221 理由なき献身(1)
◆???視点
私は闇夜を縫ってかつて職場だった大学病院の病棟に侵入し、とある病室に忍び込む。
消灯時間を過ぎた個室の中で、窓の外の夜空を無表情に眺めていた少年が、私のほうを振り向いた。
「えっ、先生? こんな時間に……」
私の顔を認めるなり、少年の顔に困惑の色が浮かぶ。
「ごめんなさい、約束もなく」
「それはべつにいいですけど……どうして?」
「……しばらく来れなくなるかもしれないから」
疑う様子もなく尋ねてくる少年に、私は嘘の混じった返事をする。
「お母さんが言ってたよ。神取先生はしばらく来れないって。研究で忙しいんだよね?」
「え、ええ……そうね。海外の学会に出席しないといけなくて……」
「へー! 海外! やっぱり先生はすごいんだね!」
無邪気に私の言葉を信じる様子を見て、私は悟る。
彼は私の現在置かれた境遇を聞かされていないのだ。
私――神取桐子は警察から指名手配を受けている。
海ほたるダンジョンで男児会の屑どもに危害を加えようとした容疑、とされている。
報道によれば限りなく殺人に近い傷害事件という扱いらしい。
政治的主張を掲げる探索者の集団がぶつかり合うというのは前代未聞の事件だったはずだが、その後の国政選挙の結果が衝撃的すぎて、私の事件の扱いは小さい。
警察に追われる身ではあるが、私が逮捕される可能性は低いだろう。
研究者である私は、探索者のレベルランキングにかけらも興味をそそられなかった。
いやしくも研究者ならば自分の論文のインパクトファクターを気にするほうが健全だろう。
それに、誰が誰より強いかを決めるレベルランキングの競争は、極めて男性原理的な競争であり、私としてはむしろ嫌悪の情すら抱いている。
レベルランキングは、ダンジョン探索アプリ「Dungeons Go Pro」の設定から自分を集計の対象外にすることができる。
もし私が自分を集計対象にしていれば、今の私のレベルは現在の一位――春河宮勇人という英雄志願の不快な皇族――を引き離して断トツ首位になっている。
探索者の強さが必ずしもレベルだけで決まるわけではないが、圧倒的な高レベルを誇る私を「逮捕」できる警察官など存在しない。
さらにいえば、私は「あの方」から警察の内部情報を密かにリークされている。
チルドレンである私の不祥事はあの方にとっても重大事であり、私の身柄が万一にも警察の手に落ちるのは避けたいからだ。
いや、正確にいえば、あの方が恐れているのはどうせ実らない警察の捜査ではない。
あの方は、私があの黒天狗――蔵式悠人の手に落ちるのを避けたいのだろう。
私にはまだ、重大な仕事が残されているのだから。
「時間がないわ。治療させてもらうわね」
「わかりました」
少年はパジャマの上着を脱いで、私に背を向けた。
年頃の少年としては白い背中だろう。
男の肉体を見るだけで嫌悪感を抱く私ではあるが、今はまだ、少年の背中に触れることもできる。
私は固有スキル「実験空間」を使って、少年の体内の病変を取り除く。
少年を蝕む難病の正体は、異常形成された白血球だ。
少年の体内に点在する病変細胞によって作られたこの白血球は、少年自身の神経組織を異物とみなして攻撃する。
肉体を細菌やウイルスなどの異物から守るためのシステムが誤作動し、少年の肉体を傷つけているのだ。
厄介なことに、この病変は遺伝性のものだ。
現代の医療技術では治療方法がまだ見つかっていない。
極めて稀な難病だけに、治療法の開発はおろか病態の研究すらほとんど進んでいない状況にある。
私の「実験空間」をもってしても、できるのは異常形成された白血球を壊すことだけだ。
それすら最近になってようやく可能になった技術である。
私の「実験空間」を科学で再現することはもちろんできない。
私以外に彼の苦しみを減じることのできる者はいないということだ。
「今日は新しい治療も行うわ」
最近の研究によって異常白血球を生み出す母細胞を特定することができた。
その母細胞を「実験空間」で通常の細胞へと修正する。
「これで以前よりは長持ちするはずよ」
「わあ、ありがとうございます!」
少年が屈託なくお礼を言う。
「もちろん、完治するわけじゃないわ。『実験空間』で遺伝子を直接書き換える実験はまだ成功していないの。ごめんなさい」
遺伝子の塩基配列を「実験空間」で編集することは不可能ではないはずだ。
ただ、そのためには遺伝子のどの箇所の塩基を変更するのかを特定できる必要がある。
やみくもに遺伝子の塩基を傷つければどんな影響が出るかわからないからだ。
少年の病に関連する遺伝子の配列を特定するのは、科学的に絶対に不可能というわけではない。
ただし、それには膨大な資金と人手が必要だ。
国の研究機関への補助金や製薬会社の開発費は、患者数の多いメジャーな病気に集中する。
苦しんでいる人を少しでも多く助けるにはその方が効率的だし、患者数が多いほうが医薬品の市場も大きくなって創薬コストを回収しやすい。
