第一話 その名は
八月某日。
太陽の煌々とした光が街中に容赦なく降り注いでいる。この日は全国的に真夏日で、ところによれば猛暑日になるところもあるとテレビでも予報されていた。
そしてその予報通り東京都の最高気温は三十五度にまで達し、その熱を浴び続けたコンクリートの上はまるで鉄板のようで歩くのでさえ苦痛と感じてしまうほどの暑い日となった。
そんな中都内にある大きなコンベンションセンターでは講演会が開かれていた。サウナのような外とは別世界の冷房のよく効いた多目的ホールに足を運ぶ人は、スーツか学校の制服かきっちりとした身なりをしており、ラフな恰好で入っていく人物はほとんどいない。そんな多目的ホールの入口には「鳥居愛冴 特別講演会」と書かれた小さな看板が立てられている。
今日この場所で行われるのはとある女子大学生が初めて企画した講演会だ。その女子大生は国内の有名大学からも注目されるほど優秀で、また容姿も端麗なことから何度もメディアに取り上げられている。
美人すぎる天才女子大生──そんな触れ込みでバラエティ番組やクイズ番組、ニュース番組にも出演し、更には雑誌で特集記事が組まれたりモデル撮影などマルチにこなす、まさに多才"すぎる"ほどの美女だ。
今回の彼女の講演会の様子はネット配信もされるとのことで、会場内には中継カメラや講演会後のインタビューに備えてメディア関係者も数多く足を運んでいる。教育の専門家も何人か見受けられる中、学生や大学の教授の姿が多く感じられるのは「学舎で得られるかけがえのない経験」という今回の講演会のテーマが理由だろうか。天才女子大生として脚光を浴びる彼女が何を経験し何を語るのか、やはり同年代や学校関係者としては気になるのだろう。しかしそれとは対照的にテレビに出演する有名人を一目見ようと、単なる好奇心に駆られた者も少なくない。そういった様々な目的を持った者たちで多目的ホールの客席は埋まり、講演会は幕を開けた。
同時にネット中継が開始される。司会者の開始の挨拶の後に今日の主役が壇上に現れる。長い茶髪を黒いリボンでポニーテールにした女性だ。背筋をしっかりと伸ばし胸を張った堂々とした佇まいは、彼女がまだ二十歳前後の女性であるということを忘れさせるほどの貫禄がある。しかし若さ特有のキメの細かい肌やぱっちりとした二重の大きな瞳に華奢な体つきは、貫禄のある佇まいとは真逆な愛らしさと可憐さを感じさせていた。
白色の簡素なブラウスにベージュのフレアスカート、控えめなデザインのパンプスといういたってシンプルな装いだがそれで充分なほど彼女は魅力的だった。豪華なアクセサリーなど邪魔なだけで飾り気のない至って普通な装い、それだけでも彼女の気品と美しさは前面に押し出されている。そんな彼女に見惚れてしまう男性も少なくないだろうし、同性でさえも憧れてしまう者が現れるであろう魅力がある。
彼女こそが鳥居愛冴。中学生の頃から全国模試での成績はトップ。高校、大学と推薦入学を果たした才女で、入学してからも成績は常にトップを維持し続けている。確かな実績と誰からも好かれるような人柄で学校側からも大いに期待を寄せられており、男女問わず友人も多い。今回も自らの経験をより多くの人に伝えたいという一心で講演会を企画した、正に絵に描いたような理想を体現した優等生だ。
その場にいる全員に語りかけるようなハキハキとした分かりやすい口調で話す彼女の声はとても心地よく耳に届く。うんうんと深く頷きながら聞いている者、メモ帳とペンを持ちながら熱心に耳を傾けている者、ただ鳥居愛冴に見惚れてしまっている者と客席にいる聴衆も完全に彼女に釘付けになっている。中継されていることを全く気にも留めないような、毅然とした様子で彼女はマイクを片手に壇上で雄弁に語り続ける。
