなく真っ直ぐとリビングに近付いて行き、やがて部屋の扉が開かれた。
「おはよう、朝比奈さん」
朝の挨拶と一緒に朗らかな笑顔を見せた訪問者は歌恋と同年代と思しき少年だ。
優しげな性格をそのまま表現したかのような顔立ちに、やや細身な体躯をしたその少年は歌恋と目が合うと優しく微笑む。
彼は河上春人。歌恋とは小学生の頃からの知り合いだ。その頃から既に周りから浮いていた歌恋に対しても話をかけ続け、現在に至るまで一応の交友関係が続いている。歌恋の唯一の友人とも呼べるような存在だ。
そんな純朴な、どこにでもいるようないたって普通な見た目のその少年を歌恋は一瞥すると、
「もう十一時だ。おはようと言うにしては遅くないか」
「いいじゃないか、細かいことは。挨拶は大事なんだから、まずはおはようかなって」
そっちは起きたばかりでしょ、とずばり言い当てられると、歌恋は思わず拗ねたような表情を浮かべる。その様子に春人は小さく笑うと、
「朝ごはん、食べてないよね? 代わりになるか分からないけどケーキを買ってきたんだ。食べる?」
彼は手に持っていた箱をキッチンのカウンターの上に置く。ケーキ、という単語に反応し春人と目が合うが、すぐにノートパソコンの方に視線を戻してしまう。
しかし、
「……チョコレートケーキとモンブランがあるなら、もらう」
ノートパソコンから一切視線を逸らさずに小さい声でそう告げる。まるで照れ臭さを隠すようなその様子に、春人は思わず顔を綻ばせる。まるで愛しい我が子を眺めているような、どこか幸せそうな表情だ。
もちろんあるよ、と答えると慣れた手つきで食器棚から皿を取り出し、ケーキを皿の上に移していく。
「ココアでも淹れようか」
その言葉に歌恋からの返事はない。だが彼は沈黙は彼女にとって肯定であり、拒否ではないことを理解している。
まるで自分の家のように何処に何があるのか理解しているのか、キッチンの引き出しからココアの粉を取り出し、それをティーカップの中に入れる。そしてポットに水を注ごうとしたところで、ポットを見た彼の手が止まる。
きょとんとした表情をした春人は、ソファの上に座ったまま動く様子のない歌恋を見遣り、
「朝比奈さん、ポット買い換えた?」
「前のも古かったろう? それにこの前君が言ったんじゃないか。最新型のポットは便利だ、すぐにお湯が沸く、と」
春人が問いかけても歌恋は視線を向けずにそのまま返答する。
その答えに春人は乾いた笑いを浮かべる。
前のポットもまだ一年も経っていなかったら決して古いわけではない。確かに最新型のポットが色々と便利だとは言ったが、前にここを訪れたのは三日前だ。三日ぶりに今日来て最新型に変わっているとは思いもしない。相変わらずお金の使い方に迷いがない歌恋に、引き攣った笑みを浮かべるしかなかった。
それに数日の間に家電が最新のものに変わっているのは今回が初めてではない。今まで何度もあった。そしてその理由は春人が便利だ、と話していたからというものだ。別に歌恋は自分が楽をしたり、より便利だからと家電を買い換えるわけではない。彼が便利だというなら買い換えておこう、と。ただそれだけだ。
そしてその理由もいたってシンプルだ。
この部屋の家事の大半、いや全ては春人が行っている。掃除や洗濯、ゴミをまとめたり、洗濯物を取り込み、畳んで箪笥に戻すまでの全てを彼が一人で行っている。現に今ケーキの用意や飲み物を準備しているのも彼で、歌恋は一切動こうとしていない。春人が便利だと言うのなら、買い換えて楽に出来るようになった方がいいだろうという理由で新しいものに買い換えているのだ。
そしてそのことに対して春人は別に不満に思ってもいないし、むしろ彼が進んで行っているので、二人にとっては普通のことなのだ。たとえ今ここで歌恋が手伝おうと立ち上がっても、彼は動かなくていいと、そこで待ってていいよと言うだろう。彼は好きで彼女のために動いているのだ。
ポットで沸かしたお湯をカップに注ぎ、ケーキとココアを歌恋のもとに置いた。歌恋は置かれたティーカップを手に取り、淹れたてのココアを一口飲む。
