中編
桜井視点になります。
目が覚めるといつもの通学で使う電車の中にいて、だけど窓の外は知らない世界になっていた。
「桜井、着いたよん」
私の肩をトントンと叩いていたのは、クラスメイトの生駒だった。
校則違反を気にも留めず髪を染めて、制服を着崩して、わざわざ薄着になってまで自分のこだわりを捨てない問題児。
「生駒?なんで……あぁ」
過剰ともいえる暖房の効いた車内で眠りに落ちてしまい、普段と違う目覚めで記憶が曖昧になる。着こんだコートのせいで体が熱く、喉もガラガラで気持ちが悪い。
「本当に来たのね、京都」
「とりあえず降りようぜ」
生駒は親指で出口を指さして手首をスナップさせていた。
河原町の地下のホームから地上に出ると、強いビル風が私たちを出迎えた。一車線しかない道路をひっきりなしに車が行き来し、平日だというのに歩道は観光客で混雑している。
「なあ桜井、お腹減ってない?」
腕時計を見ると時刻は十三時の少し前だった。
元々昼食は人より少ない方だけど、確かに空腹を感じる。終業式が終わったらまっすぐ家に帰る予定だったから今日は弁当を持ち合わせていない。
生駒は私の返事を待つわずかな間に、見慣れない京都の街をキョロキョロと見回して、歩行者にぶつかりそうになっていた。
「そうね、どこかで済ませましょう」
「どこでもいい?」
「ええ、どこでも」
観光気分にはなれないから、桜井の後をただついて行く。彼女の足が止まったのは、観光客向けの和食店とかではなく、どこにでもあるコーヒーのチェーン店だった。
学校を出る時点ではまだ行き先を決めていなかったように見えたけど、本当だったのだろう。プランもなく行き当たりで判断するのが生駒らしく感じた。
ホットコーヒー、卵と野菜のサンドイッチをトレイに乗せて、店内の奥へと向かう。生駒は季節限定のボリューミーなサンドに、飲み物はブラックのホットコーヒーだった。
「生駒はもっと変な飲み物を選ぶと思った」
「若い頃は色々飲んでたけどねえ」
生駒はよっこいしょと大げさに声を出して腰を下ろした。
若い頃、という言葉が私の胸をチクリと刺す。
「結局ブラックのコーヒーでいいなってなるんだよ」
「あっそう」
私のちり紙で鼻をかんでいた生駒を思い出した。ブラックコーヒーで達観したようなことを言うと、逆に子どもっぽいなと思っておかしくなる。
「なに笑ってるんだよ」
「別に。生駒は案外普通の高校生だなって」
「はぁ?」
眉をひそめる生駒をよそに私はコーヒーを一口すすり、渇いた喉に流し込んだ。
向かいの席でサンドイッチを頬張る生駒という人物は、私たちの学校では普通の生徒ではなかった。
彼女は周りに合わせることを避けている。
三年になって初めて同じクラスになったけど、二年までの評判通り、授業はよくサボるし学年行事の準備は手伝わない。部活動にも所属せず、学校に来ない間何をしているのか謎に包まれていた。
私がクラス委員になってから、生駒ともう一人の問題児には何度も手を焼いた。私の催促や注意に対して、もう一人の方は比較的素直に従ったけど、生駒は頑固だった。まるでネコのように私が言えば言うほど反対側へ離れて行く。
単なるわがままじゃなくて、集団や規則からの逃避。彼女の場合はわざと逆らっている。仮に髪を染めることが校則の必須事項になったら、生駒は髪を染めないと思う。
「ところで、いつも一緒にいる子は?」
「知沙希?あいつは彼氏とデートだとよ」
せっかくのクリスマスに生駒がわざわざ私を誘ったのは、そういう理由があったのか。
そういうのは、非常に、とても、面白くない
「じゃあ私はあの子の代わり?」
「それは……ごめん」
「別の友達を誘って遊びにでもデートでも行けばよかったじゃん」
私も彼女の誘いを断ることができるのだから、嫌だったら帰ればいいだけの話だけど。
コーヒー店から出ると、わずかに空が明るくなっていた。見上げると灰色だった雲が薄くなり、もう少し時間が経つと割れ目ができて日が差してくるかもしれない。
その一方で、生駒はさっきの私の言葉でシュンとしてしまい、気まずそうにこちらに視線を送っていた。「帰る?」と目で訴えていた。
「生駒、さっきのことは気にしなくていいから。私も暇だったから来ただけだし」
「そっか。そっかぁ!」
パっと表情が変わり、元の調子を取り戻した。
軽くなった足取りで私の手を取って歩き出す。
「それにしても京都に来るって、なに、一年の遠足のやり直しでもするの」
「それだ!なんか見覚えがあると思ったら一回来たことあったわ」
「まだ二年と少ししか経ってないじゃない」
「もう二年も前かあ」
生駒にとっては「もう」二年なのね。
少し歩くと橋に差し掛かり、視界が広がった。鴨川とその河川敷が左右にずっと続いている。
この四条大橋の向こうには八坂神社があって、もっと行くと清水寺がある。友達数人で巡った思い出が蘇る。そのうちの何人かは今頃打ち上げに参加して、受験前最後の息抜きをしているのだろう。
「ねえ桜井。一緒に歩かない?」
どこを、と聞こうとすると、生駒は電車を降りる時と同じく、立てた親指で鴨川の上流を指していた。
前に来た時と同じ道へ行くのは嫌だった。正確には、橋を渡って向こうに行くと思い出に溺れてしまって息ができなくなる、そんな気配がしていた。