およそ一時間ほどの演説を終えた彼女は微かに乱れた呼吸を整えて客席を真正面に見据えた。背筋を伸ばして一際凛とした声で、彼女から演説を締め括る終わりの言葉が紡がれた。
『──私からは以上になります。ご清聴ありがとうございました』
感謝の言葉とともにお手本のような完璧な角度のお辞儀を披露し、会場は大きな拍手で包まれた。およそ十秒ほどのお辞儀の後に顔を上げた鳥居愛冴は、壇上から見える会場の様子に満足そうな表情を浮かべた。
人生で初めての講演会ということもあり、緊張と不安でいっぱいだったが懇意にしてもらっている大学の教授や、友人らの助けもあって何とか無事に成功させることができた。会場内だけでなくネット中継を通して多くの人に想いを届けることができた。場内の大きな拍手に感動と成功の実感が少しずつ込み上げてくる。
自分に対して盛大な拍手を送ってくれる会場は眩しく輝いて見えた。その光景に今まで心の中にあった不安や緊張などは消え去り、晴れやかな表情で照れくさそうに小さくはにかんだ。
そんな鳥居愛冴の様子を客席から目を細めて眺める初老の男性がいた。見た目の年齢の割に背筋はピンと伸びており、白髪混じりの頭髪をきれいに整えた黒縁の眼鏡がよく似合う男性だ。どこか知的な雰囲気を漂わせており、その佇まいはどこか気品も感じさせる。
そんな上品な男性の隣には恰幅の良い五十代くらいの男性が座っている。大きな鼻が特徴的な優しげな雰囲気のその男性は、小さな声で初老の男に話しかける。
「お見事なものですな。さすがは鳥居愛冴くん。講演会が初めてとは思えませんよ」
恰幅の良い男性は壇上にいる鳥居愛冴を称賛した。
初めての講演会にも物怖じした様子を見せることなく最後までやり切ったのだ。称賛されるのは当然。その言葉に初老の男性も思わず顔を綻ばせる。
「聞きしに勝る才女、我が校に迎え入れたいくらいですよ」
「はっはっはっ。いくら貴方の頼みでもそれは出来ませんな。彼女は我が校の誇りですから」
相手の冗談混じりの言葉に、初老の男性は朗らかな笑い声で応える。親しげに話す二人の視線は鳥居愛冴に向けられている。
今場内では質疑応答の時間が設けられていた。客席からの質問にもしっかりと相手の目を見て回答する彼女に、初老の男性は心底嬉しそうな表情を見せる。孫を、愛娘を、あるいは最愛の相手を見るかのような慈愛に満ちた表情だ。
「容姿端麗、品行方正、文武両道。校内でもたくさんの友達に囲まれていますよ。まさに非の打ち所がないほどの優等生です」
「理想を体現した美女、とはよくいったものだ。十年、いや百年に一人の逸材といっても過言ではないでしょう」
腕を組みうんうんと頷きながら話す恰幅の良い男性に対し、初老の男性は終始微笑んでいる。自身の学校の生徒が褒められるのが嬉しくてたまらないといった様子だ。
初老の男性が壇上を見上げると、質疑応答をしている鳥居愛冴と一瞬目が合った。その一瞬を逃さなかった鳥居愛冴は、誰にも気付かれないようにかつ初老の男性にしか分からないように小さく手を振った。その仕草に彼も微笑みで返す。
「あれほどの生徒は初めてですよ。きっと将来は歴史にその名を残すでしょう」
質疑応答も落ち着き始め、司会の男性も閉会の言葉を述べ始める。鳥居愛冴もその言葉が終わるのを壇上で静かに待っていた。
閉会の言葉が終わり、鳥居愛冴が最後に深く一礼をするともう一度会場は大きな拍手に包まれた。壇上を後にしようと踵を返したまさにその瞬間だった。