春人は余ったケーキを冷蔵庫の中に入れ、自分の皿とティーカップを持ってソファに座る。位置的には隣だが、二人の間には一人分くらいのスペースが空いている。
「またゴミそのままだね。いくら袋にまとめても出さないと減っていかないよ?」
「それなら君が出せばいいだろう。ゴミが増えようがぼくは気にしない」
まるで母親が叱るかのような言葉と口調に歌恋は口を尖らせる。
自分は気にしてないからそれを気にする人がすればいいじゃないか、と言外にそう告げている。
しかし歌恋のその言葉に春人は溜息をついて、
「ここにゴミ回収車が来るのは九時でしょ? それに間に合うようにここに来るとなると、朝早くにインターホン鳴らしちゃうけど?」
「部屋の鍵でオートロックも開くだろう。それなのに君が毎回インターホンを鳴らしてるだけだ」
「突然お邪魔しちゃ悪いと思ってね。一応今から行くよって合図だよ」
必要ない、と歌恋はチョコレートケーキを一口食べる。
ほどよい甘さのチョコレートの味が口の中に広がり、ふわふわのスポンジ生地と完全にマッチしている。口に広がる幸福感を噛み締めていると、春人が思い出したようにふと口を開いた。
「それより見たよ、昨日の講演会! ヒヤヒヤしたよ、もう……」
「何も起こらなかったのだから心配しなくてもいいだろうに」
「心配するよ! 本当に何か起こってたらどうするつもりだったの?」
「被害届を出して弁護士に頼むだけだ。それで大勝利間違いなしだからな」
ふふん、と腕を組んで自慢げな表情を見せる。まるで危機感のない様子に春人は深い溜息をつく。
今回みたいな場面が今までもなかったわけではない。大きな問題になる前に場が収まるものの、その度に春人は冷や汗を流し続けている。正直心臓に悪い。
「それにしても、今回はやけに大胆な行動を取ったね。いつも必要以上に目立つことは避けてるのに」
その指摘に歌恋が眉をぴくっと動かした。
昨日の鳥居愛冴の講演会で、表では清純派で優等生を演じている鳥居愛冴が、イケメンや大学の教授と不純な交際をしているという裏の顔を暴いた。それも講演会に訪れた観客やネット配信もされている、多くの注目を浴びる状態でだ。
普段から人目につくようなことは避けている彼女からは考えられないその行動を、春人が不思議がるのは当然のことだ。
じっと見つめられて、無視で押し通せる気がしないことを悟ったのか、歌恋は小さな溜息をついた。
「──あれは何年前だったかな。ぼくが気まぐれでテレビ番組に出演したことがあっただろう?」
「えっと、二年前だったかな。そういえばあったね」
それがどうかしたの、と春人が問いかけると、歌恋はニヤリと笑みを浮かべた。獰猛だがどこかいたずらっぽく無邪気な笑顔だ。
「そこで興味深い話を耳にしたのさ」
実に楽しそうな口調で、朝比奈歌恋は語り出す。
二年前、朝比奈歌恋が中学二年生の頃の話だ。
彼女は当時から既に大学の問題に手を出しており、それがどこから知れたのかいつしか雑誌の取材やインタビューの申し込みをいくつもされる状態となっていた。
もちろん全て断っていたのだが、もしかしたら何か変わるのかもしれない、と一度だけテレビ番組の出演を承諾した。
彼女が出演するテレビ番組は高学歴芸能人や、クイズが得意なタレントらが早押しでクイズを回答するという、いつの時代にもあるようなありふれたクイズ番組だ。最初こそ早押しボタンを押してクイズの回答をする、というシステムに不慣れな様子を見せていた歌恋だが、後半からはそのシステムに慣れ、凄まじいほどの追い込みを見せた。しかしあと一歩のところで追い付けず、残念ながら歌恋は負けてしまった。誰かと知識でぶつかり合えるのは良いことだと感じはしたものの、何か変わることは特に無さそうだったため、これが歌恋の最初で最後のテレビ出演となった。
その番組の撮影が終わった後、一人の共演者が歌恋に声を掛けてきた。
その男性は背が低めで小太りな眼鏡をかけた男性だ。お世辞にも優れているとはいえない容姿をしていた。世間からは不細工だと言われているらしいが、クイズ番組の成績は良く、歌恋よりも正答数が多かった。
