222 理由なき献身(2)
男である僕をなぜ助けるのか?
少年の疑問は素朴だった。
「先生は、男の人の数を減らしたいんだよね。先生のご本は難しくてよくわからなかったけど……」
「……読んでくれたの?」
小さな出版社に持ち込み、費用をこちらで出して出版した本だ。
部数も少なく、書店での取り扱いはほとんどない。
簡単に手に入るようなものではないはずだ。
「僕、電子書籍は自由に買っていいって言われてるから……」
「ああ……」
神経を直接蝕まれている少年は、痛みを逃れようと思えば極力身体を動かさずにいるしかない。
もちろん、痛みを和らげるための医療的措置は取られているが、すべての苦痛を取り去れるわけではない。
さらに、新たに発生した病変の生み出す苦痛は不意打ちでやってくる。
いつ何時激しい痛みに襲われるかわからないストレスは想像するに余りある。
そんな少年の苦痛を和らげるために、彼の両親は電子書籍を自由に買えるようにしてあげたのだろう。
彼は漫画やライトノベルを好んで読むと聞いている。
もちろん、私の立場からすると、女性を性的嗜癖の対象として「消費」するそうした作品は規制すべきものだ。
だが、彼の味わっている苦痛を思えば、死の迫った兵士に鎮痛剤を投与するような非常的な措置と言えなくもない。
私が本を出してもらった出版社は電子書籍化の手間をかけてはくれなかった。
私は自分でファイルを編集してネット書店上にアップした。
一部のネット書店では「内容が反社会的」とされ取り扱いを拒否されたが、何も言われなかったネット書店もある。
彼はそれを自分で探し出して読んでくれたのだ。
「あなたは男性とはいえまだ二次性徴前よ。女性にとって有害になる前の子どもだわ」
すべての男は有害だ。
女性にとっての潜在的な脅威だ。
その信念に変わりはない。
「じゃあ僕が大人になったら僕を見捨てるの?」
「それは……」
心情的には、そんなことができるとは思えない。
だが同時に、そうせねばならないとも考える。
私は情緒ではなく思考に従う研究者だ。
最終的には私は彼のことを見捨てるだろう。
彼の病気は絶対に治すが、彼を他の男から特別扱いする理由はない。
ゆくゆくは電流を流すGPS装置を装着させ、女性に暴力を働けないようにして監視する。
あの方が女自会の計画にすべて賛成してくださっているわけではないが、性犯罪の前科者へのGPS装置装着を一部の外国並みに認めるとはおっしゃってくださった。
いずれにせよ、異世界移民探索者たちには「自由契約の首輪」の装着を義務付けるのだ。
前科者にそれ以上の監視体制を敷くのは当然だろう。
「先生のご本で、男は女性をいじめるよくないソンザイだってことは、なんとなくわかった。だから、僕は大人になったら探索者になって、先生みたいな女の人を守れるようになりたい。それじゃダメかな? もし病気が治ったら、だけど……」
その口調には申し訳なさがにじんでいた。
私が著書に書いた通り、世の中の諸悪の根源は、男の本能の中に埋め込まれた邪悪極まりない男性性だ。
その主張を彼なりに理解して、どうしたらいいかを考えてくれた。
そのことはわかる。
わかるが……
「守ると言えば聞こえはいいけど、それは庇護の名目で女性を支配しようとする試みよ。私は守ってもらう必要なんてない、自立した一人の人間なの」
おまえは俺が守る、なんて、演歌の世界のプロポーズではないか。
私の立場ではそう答えるしかない。
性差別的な偏見に満ちた発言ではあったが、彼なりに私への恩を返そうと思って真剣に考えてのものだ。強く責める気にはなれなかった。
「でも、先生はいつも辛そうだよ。いろんなことを一人でなんとかしようとがんばってる」
「辛い? 私が?」
無垢な目で問い返され、私は戸惑う。
「そう、ね……。辛い、か」
あまりそういう考え方をしたことはなかったが、そうかもしれない。
思えば、父の家庭内暴力にさらされていた母も、いつも辛そうな顔で笑っていた。
あなたはすごく頭がいいんだから勉強しなさい、と言って、パートを掛け持ちして決して安くない大学・大学院の学費を稼いでくれた。
母が父から離れられなかったのは、経済的な基盤がなかったからだ。
共依存のような精神的な問題もあったと思うが、母はそれを自覚して距離を取ることができるくらいには聡明だった。
そんな聡明な母であっても、当時の社会システムの中では、一人で働き、食っていくことはできなかったのだ。
私もまた、成功をひた走っていた時に、男性教授によって成果を奪われ、研究者としての道を絶たれてしまった。
研究のためだからと、時にハラスメントそのものの言動をする男性教授に迎合しながらやってきたが……結局はそれがよくなかったのだ。
権利は、不断の闘争によってのみ守ることができる。
私が女自会を立ち上げたのはその後のことだ。
「たとえ辛くても、一人で生きられるのは大事なことなの。なんでもはできなくても、できることはやらなくちゃ」
女性の自立を促す活動をしていると、よく言われることがある。
男からもてないから、女性としての魅力がないから、世の中を僻んでそんなことを言うんだろう、と。
とんでもない思い違いだ。
そもそも、そんなことを言い出す男に限って男性としての魅力に欠けたものが多いのはどういうことか?
