220 無私の王(3)
官邸の総理執務室は、お世辞にも心安らぐ場所とは言い難い。
過去の総理大臣たちの情念が絶えず私の心に侵入してくるからだ。
総理大臣にまで上り詰めたという政治的興奮。
政敵を思うままに叩き潰す政治的愉悦。
官邸を追われ立ち去る時の政治的屈辱。
そうした情念はどれも脂っこく、美しいものとはいえなかった。
だが、それらの情念の導きに従えば、私は誰よりも総理らしい総理を演じられる。
「純恋からは実に多くを学んだ」
経営者や政治家の中にもサディストはいるが、純恋ほど徹底したサディストは見たことがない。
それほどに徹底してサディストであれば、普通は社会的な規範を踏み外す。
冷徹であることと、社会的に機能すること。
経営者として求められる役割を果たす上で、娘となった凍崎純恋の「性格」は格好のサンプルだった。
その意味では、純恋のほうが私の親だといえるだろう。
そのことは他の「チルドレン」たちにも言えることだ。
「経営者としての私に求められたのは、従業員を大切に扱うこと――ではなかった」
経営者としての私は、一貫して憎まれ役だった。
憎まれることで、無理な経営理念を押し通す。
憎まれることで、従業員を低賃金で働かせる。
憎まれることで値引きができ、客を笑顔にできるのだ。
奇妙なことに、従業員もまた、私を憎しみの対象にしたがった。
日々の仕事のつらさを、人間関係の不満を、先の見えない人生への漠然たる不安を、遠慮なくぶつけられる格好の標的を探していた。
――俺の(私の)人生が悪いのは全部こいつのせいだ!
そう指弾できるスケープゴートを探していたのだ。
私はその欲望に応えたまでだ。
「他のチルドレンは……純恋に比べればさほどでもなかった。仕事上で役に立つものはいたが、私の『人殻』を陶冶する役には立たなかった」
私が運営する養護施設「ザアカイの家」には、これはと思った人格の持ち主を集め、集団生活を送らせている。
純恋はあの家の中でも役割を果たした。
役割を果たさねば私に見捨てられるということもわかっていたのだろう。
「ザアカイの家」はコールドハウスなどと呼ばれるようになり、コールドハウス出身者は私の意を汲んで手足のように動く人材になった。
「クローヴィス。あの男も役に立った」
異世界からやってきた高慢なるエルフの王。
彼を私が拾ったのは偶然だ。
もっとも、「羅漢」という国内最大の人員を誇る探索者ギルドを抱えているのだから、偶然とばかりもいえないだろう。
「支配者としての振る舞いというものを、彼から学んだ」
純恋を引き取った時には、まだダンジョンは出現していなかった。
したがって、私はまだ固有スキル「作戦変更」に目覚めていなかった。
私が純恋から学んだのは、あくまでも人格だ。
私の不定形な魂に形を与える「人殻」を作り上げる上で、純恋の魂の形は参考になった。
クローヴィスを拾った時点になると、事情は大きく変わっていた。
ダンジョンの出現に伴い、私は固有スキル「作戦変更」を手に入れた。
クローヴィスから私が学び取ったのは、人格だけではない。
クローヴィスの精神のありようを看取することによって、私はいくつもの「作戦」を「作戦変更」のレパートリーに追加することができた。
「神取桐子は……期待外れではあったか」
コールドハウスに迎えた中では研究者として例外的なキャリアを築いていたのが彼女だ。
だが、その人格はもろく、統一性を欠いていた。
「指導教員に成果を奪われ狂った哀れな研究者にすぎん。性格の強度はむしろ弱い。その弱さ、脆さこそが極端な行動と成果につながってはいたが……それは私が取り込むべきものではなかった」
社会への適合性に問題のある人格を取り込めば、私もまた社会への適合に問題をきたすことになる。
期待外れではあったが、「がっかりする」といった情緒的な反応は私にはない。
ただカードゲームで不要な札を切るように、彼女のことを切り捨てた。
「まあ、最後には役に立ってくれた。実用的な意味では満点以上だ」
異世界へのゲートの固定化は、想像を絶する難事だった。
霊能力者の祖母に育てられた私にとっても、ダンジョンなるものが出現した現代は根本的に狂ったものとしか思えない。
だがそれにも増して、異世界なるものが実在し、そこへの回廊を開くことができるなどというのは、クローヴィスの法螺としか思えない話だった。
もっとも、相手の心を直観できる私に嘘をつくことは難しい。
クローヴィスは複雑な人格の持ち主とは決して言えず、私が欺かれているおそれは低かった。
「蔵式悠人……。彼に妨害されなければもう少し早くに実現していただろうが」
クローヴィスの思惑通りにことが進んでいれば、奥多摩湖ダンジョン崩壊によって異世界への大穴が空いていた。
