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天才少女の転生した先  作者: 音ノ夜・T・姫桜
第1章 天才の最期
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第二話 朝比奈歌恋の舞台


 静まり返った多目的ホール内は今、一人の少女の舞台が出来上がっていた。彼女の大袈裟とまでいえる身振り手振り口振りはまるで演劇の主人公にでもなったかのようで、講演会を行っていた今回の主役であるはずの鳥居愛冴も、彼女の講演会に訪れた聴衆も、今やその少女に視線を向けている。

 端整な顔立ちの少女だ。肩の辺りまで伸ばした焦げ茶色の髪に、背は低く小柄で華奢な体型が彼女の可憐さを引き立てている。しかしその体型から儚さや脆さは感じられない。何故なら、大きな瞳から注がれる視線が冷たく、どこまでも他者を見下した厭悪するような表情がその可愛いらしい印象の一切を消し去っていた。

 そして彼女の口から放たれた"朝比奈歌恋(あさひなかれん)"という名に、客席から微かにざわめきが生まれる。

 その様子を感じ取った朝比奈歌恋は小さく微笑んだ。ゆっくりと階段を降りながら、演劇の主人公さながらに再び口を開いた。


「ぼくの名前を聞いたことがある者もこの中にいるみたいだね。とはいえ知名度は君に遠く及ばない。ぼくの頭脳も美貌も、見世物にするために磨いたわけじゃあないし」


 誰かと違ってね、と嘲笑するかのような口調と視線。それは他の誰でもない鳥居愛冴(とりいあいさ)に向けられたものだ。

 数多くのテレビ番組に出演し、インタビュー記事やモデルなどメディア露出が多い鳥居愛冴を揶揄するかのような視線を、壇上にいる当人に向ける。

 朝比奈歌恋と目が合った鳥居愛冴も目を逸らさない。ここで退いたら一気に彼女のペースに呑まれることを分かっているからだ。今は黙って彼女の言葉に耳を傾ける。


「さて、一体何の話の最中だったかな──ああ、そうだ。君の講演会がつまらないという話だったね」


 階段を降りる足を止めた彼女は、わざとらしく思い出したような仕草をする。人差し指をこめかみに当てて考え込み、思い出したと同時にその人差し指を上に向ける。現実でこんな動作をする人間なんていないだろうと思わせるような仕草だ。

 表情は明るく愛らしいが口調や仕草は悪辣で嘲るように。鳥居愛冴を挑発しているかのように見て取れる。


「先程も言ったが君の演説はただの自慢話じゃないか。退屈すぎて何十回も欠伸が出たよ」


 そう言いながら、ふわぁとわざとらしい大きな欠伸をひとつこぼす。

 その動作に鳥居愛冴が顔を顰める。だが彼女は取り乱さない。感情を爆発させないように、ぎゅっと力強く拳を握り締めるだけに留まる。


「今回の講演会のテーマだが、君はあの話を通して学校に通わなくなった者たちに救いの手を差し伸べようと、そう思ったのかな?」

『その一助にでもなればと。学舎でしか得られない経験はたくさんあります。それを伝えれば少しでも気持ちを前向きに出来るのではないでしょうか』


 真っ直ぐと視線を合わせる鳥居愛冴の返答に朝比奈歌恋ははんっと鼻を鳴らした。くだらない答えだと言外に告げるようなその目に、表情に、反応に、耐え切れなかったかのように鳥居愛冴が声を荒げる。