結局、自分自身の僻みを私のような活動家に投影して叩いているにすぎない。
彼らは彼らの影を私の中に見、その影を認めたくなくて叩くのだ。
あるいは、こうも言える。
私が男性からもてないとして(実際声をかけられることはほとんどない)、それが私の主張の正当性とどう関係するのか、と。
自分から見て魅力的でない女性の意見は聞く必要がないとでも言うつもりなのだろうか?
ならば、男性として魅力的でない彼らの意見を聞くべき理由もなくなる理屈だ。
その程度の幼稚な論理を振りかざし、論破されれば匿名で脅迫メッセージを送ってくるような屑どもを、私はもぐらたたきのように潰してきた。
私の研究を盗んだあの男性教授にも、ふさわしい最期を迎えさせてやった……。
しかし、そうした恨みを、まだ暴力的な男性性に目覚めていない彼にぶつけるのは筋違いだろう。
数年もすれば彼も同じようになるのは確実だとしても。
「……思春期の少年で悔悛の余地がありそうなものにはホルモン注射を受けさせるのもいいかもしれないわね」
そうすれば、この少年の輝くばかりの少年性を、男性ホルモンによる汚染から守ることができる。
GPS付きの放電装置は成人男性向けとし、まだ男性性が固まりきっていない少年については、女性ホルモンの集中投与による早期の性転換、ないしは非男性化を行う――
女自会の事務局にこのアイデアを伝えておかなくては。
「先生?」
と、少年がけげんそうにする。
いけない。思考が脱線してしまった。
私は着想を脳内にしまってから話を戻す。
「私はあなたに守ってもらう必要はないわ。そんな考え方はしないでほしい」
大抵の探索者は今の私に敵わない。
レベルだけで言えば世界最高なのではないかとすら思う。
蔵式悠人には不意打ちで無力化されてしまったが、正面切って戦えば勝てない相手ではなかったはずだ。
だが、戦うということは、やはり人間を極度に緊張させるものではある。
蔵式悠人はもちろん、遥かに実力の劣る男児会の探索者ですら、実際に対峙すれば緊張はする。
暴力に剥き合うというのはそういうことだ。
しかしだからと言って男の暴力から身を守るのに別の男を用いるつもりはない。
それは別の男に自身の支配権を譲り渡す行為だから。
ヤクザからの嫌がらせを防ぐために他のヤクザを雇えばどうなるか。
自分の自由を他人に守らせてはならない。
それが、女自会の信念だ。
「僕は先生に助けてもらってるのに、先生を助けちゃいけないの?」
「あなたが私に恩を感じる必要はないわ。私は、私にしかできないことがあったからやっているだけ。優秀な頭脳を持った人間には、そうでない人間に対する義務があるのよ。真実を告げ、問題を解決するという義務が」
少年の苦しみを見ていられなかったのも事実だ。
自分は本来、どちらかといえば冷淡な人間だと思う。
だが、神経を自分自身の免疫システムに攻撃される理不尽な苦痛は、私の想像を超えている。
……チルドレン筆頭の凍崎純恋であれば、こんな同情はしないのでしょうね。
あの方からの研究への経済的支援と見返りに、私はコールドハウスのチルドレンになった。
コールドハウスは、一言で言い表すなら「蠱毒の壺」だ。
サソリやマムシ、毒グモ、毒ヘビを壺いっぱいに閉じ込めて殺し合いをさせ、最強の毒生物を決めるための施設――。
コールドハウスにおけるチャンピオンは凍崎純恋だった。
私は、コールドハウスでは落ちこぼれだった。
道半ばに終わった研究への執着と、女性の自立を実現せんとする執念。
それを買ってチルドレンに列せられたのだろうが、私は凍崎純恋のようなサイコパスではない。
支配するの、支配されるのといった、サル山のサルじみた彼ら・彼女らの生々しい闘争は、女性運動の活動家として興味深かったが、それだけだ。
やがて、期待外れと思われたのか、私はコールドハウスを離れることになった。
だが、あの方への崇拝だけは続いている。
生物学上は男性であるあの方を私が崇拝するのは矛盾しているように思うかもしれない。
そうではないのだ。
あの方は、性別などというものを超越している。
あの方は、人が心のうちに隠しているあらゆる欲望を受け止め、肯定し、さらにはそれを実現しようと働いている。
あの方の目指す「楽園」の像は、必ずしも私の理想とは一致しない。
だが、私の小さな器では見えないことが、あの方には確実に見えている。
自分こそがこの世で最も頭がいいと思っていた私にとって、あの方の示した器の大きさ、妄想とも言われかねない遠大な構想は、それまでの私の常識や理念を身勝手な思い上がりとともに吹き飛ばしてしまった。
「『楽園』は必ず現実のものとなるわ。まだ信じられないかもしれないけど、あの方はすべての衆生の望みを叶えるまで歩みを止めることのない方よ。私がいなくなっても、あの方の御国であるこの国に住んでいる限りは大丈夫」
「……先生の言うことは難しくてわかんないや」
困ったように言う彼に、私はさらに熱意を込めてあの方のすばらしさを説こうとした。
だがそこで、
「――先生? これは一体どういうことですか⁉」
背後から、女性の尖った声がした。





