219 無私の王(2)
理想の王は無私でなければならぬ。
それが祖母の辿り着いた結論だった。
無私とは、己が無いということ。
己の感情を持たず、ただ民の求めに応じて奉仕するものこそ理想の王である。
だが、人間であればいかなるものにも私心はある。
感情がある。
己の利害への関心がある。
完全に無私の人間などいるはずもない。
それに近い人間を見つけることすら難しい。
もし完全に無私かそれに近い人間であれば、己の利益のために努力することもないはずだ。
無私に近い人間は隣人からは好かれるだろうが、国を導くほどの卓越したリーダーシップを発揮することはないだろう。
本当に完全に無私であれば、己の心身にすら無関心となり、人並みの健康な生活を送ることすら難しいかもしれない。
となれば、生身の人間の中に理想の王たる資格を持ったものは存在しないということになる。
この答えに行き着いたところで、普通の人間であればあきらめる。
だが、祖母はあきらめなかった。
祖母にはこの問題を解決するあてがあったのだ。
そのあてとは、他ならぬ自分自身の生い立ちである。
降霊術の使い手である祖母は、そもそも己というものが希薄なたちだったらしい。
己というものが希薄だからこそ、他者の魂を己の中に降ろすことができる。
己というものがすでにたっぷりよそわれた椀の中に他者の魂を注ぐ余地などないのだから。
逆に、口寄せの修行と実践の経験が、知らず知らずのうちに祖母から己というものを奪ったのだともいえるだろう。
と、いうことは、だ。
「己の手で育てればいいのだ――『王たる器』を」
無垢な子どもを霊能者として――いや、それ以上に徹底して鍛え上げる。
いや、「鍛え上げる」という言葉は正しくない。
その教育は、子どもに何かを与えて鍛えるというようなものでは決してない。
その逆に、子どもから何もかもを奪い去ることで中身をなくすというものだ。
私は祖母に、何もかもを奪い去られた。
感情というものが私にないのはそのためだ。
だが、そのことで祖母を恨んだことはない。
恨むために必要な感情すら、私の中にはもうないのだから。
修行が苦しかったという記憶もない。
何かを苦しいと感じるのに必要な感情も、私の中にはないのである。
「もちろん、私に感情を味わうすべがまるでないわけでもない」
私は、祖母が良くしていたように独り言をつぶやきながら、執務机の引き出しを手前に引いた。
引き出しの中に収まっていたのは、一冊の黄ばんだノートだった。
ありふれたノートの表紙には、気負いを感じさせる筆跡で「虫籠」と書かれている。
小説だ、これは。
ただし、公刊はされていない。
おそらくはどこかの賞に応募されるはずだったのだろうが、この作品が日の目を見ることは永遠になくなった。
「これを書いた少女が殺されたからだ」
数年前、一人の女子高生が命を絶ったとされ、その遺書がネット上に出回るという事件があった。
ワイドショーで取り上げられたその「遺書」の断片をたまたま目にした私は、すぐに「そのこと」に気がついた。
「これは遺書ではない。小説だ」
なぜそう思ったのかはわからない。
だが、私にはわかるのだ。
感情というものを徹底して除去された私の心には、他人の感情がよく映る。
祖母は死者の霊を口寄せしたが、私はただ生きているだけで、近くにいる生者たちの想念に取り憑かれる。
いわば、生霊を勝手に口寄せしているようなものである。
そのプロセスを自力で制御することは一切できない。
ただ、外から侵入してきた他人の感情や意思や欲望が、私の心に映り込む。
そして、私はその感情や意思や欲望を、求められるままに満たそうとする。
共依存に陥った者が依存対象に過剰に取り入ろうとしてしまうのと、形の上では似ているだろう。
「民の声は神の声に似たり」というが、私にとって他人の意思は、神による託宣に等しいものだ。
私はただ、民=神の敬虔な信徒として、その御心を叶えるべく精根尽き果てるまで動くのみ。
そうした特殊な精神構造を持つ私は、本物の人間の発する言葉と、単に作られた言葉とを本能的に区別できる。
世間で「遺書」とされる断片は、私の心に他人の感情や意思としては映らなかった。
よくできたイミテーションではある。
だが、これはあくまでも作られた「感情」だ。
この「遺書」は遺書ではなく、誰かが遺書としてでっち上げたものだとすぐにわかった。
と同時に、私はこの遺書の文面自体は、第三者が最初から遺書として用意したものではないとも直観していた。
「これは小説――作品として作られたものだ。警察の追及を欺くために偽造された文書ではない」
そこまでのことを直観的に悟った私は、不意に、途方もない感情に襲われた。
それは、無念だった。
祖母が味わい、ついに乗っ取られるに至った戦死者たちの無念とはまた別の、粘っこく生々しい生への未練――
「ノートの筆跡が疑われていない以上、この小説を書いたのは自殺したとされている少女しかいない」
少女の抱いた無念は、いじめの果てに事故のように殺されたことにあるのではない。
自分が執念で書き上げた傑作を、世に問えぬまま若くして死んだ作家の無念だ。
