227 固着の回廊(3)
「それで、問題の回廊とやらはどこにあるの?」
私が訊くと、
「あれだよ」
勇人がボス部屋の奥を指さした。
だが、そこにはボス部屋の他の部分となんら変わらない無機質な壁があるだけだ。
「回廊は目で見えるもんじゃねえ。人間には認識できねーもんだからな」
「そんなものをどうしろと?」
「よく見てみろ。『見えない』場所がねえか?」
「見えない……?」
ダムのようなコンクリートに似た壁をじっと見る。
すると、勇人の指さした周囲だけに、奇妙な違和感がある。
「目の焦点が合わない? いえ、なるほど、意識を向けることができないのね」
何もないはずのそこに意識を向けると、向けたはずの意識がぼやけ、いつのまにか近くの別の場所に意識が向いている。
意識を逸らされたという感覚もない。
何度かそこに意識を向けようとしてみるが、余計にもどかしさが募るだけだ。
篠崎はるかが言う。
「世界とは何か? その疑問を解く鍵は、世界と世界でないものを分けるものは何か、を考えることにある」
「世界でないもの……あのもやもやしたものがそうだというの?」
「世界とは、そこに世界があるということ。逆に言えば、世界の外側には世界がないということになる」
「異世界はどうなるの? 実在するのでしょう?」
目の前にいる篠崎はるかがその生きた証拠である。
「異世界もまた、世界があるということによって成り立っている。ただし、この世界の『ある』と異世界の『ある』は連続していない。二つの世界のあいだには世界の『ない』空間がある。いえ、『ない』以上、それは空間ですらないのだけれど」
「宇宙空間とは違うのね?」
「宇宙空間は、『ある』わ。たとえ真空であったとしても、そこに空間が『ある』ことは疑いえない。でも、あそこにあるものは……いえ、あそこに『ない』ものは、空間そのものが存在しない」
「わかったようなわからないような話ね」
「実をいうと、私にも理解できているとは言えないでしょうね。あれは、空間そのものが存在しないだけではないわ。世界に属さないあれは、世界からの名付けも拒んでいる。だから、あれに名前を付けることはできず、あれについてほんとうの意味で論じることも難しい」
「……禅問答は結構よ。私はあれをどうすればいいというの?」
ひと通りの手順は聞いているし、私の側でも研究はした。
とはいえ、科学的な実証を拒むような対象を前に、「あれ」を潜り抜けた生き証人から改めて話を聞いておくのも無駄ではない。
「あれについて論じることはできないけれど、わかっていることがないわけでもないわ。そのひとつは、あれは書き込み可能な『空白』だということ」
「その話は聞いているけれど……今一つ納得がいかないわ。なぜそんな御大層なものを書き換えることができるの?」
「世界は、認識上の空白を許さない。正確には、世界は世界内の存在によって世界の外側を暴かれることを嫌う、ということね。世界はそれ自体が自足した環のようなもの。その外側を覗かれることは環の破綻を意味する……らしいわ」
やはり、わかるようなわからないような説明だ。
異世界のエルフである篠崎はるかであっても、知っていることは限られるということか。
「あるいは、世界が『ある』以前に、世界はもともとは『なかった』のかもしれないわね。その何も『ない』世界――世界になる前の未世界のようなものに、ある日突然、神だか人だか、世界を認識するものが現れた。世界は、その認識を追いかける形で『ある』ようになった。この世界で言えば、物理学が生まれる前には世界を支配する物理法則はなかったのかもしれないし、宇宙を観測する術が見つかる前には宇宙は存在しなかったのかもしれない。この世界でなら……そうね。もしアイザック・ニュートンが万有引力の法則ではなく魔法の根本原理を発見していたら、この世界でも魔法が一般化していたのかもしれない」
「まるでオカルトね」
「ええ。でも、あの『空白』が書き込み可能だということは事実よ」
「問題は、どうやって、ということだけれど。春河宮勇人、あなたはあれを経由して異世界とのあいだを往復していると聞いているわ」
