226 固着の回廊(2)
「待たせてしまったようね」
と、声をかけられたのは、春河宮勇人がボスを倒してから一時間ほどが経過してからのことだった。
私と勇人は、巨大なダムのようなボス部屋の空間で、離れたところに位置取り、おのおので待ち時間の暇を潰していた。
私は体内からスライムマクロファージを取り出し、「実験空間」で様々な変数を弄りながら、その変化を観察する。
このボス部屋は広い上に、コンクリートの打ちっぱなしのような質感の(Aランクのダンジョンボスが暴れても傷一つつかないコンクリートなど存在しないが)、四角張った空間だ。
作業スペースにちょうどいい高さの直方体の出っ張りの上に顕微鏡を取り出し、私はマイクロモンスターの生態をじっくりと堪能する。
春河宮勇人は、意外なことに、本を読んでいた。
勇人の大きな手の中ではとくに小さく見える文庫本は――ラディゲの『肉体の悪魔』。
この粗野な男が文学を嗜むとは意外である。
……いや、そうでもないのだろうか。
れっきとした皇族の生まれだということを思えば、人文的な教養を幼い頃から叩き込まれていたのだとしてもおかしくない。
勇人がラディゲを読み終え、新しく取り出した三島由紀夫に取り掛かったところで、ボス部屋に待ち人がやってきた。
「遅いぞ、お姫様」
勇人がオレンジ色の文庫本をアイテムボックスに放り込み、立ち上がりながらそう言った。
「ごめんなさいね。急な仕事が入ってしまって」
そう答えたのは、今のこの国で知らないものはいないはずの、有名人の女性だった。
いや――彼女のことを有名人と呼ぶのが正しいのかどうか。
有名であることは間違いないが、有名「人」であるかどうかについては、異論の残るところだろう。
見た目の年齢は、二十代前半。
金髪碧眼、すらりとした長身。
スーツの上からでも――あるいは、抑制的なスーツだからこそ、男好きのしそうな肉感的な身体が際立っている。
絹糸のようなさらさらの金髪は腰まで届く長さだが、長髪に特有の重苦しさは感じない。
今はこれといった表情を浮かべていないが、それでも優美でやさしげな顔立ちであることがはっきりわかる。
彼女を見ていると、私の立場では口にしたくない言葉の最上位に入るとある言葉が、この私の脳裏にすら自然に浮かんでくるほどだ。
すなわち――母性。
「ハルカフィア姫……いや、正式に篠崎はるかになったんだったか」
彼女の美貌にも、人を惹き付ける霊的な磁力のようなものにも眉ひとつ動かさずに、勇人が彼女の素性を確認する。
そう。
彼女は篠崎はるか。
異世界シュプリングラーヴェンから迷い込んだというエルフの女性だ。
あの方の演説で異世界実在の生きた証拠として登場して以来、彼女はメディアの話題をさらっている。
硬派なニュースであれば、彼女よりはあの方の演説やその後の施策、今後の予測などを取り上げるが、そんな番組ですら彼女が登場するだけで視聴率が跳ね上がると聞いている。
ましてやワイドショーともなれば、あの方の政策より彼女の撮り下ろし映像に焦点が集中するのも当然だ。
彼女は、あの日の後、政府の特別広報官に任ぜられた。
これは、名目のみの仕事ではない。メディアの取材や他国からの問い合わせに対応するなど、官邸の一員としてあの方の政権を支えている。
まだ若い彼女にそんな重責が務まるのか? という懸念も一部にはあった。
だが、この懸念は二つの意味で大きく的を外している。
ひとつには、そもそも彼女が見た目通りの年齢ではないことだ。
本人の申告によれば、彼女の年齢は百二十四歳。
彼女を若いと言えるようなものは、この国には数えるほどしか存在しないということになる。
なんなら、彼女のほうにこそ、見た目の印象だけでそうした指摘をする「識者」を若造と罵る資格があるだろう。
もうひとつは、彼女が異世界のエルフの里の族長の娘であったということだ。
この高齢化した日本の政界であっても、長寿を誇るエルフの里に比べれば、平均年齢は半分か三分の一といったところだろう。
日本はとかく村社会であると言われがちだが、エルフの里の雰囲気は、その村社会をさらに煮詰めたようなものらしい。
そんな環境で政治エリートとして育った彼女は、こと政治的な駆け引きに関しては独特の感性を持っている。
加えて、エルフという種族の持つ霊的な存在感は、人間に対しては強力な感化力として作用する。
