229 逃亡者・蔵式悠人(1)
――時は遡る。
この国の権力の階梯を最上段まで昇りつめた凍崎誠二があの「大演説」を行った直後のことだ。
演説の余韻に揺れる山手線のホームに降りた俺は、ほのかちゃんに電話をかけていた。
奴の演説の衝撃は、時間厳守の鉄道職員の手すら止めさせ、各線に十数分の遅れが発生していた。
奴の演説が電車を止めるほど衝撃的だったともいえるし、それだけの衝撃を受けても十数分の遅れしか発生しない日本の鉄道ヤバすぎともいえそうだな。
ただ、乗客のほうはそうでもない。
俺と同様車両から降りて誰かと興奮気味に通話してるやつがたくさんいる。
駅の外からはよくわからない興奮した喚きのようなものも聴こえてくる。
都心ではスマホの通信量が爆増してるらしく、格安SIMの俺の回線は、アンテナが一本立ったり消えたりを繰り返している。
ひきこもりになる前から使ってたスマホだから、次世代通信なんていう気の利いたものは積んでない。
こんなことならスマホを買い替えておくんだった。
そんな後悔をしながらコールすることしばし。
『悠人さん!』
「ほのかちゃん! 無事か⁉」
『ど、どうしましょう……お母様が……!』
ほのかちゃんが動揺してるのも当然だ。
さっきの演説で、凍崎ははるかさんのことを異世界からやってきたエルフ、異世界実在の生きた証拠として日本国中に向かって――いや、世界に向かって紹介した。
はるかさんが進んでそのような役割を引き受けたとは考えづらい。
その前に、はるかさんは入管庁の職員に不法滞在の疑いで連行されてるんだからな。
その時に、ほのかちゃんとも引き離された。
凍崎がほのかちゃんを人質にしてはるかさんに協力を迫ったんじゃないか――そう疑うだけの理由がある。
もちろん、さすがに「言うことを聞かなければほのかちゃんに危害を加える」といった直接的な脅しではないだろう。
いくら総理大臣でも、無辜の少女を人質にしてその母親に協力を強いるような真似はできないと思いたい。
ただ、間接的な脅しならいくらでもできる。
はるかさんを不法滞在者として国外退去処分とし、この国から追い出すと脅す。
その時に、日本で出生したほのかちゃんには日本国籍を認め、日本からの出国を認めない。
はるかさんを国外退去させるとなると、その退去先は行き来が可能になった異世界ということになる。
要するに、はるかさんとほのかちゃんを生き別れにすることができてしまうということだ。
この国の最高権力があれば、逆に、餌をちらつかせることもできるだろう。
たとえば、はるかさんを難民認定し、国内への居留を認めるとかだな。
もちろん、そのための条件は、凍崎の政治的アピールに協力することだ。
「落ち着くんだ、ほのかちゃん。さすがにはるかさんに今すぐ危害が加えられるとは思えない」
『そ、そうでしょうか……』
「むしろ、ほのかちゃんのほうが心配だ。今、どこにいるんだ?」
『私は新宿に着いたところです』
「新宿?」
しまった、行き違いになってしまったか。
俺は新宿の協会本部にあるパラディンナイツのギルドルームを飛び出し、電車に乗って地元方面に向かっていた。
ほのかちゃんと一刻も早く合流しようと思ったからだ。
だが、俺の乗ってた電車は演説の影響で遅延。
ほのかちゃんの乗ってた電車が新宿に着くほうが早かったというわけだ。
山手線の運転は回復しつつあるが、一度遅延した電車は混雑が酷い。
ホームでの乗り降りに時間がかかる影響で各駅の停車時間が伸びていそうだ。
実際、目の前のホームでも、人が押しくら饅頭しながら窮屈そうに乗り降りしてる。
興奮が冷めやらないせいか、揉めてる声も聞こえるな。
ホームに溢れた人波が、スマホで通話する俺を邪魔そうに押しのけて、改札口へと流れていく。
階段は、初詣か花火大会みたいな渋滞だ。
「今すぐそっちへ行く! 外から走っていけば早いはずだ」
俺は電車を使わないことに決めた。
俺の現在の敏捷をフル稼働させれば、山手線の線路沿いを電車より速く走ることは十分できる。
新幹線と徒競走しても勝てるかもな。
「筋疲労無効」のスキルもあるから、山手線を何駅分か走っても速度が落ちることはない。
『私も、悠人さんのほうへ向かいます!』
「ほのかちゃんは駅で大人しく――いや」
ほのかちゃんには固有スキル「感応」があったな。
かなり遠くからでも親しい相手のいる方向がわかることは、以前クローヴィスにはるかさんが拉致された時に実証済みだ。
新宿にいるのなら、協会に行かせて芹香に保護してもらう手もあるのではないか?
