232 逃亡者・蔵式悠人(4)
「刃向かう気か!?」
東堂の言葉に、内閣官房探索犯罪即応部隊とかいうらしい特殊部隊の連中が殺気立つ。
「ゆ、悠人さん……?」
俺の背後でほのかちゃんが不安そうな声を漏らす。
ほのかちゃんとしても、従うべきなのかそうでないのかわからないでいるみたいだな。
助けてほしい、でも迷惑はかけられない、そんな迷いを背中越しに感じる。
俺は東堂に向かって肩をすくめる。
「まさか。罪もない警察官を――いや、厳密には警察官じゃないとか言ってたか? とにかく、上の命令で動いてるだけのあんたらに攻撃なんてしたら、それこそ公務執行妨害になるからな」
もし防諜法違反の疑いが解けたとしても、公務執行妨害が残っていては、俺を拘束する口実をみすみす与えることになってしまう。
だが、正式な逮捕状らしきものがある以上、逃げるだけでも罪に問われることになるんだろうな。
じゃあどうするかって?
二つほどスキルを使わせてもらおう。
スキルを使ったことがバレれば、それはそれで公務執行妨害になるんだろうが、証拠を残さなければ問題ない。
……いや、問題はあると思うが、少なくとも訴追されることはない。
「ならば、逃げる気か、蔵式! 貴様にもう逃げ場はないぞ!」
「……偶然とはいえ、それを俺に聞いてくるのはおもしろいな」
俺はお面付きの顔を伏せて忍び笑いを漏らした。
東堂が奇しくも言い当てたように、俺はこの場から逃げる気でいる。
いくらノックアウトできるとはいえ、当局の執行部隊を返り討ちにはできないからな。
だが、意外なことに、俺にとっては「ただ逃げる」のが結構難しい。
俺が逃亡の動きを見せた時点で、彼らは俺への戦闘行動を開始するはずだ。
となると、俺と彼らはシステムによって戦闘中と見なされる状態になるだろう。
それの何が悪いのかって?
俺の固有スキル「逃げる」のS.Lv1「戦闘から逃げる」には、お馴染みの二つの制約が存在する。
ひとつは時間だ。
戦闘から逃げるためには、「戦闘エリアの外側に向かって(30-5×S.Lv)秒間逃げ続ける」必要がある。
高レベル探索者である彼らの攻撃を避けながら、それだけの時間、逃げる態勢を取り続けるのは難しい。
……まあ、今の俺ならなんとでもなるとは思うんだが、ほのかちゃんに怖い思いをさせそうだからな。
もうひとつは空間だ。
「戦闘エリアの範囲は、敵の初期位置の中心から半径(10×S.Lv)メートルの空間」。
この戦闘エリアの外側に向かって指定秒数逃げ続けるというのが、「戦闘から逃げる」の仕様である。
どちらかといえばこっちのほうが問題だ。
「戦闘から逃げる」を使う時には、戦闘エリアの外周に沿って不可視のバリアが展開される。
このバリアがあるせいで、俺は「戦闘から逃げる」を使わずに普通に逃げるということができないのだ。
このバリアを発生させないためには、敵に気づかれない――すなわち、システムから戦闘状態にあると認識されないようにするしかない。
気配を消したり、ステルスしたり、敏捷に物を言わせて敵に気づかれる前に駆け抜けたりすれば、逃げエリアに捕まることはない。
逆に、一度戦闘状態に入ってしまえば、「逃げる」を使わずにエリアの外に出ることはできないのだ。
「逃げる」が成功したとしても問題は残る。
この場からは逃げられたとしても、正式な逮捕状を持つ公務員から逃亡したという事実からは逃げられない。
それはもう避けようがないとしても、せめて俺が東堂たちに「何かをした」という事実を残すのは避けたいのだ。
じゃあ、どうするか?