世界でもごく少数しか患者のいない難病はどうしても後回しになってしまう。
もし遺伝子が特定できたとしても、現代の医療技術では遺伝子の直接編集は不可能だ。
私の「実験空間」ならば原理的にはできるかもしれないが、それでも相当に難しい。
「実験空間」で問題のある遺伝情報を書き換えるためには、私が塩基配列を高い解像度でイメージできる必要がある。
その上で、ピンポイントで塩基を狙い撃たねばならない。
だが、ヒトのDNAには60億もの塩基配列が存在する。
地球の現在の人口が80億人ほど。
特定の塩基配列を狙い撃ち、ATGCのいずれかを別の塩基に置き換えるのは、地球上からただ一人の人間を特定するのと同じくらいに難しい。
何か他のアプローチが必要だろう。
なお、素人がよく引っかかる疑問として、「エリクサーのようなダンジョン産のアイテムでこの病気を治せないのか?」というものがある。
この程度のこともわからないのが凡人の悲しさというものだが、少年に関しては嘲笑うだけでは済まない事情がある。
彼のご両親は、彼の苦しみを見るに見かね、借金を重ねてエリクサーを購入した。
持ち家を抵当に入れて銀行からお金を借り、親族や会社の同僚にも頭を下げて回ったと言う。
そうして手に入れたエリクサーだったが、彼の病気には効果がなかった。
おそらくだが、遺伝子に書き込まれている情報はから生まれた病変は、ダンジョン的な認識では正常な肉体の一部とみなされるのだろう。
遺伝子にそう書かれている以上、それが少年の肉体の正しい状態なのであると。
遺伝的な障害を持って生まれてきた子どもたちにエリクサーを投与する実験は、国内外で数十例も行われている。
だが、たいていの論文は「エリクサーで生まれつきの障害を治癒することはできない」と結論付けている。
一部の障害が治ったという報告はあるのだが、この場合の障害というのは、遺伝的なものではなく、胎内での環境的な要因によって生じたものらしい。
もちろん、そのことは彼の両親にも何度となく伝えた。
だが、ご両親は神経を蝕まれ苦しむ彼をただ見ていることができなかった。
末梢神経が蝕まれるだけでも、耐え難い痛みに襲われる。
これがもし中枢神経に――さらには脳神経にまで及べばどうなるか。
以前、デリカシーというものを知らない男性の研究医がご両親に向かって「最悪、廃人になるかもしれません」などと言い放ったことがあった。
この男の発言には怒りを通り越して殺意すら覚えたが、彼の発言内容そのものは間違ってない。
ご両親は一縷の望みに託し、財産を抛ち、借金をし、様々な役所を回り、政治家に嘆願して、国の指定戦略探索物であるエリクサーを用立てたのだ。
「なんで謝るんですか? 僕は先生に助けてもらってるのに」
「そう、ね……」
おそらく、私が彼を治療できるのはこれが最後になるだろう。
最後に病変細胞を除去することができたが、いずれ再発することは間違いない。
彼の身体は、問題のある遺伝情報に基づいて、せっせと体細胞を作っていく。
すべてが問題のある細胞になるわけではないものの、遠くない未来に再び病変細胞が生まれるのは避けられない。
私が考えていた唯一の希望は魔苔だった。
彼の身体に特別な加工を施した魔苔を移植する。
この魔苔は、とある特性を持ったスライムマクロファージを繁殖させる。
その「とある特性」というのは、異常形成された白血球を特異的に捕食するという特性だ。
一言でいえば、彼の身体に異常な白血球を退治するための「器官」を植え付けようという発想である。
しかし、残念ながら研究は道半ばで終わってしまった。
スライムマクロファージにそうした「特性」を自動的に付与する方法が見つからなかったのだ。
私の身体に生み出した無数のダンジョンの中でスライムマクロファージを培養し、ありとあらゆるスキルを検証した。
だが、ピンポイントに彼の難病を生み出す異常白血球のみを攻撃するスキルを持たせることはできなかった。
私に作ることができたのは、血液中のあらゆる白血球を無差別に食べるスライムマクロファージと、赤血球の中から鎌状赤血球のみを選択的に食べるスライムマクロファージ。この二つまでが限界だった。
彼の治療に目処をつけられなかったことは、一人の研究者として慚愧に堪えない。
だが、私には彼の治癒以上の大きなお役目が降ってきた。
あの方の目指す「楽園」が実現すれば、あるいは彼の病気を治療できる方法も……
もっとも、その日を私が生きて見届けることはないだろう。
「僕の病気が難しいってことはわかってます。先生が謝ることはないです。こうして痛みを取ってくれるだけでも本当に感謝してるんです」
「そう……」
私は小さく首を振ってうつむいた。
そんな私に、彼は難しい質問を投げかけてきた。
「どうして、神取先生は僕を助けてくれるの? 僕は……男なのに」