そんな考えも浮かんだが、駅にせよ協会にせよ人目につく。
有力ギルド「パラディンナイツ」のマスターである芹香は、当局にマークされている可能性もある。
実力のある探索者が万一にも不穏当なことを目論んだら大変だ――というのもあるが、実力のある探索者が海外からの「スカウト」に引っかかっては国益を損じるという発想もあるらしい。
はるかさんのことを凍崎が知っていたのなら、芹香がほのかちゃんと顔見知りであることも知ってると考えるのが自然だろう。
芹香がほのかちゃんを保護したとしても、当局から引き渡せと言われた場合、どこまで突っ張れるかはわからない。
そんな状況になったら、ほのかちゃん自身が迷惑をかけたくないと思って従ってしまいそうでもある。
「……わかった。新宿との間のどこかで落ち合おう」
『はい!』
俺は混雑する改札口を見て、ホームから直接駅の外へと飛び出した。
新宿駅での入場記録がある電子マネーカードのことが気になったが、この際無視だ無視。
ひきこもる前、会社への通勤に使ってたカードだから、この際未練なく捨ててしまえばいいだろう。
今どきはスマホに定期券を一元化してる人が多いんだろうが、俺はめんどくさがって昔の定期券にお金をチャージして電車移動に使っていた。
もしスマホのほうに記録が残る状態だったら、さすがに改札口のスキップはためらっただろう。
俺の浦島太郎状態が図らずも役に立った格好だな。
……まあ、定期券も個人情報と紐づいてるわけだから、本気で調べられたら出場記録がないことはバレるわけだが。
東京の地理にはそこまで明るくないんだが、線路沿いに戻るだけなら迷う心配はないだろう。
線路沿いに道路があるならそこを走り、建物があるならその建物を駆け上る。
通りを歩くだけならそれなりに綺麗な都心であっても、ビルの屋上に登ってみれば、エアコンの室外機がゴツゴツと生えた殺風景な空間があるだけだ。
俺は雑居ビルの屋上から屋上へと八艘飛びをかましながら新宿を目指す。
途中、道端で、駅前で、立ち飲み屋の前で、人が集まって興奮した様子で何かを話してる光景が目についた。
探索者として気配察知の能力を磨いてきた俺には、街全体が――なんというか、殺気立っているようにも思えた。
サッカーのワールドカップやWBCの日本戦の時のパブリックビューイング会場の空気を濃くしたものが、街のあちこちで吹き上がってるような感じだ。
雑居ビルの屋上からは、都庁に代表される新宿副都心の高層ビルの特徴的な姿が、夜の空にくろぐろと浮き上がって見えた。
もう日が暮れてるのではっきりとは見えないが、地上からの光が曇り空に照り返って、ぼんやりとした輪郭が見えるのだ。
俺は新宿に近づいたところでスマホを取り出し、
『ほのかちゃん! 今どこにいる?』
「ええと……位置情報を送ります!」
現代っ子らしく、チャットアプリでほのかちゃんが現在位置を送ってくれる。
新宿駅から少し離れた通りで、俺から見て新宿駅とのちょうど中間だ。
もちろん偶然ではなく、ほのかちゃんが「感応」で俺の方向を把握してるからできることなんだろう。
ほどなくして、俺は地上を心細げに歩くほのかちゃんをビルの屋上から発見した。
かなりの距離があったが、俺には「視力強化」「ズーム」がある。
それに、ほのかちゃんの「感応」ほどじゃなくても、俺もほのかちゃんの気配の特徴くらいは読み取れる。
俺はビルの屋上から飛び出し、「空歩」を使って段階的に減速しながら、ほのかちゃんの前へと降り立った。
「悠人さん!」
「うおっ!」
スマホ越しではない声とともに、ほのかちゃんが抱きついてくる。
俺はほのかちゃんの華奢な肩をおっかなびっくり抱き止めながら、
「怪我とかしてないか?」
「はい、私はなんとも……でも、お母様が……」
「そのことについては後でちゃんと考えよう」