まず使うのは、Aランクダンジョン周回ツアーで手に入れた「催眠術」だ。
敵と認識された相手に対し、認識阻害、意識操作、記憶操作なんかができる。
成功率はこちらの魔力とあちらの精神力の比較で決まるが……正直言って、話にならない。
東堂の精神力が40万弱なのに対し、俺の魔力は450万を超えている。
「――忘れろ」
俺がそうつぶやくだけで、東堂の目が一瞬、うつろになった。
左右に控える隊員もな。
これだけで、この三人は、俺に接触してからの記憶を失った。
……でも、ここに現れていない残りの隊員についてはどうしようもないな。
通信記録も残されてるだろうから、状況証拠的に俺が何かやったと疑われるのは避けられない。
それでも、俺が実力で抵抗したというはっきりした証拠を残さないことには意味がある……と思いたい。
そして、俺はもうひとつのスキルを使う。
「ほのかちゃん」
「悠人さん? って、きゃあ!」
俺はほのかちゃんを抱き上げると、固有スキル「逃げる」の、第四の能力を行使する。
「この場から逃げる」
そうつぶやくが、とくに何かが起きるわけではない。
だが、東堂たちは動かない。
事態を見守っているはずの赤い光点もな。
俺は東堂に背を向けると、そのまま軽い足取りで新宿駅方面に走っていく。
「な、なぜ追ってこないのでしょうか?」
「そういう能力だからな」
と言って俺は、つい最近取得したばかりの「逃げる」スキルレベル4のことを脳裏に浮かべる。
Skill──────────────────
逃げる
S.Lv1 戦闘から逃げることができる。
S.Lv2 現実から逃げることができる。
S.Lv3 困難から逃げることができる。
【NEW!】S.Lv4 その場から逃げることができる。
【NEW!】S.Lv4 その場から逃げることができる。
誰にも気づかれずにその場から立ち去ることができる。誰にも気づかれない効果はS.Lv×10秒間持続する。
使用条件:
その場にいることに気まずさ以上の不安を抱くこと。
特記事項:
誰にも気づかれない効果の持続時間は、「その場から逃げる」を連続使用することで一時的に延びることがある。その状態のまま「その場から逃げる」を使用し続けると、誰にも気づかれない効果が解除できなくなるおそれがある。
────────────────────
取得に必要だったSPは、なんと163,840,000。
桁を数えるのも面倒だろうから言い直すと、一億六千三百八十四万SPだ。
そんな途方もないSPを要求された割には、「なんか拍子抜けの効果だな」と、最初は思った。
スキルレベル2の「現実から逃げる」では、亜空間に避難して時間の速度をいじることができた。
スキルレベル3の「困難から逃げる」では、因果の連鎖を辿って任意の時点に戻ることができた。
それらに比べて、スキルレベル4の「その場から逃げる」は平凡に見える。
でも、一見平凡に見える「その場から逃げる」には、無視できないメリットもある。
使用条件が緩いのだ。
「現実から逃げる」では、「(5-S.Lv)秒間、現実から逃れたいと強く念じ続ける」必要があった。
「困難から逃げる」では、「自分の置かれた状況が完全に解決不能であることを心の底から認識する」必要があった。
それに対し、「その場から逃げる」は、「その場にいることに気まずさ以上の不安を抱く」だけでいい。
さらに、「現実から逃げる」のように条件を満たした時に自動発動するわけではなく、自分の意思でその場から立ち去ることを選べる仕様になっている。
デメリットの「『その場から逃げる』を使用し続けると、誰にも気づかれない効果が解除できなくなる」は考えてみるとおそろしい話だが、「その場から逃げる」を常用することはなさそうなので、あまり心配はいらないだろう。
使用条件が緩い分、効果も緩いように思えるが、状況によっては使えそうだ。
効果の検証は、芹香と灰谷さんに協力してもらった。
あえて気まずい場面を作り上げ、「その場から逃げる」を使用する。
芹香と灰谷さんから見ると、俺はいつのまにかいなくなっていて、どのタイミングでいなくなったのかもはっきりわからなくなるらしい。
さらには、作り上げた「気まずい場面」の前後の記憶も曖昧になったという。