『言いたいことがあるならはっきりと仰ったらどうなんですか! さっきからまどろっこしい言い方でこちらの神経を逆撫でして、何がしたいんですか!?』


 鳥居愛冴の言葉に会場は静まり返る。

 普段の清楚で可憐ないで立ちの彼女からは想像も出来ない叫ぶような大きな声に、会場にいる者たちは全員呆気に取られていた。

 怒りで肩を震わせるほどの感情を露わにした彼女に対して、朝比奈歌恋は眉を軽く動かすと少し興が乗ったのかその端整な顔に笑みを湛える。


「なら望み通りにはっきりと言葉にしようか。君が望んだことなんだから、くれぐれも折れるなよ?」


 まるでステップを踏むかのようにコツコツと靴底を鳴らしながら、朝比奈歌恋はゆっくりと鳥居愛冴に近付く。みんなに魅せるかのようなその所作は、軽やかで、そして優雅だ。

 鳥居愛冴の目の前にまでやって来た朝比奈歌恋は、端整な顔に湛えられた優しげな笑みを今度は不気味に歪ませた。


「それを実現しただけでぼくが悪者扱いされるのは心外だからね」


 挑発的かつ得意げな表情で、彼女は両腕を思い切り広げた。そんな彼女の口から出たのは先程鳥居愛冴が話した内容をかいつまんだざっくりとした演説の振り返りだった。

 鳥居愛冴はごく普通の──否、やや裕福な家庭の子として産まれた。大手企業の重役である父と、飛行機の客室乗務員だった母との間に生を受けた彼女は、好奇心が旺盛で両親からたくさんの愛情を受けて育った。

 幼少期からいくつもの習い事を経験してきたが、何よりも彼女が好きなのは学ぶことだった。誰に言われるまでもなく自ら進んで勉強をはじめ、彼女は新たな知識を身につけていくことに喜びと楽しさを感じていた。

 彼女の才能が頭角を現し始めたのは小学生になってからだ。教員らが一目置くほどに授業の呑み込みが早く、同年代の子と比べても頭一つ抜けているほどだった。だが彼女はそれを鼻にかけることもなく常に友達に囲まれている、皆から好かれるような少女だった。

 中学校では小学生の時になりたかった学級委員長となり、文化祭ではクラスを見事な手腕でまとめ上げ出し物を成功に導いた。そこからずっと学級委員長を務め、全校生徒ほぼ全員から好かれるほどになっていた。

 有名な高校へと推薦入学を果たした彼女は陸上部に所属し、優勝は出来なかったものの個人・団体ともに全国大会でベスト4まで勝ち上がった。それだけでなく生徒会長も務め、教師だけでなく生徒からも慕われる文武両道で品行方正な非の打ちどころのない生徒だった。


「──大学に入ってからもたくさんの友達に囲まれ幸せです〜、か──」


 そこまで話し終えたところで朝比奈歌恋は一度区切りをつけた。

 友達に恵まれ、また学校でしか出来ない経験を経て今の自分がある。だから学校が嫌いになってしまった人、行きたくなくなった人ももう一度前を向いて、勇気を持って一歩踏み出せばきっと自分を変えられるはず。

 彼女はそのことをたくさんの人に伝えたかったのだ。だからこそこの講演会を企画し、直接来れない人向けに配信で視聴できるようにした。

 そこまで理解し、腕を組みながらうんうんと頷く朝比奈歌恋は突然口を手で押さえ、やがて耐えきれなかったかのように、ぷっと小さく吹き出した後──


「──くく、ふふふ……あーはっはっはっはっはっはっ!!」


 大きな声を上げて笑い出した。

 目尻に涙を浮かべ、口を押さえていた手で今度は腹を押さえながら大爆笑する。まさに抱腹絶倒な彼女を鳥居愛冴はただただ怒りに満ちた瞳で睨みつけていた。

 さっきまで彼女が話していたのは自分の今までの人生の振り返りだ。それを笑うということは、自分の人生を笑われたことと同じだ。怒りが込み上げるのも無理はない。

 しかし鳥居愛冴はまだ何も言わない。相手の次の言葉を待っている。彼女の言葉なり態度なりの隙を見つけて、そこを突くタイミングを虎視眈々と窺う。

 ひとしきり笑った朝比奈歌恋はようやく落ち着きはじめ、目尻に浮かんだ涙を指で拭うと、目線だけを鳥居愛冴に向けて問いかける。


「──さて、もう一度聞こう。これで君がしたいことは何だったかな?」

『それは答えたはずですが……?』

「ああ、そうだね。学校に通わなくなった者を前向きにする一助になればと、そう思ったんだったな」


 言いながら彼女はパーカーの中からスマートフォンを取り出した。液晶画面を指で操作をし始めて数秒後、目当てのものが見つかったのか「あったあった」と小さく呟く。

 それから彼女は会場を見回し、今までより少し大きな声で手を振りながら呼びかける。


「この会場にスクリーンとプロジェクターはあるかな? 今私のスマホに映っている映像を見せたいのだが」


 すると客席の一番後ろ、二階にあたる場所で小さく手が上がった。朝比奈歌恋はそこに向かうと慣れた手つきでパソコンとスマホを接続し、映像を共有、プロジェクターを通しその映像を壇上にあるスクリーンに映し出した。

