3話「恋文」
青色は樹木を潤す水の色として好まれるが、薄すぎる青色は樹木を枯らす霜や氷の色として疎まれる。白い色はもっとだめだ。瘴気の立ち上る土地にのみ降る雪の色は、人々が恐れ、忌む色だった。
白銀の髪と薄水色の瞳をもったアイルは、この世で一番嫌われる外見をしていた。
――でも、と思う。
目の前の少女は、茜色の瞳だ。
茜色は炎の色だ。氷や雪のように、人々から疎まれる色のはずなのに、彼女はひとつの翳りもない茜色の瞳を爛々と輝かせている。
「お前が王になるわ」
「どういうこと……?」
「勘よ。鍵の娘だからかしらね。
大樹が好きそうな人間が分かるのかも知れないわ」
そう言うと少女なアイルの手を引っ張った。
どこに行くのかと尋ねれば、弾むような声が聞こえてくる。
「クレク山よ!」
「いまから、登るってわけじゃないよね?」
「当たり前でしょ。でもお前はいつか登ったほうがいいわ」
「……体力をつけるために?」
父や兄と比べれば棒きれみたいな腕を見て言うと、少女は腰に手を当てて胸を張った。
「王になるために、よ。大樹を探しに行かなくっちゃ」
「俺は王にはなれないよ」
「王なんてロクでもないものだから?
それとも、わたくしの言うことを信じていないのかしら?」
「そう……いうわけじゃないんだけど」
歯切れの悪いアイルに、少女はつまらなさそうに鼻を鳴らす。
とびっきりの宝物を見せたのに、アイルの反応が芳しくなくてがっかりさせてしまったのだ。
罪悪感に胸がつきりと痛む。謝罪のためにアイルが口を開ける前に、少女がアイルの手を引っ張ったまま歩き出す。
「えっと……」
「山がだめなら街にいくわよ。もちろんついてくるわよね?」
断られることなんて考えていない強気で不敵な笑み。
曖昧に頷いて歩きながら、どうしてもぐるぐると考えてしまう。
(彼女はどうしてこんなに……俯かないんだろう?)
同じように疎まれる色を持ち、王族でありながら誰からも嫌われる鍵の者でありながら。
彼女は、なぜ――。
少女が振り返る。クセのある金色の髪がふわりと揺れ、アイルを見た茜色の瞳が細められる。アイルはその光景の美しさに一瞬息を止めた。
「アイル。具合が悪いの?」
「……あ、えっと」
「もう、そういうことは早く言いなさいよね。
ま、わたくしが医務室に連れて行ってあげるから安心なさい」
「そ、そうじゃないよ」
行く先を変えて歩き出す少女に、アイルはたたらを踏んで引き止めた。
するとまた少女が振り向く。アイルは見惚れる。悪循環だ。ぐるぐると頭を悩ませたアイルがたどり着いた言葉は、素っ頓狂なものだった。
「ニゲラはどうしてそんなに綺麗なんだろうって」
「…………」
ぽかんと口を開ける少女――ニゲラに、アイルは自分の失言を悟った。
「ご、ごめん」
「呆れた。あ~きれ~かえりましたわ~!」
「ごめんなさい……」
項垂れるアイルに、ニゲラは朗らかに笑った。
「違うわよ。今みたいに素直になんでも言いなさい」
「え……」
「返事は?」
「わかった」
「……ふふっ」
頷けばニゲラが笑ってくれる。
そう思って頷いただけだったのに、ニゲラのちいさな笑い声が聞こえると……罪悪感のちくりと胸を刺した。
(わからないけど、ちゃんと素直、に言おう)
ニゲラが喜んでくれたことを、嘘にしたくないから。
ニゲラの笑顔をまた――今度は自分も笑って、見たいから。
そんなことを考えていると、ニゲラが今度こそ街に行こうと声をあげる。
嫌じゃなかったから頷けば、ニゲラは嬉しそうに笑った。
おとなしいアイルを振り回すニゲラ。
これが二人の幼なじみとしての形で……もう何十年も前の話になる。
「……死んだ?」
呆けた声が室内に響く。
アイルは瞬きの合間、ぽかんと口を開けた間抜けの姿を探したが見つからなかった。
王の書斎から繋がる隠し部屋には、ふたりの人間しかいやしない。
部屋の主のアイルと、報告を持ってきた使用人だ。
使用人は赤い目元を隠さずに、ただアイルを見上げている。
「本日未明。ハルンの第三王女ニゲラさまは身まかりました。
