237 まやかしの都(みやこ)
少女は、灰色の摩天楼に圧倒されていた。
地下から地上まで縦横無尽に通路が走り、地上には目がくらむような高さの無機質な建築物が建ち並ぶ。
建築物の間を通る道路は、引き馬のない鋼鉄の馬車がひしめき合い、高速で駆け抜けていく。
建物から、馬車から人が溢れては、別の建物や馬車に吸い込まれていく。
そのすべてが暗黙の調和によって保たれている。
高度な文明と秩序の産物であることは間違いない。
――この世界を造ったのは、神か悪魔だ。
新宿の街並みを初めて見た彼女が思ったのはそんなことだった。
それ以降、ダンジョンに潜る前、新宿駅周辺を通りかかるたびに、少女は同じ感慨を覚えた。
だが、
「おい、ぼさっとしてるな、1号。高い金積んで買ったんだ、その分以上は働いてもらわねえと困るんだよ」
背後からの衝撃に、少女が転ぶ。
背中を蹴り飛ばしたのは、黒いパーカー姿の若い男だ。
まだらな色に着色された長い髪からは、汚らしいという印象しか受けない。
……この街は、悪魔の街だ。
無駄に明るく澄み切った初冬の東京の空は、不健康な灰色の建物とはミスマッチだった。
人造物に囲まれたこの超巨大都市に暮らすのは、神ではなく人間だった。
この世界の人間がとくに酷いとは、少女は思わない。
元いた世界の人間と何も変わらないと思うだけだ。
少女は、今は亡き王国の紋を刻んだローブについた埃を払い、乱れた青髪を後ろに流す。
その拍子に、指先が首に嵌められた冷たいものに触れてしまった。
まるで、番犬を繋ぐかのような、無骨極まりない金属の首輪。
この世界の人間が「自由契約の首輪」などという欺瞞に満ちた名前で呼ぶそれは、元の世界では魔獣を使役するために用いられる隷属の首輪に他ならない。
それは、元々は人間のような高等な知能を持つ相手には使えないものだった。
だが、堕ちたエルフ王クローヴィスの魔導技術が人間をも繋ぐ首輪の作成を可能とした。
さらに、この世界の人間の持ち込んだ科学技術が、その量産化に成功した。
日本の傀儡国家であるラマンナ共和国内に造られた工場では、この首輪が一日に数千個ずつ生産されているということだ。
人を奴隷にするような魔導具を量産する国家とは相容れない――そう叫んで救世のための連合軍を組み、勇敢に戦った少女の故国エリュディシア王国は、たった一人の「勇者」によって蹂躙された。
カスガノミヤ・ユウトと名乗ったその勇者は、王国に降伏の条件を突きつけた。
王国の抱える戦闘向きの人材をひとり残らず供出せよ、というのだ。
悪魔の如きその要求には、さらなる次の要求があった。
まずは王家の人間と宮廷魔術師、近衛騎士団の人間のうち、優秀なものから引き渡せ、と。
もしこの要求に従わぬのなら、エリュディシアの国土は焦土と化すとの脅し付きだ。
民と国を愛する王国は、この要求を呑まざるをえなかった。
そして、王国から差し出された人身御供の第一号が、第四王女にして宮廷魔術師でもあるシャイナ――すなわち、今、新宿のアスファルトに膝をつかされた少女であった。
勇者は言った。
従うのなら悪いようにはしない、と。
日本には美しい憲法がある。
あらゆる人間は平等であり、基本的な人権は何があっても保証するという美しい理念を持つ憲法がある。
だから、日本の法を侵さない限り、悪いようには扱わない。
幼い頃から政治に関わる第四王女、また宮廷魔術師として、その言葉を額面通りに信じたわけではなかった。
だが、同時に、異世界の驚異的な科学技術に興味をいだいたことも事実だった。
異世界でダンジョンの探索をせよということなら、王族のすることではないという自尊心の疼きさえ堪えれば、十分に呑める条件だと思った。
いずれにせよ、シャイナが応じなければ他の人間に話が行くだけだ。
優れた異能を持つ病弱な末の妹のことを思えば、逆らうことはできなかった。