「ああ、そうだぜ。『虚無の王』殿の使いっぱしりをさせられるのは癪ではあるが、俺以外にあの状態のままの『あれ』を渡れる奴はいねえよ」
「……それは、あなたが異世界帰りの勇者だという話と関係が?」
「当然だ。俺の魂は最初の異世界転移んときに向こうの女神によって『あれ』への耐性を持たされた。向こうで魔王を倒した後に、そのクソ女神をしばき倒して力を奪い、こっちの世界に戻ってきたってわけだ」
「その異世界とやらは、篠崎さんが元いたという異世界とは別ということ?」
「ああ。俺の帰還と同時にそっちへの回廊は完全に閉ざされちまったけどな……。ともあれ、俺はわずかなりと回廊が開いてさえいれば、『あれ』を通り抜けて向こうに出れる。クローヴィスの目論見は失敗したが、かろうじて俺が行き来できる程度の回廊は残ったというわけだ」
「異世界に日本の技術を持ち込み、現地の魔法技術を取り込んで『自由契約の首輪』を製造しているという話は?」
「事実だぜ。俺しか行き来できねえから苦労したが、現地で製造ラインを走らせてるのは本当だ。ただ、今のままじゃ俺以外の人間の行き来ができねえ」
「あの方の移民政策を実行に移すためには、回廊の拡張と固定化が必要ということね」
「そういうこったな。あの宰相にあまり権力を握られるのも嫌ではあるが、この国を強くしたいという点では俺と利害が一致してる。その限りにおいて協力は惜しまんさ」
「ふん……あの方の飼い犬と思われるのは気に障るというわけね」
「あ? ざけんな。誰が飼い犬だ。俺には俺の目的があるってだけだ」
心底嫌そうに皇族勇者が顔を顰める。
「あなたに『あれ』を書き換えることはできないわけ?」
「そんな簡単なことじゃねーんだよ。ダンジョン崩壊の時は世界に大穴が空いた状態だった。そん時ならどうにかできたかもしれねーが……。いや、それこそ神の協力でもなけりゃ無理か。まったく、例の探索者は面倒なことをしてくれたもんだよ」
例の探索者――蔵式悠人のことか。
「クローヴィスの計画では、ダンジョン崩壊で世界に大穴を開ければ、異世界シュプリングラーヴェンとの相互効果で巨大なトンネルが完成するはずだった。そこまでしなくても、エルフの巫女姫だった篠崎はるかが人柱になれば、クローヴィス一人分の回廊を一時的に開くことはできたらしいんだが、それには篠崎はるかの自発的な協力が必要らしいな」
「成る程。篠崎さんがあの傲慢な男に進んで協力するはずもない。だから、西東京を核の焦土に変えることも覚悟の上でダンジョン崩壊を目論んだと」
「まあ、そういうこった」
と言って、勇人が篠崎さんを一瞥する。
その視線にはわずかに非難の色が籠もっている。
「篠崎さんがクローヴィスに協力していれば核危機は起きなかったとでも言うわけ? 馬鹿げているわ」
「ふん、わかってるよ。異邦人に向かって、皇民のために進んで死ねとは言えんわな」
「私は……」
篠崎さんが複雑そうな顔をする。
「私には娘がいますから。何より大事な娘が。娘を守るためなら私はなんだって……」
そういえば、と私は思い出す。
篠崎はるかもまた、あの方の固有スキル「作戦変更」によって「作戦」を付与されているはずだ。
Info―――――
「手段を選ぶな」
この作戦を設定された者は、思考速度がS.Lv×10%上昇し、本来の自己の発想であれば思いつかない選択肢にS.Lv×2%の確率で気づくようになる。副次的効果として、倫理的な判断能力が低下し、本来であれば道徳的にためらわれる行動を躊躇なく取るようになる。
―――――
だが、この「作戦」はあくまでも元から抱いている考えを極端にするだけだ。
娘のためなら手段を選ばない傾向は、篠崎はるかという女性に元から存在したものだろう。
春河宮勇人は、おのれが将来統治する(と思い込んでいる)皇国のために。
篠崎はるかは、おのれの愛する娘のために。
それぞれの理由から、ここにいる二人は、私が自らを犠牲にして異世界への回廊を固着させることを望んでいるというわけだ。
そのことを恨むつもりはない。
この二人に感謝されたいとも思わないし、止めてほしいとも思わない。
私はあの方の思い描く未来のために、私の意思で、自分の身を犠牲にするのだ。