死因はわかっていませんが、感染症の類いではないだろうというのが、医師の判断です。
……陛下?」
「……解剖などはしてはいけない。棺の準備もだ。
彼女のことは、ジオラスに居られる姉君にお任せすると決まっている」
「承知いたしました。
ご遺体の保全に努めます」
「姉君が来るまで、北東の塔は閉じろ。
誰であろうと塔に侵入することは許さない」
使用人が頭を垂れる。アイルは彼女に退出の許可を出してから、手元の書類に目線を落とした。けれど慣れ親しんだ文字を目で追えない。紙をめくる手ための動かない。
死んだ。ニゲラが。死んだ。
幼なじみのニゲラが。ハルンの第三王女が。死んだ。
「……国際問題になるな」
出てきた言葉に、アイルはため息をついた。
ニゲラが死んだということが腑に落ちて、真っ先に出てきた言葉がこれだ。
薄情にもほどがあったが、それでいい。
アイルはペディアの王で、ニゲラのことを一番大切に思っていたのは、もう遠い昔のことだった。
ジオラスの王妃――ニゲラの姉アイリスは、たった2日でペディアへやってきた。
乗馬服を身に纏い、漆黒の髪を高く結い上げたアイリスは、出迎えたアイルへ一言挨拶をすると北東の塔へと歩いてゆく。
他国の王妃を一人で城内を歩かせるわけにはいくまい。適当な臣下にアイルが声をかけようとしたとき、アイリスがくるりと踵を返した。
「アイル。貴様は見たのか?」
「……必要性を感じなかったので」
「そうか。ついてこい」
「塔からは何を持ち出してくれて構わない。
ご用があればそこの……」
「貴様は――」
黒髪の王妃の眦が釣り上がる。
対応を間違えたか。ではつぎに起こすべき行動はなんだ。とりあえず謝意を。そして同意を……目まぐるしく回転するアイルの思考を、アイリスのため息が打ち切った。
「かわいそうにな」
「……申し訳ない。もっと早くにジオラスへ行くよう説得するべきでした」
悲しげに目蓋を伏せたアイルに、アイリスは金色の瞳を痛ましげに細めた。
アイリスは兄弟姉妹の中でも、とくにニゲラを可愛がっていたから、彼女を亡くした悲しみも、救い出すには一歩遅かった苦しみも相当なものだろう。
この場の行動はアイリスに合わせた方が良さそうだ。
そう決めてアイリスの瞳を見返し――そこに映る感情に、アイルはわずかに動揺した。
アイリスの金色の瞳に映っていたのは、悲しみでも怒りでもない。憐れみだった。
「かわいそうなのは貴様だよ、アイル。
貴様にはもうわからなくなってしまったんだな。
――あの子がどうして最期までここに、居たかったのか」
その言葉に、アイルの胸の奥を冷たい炎が炙った。
それが、何だ。昔の自分なら読み取ることができた謎かけか? 心の機微か?
――そんなモノは、もういらない。アイルに必要なものは自国を守り、繁栄させる能力だ。
なぜならアイルはペディアの王で、アイルが王になると予言したのは――。
「彼女は、今の私にそんなものを望んでいないだろう。
彼女こそが、俺は王になると言ったんだのだから」
隠しきれない怒りがにじむアイルの言葉に、アイリスはそうかと頷いた。
ふたたび踵を返したアイリスは、二度と振り返らなかった。
アイリスはその日のうちにニゲラの遺体と共に去り、ペディアの王城にはひとまずの安寧が訪れた。
もっとも一週間もすれば、各国から続々と抗議の声が届いた。
抗議だけならまだよいが、鍵の者信仰が厚い国からはペディアと国交を断絶すべきだなどという声もあがってきており、まったくニゲラの復讐の手腕は見事なものである……。
「……、」
ちいさな吐息をひとつついた。
アイルの他には誰も居ない執務室は薄暗く、手元の書類の文字もよく見えない。けれど何となく灯をともそうという気にはなれなかった。
……机の端に視線を移せば、薄闇の中にうっすらと光るものがある。
白い花弁、白い茎、白い葉。すべてが真っ白な花は暗闇の中でも淡く光って見え、アイルの机の上をかすかに明るくしている。
この花の名は、白窓花。
大樹の加護のなき土地でのみ育ち、地面から引き抜いても、水さえあれば3年は枯れずにいるという奇妙な花だった。