だが――
「おら、早く立て。俺の時間がもったいねえだろ」
横柄な口調で続けた男は、探索者ギルド「ヘカトンケイル」のマスター・坂城だ。
「……蹴り飛ばさなければ、倒れていない」
「あ? ドレーちゃんが口答えしてんじゃねえぞ!」
坂城が尖った革靴の先でシャイナを蹴る。
「ぐっ……」
「探索者ってのは便利だよなぁ? 殴ろうが蹴ろうが死にゃしねえんだから。痛い目に遭いたくなけりゃ生意気は言わねえことだな」
なぜこのような下劣な男が、Sランクギルドのマスターなのか。
シャイナは不条理を恨まずにはいられない。
「ちっ、つまんねえ倫理的制約がなけりゃ、夜も言いなりにしてやるのによ……」
吐き捨てるように言った言葉にぞっとする。
「自由契約の首輪」は、「主人」への完全な従属を強制するものではない。
ダンジョン探索という目的を果たす上で必要な「あらゆる指示」に従う必要はあるが、探索に関係のない指示に従う義務はない。
だから、今男が口にしたようなことを命ぜられたとしても、シャイナにはそれを拒む自由がある。
だが、それならば安心かといえば、そんなことは決してない。
昼間の探索中に危険な命令ばかりに従わせてから、その夜、本人の「自由意志」に委ねる形でそうした「要請」を突きつければ、拒むことのできないものも出てくるはずだ。
ダンジョン出現前はデリヘルの経営者だったという坂城にかかれば、女性から逃げ場を奪って客を取らせるなど難しいことではないに違いない。
……抜け穴だらけだ。
こんな抜け穴は、ちょっと考えればわかるはずなのに。
そのちょっとを考えず、見ず、知らなかったことにするのがこの国の民たちなのだ。
自分には関係ないから。口を出せば面倒なことに巻き込まれるから。
実際、人通りの多い中で足蹴にされるシャイナを見ても、嫌なものを見たという顔で目をそらし、足早に歩み去るものばかりではないか。
この世界に来て驚いたもののひとつに、テレビという映像受信機がある。
魔法を一切使わず純粋な技術のみで成り立っているという驚くべき装置だ。
その装置を通して放送される報道番組では、シャイナと同様の身分にあるシャイナの従姉妹の王族の女子が取材を受けていた。
人権侵害はない、ギルドメンバーにはよくしていただいている、日本は文明の進んだいい国だ……そんなことを引きつった笑顔で喋る彼女が痛々しかった。
報道番組は、嘘ばかりだった。
異世界シュプリングラーヴェンのラマンナ共和国と日本とは互恵関係にあると強調するが、ラマンナが日本の傀儡国家であることをシャイナは知っている。
旧エリュディシア王国とその同盟国の遺民の一部がテロリストになったと報じるが、彼らは自分の国を取り返そうとしているだけだ。
「自由契約の首輪」は本人の自発的な意思表示を受けて装着されるもので、自由意志を奪うものでは決してないと主張するが、首輪を付けることを「選んだ」者に選択の余地がまるでなかったことには一切触れない。
異世界人探索者はパーティの貴重な戦力として重宝されていると持ち上げるが、無謀な運用で前衛職をやらされたり、探索とは直接関係のない「副業」を強制されているケースも数しれない。
「副業」の中でも深刻なのは、見目のよい異世界人女性に客を取らせる売春の強制だが、これが表立って報道されることもない。
そして、もうひとつ報道されていないのが――
「ちっ、早く行くぜ」
坂城は新宿駅の地表に新設された専用ゲートで受付を済ませ、Sランクダンジョン「新宿駅地下ダンジョン」に入場する。
「新宿駅地下ダンジョン」は、つい最近モンスターの一切出現しない特殊なフラッドが発生したことで話題になった。
そのフラッドはごく短時間でひとりでに終息したが、ダンジョンの開口部が地表まで移動し、西口側を中心に広い範囲が新たにダンジョンに呑まれることになった。