私の政治的信条は、あの方に託した。
それは、さっき篠崎はるかに渡された書類に記されていたことだけではない。
あの方は、他人の魂をコピーする。
私の持つ人格は、既にあの方の魂の中に保存され、将来この世界の神となるあの方の一部となった。
私の存在すべてをあの方に託した以上、私が存在しなくなったとしても、私のコピーはこの世に残る。
他でもないこの「私」がいなくなることには、一抹の不安を覚えないでもない。
だが、私の果たすべき使命はあの方に託され、私の持ち得ない国家権力によって実行へと移される。
この「私」では実現できないか、あるいは実現におそろしい時間がかかったはずのことも、あの方は速やかに実行してくださるだろう。
自分が消えることへの不安も、あの方に魂をまるごとわかっていただいた時の、あの恍惚に比べればなんでもない。
「じゃあ始めるわ」
私が決意を口にすると、
「言い遺すことがあったら聞いとくぜ?」
皇族勇者が、初めて真剣な顔になって尋ねてくる。
「辞世の句でも詠めというの?」
「冗談で言ってんじゃねーよ」
勇人の目はやはり真剣だ。
「必要ないわ。私のすべては、あの方が包摂してくださったのだから」
私の痛みも、悲しみも、怒りも、願いも、すべて。
自我というものを滅却されたあの方は、遥か昔に喪ったおのれの自我の代わりとして、私の自我を写し取ってくださった。
魂がまるごと理解され、承認され、受容されるあの安心感は、とうてい言葉にはできないものだ。
「始めるわ。私の『実験空間』で、私という存在そのものを、異世界への回廊に書き換える」
「わかった。俺はあんたを、『あれ』の中に放り込む係だ。篠崎はるかは、異世界シュプリングラーヴェンへの縁を繋いで、回廊の経路を固定する係。異世界へ渡る力は俺にしかねえし、経路の固定だけなら篠崎はるかが人柱になる必要もねえ。三者の利害が合致した結果だな」
と、露悪的に笑う勇人に、
「……私は神取博士を止めるべきなのでしょうね」
篠崎はるかは複雑そうにつぶやく。
「本人が望んでやるんだからいいじゃねえか。こいつがこのまま露命を繋いだって何ができるわけでもねえ。命を賭けてでも得たい何かがあるって言うのは……いいよな。幸せなことだ」
一瞬、皮肉かと思って勇人を見るが、その表情は真剣だった。
この粗雑な男には珍しく、目の奥に見通し難い暗いわだかまりのようなものが宿っている。
まるで、自分はそうしたかったができなかった――とでも言うかのような。
疑問には思ったが、私はこの男の内面になどひと欠片の関心もない。
「わかってると思うが、チャンスは一度しかねえ。俺の経験上、そういう時は一瞬の躊躇が命取りになる。『あれ』の書き換えは、ごく僅かな逡巡があるだけで失敗する。それが正しかろうが間違っていようが、疑いのない確信が必要ってことだ。これは言うほど簡単なことじゃねえ。……あいつだから出来たことなんだ」
勇人のセリフの最後の部分は、半ば独り言のようだった。
「確信という意味でなら、私は間違いなく適任だわ」
私は素直な確信とともにそう言ったのだが、
「はっ、そうだったな。自説を信じ込むことにおいてあんたの右に出る奴はそうはいねーな」
勇人は苦笑まじりにそう言った。
『俺のことも忘れるな』
と言ったのは、勇人の肩の後ろに背後霊のように浮かぶ自称神――スサノオだ。
『蔵式悠人とやらが投擲した神剣は、元々は俺と深い縁のあるものだ。世界の狭間に消えた草薙剣が俺の呼びかけに呼応するようなら、回廊を開く一助になるだろう』
「悪いが、そっちの方は正直あんまり期待してねえ。何度か草薙剣のサルベージは試みたが、今んとこ失敗に終わってるからな」
『おまえの呼びかけが失敗するのは当然だ。おまえにはあれとの縁がない』
「俺は次期天皇だぞ? なんで三種の神器と縁がねえんだよ」
『今のままではおまえの従兄弟が皇位を継ぐ』
「ちっ」
『そのことを抜きにしても、欲得ずくで呼びかけても神器は応えん。三種の神器を取り戻すことでこの国の皇位を継ぐための正当性を得んとするおまえの打算が、かの神剣には見抜かれておるのだ。かの神剣が二千有余年の歴史の中でどれだけの権力者を見てきたと思っておる?』