かつて塔の窓辺に飾られていたものとは違う。彼女に贈ったものとは別に、アイルも白窓花を摘んでいた。
――自分が瘴気あふれる土地にした、隣国のハルンで。
贖罪の気持ちだろうか?……そうだとしたら、バカバカしいと思う。
ハルンに償う気持ちなど、アイルの心のどこにもない。
王族を殺して国を滅ぼした?――だから、なんだ。先に殺したのはお前たちのほうだろう。
お前はハルンに受け入れてもらって育ったのに?――だから、王族を殺すだけですませたのだ。
ハルンの国民の大半を巻き込まない戦争をすることが、アイルの受けた恩の返し方だった。
大樹と国を亡くし、流浪の民になる辛さは知っているが、大樹をふたたび得さえすれば国は復興できるのだ。――アイルが復興した、ペディアのように。
でも、けれど。
続く思考に、アイルは目を伏せため息をついた。
「分からない」が、近頃ずっと頭の隅にあり、ちくちくとアイルの精神に棘を刺す。
痛くはないのだが、気になって今夜のように眠れない日もあるほどだ。
「いっそ捨ててやろうか」
花瓶から花をとり、白い茎を軽くつぶす。
くしゅっと湿り気のある軽い音が響き、ふとアイルは息を止めた。
『俺は王にはならないよ』
弱気で卑屈な少年が断言する。
無論、今ではない。何十年も昔のことだ。
ペディアの民がまだ流浪の民で……少年は、銀の大樹に守られしハルンに居た。炎のような赤い瞳の少女の前に、立っていた。
「……どういうこと?」
腕組したニゲラが眉宇を寄せる。
ずっと王にはなれないと言っていたアイルが、急に前向きにきっぱりと言い切ることは、鍵の娘にも分からなかったことらしい。
アイルは何も言わずに、ある本をニゲラに差し出した。タイトルを読んでと言うと、ニゲラは訝しげな様子で読み上げた。
「瘴気の中でも生きる植物、そこから探る瘴気との共存の可能性――ニューム・トルジット。あら、うちの文官じゃない」
「ニューム殿は、瘴気研究の第一人者でもあるんだよ。
瘴気のことを世界中を回って調べていたら、いつの間にか歴史や政治に詳しくなってたんだって」
「ふうん」
ニゲラがパラバラと本をめくる。アイルは思い切って、彼女の名前を呼んだ。
「俺は、その……
瘴気の研究がしたいんだ」
「王様になってもできると思うけど?」
「それは、違う。
俺は大樹の加護なくても、みんながふつうに暮らせる研究が、やりたい」
ぐっと握った拳は汗まみれだ。唾を呑み込む音も、やけに大きい。
「そうしたら、王様も鍵の者も……要らなくなる。
だから、俺は王にはならない。
王のいらない最初の者に、なりたい」
ニゲラの赤い瞳が見開かれ……伏せられた。
そんな未来を望んでもいいのか迷うような仕草だ。
大樹は好む人間を王にして契約し、枝葉の下の人々を瘴気から守る。
王の血脈が途絶えるまで続くこの約束は、国に安全と平穏をもたらすものではあるが、王族にとってはけっして安楽なものではなかった。
実は大樹は王を喰うのだ。若い王を、年老いた王を、優しい王を、残酷な王を、気まぐれに呼び付けて骨の一欠片まで食し、つぎの王を選ぶ。
この食事は――選定の儀式と言い換えてもいいか――必ず王が生きている間に行われるため、王のスペアである王族はどこの国でも大量に用意された。
守護者たる大樹に選ばれた王とその血族なはずなのに、実態はただの生き餌でしかない。
そんな惨たらしい運命から唯一逃れられる王族が、鍵の者だった。
鍵の息子、あるいは鍵の娘とも呼ばれる彼らは、大樹の意思を読み取り、王に伝える役割を担っている。
だから、大樹は鍵の者を食べない。王族の苦痛や悲嘆を鍵の者だけが逃れられる。
――けれど鍵の者には、また別の酷い運命があった。
王の最期を告げる者のために忌み嫌われ、王族から生まれる存在だというのに、王位継承権はなく結婚もできず、国によっては牢や高い塔の上に閉じ込められ、まるで罪人のような扱いを受けている者も居るという。