「──少し良いかな?」
ある人物の澄んだ声が盛大な拍手の中、不思議なくらい鮮明に響いた。絶え間なく続く拍手の音にかき消されることなく、その澄んだ声は湧いたホール内を静寂で包み込んでしまうほどの凛とした声だった。
その声を聞いた鳥居愛冴は足を止め、客席の拍手の音もぴたりと止んだ。同時に動きを止めた鳥居愛冴と観客たちの視線が一ヶ所に集中する。
視線の先には一人の少女が腰掛けていた。最後列の右端の席、入口に一番近い位置にある座席にその少女はいた。焦げ茶色の髪を肩まで伸ばした、端整な顔立ちをした小柄な少女だ。外見だけで年齢を判断するのは難しいが、高校生かもしくは中学生くらいの年齢だろう。鳥居愛冴より年下であるのはほぼ間違いない。
きっちりとした服装の観客とは対照的に、その少女の服装は無地のグレーのパーカーに黒のプリーツスカートというラフでシンプルな恰好だ。だが何の飾り気もない服装でさえも少しお洒落に見えてしまうほど、彼女の容貌は鳥居愛冴と同様に優れていた。無駄な飾り付けは不必要だと言わんばかりに、簡素な恰好でこそ彼女が美少女であることをより強く印象づけている。
そんな一目見ただけで可愛らしいと誰もが思うような容貌だが、その少女の美しさに見惚れる者はいないだろう。何故ならその魅力をかき消してしまうほどの冷たい瞳で壇上を──鳥居愛冴を見つめているからだ。否、"見つめている"というよりその冷酷な眼差しのせいで"見下している"という表現が正しい、そう思わせるほどの鋭く冷ややかな目つきだ。
一斉に注がれた視線を全く気にしていない、或いは気に留めようとさえしていないと思えるほど、座席にいる彼女はリラックスした体勢で座っている。頬杖をつき、足を組み、背もたれに身体を預けきっている彼女は、控えめに片手を上げていた。その姿は見る者によれば横柄で不遜に映ってしまうだろう。
講演会の終了間際の出来事にホール内はざわつき始める。姿勢も悪いし、人を見下したような態度、中には彼女の質問タイミングに非常識だ、空気が読めていないなどの批判の声も聞こえてくる。
司会者の男性もその様子を見て、戸惑いながらも口を開く。
「え、えぇと……その……もう質疑応答の時間は終わったのですが……」
司会者の言葉を聞いて、少女はようやく手を下げた。司会者の言葉に少し微笑みながら彼女は返答する。
その冷淡な表情と態度とは裏腹に、澄んだ声音と優しい口調で彼女は言葉を紡ぐ。
「それは分かっているよ。滞りなく進行していた講演会、それが無事に終了しようとしたこのタイミングに水を差してしまったことは素直に謝罪するよ」
すまないね、と手短に謝罪の言葉を述べた少女は、他の誰も口を挟む間さえも与えないとばかりに言葉を続ける。
「だが、聞きたい内容を上手くまとめるのが難しくてね。今ようやく文章にすることができたんだ。不躾なお願いで恐縮だが質問をひとつだけ、どうか対応してもらえないものだろうか?」
少女の言葉に司会者の男性は答えを逡巡する。正直このまま何の問題もなく閉会したいところではあるのだが、彼女の質問を蔑ろにしていいものだろうか。
彼は助けを求めるように鳥居愛冴へどうするのかという目配せをする。すると鳥居愛冴は微笑んで再びマイクに声を通した。
『構いません、応じましょう。ここで彼女の疑問を無下にしたくありません。皆様、誠に申し訳ありませんが、もう少しだけお時間をいただけないでしょうか?』
懇願する彼女に会場にいた観客たちは少しざわめくが彼女の願いであるならば、と彼らも快く聞いてくれたのだろう。