俺なんかが下手に考えるより、灰谷さんにでも振ったほうがいいだろう。
不法滞在に詳しい弁護士を手配すると言ってくれていたしな。
そこまで考えて、灰谷さんの助言を思い出す。
「ほのかちゃん、悪いけど、すぐに身を隠すことにしよう。俺とほのかちゃんが一緒にいられるところを見られるのはまずいらしいんだ」
「は、はい。すみません、とんだご迷惑をおかけして……」
「そんなこと、気にしなくていいんだよ」
「でも、身を隠すといってもどこに……」
それについては、一応、考えがある。
凍崎の演説のせいで考えがまとまりきっていないが、他に方法はないはずだ。
「ダンジョンに潜るよ」
「だ、ダンジョンに?」
「どこか近くにある適当なダンジョンを踏破して、ダンジョンマスターのサポートアビリティ【ダンジョントラベル】が使えるようにする。そこから雑木林ダンジョンにジャンプして、ダンジョンの管理者権限でダンジョン内にバックヤードを作り、マスタールームに身を隠す。これなら誰にも見つからないはずだ」
「え、ええと……?」
おっと。つい考えてることを口に出してしまった。
これはほのかちゃんにはわからない話だったな。
「ダンジョンの中に隠れ家を作るって話さ」
「だ、ダンジョンの中に、ですか? 悠人さんはそんなことまでできるんですか⁉」
「詳しいことは後で、ね。とにかく近くのダンジョンに――」
そう言いかけ、顔を上げた瞬間に、俺は異常に気がついた。
俺とほのかちゃんの周囲から、気配という気配が消えていた。
街を包み込んでいたはずの遠い喧騒すらいつのまにか消えている。
「ゆ、悠人さん?」
不安げに声を漏らすほのかちゃんを後ろにかばう。
気配は、相変わらず感じられない。
しかし、俺の脳裏に浮かぶミニマップには、十数個もの赤い光点が浮かんでいた。
その赤い光点のいくつかが、俺の前から近づいてくる。
夜闇から滲み出るようにして現れた男たちは、あちこちが膨らんだ黒い迷彩服のようなものを身にまとっていた。
プロテクターが仕込まれた特殊部隊の隊員の装備のような――いや、それそのものの格好だ。
そしてその手には、長い木製の筒のようなものが握られている。
近づくにつれて、長い筒のようなものの正体がわかる。
ライフルだ。
銃床のみならず、長い鉄製の銃身を下から支えるように木製の部品が使われている。
そのせいで、ぱっと見は穂先のない槍のように見えた。
形状からしてスナイパーライフルかとも思ったが、それにしても銃身が不格好に長い印象だ。
そもそも遠距離狙撃に向いた銃を揃って構えながら「敵」の目の前に現れるというのは、特殊部隊の運用として素人目にもおかしいよな。
ライフルはボルトアクションで、その機構はいかにも古めかしく、とても実戦向きとは思えない。
そうだな――戦時中の防空壕から錆にまみれた状態で「出土」しそうな感じのライフルだ。
そのライフルに加えて、腰にはサーベルのようなものを吊るしている。
これもまた骨董品のようなデザインだ。
戦前の皇族が軍服を着てサーベルを下げて写ってる写真があるが、ああいうのにそのまま出てきそうなレトロなデザイン。
ただ、特殊部隊じみたプロテクター入りの迷彩服やブーツ、バイザーで顔を隠すヘルメットなんかは最先端のものに見える。
警察の特殊部隊ならでかでかと所属が書いてあるはずだが、こいつらの迷彩服には文字や記章のたぐいはついてない。
俺に向かってきた赤い光点は三つ。
そのいずれもが俺より一回り背が高く、がっしりした体型だ。
「ゆ、悠人さん……」
俺の背後でほのかちゃんが怯えたような声を漏らし、俺の服の裾をぎゅっとつかむ。
俺はアイテムボックスから「烏天狗のお面」を取り出して装備する。
「何者だ?」
俺が訊くと、
「蔵式悠人、だな?」
先頭の男が低く抑えられた声で訊いてきた。