「くそが。例の黒天狗とかいう薄汚い鼠にも握らせたんだ。この俺に握らせねー理由はねえ。応じねえってんなら従えてやるよ」
……なにやら複雑な事情がありそうだが、私にとってはどうでもいいことだ。
「準備がいいというなら早くやりましょう」
「ああ。悪いな、あんたの決意に水を差すような話をしちまった」
勇人は意外にもバツが悪そうに謝罪してくるが、私にとっては謝罪されようがされまいがどうでもいい。
私の決意を尊重してほしいなどという気持ちも一切ない。
私の決意のあり方など、私自身がわかっていれば十分だからだ。
他人からの薄っぺらな承認がなければ揺らぐ程度の「決意」など、本当の決意とはいえないだろう。
私と皇族勇者のどこまでも交わらない会話を見聞きしながら、篠崎はるかは半ば瞑目するようにうつむいている。
そんな憂いの表情ですら、何かの美術品であるかのように美しい。
彼女は私を生贄に捧げることへの罪悪感にうちひしがれているのかもしれないが、その罪を私に赦してほしいと訴えるほど無分別ではないようだ。
「始めましょう」
「わかった」
「ええ」
篠崎はるかがダンジョンの床に特殊な塗料のようなもので見慣れない文様を描いていく。
その魔法陣の中央に立った私を、皇族勇者が抱え上げる。
不本意ながらお姫様抱っこといわれるような体勢である。
私にもこの男にもそうした気配は微塵もないが。
勇人の肩の後ろでは、スサノオが虚空に向かって意識を凝らしている。
「征くぞ」
「ええ、逝きましょう」
勇人が私を抱えたまま、「渡り」の力を使って空隙の中に飛び込んだ。
世界と世界の認識論的狭間の中で、長く意識を保っていることはできないと聞いている。
実際、何も見えず、何も聞こえず、何も感じられない。
自分の身体の輪郭すらわからず、体内と体外の区別ができなくなった。
肉体だけではない。精神もまた、外と内との境界線を失って、どこまでも果てしなく拡散すると同時に、どこまでも果てしなく侵食される。
砂に水が吸い取られるように、私という存在が溶けていく。
「今だ! 気張れ、神取!」
勇人の余計な合図を受けて、私は自分自身を回廊へと書き換えた。
私のおのれをも滅するほどの確信が、呼び水となって世界の狭間にたゆたう空隙へと伝播する。
肉体と精神の境界がなくなった今、「実験空間」の対象範囲もまた、無限遠まで広がった。
私とこのあるともないとも言い難い「空間」が同じものになりつつある以上、この「空間」は今では私の体内も同然だ。
ああ、私は世界を書き換えている。
世界が私になっていく。
世界が私になるとともに、私という存在が急速に薄まっていく。
「あばよ、先生――あんたの犠牲は、この俺が忘れない。最高にクールな最期だったぜ」
世界を渡りながらつぶやく勇人に、「あなたに覚えておいてもらう必要はない」と言い返そうと思った。
だが、その時にはもう「私」はまとまりを失い、何かを言うこともできなければ、何かを思うこともできなくなっていた。
「……うまくいったみてーだな」
勇人ガツブヤク。
「そうね」
篠崎はるかガソウ返ス。
「後悔してるのか?」
「いえ……」
「なら、いいだろ。あの先生は、あんたの幸せを祈ってるさ。同じ女性としてな」
俺ノコトハ地獄ニ落チロトデモ思ッテルカモシレナイガ、ト付ケ加エ、勇人ガ苦笑スル。
勇人ハソノママ、背ヲ向ケテ立チ去ロウトスル。
ソレニ続コウトシタ篠崎はるかハ、肩越シニ回廊ヲ振リ返リ、
「人間のもつ究極の美点は、おのれの命を抛ってでも大事な者のために尽くせること……だと思っていたのだけれど」
悲シゲニ、アルイハ疑ウヨウニツブヤクト、首ヲ短ク左右ニ振ッテ、勇人ノ後ヲ追ッテイク。
ソレカラ、ドレホドノ歳月ガ流レタコトダロウ。
異世界ヘノ回廊ソノモノナッタ「私」ヲ通ッテ、コノ世界ノ者ガ、アルイハアチラノ世界ノ者ガ、目マグルシク行キ来スル。
アア、私ハあの方ノ理想ノ一部ニナレタ。
コンナニ幸セナコトハナイ。
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