ニゲラは持ち前の気の強さと姉のアイリスの加護もあって、自由気ままに過ごしているが、第三王女が一人の供も連れずに外国人と一日過ごしていても何も言われないのだ。
王も、鍵の者も、王族も。
誰も彼もが地獄を味わうようにできている大樹の契約は、しかし今日このときも世界中で当たり前のように行われている。
すべては人が生きるために。瘴気から逃れ、安らかに暮らすために。
だけど、とアイルは思う。
「俺は玉座より、みんなが――王族や鍵の者も、みんなが幸せに暮らせる世界が欲しいんだ」
――ニゲラに、そんな世界をあげたい。
――だって、ニゲラは自分の父親に死を告げる鍵の娘なのだから。
そこまでは言えずに、アイルは下唇を噛む。
そんなアイルを見て、ニゲラはぱちぱちと瞬き、顎に手を添えて考えこみ……数秒後。
「いいんじゃないかしら」
「そんなあっさり言って、いいの?」
「あら。だって頑張るのはわたくしではなくてアイルだもの。
先駆者が居るとはいえ、きっと大変よ?」
揶揄するように言うニゲラに、小さく頷いた。
ニゲラがぱちぱちと瞬く。
彼女はアイルの真剣さを測り間違ったことを謝るかのように、真面目な様子で口を開いた。
「わたくしはね、鍵の者には一つだけ誰もが羨む自由を持っていると思っているの。
ああ、勘違いしないで。あなたの願いを否定するわけではなくって……」
珍しく口ごもったニゲラは、白い頬をほんのりと赤くした。見たことのない彼女の照れ顔にアイルが動揺していると、ニゲラがこほんと咳払いする。
「鍵の者は、自由に恋できるのよ」
「……え」
「なんでそんなに口をぽかんと開けているのよ!
誰かをずっと思い続けることができる。あるいはいろんな人に恋ができる。失恋もするかもね。間違っちゃうこともあるかも?
家族が持てない恋に苛立つことだってあると思うわ。……でも、恋を自由にできるって、素敵なことだと思うの」
それは人生で得難いものの一つだ、とニゲラが口をすぼめる。
彼女の論理は、アイルにはよく分からない。
ただアイルにとっての叶えたい夢と同じくらい、ニゲラの大事なものだから……いま、教えてくれたのだ。
「ニゲラなら、きっと素敵な恋ができる、と思う」
ニゲラの気持ちを傷つけないよう慎重に言葉を選ぶと、ニゲラはふんっと鼻を鳴らした。
どうやらアイルの言葉は、何かが決定的に間違っていたらしい。
「惜しいわ。鈍いわ。疎ましいわ。
でも、許してあげる――」
ニゲラが微笑む。ニゲラの手が優しくアイルの両手を包む。
そして、彼女は祈るように目を伏せた。
「あなたの夢が叶おうと叶うまいと、わたくしは幸せよ。
……けれど、どうかあなたの夢が叶いますように」
かすかな甘い香りが鼻孔をくすぐる。
薄暗い闇の中で、アイルは……ペディアの王となったアイルは、手の中の白い花を呆然と見つめていた。
忘れた。忘れていた、あんなこと。ハルンで過ごした日々は、ペディアの王としてのアイルには不要で――だから、忘れた。
「……、は、はは」
口から漏れた乾いた笑い声が、徐々に大きくなっていくのをアイルは冷え切った心で聞いていた。花の香りから逃げるように、花弁を握りつぶす。
夢も、過去も必要ない。色恋より国の繁栄だ。
そのために最適な花嫁を得るため、兄から婚約者を略奪さえもした。
大樹に喰われる運命だってどうでもいい。アイルはペディアの王であることを選んだのだから。――だから、白窓花を捨てようとして。
『手紙を書いて送りたいの。
もちろん秘密の恋人やお姉さま宛じゃないわ。
あなた宛に、ただの手紙を書きたいのよ』
『鍵の者は、恋が自由にできるのよ』
『かわいそうにな』
幼かったアイルが、過去を忘れたアイルが、気づかなかったことに、今のアイルは気づいてしまった。
あの手紙。彼女から彼へ書かれた手紙は。
ずっと、ぜんぶ、まさか……。
震える手で明かりをつけ、机の抽斗を開ける。
抽斗の隅の文箱を開け、一番上に置かれていた手紙を読んだ。その下の手紙も読んだ。
つぎの手紙にも、そのつぎの手紙にも、"それ”は書かれていない。
書かれていないから。ニゲラは居ないから。