……ちなみにだが、検証には「俺が灰谷さんと浮気をしているのが芹香にバレた」という謎の想定をねじこまれた。
演技とはいえ、マジで気まずくなりかけたので曖昧になってくれて助かった。
この不可思議な現象は、「戦闘から逃げる」のリセット効果とも似ているな。
「戦闘から逃げる」を使うと、その戦闘の状況がリセットされる。
水上公園ダンジョンでほのかちゃんを助けた時なんかが典型だ。
リセットによって一度は殺したはずの不法探索者が「復活」し、場面を一からやり直すことになったからな。
「その場から逃げる」の効果だけでも、東堂たちの記憶を誤魔化すには十分だったかもしれないが、一応「催眠術」も使っている。
「催眠術」の方はある程度範囲を指定して記憶を失わせることができるからな。
「その場から逃げる」の検証は、危険なデメリットのせいで難しい。
だから、確実に効くと分かっている方法と併用することにしたのだ。
……とはいえ、こんなのは一時しのぎにしかならないな。
逮捕状が現に出ている以上、奴らはまた俺の前に現れる。
毎回同じ対応をしていてはいつか対策をされるだろう。
俺は目立たない路地でほのかちゃんを下ろし、雑居ビルがごちゃつく繁華街の雑踏に紛れ込む。
目立つ「烏天狗のお面」もアイテムボックスにしまっておく。
中学の制服姿のほのかちゃんの手を引いてるのを見咎められるかとも思ったが、通行人はこちらに視線を向けてこない。
その気になれば俺は自分の気配を消すことができるが、雑踏の中でそれをやるとかえって浮いてしまうこともある。
具体的には、他の人がこちらに気づかず歩いてくるせいでぶつかりそうになるとかだな。
俺だけ気配を消してほのかちゃんがそのままというのも、周囲に違和感を与えるだろう。
そんなわけで気配は消さず、悪目立ちしない程度に「抑える」調整をしてるんだが……それすら、今日は必要なかったのかもしれない。
いかにも新宿といった感じの雑踏だが、今日はいつもよりざわついている。
小さな居酒屋やカラオケ店の入口で人々がたむろし、大きな声で騒いでいる。
いつもなら仕事の愚痴や上司の悪口なんかなんだろうが、今日のメイントピックはこの国の政治や安全保障についてらしい。
政治家の悪口を言って盛り上がるとかじゃなくて、かなり攻撃的な口論になってるようだ。
それこそ、男児会や女自会のイデオローグがゲンロン.netでやってたような。
「なんだか怖いです……」
ほのかちゃんが俺の手を握る力が強くなる。
その時、
「逃さんぞ、蔵式!」
「うぇっ!?」
背後から聞こえた声に、俺はわりと本気で驚いた。
肩越しに振り返ると、雑踏をかき分けやってくるのは、戦前のライフルを構えた東堂だ。
きゃあああああ!
と、近くの女性が悲鳴を上げた。
殺気立った大柄な特殊部隊員がライフルを構えて走ってくるんだからな。
そりゃ悲鳴を上げたくもなる。
「なんで……」
「残念だったな、蔵式! 精神作用系のスキルは俺には効かん!」
「しまった、そうだった……」
東堂の固有スキルは「揺るがぬ心」。
「精神に作用するあらゆる状態異常を受けてもマイナスの影響を受けない」んだった。
「その場から逃げる」の効果は状態異常ではないはずだが、「催眠術」が効かなかったのか?
いや、でも、東堂にも「催眠術」はちゃんとかかった様子だった。
そうか。
説明文には、「状態異常が効かない」と書かれてるわけじゃない。
「催眠術」自体はかかったものの、そのマイナスの影響だけが打ち消されたのだ。
だから俺は、東堂にも「催眠術」は効いたものと思ってしまった。
そして、最初に俺が懸念した通り、「その場から逃げる」の記憶曖昧化効果だけでは、不自然な状況を誤魔化しきれなかったみたいだな。
「その場から逃げる」で記憶が曖昧になるのは、いつのまにか俺がいなくなっていたという状況を作り出すための副次的な作用であり、効果としては弱いんだろう。
おそらく、東堂率いるECRTとかいう特殊部隊の連中は、俺が精神に干渉するなんらかのスキルを持ってる可能性まで考慮した上で、「揺るがぬ心」を持つ東堂を先頭に立たせていたんだろう。
事前にそういう心構えがあったのなら、「その場から逃げる」の精神作用を受けづらくなってもおかしくない。
東堂がヘルメットの奥で俺に聞こえないように小さく囁く。