まだ作家を名乗ることすら許されない少女の胸にあった、創作への衝動と執念。
それが形を結ばずに終わることへの後悔と、恨みと、無念と、屈辱。
「ああ、なんと美しいことか! あるいは、なんと醜いことか、人間とは!」
少女の抱いた大志は綺麗ごとだけで構成されたものではない。
さまざまな鬱屈や屈折を抱え、世間一般を恨むのと同時に、世間から認められたいという剥き出しの名誉欲もまた激しかった。
その矛盾に満ちた万華鏡のような感情の彩りに――私は魅入られた。
これほどの感情を私に味あわせてくれた彼女に感謝を覚えた。
私に自分自身の感情はないが、他者の感情を己のうちに取り込み味わうことは可能だ。
感情に飢えた私の魂は、他者からもたらされる感情を味わい、酔う。
己のものではないからこそ、それを純粋な楽しみとして享楽することができるのだ。
自殺したとされる彼女の感情は、それまで――いや、それから私が味わったあらゆる感情と比較しても、ひときわ鮮烈なものだった。
私にそうした感情があれば、彼女に恋をしていただろう。
当時羅漢グループの経営者だった私は、あらゆるつてを使って彼女を探した。
いや、彼女は死んでいる。
彼女を殺したものを探したのだ。
羅漢グループの飲食店のアルバイトの中に、問題のいじめグループにいたとされる高校生がいることはすぐにわかった。
その高校生はいじめの主犯である氷室純恋の子分的な存在だった。
私はその高校生を通じて、のちに娘となる純恋に接触した――
「純恋もまた、拾い物だった」
あれは「遺書」ではない――そう迫った私に、さすがの純恋も動揺を隠せなかった。
だが、あれは天性のサディストだ。
純恋は、私の本性にすぐに気づいた。
私には、揺れるべき感情がないということに。
「何が目的なの?」
と純恋は言った。
「この小説の全文がほしい」
と私は答えた。
「はあ? そんなの渡せるわけないでしょ」
「ということはまだあるということだな?」
「ちっ……」
いじめの最中の「事故」を自殺に見せかけ、用済みになったはずのノートを、純恋は手元に置いていた。
過失致死、あるいは殺人の証拠になりかねないノートを手元に置く心理は理解しがたい。
だが、私は理解するのではない。
私はただ、己の心に映して知るのである。
「君は『戦利品』を手元に置いておきたかったんだ。君にとってそのノートはトロフィーだ。他にも他人から奪ったものをいくつも部屋に飾っていたり、持ち歩いていたりするんだろう?」
「……気持ちの悪いおっさんだね」
顔をしかめて、純恋が言った。
「君にも興味が湧いてきた」
「なに? まさか、そういう目的じゃないんでしょ?」
たしかに純恋は美しい。
毒花の美しさではあるが、だからこそ魅力を感じるという男も多いだろう。
「君を買いたいわけじゃない」
「じゃあ何?」
「私の目的はあくまでもノートだ。非業の死を遂げた彼女の感情は実に甘美でね。私の感情生活の無聊を慰める格好の玩弄物として所有したい」
「……いい趣味してるね、あんた」
「だが、金を出して買い取ると言っても君は応じないだろう」
「当たり前じゃない。あれが世の中に出たら私はよくて傷害致死。悪ければ殺人で少年院よ」
「私に渡すくらいならあのノートを破棄するのだろうね?」
「そりゃそうでしょ。お気に入りのコレクションではあるけど、捕まったら元も子もないし。もともと殺すつもりじゃなかったから、警察に本気で調べられたら他の証拠だって出てきそうだし」
と言う割には、純恋に警察を恐れる様子はない。
どうともでもコントロールできると思っているのだ。
まだ高校生に過ぎない彼女が、だ。
「君のことを、両親も持て余している」
彼女の身の上は興信所に依頼して調べ上げた。
幼児期から嗜虐的な傾向を持つ邪悪な娘を、善良な両親は扱いかねている、と。
と同時に、今回の「自殺」騒動が起きるまで、彼女は自分の本性を巧みに隠し、社会から排除されるような事態を避けていた。
いや、今回のことですら、他殺ないし傷害致死となるべき事件を、本人の自殺という形で隠蔽してのけた。
さすがに社会的に無傷というわけにはいかなかったが、逮捕されるような「へま」はしていない。
彼女が警察を、親を、周囲の大人をコントロールしているのは間違いない。
善悪の判断を抜きにすれば、非常に優れた支配者としての素質を持っている。
「……だからなに?」
親から疎まれていると指摘されても、彼女の心に動揺はない。
思春期の娘にはなかなかありえないことだろう。
「取引といこうじゃないか」
私は商談に挑む顔になってわずかに身を乗り出した。
喫茶店の日焼けして剥げかけたテーブルの上、純恋の頼んだアイスティーのグラスの向こう側で、純恋がわずかに眉をひそめる。
「取引?」
「私が君を娘として引き取ろう」
「…………はあ?」
唐突な提案に、さすがの純恋も呆けた声を漏らした。
「娘の犯罪の証拠を警察に提出する親はいるまい」
「そりゃそうだろうけど、なんでそこまでするの?」
本気で怪訝そうに聞き返す純恋に、私は答える。
「私は君から学びたいのだ。君の『人格』そのものを」