 それは現在中継されているこの講演会の映像だ。動画上と画面の横の欄に視聴者が打ち込んだコメントが、リアルタイムで流れてくる。コメントが流れていく速度はそこそこ早く、それだけ視聴者が多いということだ。

 しかしこれが見せたかったものなのか。だとしたら一体どういうことだろうか。何一つ相手の考えが読めずに問いかける。


『──一体あなたは何をしようと──』

「おいおい、折角こうやってスクリーンに映し出しているんだ。私じゃなく映像を見たまえよ」


 質問を遮るかのような朝比奈歌恋が口を挟んだ。

 映像から同じ言葉がほんの少し遅れて聞こえてくる。その慣れない感覚にやや表情を歪ませながら、言われた通り鳥居愛冴はスクリーンへと視線を向け、それと同様に観客たちの視線もスクリーンへと向けられる。


 ──が、しかし。


 おかしな箇所は何一つない。ただ今と同じ映像が流れるだけだ。彼女が一体何を見せたかったのか、何がしたいのか何一つ理解できない。

 鳥居愛冴が、そして観客も眉をひそめる中、唯一何をしたいのか理解している朝比奈歌恋が口を開く。


「まさか君らは映像だけを見てるんじゃないだろうな? 鳥居愛冴、君が最も注視しなければならないのは映像ではなく──視聴者の反応だろう?」


 そう言われて鳥居愛冴はすぐさま画面の横に流れるコメント欄に視線を移す。それでも彼女が何をしたいのかいまいち把握出来ないが、確かに視聴者の反応は気になるところだ。

 視線を移した先に流れるコメントは、


「鳥居さん、負けないで!」「ただの嫉妬じゃね?w」「なんなのアイツ」


 という励ましや朝比奈歌恋を敵視するコメントが──


「よく言った」「ホントただの自慢話で下らん」「前からこの女嫌いだった」「マジで時間の無駄」「期待した自分が馬鹿だった。あのちっちゃい子やるじゃん」


 ──などの多数のコメントにすぐ埋もれてゆく。


 流れてくるコメントはどれも朝比奈歌恋の言葉を肯定するもの、彼女の行動を賞賛するもの、鳥居愛冴を批判するもの。

 それがほとんどだった。

 それを目の当たりにした鳥居愛冴は信じられないものでも見ているかのような茫然とした表情を見せる。力が抜けた手からマイクがするりと滑り落ち、床に転がる音がホール内に低く響く。


「…………え、な…………なん、な…………」


 さっきまでの朝比奈歌恋に真っ向から立ち向かわんとする彼女の姿からは、想像も出来ないような間の抜けた力の無い空虚な声。目を大きく見開き、ただ茫然とスクリーンを見つめるだけだ。

 もしかしたらこれは朝比奈歌恋が仕組んだことなんじゃないか、と考えもしたが、今の今まで彼女はスマホを触っていなかった。事前に仕組んだという可能性も有り得なくもないが、果たしてそんなことが可能なのだろうか。生配信の動画のコメントを、批判的な意見で埋め尽くすことなんて──。

 そんなことを気に留めずに朝比奈歌恋は追い打ちをかける。


「まあ彼らの言いたいことも分かるさ。鳥居愛冴、君が手を差し伸べたのは"自ら学校に行かなくなった者"だけじゃないかな?」

「──それは、どういう──?」

「一口に"学校に行かなくなった"にもそれぞれの理由がある、ということさ。学校が嫌だ、勉強が嫌い、もちろんそういった理由で行かなくなった者もいるだろう。君の演説を聴いて、前向きになれるのはそういった者たちだけだ」


 朝比奈歌恋は学校に"行かなくなった者"だけではなく、"行きたくても行けない者"への配慮が足りていないことを指摘した。

 "行かなくなった者"はあくまで"行く"か"行かない"の選択肢が用意された上で自ら"行かない"を選択した者だけだ。そういった人に対してなら、彼女の演説に響くところはあるかもしれない。

 だが"行きたくても行けない者"はそうじゃない。初めから"行けない"という選択肢しか用意されていない者に対しては彼女の演説は響かないだろう。

 親や祖父母の介護をしないといけないから行けない、経済的に苦しいから行けない、その他にも"行きたくても行けない"理由はいくらでも存在する。


「君はそんな人たちに対して言えるのか? 勇気を持って一歩踏み出そうと。そんな何の慰めにも励みにもならん言葉をかけられても、彼らにはどうすることも出来ないのに……随分と残酷だなぁ」