アイルには、一生知る術はない。
ないのに、きっとずっと考え続けてしまうだろう。今日のように眠れぬ夜を何度も過ごすだろう。
――ニゲラはどうして、この国に。
――ニゲラはどうして、手紙を。
――もしも、これが"そう”なのだとしたら。
――でも、"そう”ではなかったとしたら。
凍りついていた心に、ひびが入る。
凍らせて見えない振りをしていた心が、揺れる。
罪悪感が、恐怖が、恋が、アイルの中でふたたび動き出し……
「……っ、いま、さら……!」
逃れられない、地獄が始まった。
ペディア復興の王であるアイル・ペディアほど、
評価の分かれる王は居ないと歴史学者たちは声を揃えて言う。
赤銅の大樹を枯らし、流浪の身となったハルンの民に新たな金色の大樹をもたらした王だが、彼の治世の序盤は酷いものだった。
流浪の民であったペディアの民を受け入れ、自身も十年あまり暮らしたハルンを金銀戦争によって滅ぼした。この時、彼はハルンの銀の大樹を枯らすために、ハルンの王族をほとんど殺してしまった。
ハルンの王族として生き残った者は、ジオラスに嫁いでいた第一王女のアイリスと鍵の者である第三王女ニゲラのみである。
アイルは、第三王女のニゲラを生け捕りにすると、彼女を生涯、塔に幽閉した。
これは当時の国際状況を見ても極めて異例な対応である。各国から抗議の声があがったが、王はこれをまったく無視した。
第三王女のニゲラは、29歳の若さでこの世を去っている。
王は自分の親族にも横暴だった。自分の兄であるアレン王子の婚約者を略奪し、自分の妃に据えた。アレン王子は婚約者を取り戻そうとするも失敗。王族である故に国外追放などの憂き目にあうことはなかったが、王宮より遠く離れた閑地に送られた。
ここまでのアイル王が冷酷で非道な王であることは、疑いようがない。
けれど第三王女ニゲラの死後、彼は明らかに変わった。
ハルンの第三王女に対する非道を謝罪し、ハルンの民をペディアで受け入れる旨を発表した。
――自国の民からも、ハルンの民からも激しい非難と失望を向けられたこの国策は、三十年以上も続けられることになる。
王の晩年にハルンが碧の大樹を得た際には、真っ先に祝報を送ったという。
また王妃と離縁し、アレン王子を王宮に呼び戻した。二人には多大な賠償金が支払われた
。二人の結婚式を、王は自分の結婚式のときよりも盛大に祝わせたという。
アレン夫婦には、3年後に子どもが生まれた。このちいさな男の子がアイル王の鍵の者であった。
もうひとつ特筆すべき王の実績は、瘴気の研究だ。
ニゲラ王女の死後間もなく、王は瘴気研究の第一人者であるニューム・トルジットをペディアに呼び寄せ、瘴気の研究を始めた。
一国の王による後押しを受けた瘴気の研究は、目を瞠るような成果を次々にあげた。
白窓花の服用により、瘴気の中和抗体の獲得できること。大樹が王を喰らうのは、自身に溜まった瘴気を中和することが目的であること。
故に、今では大樹には王ではなく白窓花が捧げられるようになった。
その他にも数々の功績を残したアイル王ではあるが、彼の治世の序盤に行われた蛮行がけっして許されるわけではない。
アイル・ペディアは冷酷で非道な王だった。しかし、自らの行いを正せる王だったと、筆者はここに書き記したい。
アイル王の治世は、32年間続いた。
ペディアとハルンの復興と、瘴気の研究に身を尽くした王は、真夜中の執務室で手紙を読んでいる最中に、ひっそりと亡くなった。
王が最後に読んでいた手紙――色褪せて、皺だらけの手紙は、王とともに埋葬されたという。
幸運にも王の侍従から、王が読んでいた手紙の内容をお教えいただいたので、最後に記しておこう。
『幼なじみの少女へ
君が俺をどう思っていたのか、やはり分からなかった。
憎んでいたのか、それとも最後まで好きでいてくれたのか。
それとももうなにも、俺に向けるものなんて、なかったのか。
だから俺は――俺の気持ちを記しておくことにする。
俺は君が好きだ。
返事か拳かは、また会った時に。
幼なじみの少年より』