会場が落ち着いたのを確認し、鳥居愛冴は感謝の言葉を述べる。そして質問者である少女へと視線を向けた。少女の冷酷な瞳に負けないように、マイクを構え直して力強い眼差しで見つめ返す。観客全体に語りかけていた先程とは対照的に、今度はその少女一人に向けて問いかける。
『──それで、あなたの質問は一体なんでしょうか?』
鳥居愛冴の冷静で落ち着いたマイク越しの声がホールに反響し、緊迫した空気が周囲を包み込む。壇上に立つ鳥居愛冴に真っ直ぐ見つめられた茶髪の少女はわずかに口元を綻ばせる。その笑みは冷徹な視線とは正反対な優しく穏やかな微笑みで、だからこそ鳥居愛冴は訝しむように顔を顰めた。
冷徹な視線に、優しい微笑み──その正反対な二つの感情がこもった表情が不気味でならない。
茶髪の少女は表情も姿勢も変えることなく、肩をすかして困ったような口調で答える。
「いや質問というほどのものじゃないさ。だからあまり身構えないでもらえないかな」
『警戒するのをご容赦ください。わざわざ終わりのタイミングを見計らって質問されるので、何かそれなりの意図があるのかと思ってしまって』
余裕があるような口ぶりの少女に鳥居愛冴はそう答える。真意の見えない相手に対して警戒するのは当然だ。鳥居愛冴は彼女から目を離さないようにしっかりと相手を見据える。
「タイミングに関しては言っただろう。質問内容をまとめるのに時間が掛かったと。偶然じゃないか。だから睨まないでもらえないかな、話しにくいじゃないか」
『睨んでいるつもりはありません。それに私に睨まれながら話すより、あの拍手の中声を上げる方がやりにくいと思いますが?』
やや挑発気味な言い方で返す鳥居愛冴。
少し意地悪な気もしたが、彼女の尊大かつ傲岸不遜な態度を不快に感じ、思わず素の感情を表に出してしまった。そこでハッと気付く。これはリアルタイムで配信が行われている。今の発言が変に注目されるのではないか、と鳥居愛冴は冷静を装いながら会場の空気を窺う。
幸いにも今は鳥居愛冴よりその少女に全員が注目している。その場にいた者から鳥居愛冴の言葉に同調するかのような微かな笑い声も漏れており、先程の発言も大して気にしている人はいないようだ。それに一旦安堵の溜息をこぼす。
ここにいるほぼ全員が鳥居愛冴の味方だ。少女の味方は一人としていないだろう。今彼女は多くの敵意ある視線のもとに晒されている。
しかし対してその少女は臆することも、動揺することも、ましてや躊躇などもせずに。
ただ小さな、だがあからさまな溜息をついて──
「──わざわざ君の講演会に貴重な時間を割いて来てやったんだ。それが質問者に対する言葉か。睨むな、不愉快だ」
瞬間、場内が多くの怒声で微かに揺れる。
彼女の傲岸不遜なその言葉に会場内から次々と非難の声が上がる。何様だ、お前が不愉快だ、何を偉そうに、などと一人の少女に多くの罵声が浴びせられる。
だがそれらさえも聞こえていないかのような態度で、彼女は大きな欠伸をしながら優雅な仕草で足を組み替える。
その態度が気に食わなかったのか、近くにいた男性が少女の胸ぐらを掴み上げ目の前で怒鳴りだす。それを皮切りにしたかのように次々と観客が傲慢な少女に詰め寄り、罵声を浴びせるだけに留まらず、服を引っ張るなどの行動を起こす者さえいた。
しかしそれにさえも動揺せずに、果てには不敵な笑みを浮かべ、見下した視線のまま彼女は話し続ける。
「君のファンは民度が低いな。多くの男性が一人の女子を取り囲み、暴力紛いの行動を起こしているぞ」
彼女の態度や言葉に問題があったとはいえ手を上げるのは絶対にしてはいけないことだ。だがそれでも観客の行動は収まらない。少女の言葉が、そしてこの状況でも余裕を崩さない態度が火に油を注いでいるのだ。