 鳥居愛冴はただその言葉を聞いている。彼女は睨みつけながら、奥歯を強く噛み締める。

 確かに鳥居愛冴は"行かなくなった者"に対しての言葉しか考えていなかった。"行きたくても行けない者"に対しては社会的な問題を解決しなくてはいけない。そしてその問題は学生である自分にはどうにも出来ないからと。目を逸らしていた問題を、朝比奈歌恋は指摘した。

 だがそんなことを彼女は気にしない。なおも容赦なく畳み掛ける。


「こうでもしないとマスコミは後ろ向きな発言は取り上げないからね。だからこそ今ここで白日の下に晒したのさ」


 そう言いながらマスコミを睨みつけるように一瞥する。冷酷で冷淡で冷徹な、どこまでも冷ややかなその視線に睨まれたマスコミ関係者は肩をビクッと震わせる。

 蛇に睨まれた蛙のような様子が滑稽だと言わんばかりに彼女は小さく笑った。


「勿論、これはぼくが仕組んだことじゃないよ。君の、いや今までの講演会の内容を見てきた視聴者の生の反応だ。いくらぼくでもリアルタイムで流れるコメントの支配は出来ないからね」


 肩をすくめそう言いながら、彼女は二階からゆっくりと壇上へ戻る道を歩いていく。彼女のその言葉は、鳥居愛冴の"朝比奈歌恋が何かした"という僅かな望みを打ち砕いた。

 これが世間の自分に対する評価なのだと、マスコミが報道しないであろう人気者のマイナスイメージを、朝比奈歌恋はこの講演会の場で明らかにしてみせた。


「ところで、ぼくは講演会によく足を運ぶんだが、その際には主役となる人物がどういう人なのか、というのを調べてから行くようにしているんだよ」


 その人物が今までどういう成果を上げ、どういう実績を積んできたのか。そういったことも知らずに講演会に行くのは、その相手にも失礼だと感じ調べるようにしているらしい。無論絵に描いたようなクリーンな人間は少なく、罪にならないようなちょっとした悪事を行なった者もいれば、前科がある者だっているし、そんな話題になるようなことが何もないほぼ無名な者もいた。

 だが講演会の内容は感心することも多いし、興味を唆られるものも多い。だからこそ彼女は学びが多いからと講演会に行くのが好きなのだ。


「君も例外ではない。少し調べさせてもらった……が、君のようにあれやこれやと出てきたのは初めてだったよ。思わず笑ってしまった」


 ふっ、と小さく笑ってから彼女は右手の人差し指をぴんと立ててみせた。


「まず一つ目。君は芸能活動をしているようだが……出演者を見て出る番組を決めているようだな」


 そう言われた途端に、思い当たる節があるのか鳥居愛冴はバッと朝比奈歌恋を見た。彼女を見つめるその表情は青ざめている。まるで"言わないで"と懇願しているかのように。

 そんな見るに堪えない状態の彼女と目が合った朝比奈歌恋だが、それしきで止めるわけがない。ここで彼女に同情して止めようものなら、ここまでした意味自体がなくなってしまう。


「あまり顔立ちがよくない芸能人が出る番組はすぐに突っぱね、イケメンだといわれる俳優やタレントが出る番組は二つ返事で承諾する。清純派だの優等生だの持て囃されていてもやはり女だな。見てくれの良い男を本能的に求めているらしい」

「──そ、そんなの、デマでしょう!? 人を貶めるようなことを……! 何か証拠でもあるの!?」


 先程までの敬語も無くし、もはや感情のみで話しているかのように必死の形相で問い詰める鳥居愛冴。こんなのはデタラメだ。こんなことで、こんな年下の生意気な女子に今まで自分が積み上げてきたものを崩させるわけにはいかない。

 キッと強く睨みつける鳥居愛冴を、きょとんとした表情で見つめ返す朝比奈歌恋。どうせ根も葉もない話でこのまま押し切ろうとしたのだろうが、証拠がなければ信頼されない。これは彼女が辛うじて見つけ出した勝機だ。逆転の糸口を見つけ、生気を再び瞳に宿す。