どうやら彼は共演者には必ず最後に挨拶をするらしく、歌恋にも共演できて楽しかった、ありがとうと感謝の気持ちを述べていた。
歌恋もごく軽い気持ちで返事をした。
ただそれだけのことだった。
それだけ、だったはずだ。
──あなたはちゃんと、返事してくれるんですね。
と、その男性は安心したように呟いた。
それを聞き逃さなかった歌恋は問いかけた。どういう意味なのか、と。すると男性は言いづらそうに伏し目がちになりながらゆっくりと話し出す。
その男性は以前に鳥居愛冴と共演したことがあるらしい。鳥居愛冴はその頃からテレビ出演しており、まだ話題になって間もなくといった時分だった。その男性はいつものように撮影後に鳥居愛冴に挨拶をしたそうだ。
だが鳥居愛冴はその挨拶を無視をしただけでなく、その男性を一瞥すると嘲笑しながら、
「なぁーんだ、豚かと思った」「話しかけないで。ブスとデブが感染るでしょうが」
そう罵ったらしい。
昔から容姿でいじめられることが多かったため、せめて賢くあろうと必死に勉強して、こうやってクイズ番組で活躍できるようになったのにまだ言われるのかと悔しく感じたらしい。
美人で頭の良い人はみんなこうなのか、と思っていたからこそ、歌恋が普通に返事をしてくれたことが嬉しかったそうだ。
その話を聞いた歌恋は笑みを浮かべた。正直鳥居愛冴のことを歌恋はあまり良く思っていなかった。そして他人を口汚く罵り、あまつさえその態度は表には出さずにいる。それを表に公開すれば面白そうだ、と。
歌恋はその男性と鳥居愛冴を見返す作戦を立てた。
やり方は簡単だ。SNSで裏のアカウントを作り、鳥居愛冴に関する悪い情報やどこにも回していない写真の提供を呼びかけた。ネットを使えば割と早くことが進んだ。写真の提供者には報酬を渡し、決定的な証拠となったものの提供者には色をつけた。
そうして二年にも渡る計画を遂に実行させたのだ。
「よ、容赦ないなぁ……朝比奈さんがおっかないよ……」
「ま、いずれは公になっていただろうさ。いつまでも隠し通せるようなことではないからね」
少し破滅する時期を早めただけにすぎない、と歌恋はあくまでもそう主張する。
実際に歌恋のもとに寄せられた写真や音声はきちんとした記者やカメラマンなどではなく一般人から送られたものだ。そんな簡単に証拠を掴ませるくらい周囲の警戒が甘いのだから、遅かれ早かれ世間に知れ渡っていただろう。
「いずれにせよ、これで鳥居愛冴は再起不能だ。少し頑張った甲斐があったよ」
「……ねぇ、朝比奈さん」
得意げに語る歌恋の名前を呼ぶ彼の目は、真っ直ぐに歌恋を見つめていて、どこか不安で心配そうな表情をしている。
いつもと違う様子の春人に対して、歌恋も思わず顔が強張る。
「……な、なんだ……?」
「君は敵を作りやすい性格だから、気を付けてね。たぶんだけど、君が思っているよりも多くの人から恨みを買っているだろうから」
その指摘にそうだなと素っ気なく返す。
歌恋としても自覚はあるし、少し危惧していることではあった。今のところ何も起きていないだけで、これから先も同じだとは限らない。今まで自分の思ったことをそのまま口にしてトラブルになったことは数え切れないほどある。そして昨日の講演会で初めて身の危険を感じた。
成す術なく押し倒され、抵抗する間もなく衣服に手をかけられ、これはどうすることも出来ないなと覚悟さえした。非力な自分では振り解くこともままならなかった。結局は自分は非力でか弱い女子なのだと。頭が良いだけでは打開出来ないことに対しては無力なのだと痛感する。
「……海外に行くのも良いかと思ったが、日本より治安が悪いだろうし、難しいな……」
「──えっ、朝比奈さん、海外に行くの!?」
何気なしに呟いた言葉が聞こえたのか、春人は鳩が豆鉄砲を食ったような顔で大きな声を上げた。まさか歌恋が海外に移住することを考えているなんて思いもよらなかったのだろう。
しかし歌恋は小さく溜息をついて、そうじゃないと訂正する。