鳥居愛冴も止めるべきなのは理解しており、マイクで呼びかけるがそれでも止まらない。会場の人間はそれほどまでにこの少女に対する怒りが込み上げていたようだ。
そして尚も、少女の言葉は続く。
「別にこの状態を放置しても構わないよ。彼らがぼくに何をしようが構わないさ。殴ろうが身ぐるみを剥ごうが、その上で犯そうが好きにすればいい」
冷静な口調で、周りの自分を中心に巻き起こる暴動など意に介していないかのように彼女は言葉を続ける。
冷徹な瞳で周囲を見下し、不敵に口角を吊り上げながら、彼女はどこか愉しそうともとれる様子を見せている。
「だがこれは鳥居愛冴の講演会だ。そしてこの一部始終もネットで配信されている。一人の少女に群がり怒号を浴びせる男たち。そしてぼくを睨みつける君の態度──あとは言わずとも分かるだろう?」
「ぼく」という一人称が妙に合う茶髪の少女のその言葉に鳥居愛冴はハッとした。
少女の言う通りこの講演会はネットで配信されている。つまり今のこのやりとりも含めて生中継されているということだ。そしてその視聴者には自身のファンはもちろん、交流のある有名人や業界関係者もいるわけでテレビや友人たちにこの騒動の一部始終が映っているのは良い結果には繋がらないだろう。
自身の講演会で一人の少女に対し、複数の男性が危害を加えたとなれば、それはもう騒動ではなく事件になってしまうことは間違いない。そしてその被疑者が自身のファンともなれば、自分にも多少の風評被害があるだろう。
今この会場内では茶髪の少女に批判的な人が多数なため鳥居愛冴に非難の目を向けられることはほとんどない。しかし後々のことを考えると質問者に対して先程の態度は相応しくないし、今この暴動は真っ先に止めなければならない。相手側にも問題があるとはいえ、さすがにこの状況を放置することは出来ない。
自身のイメージ、そして今までやこれからの人生のためにまずはこの荒れた講演会を立て直さなければならない。
鳥居愛冴は大きく息を吸うと、マイクに口を近づけて──
『──みなさん、落ち着いてくださいっ‼︎』
凛とした大きな声が会場に響き渡る。
あまりの声量にマイクもハウリングを起こし、耳をつんざくような甲高い音も会場内に響く。
それでようやく少女に群がっていた男たちも動きを止め壇上にいる鳥居愛冴に注目した。
大勢の男性に取り囲まれていた少女はというと、胸ぐらを掴まれたり服を引っ張られはしたものの暴力は振るわれず怪我などはしていなかった。
『……すみません。確かに適切な態度ではありませんでしたね。申し訳ございませんでした。お怪我などはされていませんか?』
鳥居愛冴は素直に頭を下げ、少女に謝罪の言葉を述べた。
それから会場にいる観客に──いや、少女を取り囲んでいた男性らを強い眼差しで見つめ、やや語調を強めて言い放つ。
『みなさんも。お怒りになる気持ちは分かりますが、相手は女性──それもあなた方よりも年下の女の子です。手を上げるのはもっての外です』
そこでようやく観客の男性は少女の胸ぐらから手を離した。解放された少女のパーカーのチャックは何故か全開にされており、スカートも元の位置から少しズレされている。そして靴は両方脱がされていて、まさに事件が起きる一歩手前だ。彼女自身の態度や言葉が発端とはいえ彼女が被害者になる寸前まで会場は荒れていた。
自身に対しての謝罪、そして観客に叱責するその様子を見て茶髪の少女はふむ、と小さな声を漏らした。