川面を右側に見ながら、上流へ向けてゆっくり歩きだす。今度は生駒が私を引っ張っていくのではなく、二人で足並みを揃えてゆっくりと。
改めて、高校最後のクリスマスに、よりにもよって学年一の不良と二人で県外にいる状況がおかしくなる。生駒にバレない程度に少しだけ口角を上げる。
その不良は後ろ手を組んで足をブラブラさせながら進んでいた。軽く私に目配せをして、再び川面の方を向き、やがて私に聞こえるギリギリの大きさで声を上げた。
「桜井は決まってるの」
「何のこと?」
普段の生駒からは想像できない、しおらしいトーンだった。
「進路、とか」
「センター試験を受けるけど、決まってはないわね」
「やっぱり、そっか」
「生駒はどうなの」
「…………」
「無視?」
生駒の進路が気になる。自由奔放な彼女は私と同じ試験を受けるのだろうか。それとも実は就職が決まっているとか。
進学校とはいえ学年で数人は高卒で就職すると言われている。
しばらく間を置いて、生駒は頬を掻きながらようやく答える。
「私も決まってない。センターも受けないし私学も出願してない。もちろん就活もしていない」
「っ」
生駒の声にはわかりやすく不安の色が混じっていた。
ヘヘッと軽口を叩くように言われていれば、私も苦笑するかため息をついていただろうけど。
「大丈夫なの」
絞り出したのはありふれた言葉で。今の生駒なら答えなんか聞かなくてもわかる。
返答代わりの沈黙が流れる。
それでも足は止めず、舗装された河川敷の歩道を進む。最初に降りた橋はずっと遠くにあって、未知の景色で視界が埋まっていく。少し雲が厚くなり全体が薄暗く染まる。
「桜井はなんで受験すんの」
「それは大学に行くためでしょ」
「なんで大学行くの」
「それは……勉強のためとか就職のためとか、色々あるでしょう」
他人事のような私の言葉に、生駒は怪訝そうな顔を隠さない。
「大学じゃなくてもいいんじゃねえの」
「知らない」
「知らなくてもいいって言うの」
生駒に私の心の隙を突かれている心地がした。
私には夢がない。
夢を見つける態勢にすら入ることができない。
大学とか就職とか、そんな煩わしいもの、今はまだ遠い未来に置いておきたい。
「きっと知らない人の方が多いよ。私だってその一人。なんとなくだよ」
「納得できない!」
自嘲気味の私の言葉を聞き、生駒の態度が豹変した。後方で立ち止まり、両手を握りしめて私を睨みつけている。同時に強風が襲い掛かり生駒の髪とパステルカラーのマフラーがなびく。
「桜井みたいな人が、なにも知らず、考えず、大人に言われるがままフラフラと進んでいくなんて変だ……しっかりしろよ!」
「そんな言い方ないでしょ」
生駒のペースに乗ったら、そのうち私の心の底の「未練」が浮き出てしまう。生駒は融通が利かないから、突き進むところまで進んでくる。
「もう高校が終わるんだろ。なんとなくで人生決めていいのかよ!」
「生駒どうしたの。今日の生駒おかしいよ」
「桜井だったら、優等生なんだから、真っすぐ自分の道を見つけて、先に先に進めるんじゃないの!」
ピシッと心に亀裂が入る。
気がつくと生駒は目の前にいて、今にも胸倉を掴んで襲いかかろるほどの権幕だった。
意図的に生駒から視線を外し、その向こう側、川下に向かって今まで歩いてきた道を見る。二年前の遠足で渡って通りすぎた四条大橋は、もう遥か彼方だった。
「優等生、ね」
生駒から逃げるように振り返って川上へ歩き出そうとした。しかし、生駒はそれを許さず私の手を取って逃がさない。四度目の生駒の手は熱く火照っていて、まるで私の手を溶かそうとするほどだった。
「痛い。離して」
「っ……」
意外にも生駒は素直に手を解き、私を解放した。
ゴールなんかないのに私は生駒から逃げるように歩を進める。
歩き続けたのとさっきのやり取りで体が熱い。私はマフラーを解いて、折りたたむこともせず持っていた手提げ袋に突っ込んだ。縫い付けられたキャラクターが不自然に膨らむ。
生駒はもう帰っていくかと思ったけど、私の数歩後ろから付いて来ていた。
互いに無言のまま、やがて川の分岐点に差し掛かった。
「鴨川って別れるんだね」
気まずそうに生駒が声を上げる。生駒も、そして私も少し頭が冷えたようだ。
「逆でしょ。賀茂川と高野川がひとつになって鴨川になるの」
「へえ」
「生駒ってホントに主席で入学したの」
「そうだっけ」
今でも覚えている。私は高校入試の手ごたえが抜群に良く、満点に近い点数を取ったと確信していた。実際に点数はよくて通知では二位だった。そして入学式に新入生代表の挨拶をしたのは目の前にいる生駒だった。
「あの頃は真面目だったのに。生駒っていつからそんなんになったの」
「わかんない。真面目な頃ってあったけ」
今の生駒は髪を染めて化粧もそれなりにして、多分入学式の、あの頃とは別人だ。生駒は生駒としてこの三年間を過ごしたのだろう。やりたい放題やって、挙句の果てに進路を決められない情緒不安定女になるとは思わなかったけど。
川の分岐が見える場所の適当なベンチに先に腰掛けると、行きの電車と比べて私と近い位置に生駒は座った。私は離れようとは思わなかった。
そしてある質問を投げかける。
「生駒は高校生活、楽しかった?」