船は寄る辺なく
そこは広大な湖だった。
辺り一帯、雲のない空と透明な湖面が続いている。地平線はない。
湖の上には一隻の小さな船が浮かんでいた。船の真ん中には一人の老人がぽつんと座り込んでいる。
老人は何をするでもなく、ただ船の上でたたずんでいる。
湖上には風が無く、船が揺れることはない。時折、老人の重みによってほんのわずか縁が上下するだけだ。
老人は、何故こんな場所に自分がいるか、いつから自分がここにいるかといったことは、気にかけていなかった。
現状の把握をするには、老人は少々年を取りすぎていた。だから疑問を抱くことはせず、茫洋と周囲の静けさに同化していた。
そのまま何時間も、老人は船の上でじっと過ごしていた。辺りに遮るものはなく、ただ自らの鼓動だけが唯一の音だった。
やがて空が茜色に染まっていく。湖面も同じ色に染め上がり、辺りは徐々に薄暗さを増していく。
ふと、老人は我に返った。それまで身じろぎもせずたたずんでいた湖が、急にここにいてはいけない場所のように感じた。
老人はどこかに移動しようと首を巡らす。周囲には当然湖しか広がっておらず、行く先など存在しない。
老人の目に一つの手がかりが映った。船の櫂だ。これがあれば、少なくとも今の場所からは移動することが出来る。
ところが老人は何を思ったか、櫂の柄を下にして持つと、それを杖のようにして、船の縁から湖へ足を踏み出した。
老人の足は瞬く間に水に飲み込まれ、体ごと深く沈んでいく。櫂は浮くことなく、老人と共に湖へ潜っていく。
老人は深く深く沈んでいく。もがき苦しむさまも見せず、いつしか力尽きた。しかしその顔には安らかなものが浮かんでいる。
老人はどこかへ向かいたいのではなかった。離れたいのでもなかった。
ただ船から降りたかったのだ。だからそれが叶って、満ち足りた表情をしていた。
光も届かない遥かな湖底へ老人はひたすら沈んでいく。ともがらはなく、最後に手にした櫂だけが共に暗黒へ飲み込まれていった。