「あくまでまだ候補の段階だ。行くと決めたわけじゃない」
なんだかんだで日本の暮らしに不満があるわけじゃないし、今は今で快適だ。それなら勝手も文化も違う海外に行かずとも日本に留まっている方がいい。才を競う者がいないのが如何ともし難いところではあるが。
「それに、海外に行くとしても私は君を連れて行くつもりだぞ?」
「……へ?」
歌恋の思わぬ言葉に春人は目を丸くした。
彼女と違い春人はいたって普通の男子高校生だ、頭が良いわけでも、運動神経が良いわけでも、ましてや裕福な家庭に生まれたわけでもない。自他共に認める何処にでもいるような平凡な人間だ。
天才を自負する彼女が、自分を必要とする理由が分からない。
「……な、何で僕を……?」
微かな緊張感を抱きながら春人は歌恋に問う。すると歌恋はきょとんとした表情を浮かべた。何故そんな質問をしたのか分からない、とでも言いたげな口調で彼女は返答する。
「何でって、当然だろう。ぼくが一人で海外に行ってまともに生活できるわけないだろう」
やけに自信ありげな風に語る歌恋に春人は肩を落とした。要は自分の代わりに身の回りの世話をしてくれる人物が欲しいらしい。
無論、歌恋自身に生活能力が皆無というわけではない。彼女は天才だ。理解力があり、効率の良い方法をすぐ思いつくし、何より頭の回転も早い。つまり私生活に於いても"やらない"だけで、彼女は"やれば出来る"タイプの人間なのだ。それを面倒がってやらないし、春人が何も言わずに彼女のために動くのでやる必要がないと感じているのだ。
まあ連れて行かれる理由としてはそんなことだろうと思ってはいたが、実際に言われると少しショックを受けるものなのか、と春人は小さく嘆息した。
「それに、君もさっき言っただろう。ぼくは恨みを買っていると。現地の会話や交渉などはぼくより君が行なった方が確実だろう」
「かもしれないけど、僕は外国語は日常会話程度も喋れないよ?」
「それこそぼくの出番だ。向こうの言葉をぼくが君に伝え、君の言い方でぼくが向こうの人に伝える……所謂通訳係になれば問題ないだろう」
その提案に関しては春人も思わずなるほど、と感心してしまう。
二人の不得意な部分を補えば円滑な生活が送れるということだ。歌恋の苦手な身の回りのことを春人が担当し、春人が出来ない現地の人間との会話を歌恋が担当する──そうすれば海外での生活も難しくないだろう。
「まああくまでこれは海外に行くとしたらのプランだ。まだ行くと決まったわけじゃないがね」
言いながら歌恋は足を組んだ。その仕草に春人は頬を赤くする。何故なら今歌恋の服装はカッターシャツ一枚だ。足を組んだその動きのせいでシャツの裾が捲れて、彼女の太ももが露わになっているのだ。健全な男子高校生の春人にとってこれはかなり刺激が強い。
「……あ、あの……朝比奈さん。せめて下に何か穿いた方が良いよ……? その、目のやり場に困る……」
照れた様子の春人に歌恋は首を傾げ、視線を下に落とす。それから不思議そうな表情で、
「いや、穿いているぞ。ほら」
そう言って歌恋はあろうことかシャツの裾を捲って見せた。そしてその場面を春人は見てしまったのだ。
彼女が身に纏う、白色のシンプルなデザインの下着を。急に視界に飛び込んできた、普段目にすることのないものに春人は顔を真っ赤にした。
「な、何で見せるのさ!? しまいなさい、はしたないよ!!」
「君が何も穿いていないと言うからだろう。そんなことはないぞ、と証明したんだ」
「いらないからそんな証明! 大体女の子がそんな簡単に男に下着を見せるんじゃない!」
春人の動揺ぶりに不思議そうな様子を見せ、まだ納得がいかないような表情で歌恋は捲っていた裾を元に戻す。思いもよらない歌恋の行動に春人の心臓は爆発寸前だ。
「言っておくが、ぼくは誰に対してもこんな恰好をしているわけではないぞ。昨日の講演会の映像を見たら分かるだろう」
そう説明しているが、むしろそうでないと困る。外でもこんな無防備な恰好でいようものなら通報されているだろうし、なんなら襲われても文句は言えない。