「やれ」
「超聴覚」で東堂の言葉を拾った直後、俺は高所からの攻撃を感知した。
簒奪者のユニークボーナス「自身に迫るあらゆる危険をかなり察知することができる」の効果だ。
俺はとっさに魔王の技能を使い、無詠唱で物理障壁を構築する。
音速を超える弾丸が不可視の障壁に阻まれ空中で潰れる。
遅れて、銃の発射音が聞こえてきた。
「正気かよ!? こんな人通りのあるところで狙撃なんて……!」
「この国への忠誠心がないとわかった以上、貴様を放置するわけにはいかん!」
「だからって……」
凍崎の作戦は解除したはずなんだけどな。
単に元々目的のためには手段を選ばない奴なのかもしれない。
でも……これは弱ったな。
今の攻撃によって、俺と東堂たちは戦闘状態と見なされたはずだ。
となると、「逃げる」の効果により、俺には逃げエリアの外縁に不可視の壁が発生する。
「逃げる」があるせいで普通に逃げることができなくなったというわけだ。
「催眠術」による欺瞞工作も暴かれてしまった。
なんとかことを穏便に(?)済ませようという俺の配慮が台無しだ。
「悠人さん……!」
俺の背後でほのかちゃんが声を上げる。
「俺の後ろに隠れててくれ」
「いえ、私に一瞬だけチャンスをください!」
「何を……」
俺が聞き返しかけた瞬間。
俺の心から、いきなり闘争心が消え失せた。
戦いたくない。
他人を傷つけたくない。
愛する人とただ一緒に時を過ごしたい。
完全に場違いなそんな感情が、心の奥から吹き出した。
「今です、悠人さん!」
ほのかちゃんの声にはっとする。
今の現象を起こしたのはほのかちゃんか!
精神作用系スキルが効かないはずの東堂も、銃をだらりと下ろして呆けた様子で立ち尽くしている。
それだけじゃない。
銃を抱えた特殊部隊の出現にパニックに陥りかけていた周囲の人たちも、頬を紅潮させてぼんやりしている。
俺は振り返り、ほのかちゃんを抱きかかえる。
「ナイスだ、ほのかちゃん! でもどうやって……」
「私の固有スキル『感応』で、戦いたくないという気持ちを、周囲に伝播させました。こちらに注意を向けている人全員に」
走る俺にしがみつきながらほのかちゃんが答えてくれる。
「なるほど、戦いたくないとか、愛する人と一緒にいたいとかいう気持ちが『精神への悪影響』のわけがないか」
東堂たちの戦意を消滅させることで、ほのかちゃんは結果的に俺と東堂たちの戦闘状態を解除してくれたのだ。
もちろん、ほのかちゃんが東堂の固有スキルのことを知ってたわけはない。
東堂の動きを止めようとした偶然の結果にすぎないが、俺にはできないことをやってくれた。
抱きかかえたほのかちゃんの体温が熱い。
ほのかちゃんを愛おしく感じる。
ほのかちゃんを抱える腕に少し力が入ってしまう。
これもほのかちゃんの「感応」の影響か。
あとで芹香に疑われたら、また「その場から逃げる」を使う羽目になりかねないな。
俺は路上から小田急百貨店の店内に入り、東堂たちからの視線を切る。
関係ない人を巻き込むおそれはあるが、今の時間帯の新宿ではどの方向に向かっても同じだろう。
「長くはもたないです!」
「わかってる!」
俺は一階のブティックを駆け抜け、新宿駅西口側に飛び出した。
改札口付近はいつも以上に人が多い。
自分のスマホを食い入るように見つめてる奴もいれば、集団で騒いでる奴もいる。
見知らぬ者同士で口論してる奴もいた。
電光掲示板には電車の遅延情報が流れ、構内放送からは駅員のお詫びの言葉が聞こえてくる。
「ど、どうするんですか?」
と、ほのかちゃんが訊いてくる。
「予定通りに行く」
「よ、予定……?」
「ああ。いちばん近くにあるダンジョンに逃げ込むんだ」
最寄りのダンジョンに逃げ込んでそこを踏破し、【ダンジョントラベル】で別のダンジョンに転移する――というのが、元々の計画だ。
東堂たちという追手がかかったのは想定外だが、いずれにせよやることは同じだな。
違いと言えば、俺の社会的立場が一層まずくなったというだけだ。
俺の宣言に、ほのかちゃんが息を呑む。
「いちばん近くにあるダンジョン……って、まさか……!」
ここからいちばん近いダンジョンはどこかって?
――もちろん、難攻不落のSランクダンジョン、「新宿駅地下ダンジョン」に決まってる。





