第1話:今夜は月が綺麗ですね
【今夜は月が綺麗ですね】
英語教師だった夏目漱石が「I love you」を訳して、シャイな日本人は直接的な言葉は使わず「今夜は月が綺麗ですね」とでも言えば通じる、と言ったとされる(真偽不明)ことから「愛してます」の意。
これを妻に言ったらなんと返してくれるだろう。
とある作品で使われていたこのセリフを、ちょこっと言ってみたくなったのだった。
もちろん意味が意味だけに誰にでも言える言葉ではないが、幸い私は妻帯者、妻に言うのに何のためらいがあろう、むしろすぐにでも言うべきではないか。妻がその意味を知っていようが知っていまいがどちらでも良い。伝えることに意味があるのだ。
知っていれば愛が伝わる。知らなくても言い続ければそのうち気付くだろう。なにせ漱石のお墨付きだ。シャイなボーイだった私だがせっかくの結婚生活だ、目一杯楽しんでやろうと今は恥ずかしげもない行動を常にとっている。
チャンスを伺い幾日が過ぎただろうか、ようやくその時はやってきた。
ある晩、外食の帰りに空を見上げると、そこにはすらりと伸びた2日月が輝いていたのだった。2日月をキレイと言って良いのか分からないしできれば満月が良かったが、そんな贅沢は言っていられない、チャンスの女神には前髪しかないのだ。わざと芝居がかった表情で妻を見つめる。
「何?」
妻が気付いて私を見返してくるが、だからってそんなに簡単に言ってたまるか。
「何でもないよ」
「なによぉ~、言って?」
「……(う~ん困ったなあ)」
これだけもったい付ければこれから言うセリフが「意味のあるもの」なのだと妻にも伝わるだろう。目線を1度月に移してから妻に答える。
「今夜は月がキレイですね」
「? ???」
「……」
「……」
漱石完敗! あるいは2日月がたたったか。再戦を誓い「なんでもないよ」と話を切り上げようとする私に妻が言う。
「……それ、何の引用?」
え、それ、聞いちゃう? できれば聞かないで欲しかった。
「……漱石だよ」
「ふ~ん、で、どういう意味?」
いやそれはさすがに答えられないし答えたくない。
「さあ~てね」
わざとらしすぎるごまかし方しかできなかったが、妻はこういうことを自分で調べたりしない。妻がこの言葉の意味を知るときはやってくるのだろうか。
だが例えば私が歳をとりこの世を去った後、月を見た妻が「そういえばあの人、よく『今夜は月がキレイですね』って言ってたなあ」とその意味を調べるかもしれない。誰かにその意味を教えられるかもしれない。永遠に来ないかもしれないその時のために、今の内に布石を打っておこう。私が妻を愛している証拠をあらゆる場所に隠しておこう。
ふふふ、それに気付いた時、私の愛の大きさに震えるがいい。
私は今日も布石を打つ。妻が意味を調べるその日まで。
次回、クリスマスケーキ。お楽しみに。