謝罪だけでなく自分の身の安全までも気遣ってくれたことに対してなのか、少女は少し意外そうな表情を浮かべたが、すぐに柔和な笑みに切り替えて、そしてさっきより幾分か優しくなった目つきで、
「いや、こちらこそすまなかった。わざわざ時間を延長してもらった立場に相応しくない物言いだったね、申し訳ない」
茶髪の少女も自身に非があったことを自覚したのか謝罪の言葉を述べた。そのことに対し鳥居愛冴は、横柄で傲岸な態度というだけで勘違いしていただけなのでは、と思う。実際は根は素直で真面目な良い子なんじゃないかとほっと胸を撫で下ろした。
素直に謝罪し乱れた身なりを整える彼女の姿にさすがにやり過ぎたと思ったのか、彼女に詰め寄った男性たちは謝罪をし、中には靴を拾って渡す者もいた。
その様子に観客たちも彼女を見る目を少々改めたのか、彼女を非難する言葉は落ち着き始める。中にはまだ不満げな表情を浮かべる者もいたが、次第に会場は静けさを取り戻していた。
気を取り直して鳥居愛冴は軽く咳払いをしてもう一度茶髪の少女に問いかける。
『では、本題に戻りましょうか。質問内容をどうぞ』
「だから質問というほどでは──いや、このやりとりは先程もやったな。まあいい、話を続けよう」
パーカーのチャックを上げながら少女は肩をすかした。このままではロクに話を進めることが出来ないと判断したのか、とりあえずは「質問」という言葉を渋々ながらも受け入れる。
彼女の言葉に全員が注目する。閉会の挨拶を中断までさせたのだ。よほど意義があるものなのだろうと、観客だけでなく鳥居愛冴も彼女の口にする内容に耳をそばだてる。
だが最初に彼女の口から発されたものは質問などではなく──
「まずは君の演説に対して個人的に拍手を送らせてもらおう。実に見事だったよ」
おもむろに席から立ち上がりながら満面の笑みを浮かべ、少女はぱちぱちと拍手を送る。急な彼女の行動に誰も声を上げようとはせず、呆気に取られ絶句するのみだ。たった一人だけの手を叩く乾いた音が広いホール内に反響し、実際に叩いている音よりも数倍大きく聞こえる。
しかし笑顔で送られるその拍手からは感情が読み取れない。彼女は見事と言っていたが、その拍手からはその称賛の気持ちは一切感じ取ることが出来ず、感情も感動も感嘆も何もない空虚な音がただただ響くだけだ。
やがて彼女は手を叩く動作をぴたりと止めて──
途端に彼女のまとう空気が変わった。
理由は簡単だ。
拍手を送っている間続いていた満面の笑みが消え去り、冷酷で冷淡な表情に変わったのだ。
何の感情も持ち合わせていないであろう無の表情。ただ瞳は──鳥居愛冴へと注がれる少女の視線は先程よりもさらに鋭く冷たく見下していた。
その視線に鳥居愛冴は一瞬怯む。そのタイミングを待っていたかのように、無表情だった少女が笑みを浮かべた。
──獰猛で心の底から嘲るように、限界まで口角を吊り上げて彼女は嗤う。
「よくもまぁ自慢話を長々と続けられるものだな。要するに"自分は成功しかしていない"という話だろう? 先程の拍手はつまらない話を続けられたことに対するものだよ」
今度こそ、彼女の言葉に会場はどよめいた。
称賛の拍手を送っていた者から出た言葉とは思えないほどの分かりやすい批判、罵倒、酷評。冷ややかな視線で、冷め切った口調で、気怠げにそう告げる彼女の表情は正に"つまらない"ものを見ているようだ。
彼女のその言葉に会場の観客も黙っていない。今回は胸ぐらを掴み上げたりする者はいないものの、再び多くの男たちが彼女を取り囲み非難する声が会場内から上がる。
「なんなんだ、さっきから君は!」
「失礼極まりない! 係の者を呼んで今すぐつまみ出せ!」