探索者としてのレベルが高い私ですら一定の影響を免れないのだから、一般人ならなおさらだ。
感化力という意味ではあの方にも特有のカリスマ性があるが、篠崎はるかのそれは、より直接的に人の感覚に訴える。
早い話が、エルフとしての高められた霊的存在感は、抵抗力のない人間を魅了するということだ。
あの方の特異性が祖母によって人間としての自我を悉く奪い去られたことにあるのなら、篠崎はるかはその逆ということだろう。
と、そこでようやく私は、彼女の背後に魔獣が付き従っていることに気がついた。
サンダーグリフォン――かつて追放されたエルフの王クローヴィスが乗騎としていた魔獣だ。
篠崎はるか自身も優秀な探索者だというが、さすがに単身でAランクダンジョンを踏破できるほどではないだろう。
この奥多摩湖ダンジョンを一人で抜けてこられたのはこの魔獣の力によるものか。
と同時に、篠崎はるかは、これだけ目立つ魔獣を従えているにもかかわらず、私の意識を自分の存在へと向けさせ、魔獣のことを忘れさせたということでもある。
私がそんな考察をしていると、
「……本当にいいのですか?」
と、彼女が私に訊いてきた。
「決めたことよ」
「ですが……」
「うるせえな。本人がいいって言ってんだからいいだろうが」
勇人が苛ついた様子で髪をかきながら割り込んでくる。
「……そうですか」
彼女は言って、アイテムボックスから一枚の書類を取り出した。
「凍崎総理からです」
私は白くたおやかな指から、無機質な紙を受け取った。
それは、これから実行に移される政策をまとめたものだ。
といってもマニフェストのようなものではない。
私があの方に要望した項目のうち、すぐにでも実現可能なものと、段階的に導入する予定のものが、地味な罫線の中にリストアップされている。
「おー? なになに……『釈放された、あるいは執行猶予となった性犯罪加害者のすべてにGPS装置の常時着用を義務付ける』、『中学校における性教育に性犯罪の防止に関するプログラムを義務付ける』、『ダンジョンにおける女性探索者への加害について新たに厳しい罰則を設けるとともに、探索者協会と共同で被害相談窓口を設置する』……ああもう、項目が多すぎるな」
「勝手に見ないで」
「いいだろ、べつに。どうせ実行に移される政策なんだ」
身を寄せ、覗き込んできた勇人に反発するが、言っていることに一理はある。
「ん? 女性の保護に関する政策ばかりってわけでもねえのか。『難病の治療法を研究するための国際的な基金を設立する』、『指定戦略探索物の在庫を難病の治療に活用する』ねえ」
にやりと笑って勇人が私の顔を一瞥する。
「それが、あんたが命と引き換えにあの傀儡の王から引き出したもんってわけか」
「あの方を愚弄しないで」
「べつに愚弄したわけじゃねーよ。感心してるんだ、俺は。あんたにも、あいつにもな」
「感心?」
「今の時代に、自分の命を抛ってまで信念に殉じられるやつがどれだけいる? たとえその信念が俺には理解できねえもんだったとしても、その一点だけで俺はあんたを尊敬するよ」
勇人の思いがけない言葉に、私は驚く。
「尊敬ですって?」
「ああ。大人になるとよ、人間ってのはどんどんつまらなくなってくよな。学生の時にどんなに突っ張ってたやつであっても、就職すれば落ち着いてくる。家庭なんか持ったらなおさらだ。『正しいかどうか』よりも『自分や身内の利益になるかどうか』で物事を判断するようになっちまう」
「それは……」
私が思い浮かべたのは、ついさっきの病院での光景だ。
少なからず問題意識の高かったはずの後輩の女子は、いまや周囲からの同調圧力に怯えて生きるだけの痛ましい女性になっていた。
まあ、彼女の側からすれば、私のほうこそ「痛ましい」女性ということになるのだろうが。
「俺があの主体性のないクソ野郎を認めてるのはその点だ。あいつは明らかに、自分の利益で動いてねえ。金ならいくらでも持ってる。何もしなくても悠々自適に暮らせるだろう。にもかかわらず、あいつは全国民の下僕となって、国家に奉仕する重責を負うことにした。それも、あいつの場合は文字通りに自分の利益ってもんを完全に度外視してやがる。国民の秘められた願望の実現装置、この国限定の機械仕掛けの神となることをおのれの利益よりも優先したんだ。人間としては狂ってるとしか言いようがねえが、一本気を貫くその心意気は嫌いじゃねえ」