「……じゃあ、何で僕の前でそんな恰好をしてるの?」
どうせ"異性として見ていないから"とか"君相手に遠慮する必要がない"とか言うんだろうな、と春人はある程度の返答を予想したが、歌恋の口から出たのはその予想とは全く別の答えだった。
「──ぼくは恋人が欲しいと思ったことがない。恋なんて時間の無駄だと思うからね。つまり結婚願望もない」
歌恋は自身の恋愛観について語り始めた。春人の質問に対する答えになっていないが、静かに聞いていればいずれ答えが返ってくる。今まで何度もあったことだ。春人は歌恋の言葉に静かに耳を傾ける。
「だがぼくも人間だ。いずれは老いていく。積み上げてきたこの知識や才能も老いに伴ってボケていったり、忘れてしまったりするのだろう」
生きている以上過ぎていく時の流れには逆らえない。今は自他共に認める天才である朝比奈歌恋も過去になってしまう。
そして年を取ればそれと一緒に今まで蓄えてきた知識や、磨き上げてきた才能も衰えていく。物忘れも増えるだろうし、死んでしまえばそれを遺す術さえない。
歌恋はそれが嫌なのだ。彼女は自分の知識や才能を誇りに思っているし、完璧だと自負している。しかし自分が死ねばそれをこの世に遺せない。それをどうするべきなのか。それが彼女の頭を悩ませている。
「ぼくはこの知識を誰かに継承したいんだよ。だが誰でも良いわけじゃない。そして願わくばある程度成長した人間ではなく、幼少期から育てていきたい。ぼくはね、結婚願望はないけど子供が欲しいのさ」
今までの冷徹な瞳から一転した澄んだ綺麗な瞳。彼女には見えているのだろう。将来の自分が我が子に自分の知識を託している姿が。
──彼女の、理想の将来の光景が。
「別に血縁関係の有無は問わない。だけど出来れば自分の子が良い。そしてその子の父親は──」
歌恋の澄んだ瞳が春人に向けられる。
「──君が、適任だと思っているよ」
「────え?」
歌恋の思わぬ言葉に春人は素っ頓狂な声を出した。
思考が停止する。冷めていく脳の動きとは正反対に心臓の鼓動が早くなっていく。時間をかけて彼女の言葉を脳が理解していく。
つまり、彼女は春人との子供なら欲しい、とそう言っているのだ。
春人が動揺して言葉が出なくなっていることに気付いていないような素振りで、
「だからぼくの今の恰好に君が欲情してそういう行為に及んだとしても結果オーライだ。勿論そういう意図でこんな恰好でいるわけじゃないけど」
楽だし寝起きだからね、とココアを一口飲む。
しかし春人の耳にその言葉は届いていない。いや、平静を装って聞くなんて無理な話だ。
その理由は至ってシンプルで、そして唯一の理由でもある。
──朝比奈歌恋は、河上春人が片想いをし続けている相手なのだから。
好きな人から自分との子供なら欲しいと言われたら、当然動揺するし、心臓の鼓動だって早くなるし、何よりとてつもなく緊張する。
言いたいことを言い終え、一呼吸おいている歌恋に対し、春人は息を呑んで思い切って尋ねる。
「──じ、じゃあっ! じゃあ……さ、もし、今僕が朝比奈さんに手を出しても……良いの?」
春人は真っ直ぐな瞳で歌恋を見つめる。
歌恋は目を丸くしていたが、やがていつも通りの目つきに──いや、いつもより優しい瞳で春人を見つめ返すと、
「──構わないが……そんな度胸、君にないだろう?」
うっ、と春人は言葉を詰まらせた。
確かに彼女の言う通り春人にそんな度胸はない。むしろあれば今ごろ想いを伝えられているだろうし、恐らく一回くらいは行為に及んでいてもおかしくはない。
図星だった春人はガックリと肩を落として、消え入りそうな声でおっしゃる通りです、と呟いた。
「──だろう? 君はそのままでいてくれ。ふふっ」
一日中部屋に引き篭もり、誰とも会話をせずに一日が終わることも多い歌恋にとって、春人と会話をするこの時間は嫌いではないし、他愛のないことでやり取り出来るのはリフレッシュにもなる。
──朝比奈歌恋は天使のような優しく愛おしくなる表情で、この日初めて笑った。