だが、驚くべきことに、かの青年はあの高慢なエルフ王を降してのけた。
神取桐子に破滅をもたらしたのも彼である。
遡れば、私の娘である純恋を(おそらくは)殺したのも彼だろう。
死者の魂を口寄せすることは私にもできるが、どういうわけか純恋の霊を口寄せすることはできていない。
最初はダンジョンで変死したためかと思ったが、他の「羅漢」メンバーでダンジョンで死亡したものは問題なく呼び出せる。
純恋の霊が呼べない理由はわからない。
蔵式悠人の持つなんらかのスキルによる妨害と見るのが妥当だろう。
「人格面ではさほど見るべきところはないと思ったが……」
以前回線越しに話した感触では、コールドハウスにスカウトしたくなるような尖った人格の持ち主ではなかった。
彼はそもそも、社会に不適合を来たしてひきこもりになっていた青年だ。
彼にも同情すべき事情はあったのだろうが、感情のない私は物事を結果でしか判断しない。
私が手本となる人格に求めるのは、おのれが社会に順応するのではなく、社会のほうをおのれに順応させるほどの「強度」である。
善であれ悪であれかまわないが、弱いのは困る。
蔵式悠人は見た目の頼りなさとは裏腹にある程度の人格的強度を備えてはいるが、世の中に対して我を通し切るような突き抜けた強さは持っていない。
良くも悪くも、善良な青年だといえるだろう。
「なぜ彼はこれほどの力を持つに至ったのだ?」
むろん、社会的な成功の条件は、必ずしも人格の強度だけに限らない。
「運が良かったのか、良縁に恵まれたのか……あるいはそれ以外の未知のファクターが存在するのか」
ともあれ、結果として蔵式悠人という青年が、現代日本の――いや、現代地球の特異点、台風の目になりつつあることは間違いない。
彼と純恋には、さらに奇妙な因縁もある。
「『虫籠』の著者――夏目紗雪が自殺した原因を着せられたのが彼だったとは驚きだ」
感情のない私ではあるが、客観的に見て確率の低い事象が起これば驚きはする。
驚きはするが、受け入れる。
驚きのあまり否定するということはない。
とはいえ、この国の人口を考えれば、あの小説の著者である少女と蔵式悠人につながりがあったというのは、偶然の一言では片付けがたい低確率の事象である。
さらには、クローヴィスが執着していたハルカフィア姫――篠崎はるかとその娘とも、蔵式悠人はつながりがあるらしい。
篠崎はるかはエルフとしての美貌と霊的魅力によって、政府の報道官として申し分のない仕事をしてくれている。
愛娘への国籍付与を条件にすれば、この先も骨身を削って働き続けてくれるだろう。
その愛娘の行方が知れないのが懸念点ではあるのだが……。
「それもまた彼の仕業なのだから驚きだ」
篠崎ほのかは、まず間違いなく蔵式悠人に保護されている。
当初の計画では、在留資格のない篠崎母娘を入管施設に収容し、娘の身分保障を条件に母のほうを働かせるという予定だった。
エルフである彼女の特異性は、国民にとってなによりわかりやすい異世界実在の証拠となる。
彼女のような美姫をパーティメンバーに加えられるかもしれないと思えば、異世界からの探索移民受け入れにも弾みがつく。
彼女の「協力」を得られた点では予定通りともいえるが、切り札に手の内から逃げられたのは予想外だ。
それがまたしても蔵式悠人の関与によるのだとしたら、なんたる偶然の一致だろう。
「祖母は『因果』という概念についても独自の考えがあったようだが……」
現在の祖母は会話の成り立たない状態だ。
私であっても、目の前にいる祖母が本来の祖母であるのか戦死者の霊であるのかそれとも別のなにかであるのかわからない。
もはやすべてが渾然一体となって融合した集合霊とでも呼ぶしかないような感触だ。
著名な精神科医にも診せてみたが、完全に匙を投げられた。
当然、そんな状態で社会生活が営めるはずもなく、羅漢グループの経営する老人ホームで介護を受けながら暮らしている。
彼女が執念によって造り上げた「王の器」がついにその座についたことを理解できているのかもわからない。
祖母を哀れと思う心を私から奪った張本人は祖母自身であり、私に特別な感慨はない。
私はいまやこの国の全国民の感情・意思・欲望を取り込み、それを実現するために動く機械仕掛けの神である。
祖母はもはや一億二千万分の一にも及ばぬ存在だ。
私が祖母について思考したのも、祖母ならば蔵式悠人を巡る「因果」の偏りになんらかの見解を持っていたかもしれないと思ったからだ。
「だが、蔵式君の阻止したゲート開通も、神取桐子によって成し遂げられた」
正確には、マッドサイエンティスト神取桐子と、異世界帰りの皇族勇者と、この国の神を自称する存在の成し遂げたことだ。
「もう誰にも止められぬ。私はこの国を、この世界を『楽園』に変える。誰もが望む地上の『楽園』に」