「……意外ね。あなたがあの方を評価するのは、あの方がこの国を強くしようとしているからだと思っていたのだけれど」
「もちろんそれもあるぜ? 皇族として生まれてきたからには、この皇国を世界最強国家に変える使命がある。あののんびりした従兄弟から継承権をもぎ取って親政を敷き、皇国をこの世界の覇者にする。もしそれができねーなら、俺はなんのために生まれてきたんだ?」
「あなたの生まれてきた意味なんて知らないわよ。すべからく男性は女性に脅威を与える存在なのだから、社会的な影響力など持たれては女性の迷惑。皇族の一員として不自由のない生涯を、私の見えないところでひっそりと送ってほしかったものね」
「はっ、あんたはブレないねえ」
呆れとも感心ともつかない口調で言う勇人を後目に、私は書類にもう一度目を落とす。
『以上の政策を実現するべく、私はあらゆる努力を払うことをここに誓約する』
その一文の最後に「内閣総理大臣 凍崎誠二」の署名。
「……この下にある模様のようなものは何?」
一見すると欧文の筆記体に似ているが、それより遥かに複雑で入り組んだ文様が記されている。
絡み合う蔦のような――あるいは、ファンタジーに登場する魔法陣のような。
「それは、精霊契約の署名よ」
「精霊契約?」
「ええ。エルフが誓約を形にする時に用いるもの。もし誓約を破れば、エルフは精霊からペナルティを受ける」
「あの方はエルフではないけれど」
「それでも一定の効果はあるわ。精霊から見放されるということは、この世のありとあらゆる自然の恵みが得られなくなるということ。これだけ科学技術が発展した世界では忘れがちでしょうけれど、人間とてやはり自然の中の存在であることに変わりはないわ」
「精霊とやらから見放されると、どんな不都合があるの?」
「そうね。たとえば、あらゆる霊的存在は睡眠を必要とする。睡眠中に霊的存在は自然からの施し受けて、日中の活動で乱れたり傷ついたりしたエーテルやアストラルを修復するの。もちろん、人間もその霊的存在の筆頭ね」
急に持ち出されたオカルトめいた解説に戸惑っていると、
「ああ、あれか。寝るとMPの回復が速くなる現象だろ。この世界だと回復量が今ひとつではあるんだが」
勇人がまたも口を挟んでくる。
この皇族は、「十五歳の時に異世界に召喚され、そこで魔王を倒してこの世界に帰還した」と(関係者のあいだで)標榜している。
それが事実かどうかを確かめたものはいないが、その言い分を否定させないだけの力を持っていることは間違いない。
「あっちじゃ、安全な場所で一眠りすれば気力も体力も全快だったからな。使用回数に制限のある技も回復するし、状態異常もただ寝るだけで回復する」
「科学が広まったこの世界においてはそこまでの効果はないけれど、やはり眠りには眠ることでしか得られない効果があるわ。これは誰しもが実感するところであるはずよ」
「つまり、神取女史への誓約を破ったら、あの虚無野郎は夜も眠れなくなるってことか? あ、いや、眠りを奪われることでエーテル体やアストラル体にダメージが蓄積してくわけか。そんなら遠からず死ぬわな、普通なら。……それでも絶対くたばるとは言い切れねえのがあの野郎の不気味なところだが」
「……早い話が、精霊の力を借りた呪いのようなものなのね」
「その表現は不本意だけれど、その理解でも外れてはいないわ。自然は人を癒やすためだけにあるわけじゃない。むしろ、人にとっては脅威となることのほうが多い」
「そんなリスクを負わずとも、私はあの方の言うことなら信じたのだけれど」
「信じてもらうだけでは足りない、と総理はおっしゃったわ。死にゆくものには、救済を『約束』し、それを『確信』してもらう必要があるのだと」
「へっ、どうだかな。『回廊』の固定に雑念が混じっては困るってだけのことなんじゃねーか?」
「……そうした懸念もあるでしょうね」
篠崎はるかは淡々とそう認めた。
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さらに、今回は書き下ろしとしてほのかの山伏修行編もついてます!
連載既読の方でしたら三巻からでも問題なく入れると思いますので、店頭でお見かけの折にはぜひ!
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今後ともハズ逃げをどうぞよろしくお願い致しますm(_ _)m