「どうせ鳥居さんに嫉妬してるんだろ。自分に彼女のような才能がないから」
非難の声は止まない。
それに同意する声も上がっている。
会場から溢れんばかりの彼女に対する非難の声。それを遮ったのは傲岸不遜な茶髪の少女の態度でも言葉でもなく、壇上に立つ鳥居愛冴の一言だった。
『みなさん、静かにっ!』
二度目のマイク越しの彼女の言葉に非難の声が一斉に止んだ。
観客の視線が鳥居愛冴に集中する。もちろん鳥居愛冴もただ黙って聞いていただけではない。観客と一緒に声を上げなかっただけで、壇上の彼女は自身の演説を酷評した少女を強く睨みつけている。
その視線にも、非難の声にも、またしても動じない彼女は腕を組んで鼻を鳴らした。全員を嘲るかのように、心の底から小馬鹿にしたように、彼女は愉快そうに口角を吊り上げた。自らの一挙手一投足に彼らがどんな反応をするのか楽しんでいるような表情だ。
『……落ち着いてください。私も彼女に対して言いたいことは山ほどあります。ですがまずは聞きましょう』
鳥居愛冴は一度目を閉じて深呼吸をしてから自分の気持ちを落ち着かせる。それからゆっくりと目を開け、真っ直ぐと茶髪の少女を睨みつける。
まるで挑むかのような視線と口調で、鳥居愛冴は少女に問いかける。
『──一体、どこがつまらなかったのでしょうか?』
鳥居愛冴のその質問に、少女の吊り上がっていた口角は下がった。質問に答えるためではない。興が醒めたとでもいうかのように視線はさらに冷ややかに、突き放すような蹴落とすような冷え切った口調で少女は大きく嘆息する。
「……"どこが"だと……? それが分からない程度の頭なら講演会など二度と企画しない方がいいぞ」
少女の言葉に鳥居愛冴は思わず叫びそうになるのをぐっと堪える。今ここで取り乱して叫んでしまえば、そんな様子をネットで全て中継されてしまう。今から中継を切ることも出来ないことはないが、こんな場面で終わってしまえば中継を見ている人は不審に思うだろう。
自分の積み上げてきたものを全て守るためには、ここで引き下がるのは得策ではない。立ち向かうべきだ。
会場内にいる観客は全員味方だ。何も恐れることはない。判断と言葉遣いさえ間違えなければ失敗することはないはずだ。
『随分な物言いですが、つまらないと言うのなら具体例を出していただけると助かります。次回の参考や改善に活かせますから』
あくまで冷静に返す鳥居愛冴。しかしその言葉に対しても少女は嘆息するだけだった。心底呆れたような、そして話すことさえも億劫に感じさせる、そんな口調で話を切り出す。
「参考や改善に、ね。どこがつまらないか分からないなら講演会はするな、という警告は無視か。まあいい。つまらなかった点を指摘する前にまず君たちが一番気になっている疑問を解消しようか」
少女は静かに歩き出す。
群がる男たちの間を抜け客席中央にある通路に立つと、自らの胸に手を当てて短く「ぼくが誰なのか」と短く告げる。
彼女はまだ自分の名を名乗っていなかった。名前も知らないまま話をするより先に名乗るべきだと判断したのだろう、そうしなければ失礼にあたってしまう。彼女は階段状になっている通路をゆっくりと、一歩一歩大切にするかのように下りながら再び口を開く。
優雅で上品、そして大胆不敵に。その小さな身体から魅力を溢れさせながら彼女は自らの名前を名乗る。
「ぼくの名前は朝比奈歌恋。君らと比べることさえ馬鹿馬鹿しいほどの"天才"だ」
その容姿に相応しいきれいな語感の自身の名を告げた少女は、見たもの全てを虜にしてしまうような美しく可憐な、そして不敵な微笑みを浮かべた。