 対して朝比奈歌恋が発した言葉は──


「──ん? 何だ、出してもいいのか証拠を」


「────────へ?」


 思いもよらない返答に素っ頓狂な声が出た。

 踵を返し、二階へと戻っていく朝比奈歌恋はパソコンに繋いだままスマホを操作する。講演会の配信画面が閉じ、彼女は自身の画像ファイルを開いた。そこに保存してあった画像をスマホの画面いっぱいに表示させそれがスクリーンに映し出される。

 映し出されたその画像を瞳に映した時、鳥居愛冴は驚愕すると同時に絶句した。


 その画像は暗がりの街中を腕を組んで歩く実に仲の良い男女の写真だ。何枚か保存しているようで朝比奈歌恋は指で画像をスライドしていく。最初は並んで歩いているだけだったが、次第に人目がないのを良いことに抱き合ったり、キスをしたり、果てにはホテルに一緒に入っていく姿も写っていた。

 それらの画像を眺めていた観客の一人が小さな声で呟く。


「……あれ? あの女の方って、鳥居愛冴……?」


 その言葉に会場が騒然とする。

 被写体である二人から少し距離があり、なおかつ暗がりなので判断がしづらい。髪の長さや背丈的に鳥居愛冴に似ているが、髪も背丈も本人だと特定出来るほど鳥居愛冴は特徴的ではない。

 鳥居愛冴だと肯定する者、似てるだけだと否定する者。二つの意見で場内は騒がしくなる。

 だが渦中にいる鳥居愛冴は、その画像を見つめてただ立ち尽くしているだけだ。肯定も否定もせず、ただ壇上で青ざめた表情のまま絶句している。

 この混沌とした場内で朝比奈歌恋だけは楽しそうにニヤリと笑った。まるでこの状態を待っていたかのように。


「これじゃ分かりづらいか。安心しろ。この画像の、もっと被写体に寄せ、画質を鮮明にしたものも用意している。それがこれだ」


 指で次の画像へとスライドさせる。表示された画像は先程の画像と同じだが、言った通りより被写体に近く画質も鮮明になっている。髪の長さや背丈だけではなく、顔も誰か何とか判別出来るくらいにはなった。

 それを見てさらに会場は騒然とした。そう被写体の一人である女性はそれで誰か分かるくらい端整な顔立ちをしていたからだ。


「──そう、路上でハグやキスを平気で行う淫らな女の正体は、君らが大好きな──鳥居愛冴だ」


 誰が見ても鳥居愛冴が写っていると答えるであろうその画像に、ついに鳥居愛冴は顔を歪めた。

 彼女はスクリーンを眺めたまま膝から崩れ落ちた。中途半端に開いた口の端から唾液が一筋流れ落ちる。だが今の彼女にはそれを気にする余裕などない。自分が積み上げてきたものが、たった一人の少女によって簡単に壊されていく様子をただ茫然と、生気の宿らない瞳で見つめているかのように。大きく見開かれた瞳は絶望に満ちていて、がたがたと震える口から、時折声にも出来ない微かな呼吸音が、ひゅーひゅーと漏れるだけだ。


「なぁ、あの相手の男って──」

「あっ。あのドラマに出てた──」

「そういえば、娘がこの俳優のファンだったような──」


 さらに観客の中には、相手の男性が最近ドラマで注目を浴びるようになった若手イケメン俳優だと気付く者も現れ始める。朝比奈歌恋なりの配慮か目には黒い線が入れられているが、それでも気付く者はいるらしい。

 時と場所を選ばない本能に任せた淫らな行為。しかもその相手は端整なルックスの、今人気の若手俳優。こんなスキャンダルが世間に広まれば彼女のブランディングが崩壊することは間違いない。

 ──いや、もう世間には知れ渡っているだろう。

 この講演会には多くのマスコミ関係者が訪れているうえに、ネットで生配信もされており、止めるタイミングを見失ってしまったため今のこの状況もずっと配信され続けている。彼女に対する世間の目ががらりと変わることは免れない。

 現に会場でも、徐々に彼女を見る目を変えている者が出てきている。客席を振り返らずとも、その気配を鳥居愛冴は背中で感じ取っていた。自分に注がれる軽蔑の視線、自分に対する罵詈雑言、それらに耐え切れずに鳥居愛冴は思わず耳を塞いだ。

 しかし、


「何で耳を塞ぐんだ? 君に対する今の評価に耳を貸さないと、わざわざ講演会に来てくれた人に失礼じゃないかなぁ?」


 いつの間にか壇上に戻ってきていた朝比奈歌恋が崩れ落ちた彼女の前に立っていた。獰猛な笑みを浮かべながらしゃがみ込み、蹲る鳥居愛冴の耳を塞いでいた両手を強引に引き離す。