駅機能がダンジョンに呑まれなかったのは不幸中の幸いとされるが、そんな場所に旅客数の多い駅を置いたままにしておくこの世界の人間の危機感のなさは不思議なほどだ。
坂城のギルド「ヘカトンケイル」の探索は力任せの洗練されないものだった。
それを可能にするのが、坂城の持つ固有スキル「雷鎖」である。
「おらああああ!」
坂城の放ったいくつもの雷球がモンスターの前衛に炸裂する。
炸裂した雷は、無数の雷の鎖となって周囲に拡がり、たちまちモンスターの群れ全体を拘束する。
動けなくなったアダマンタイトアントの群れに、「ヘカトンケイル」のメンバーが殺到する。
その体表の硬さと顎の強靭さで恐れられるアダマンタイトアントの群れは、なすすべもなく壊滅した。
「おっしゃ! 俺、最強!」
拳を握り込み、勝利の叫びを上げる坂城に、仲間たちが下品な歓声を浴びせる。
「おら、1号。てめえ何ぼさっとしてやがる。てめえにいくら注ぎ込んだと思ってんだ、ああ?」
横から小突かれ、シャイナはよろめく。
「……あの状況で魔法を使えば味方を巻き込んでいた」
本音を言えば、いっそ巻き込んでやりたかった。
だが、首輪にかけられた「日本国の法律を守ること」という制約が、故意の傷害を許さないのだ。
「ふん」
男が引き下がったことで、シャイナはそっと胸を撫で下ろす。
後衛職の魔術師ですらこの扱いなのだ。
私が前衛職だったらどんな扱いを受けていたことか。
エリュディシアの誇る近衛騎士たちも、続々と首輪を付けられ、この世界へと連れてこられている。
彼らは王を衛るための存在であり、前衛ばかりだ。
シャイナにも忠誠を誓い、ともに仕事をすることもあった彼らが肉壁ように扱われるのかと思うと、叫び出したい気持ちになる。
なぜ――こんなことに。
堕ちたエルフの英雄王クローヴィスが革命によってようやく放逐されたと思ったら、今度は異世界からの侵略だ。
首輪を付けられた身では、同胞の身に危険が迫っていても、何をすることもできない。
いや、自分自身の身を守ることすら――
もはや、エリュディシア王国は亡い。
王女としてのプライドと責任感で身を持しているが、はたしてそれがいつまでもつものか。
希望の見えない奴隷に等しい生活だ。
今この時はなんとか耐えられたとしても、その後ずっと耐え続けられるのかと問われれば、迷わずに耐えられるとは答えるのは難しい。
だが、耐えられなくなったとして、どうだというのか。
首輪がある以上、探索の指示には従わされる。
泣き叫んで抵抗したとしても、坂城はニヤつきながら命令を下すだけだろう。
居場所をなくし、自分の境遇に絶望した女ほど、坂城にとって扱いやすいものはいないのだ。
鬱々とした気持ちでダンジョンを進む。
坂城の「雷鎖」は強力だ。
後衛から大きな魔法を撃つことだけに専念できる状況は、魔術師としてはやりやすい。
坂城の仲間たちが優秀な前衛であることは認めざるをえないところだ。
何度目かのモンスターの群れを退けたところで、坂城が不審そうな声を上げた。
「んだ、ありゃ?」
坂城の視線を追って、シャイナは目を見開いた。
新宿駅の構内と見間違う新宿駅地下ダンジョン第一層の通路の奥に、水鏡のようなものが浮かんでいた。
ダンジョンで水鏡といえば、もちろんそれはポータルだ。
ダンジョン内に宙に浮かぶ水鏡があったとしても、不審に思う理由はない。
まだ一層の半ばの場所にポータルがあるのはおかしいが、今の坂城のような反応にはならないだろう。
シャイナもまた、目を見開くほど驚くことはなかったはずだ。
だが、
「青いポータル……だと? なんだよ、これは」
坂城のつぶやきを耳にしながら、シャイナは胸が希望に弾むのを感じていた。
大変長らくお待たせしましたm(_ _)m
連載の方、再開していきたいと思います。
引き続きお付き合いいただければさいわいです。