「最低な女じゃん」「結局はイケメン好きのビッチかよ」「裏でこんなことして表で優等生演じてるのキモすぎ」「路チューからのホテルはヤバくね?」「絶対ヤッてるよな。それで清純派名乗るって頭おかしいだろ」「頼み込めば抱かせてくれそうじゃん」


 今まで受けたことのない批判の嵐。浴びせられたことのない罵詈雑言。周囲からの痛烈な批判に鳥居愛冴の呼吸は乱れ、唾液だけでなく涙や鼻水、脂汗までもが一気に吹き出す。

 先程の朝比奈歌恋と全く逆の立場になってしまった。この会場に彼女の味方をする者は一人としていないだろう。

 端整な顔立ちを体液でぐちゃぐちゃにしながらも辛うじてまだ頭は回る。どうすればいいのか。何か打開する手立てはないか。頭をフル回転させて考える彼女が耳にしたのは、最悪な言葉だった。


「まさかあの鳥居愛冴が不純異性交友とは…失望したよ」

「これはこれでスクープだ。すぐに帰って編集だな」


 どこかで聞き覚えのある声。確か大学の交流会で知り合った教授じゃないだろうか。それともう一つはマスコミ関係者らしき男性の声だ。

 自分の通う大学だけでなく他校からも信用を失くし、テレビや雑誌を通じてこのことは瞬く間に知れ渡ることとなる。


 ──終わった。


 鳥居愛冴は自分の輝かしい人生が終わるのをただ見届けることしか出来ない。罪を犯したわけでも、誰かを傷つけたわけでもない。ただ顔が好みな男性と隠れて交際していただけ。路上でハグやキスをして、その後ホテルに入っただけ。たったそれだけのことで、ここまで人生を狂わされるなんて。

 もう口からは言葉ではなく、呻き声と微かな呼吸音しか出てこない。何も考えられない。批判と罵詈雑言の嵐の中、ただその中心にいることしか出来ない。

 完全に壊れた鳥居愛冴を朝比奈歌恋は満足そうに見つめ、


「──そういえば、君の不純異性交友はこれだけではなかったな。なあ、横川教授?」


 心底愉しそうに、さらに畳み掛けた。


 振り返りながら朝比奈歌恋が視線を向けた先にいたのは、講演会を恰幅の良い男性と一緒に見に来ていた、上品な雰囲気を纏う黒縁眼鏡の男性だ。

 絶望しきった瞳でゆっくりと朝比奈歌恋を見つめる鳥居愛冴。そして名指しされた当の横川教授も冷や汗を流し始める。


「君は鳥居愛冴に見初められ、また鳥居愛冴も君に惹かれた。しかし君は妻子ある身、しかも教え子である彼女との恋は許されない──だが君らはお互いの感情を抑えきれずに肉体関係に及んでしまった。それからは密会を重ね、ゆっくりと愛を育んできた、というわけだ」


 この講演会の企画がスムーズに進んだのも横川教授の助力によるところが大きい。彼は生徒である彼女を支えたのではなく、いわば愛人のような関係にある彼女を支えていたのだ。

 赤裸々に明かされる鳥居愛冴と横川教授の禁断の関係。それを暴かれた鳥居愛冴はもうやめて、と言わんばかりに朝比奈歌恋に縋り付き、横川教授はただただ絶句している。

 それを聞いていた隣に座る恰幅の良い男性は、信じられないとでも言うかのような表情を向けている。


「……よ、横川先生……? まさか、あなた……!」

「な、何を言うんだ、君は! 私は妻子ある身だ! 教え子と不倫など……するはずがないだろう!!」


 勿論このまま黙って聞いてるわけもなく、横川教授も椅子から立ち上がり怒鳴るように反論した。彼は一瞬だけ鳥居愛冴を見遣る。その瞳には強い意志が宿っていた。大丈夫、あとは私に任せなさい、と。君は何があっても私が守る、と。

 最愛の相手からのそのアイコンタクトに、鳥居愛冴は辛うじて笑みを取り戻した。

 だが、

 朝比奈歌恋は深い溜息を吐いた。面倒くさがったような、どこか疲れきったような深く重い溜息だ。


「君らは何も分かってないな。先程の写真だけでは何も学べていないらしい」


 そう言いながら彼女が懐から何かを取り出した。それは手の平サイズのボイスレコーダーだ。壇上に転がるマイクを拾い、ボイスレコーダーのスピーカーにそのマイクを近付けた。


「ぼくが何の証拠もなしに糾弾していると思っているのかな?」


 朝比奈歌恋はボイスレコーダーを再生する。

 しばらくのノイズの後、録音された音声がマイクを通してホール内に響く。


『──ありがとうこざいます、教授』

『君のためならこれくらい苦じゃないよ。それでは、早速で悪いが──』


 聞こえてきたのは間違いなく鳥居愛冴と横川教授の声だ。二人きりの空間で、何やらひそひそと話す様子がボイスレコーダー越しからも伝わってくる。


『ふふっ、もう欲しがりですね──あぁん、もうっ、赤ちゃんみたい……』

『私を誘惑する君がいけないんだよ……腕や脚も露出して、他の男も君を卑しい目で見ているよ』

『大丈夫ですよ、私は教授のものですから……んっ、もっとしてぇ……』


 甘い吐息を漏らしながら淫らに喘ぐ鳥居愛冴と、そんな彼女を鼻息を荒げながら貪る横川教授の声がホール内に響く。しかし再生されていた音声は途中で止められた。

 朝比奈歌恋はボイスレコーダーをパーカーのポケットの中に戻すと、


「さて、まだ録音された音声は三分ほど続くが、ここまでにしよう。これ以上はより行為に耽ってしまい、学生もいるこの場で流すのは過激すぎるからね」


 さて、と朝比奈歌恋は冷たい視線を横川教授に向けた。刺すような。射抜くような。鋭く冷徹で冷酷な瞳で、壇上から彼を見下ろす。


「教え子と不倫など……何て言ってたかなぁ?」


 揺るがない証拠を突きつけられた横川教授は激しく狼狽する。知的な印象の眼鏡の奥にある瞳は大きく見開かれ、顔からは大量の汗が噴き出し、口からは弁解の言葉さえも出てこない。

 鳥居愛冴に向けられていた非難の声が、視線が、今度は自分へと向けられる。隣に座っていた友人からだけでなく、教え子と不倫関係に至った男をホール内にいた観客たちは容赦なく糾弾する。

 自分を責め立てるその場の空気に耐えられなくなった横川教授は、脇目も振らず出口へと一目散に駆け出して行った。先程の録音データが捏造ではなく真実だと、この場から逃げ出すことこそが何よりの肯定だというのに。それさえも考える余裕をなくしてしまったようだ。

 そして今の彼の目には鳥居愛冴は映っていない。自分がいなくなれば再び彼女が非難の的になってしまうというのに、この場から一秒でも早く逃げ出したいという気持ちが先行し、彼は愛した女性をその場で見捨ててしまった。

 自分を置いて走り去る最愛の男に、鳥居愛冴は手を伸ばす。だがもちろんその手は届くはずもなく虚しく空を掴むだけだ。一度も振り返ることなく、横川教授はホールから逃げ出してしまった。そんな男に未だ縋ろうとする女を朝比奈歌恋はつまらなそうに一瞥すると、ふんっと小さく鼻を鳴らした。


「所詮は保身が一番か。これが君らの浅はかな愛の成れの果てだ」


 そう吐き捨てると、まあいいと呟いて客席へと向き直った。


「さて、大変お騒がせしたね。お詫びといってはなんだが、ぼくの演説を聞いていってくれないかな?」


 今完全にこの場を掌握した少女がそう口にする。そんなことが出来るような状況ではないのは誰が見ても明らかだ。

 だがそんなことは意にも介さず少女は大仰な手振りと口調で、


「なに、小一時間でいい。内容はそうだな……"学舎の必要性と、そこに通っていない者たちの社会への貢献度"とでも題そうか」


 壇上の中心に立ち、マイクに自らの澄んだ綺麗な声を通す。彼女は今この場で自身の講演会を始めた。

 困惑する場内の観客たちは、一時間後には彼女に対し惜しみない拍手を送り、鳥居愛冴が主役だった舞台は朝比奈歌恋によって完全に呑み込まれていた。


 ──朝比奈歌恋。


 ──現役の高校生でありながら国内外トップクラスの大学から注目を浴びている。


 ──紛れもない、"天才"だ。


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