五
旅を始めてから何日がすぎただろうか。少なくともふた月は過ぎたはずだ。
野生は人間をたくましく育てる。
もちろん数日間程度の、それこそサバイバル体験レベルのものでは、大した成長は望めない。しかしそれも二か月以上続けば一端のレンジャーと言えよう。ちょっとしたことでは動じない鋼の肉体と精神を持つ、屈強なワイルドマンである。
そしてここにも、長きに渡るサバイバル生活を経た勇者の姿が……!
「ねえ、白さん、そろそろ休憩とか入れません?」
「五分ほど前にしたばかりですよ?」
まあ、例外もある。根性がねじ曲がってる人は二か月程度では変われないのである。
透と白の二人は相も変わらず森の中を歩き続けていた。今朝降った雨の露が、緑葉の上に美しく輝くが、今の透にはそんなものに感動する余裕もなかった。むしろ湿った土壌に靴がめり込むという、些細な感覚にさえイライラしていた。
道中で村などには立ち寄るものの、装備を整え、一晩を明かせばすぐ出発という、かなりの強行スケジュールを敢行している。白の適切な励ましがなければ、透はこんな旅とっくに投げ出しているはずである。
しかしその強行スケジュールのおかげか、徒歩で大陸横断というこの途方もない旅路も終盤に近づいている。地図によれば今朝出発した村が、二人の目指すインディゴへと向かう最後の村らしい。
「村の方の話によればインディゴはもうすぐのようですし、あとちょっと、頑張りましょう!」
「俺はこの世界の人の『もうすぐ』という言葉は信じないことにしている」
これに関しては透の意見も仕方ない。というのも一般的な感覚からして、「もうすぐ」と言われれば、だいたい十分かそこらと考えるだろう。長くても一時間はかからないはず。距離にしたって、徒歩とわかっているなら数百メートルがいいところだ。それが歩いてみれば日をまたぐのは当然だし、酷いときは「もうすぐ」と言われて五日かかったときもあった。
とはいえ、どれだけ遠くても歩かねば着かないのは事実である。いたずらに時間をかけるのは透も望むところではない。なので、まあお許しが出れば持ち前の意思の弱さを存分に発揮してヘタレ込むところなのだが、提案を却下されたのなら仕方ない。透は小さく溜息を吐き、渋々と歩を進めた。
村を出発して三時間ほど歩いた先で、透は驚いた。視線を斜め上に向け、間抜けに開いた口からつぶやく。
「ほんとに、もうすぐだった……」
視線の先には、ホワイト程ではないが高くて立派な市壁があった。インディゴ到着である。
いや、三時間もかかれば「もうすぐ」ではないと思うが、今までの経験からすれば充分にすぐと言える。
「それでは透さん、行きますよ」
白は緊張した面持ちで言い、正面の門へ向かって歩き始めた。透は「お、おう」と生返事をして、白のあとに続いた。
入口には、ホワイトのように門番はいなかった。代わりに木製の扉は固く閉ざされていて、外部からの侵入を拒んでいる。まるで何人も入れないという心構えが伝わってくるようであった。透がどうしたものかと途方に暮れていると、白が門の先に向かって声をかけた。
「あの、どなたかいらっしゃいますか?」
「はーい、誰ですかあ?」
聞こえたのは無骨な門の印象とは不釣り合いの間延びした声であった。何だか小さくてかわいらしい感じの少女の声である。まさかこの門、擬人化したら美少女になるのか? などとしょうもないことを透が考えていると、右側の扉に小さなスリットが開き、大きな青い両目が覗いた。
「何だか見たことない男の人……と、あれ、もしかして白様ですか!? うわあ、白様! 本物!」
スリットの先の、おそらく少女は、白を見た途端にはしゃぎだした。ここで「おそらく」としたのは、男の娘の可能性も捨てきれないからである。
「あ、えっとえっと、今開けますね! ちょっと待っててください!」
一通りはしゃいだ少女(仮)が思い出したように言って一旦スリットから姿を消すと、閂の外される音がして、続いて右側の扉から重そうな音が聞こえ始めた。白が無言のまま扉を押し始めたので、透も遅れて手伝いに入った。たしかに少女(仮)や幼女の力だけでは開くのに苦労しそうな重さだ。透が入ったところでたいして変わらないだろうが。
扉を半分ほど開くと、扉の裏から青い髪の少女(仮)が回ってきた。背は白もかなり小さいが、その白よりも少し小さい。門の中に木箱が置いてある。スリットの位置は少し高いところにあったので、おそらくこの木箱を台にして覗いていたのだろう。
「あのあの、初めまして、白様! うわあ、すごーい! きれー!」
「初めまして、えっと……」
「リナです!」
「リナさん、初めまして」
白は中腰になってリナの頭を撫でた。するとリナはまた嬉しそうに笑顔をこぼした。
「ねえ白様、あのお兄さんは誰ですか?」
リナはようやく透の存在を思い出した。
「このお方は透さんです。勇者様ですよ!」
「勇者様?」
「はい! とても頼りになるお方です!」
「ふーん。何だかよくわからないけど、すごい人なんですね!」
何だかよくわからないが理解したらしく、リナは元気な声でうなずいた。そして透に飛切りの笑顔を向ける。
「よろしくね、お兄ちゃん!」
死んだ。いや、まだ死んでないし、死にたくはないけど。何と言うかもう、死んだ。今天に昇っても悔いはない。いや、死にたくはないけど。幼女(仮)が飛切りの笑顔で「お兄ちゃん」とか、兵器である。
「う、うん、よろしく」
透は心の中で舞い上がりながら、それを悟られないよう平静に答えた。が、にやにやしてて余計キモイ。
「それで白様、今日は何の御用ですか?」
「あ、はい。この町で少しお話を聞きたいのですが……リナさん、お一人ですか?」
「うん」
「お父様かお母様は?」
「今はカルロおじさんのお家にいると思います」
「よろしければ案内していただけませんか?」
「はい、わかりました! こっちです!」
そう言って、門にくぐって行ったリナに、白はどこか不安そうな表情で付いていった。透も二人を追って門の中に入り、開いたままの閂に気づいて門を閉めた。
インディゴの町は静かだった。人っ子一人見当たらず、昼間で太陽も出ているのに、何となく暗い感じがする。ホワイトで見たような活気あふれる街並みとは違う。そういえばウォルムが、守護精霊がいなくなった影響から人と町が廃れてしまったと言っていた。
門を抜けたすぐの大通りに入り、白とリナは手をつなぎながら歩いていた。透はその後ろを適度な距離を取って付いていきながら、ふと疑問に思った。
ウォルムの言っていたことは、この町の様子を見れば本当なのだろう。みんな流行病にかかったように寝込んでしまったから、外を歩いても人に会わないのである。ではなぜ目の前のリナは平気なのだろうか。白と手をつなぎながら上機嫌に前を歩くこの青い髪の幼女(仮)は、とても弱っているようには見えない。
「ここがカルロおじさんのお家です! パパたちとおじさんは二階です!」
そんなことを考えながら歩いていると、二階建ての細長い建物の前でリナが立ち止まった。白いレンガ造りの家だが、屋根や窓枠など随所が濃い青で染められている。
「どうぞ、白様、お兄ちゃん!」
リナは小さな体で大きな扉を頑張って開いた。おじさんの家ということは一応他人の家なのだろうが、白なら勝手に上げてもいいのだろう。透と白が入ると、リナはまた頑張って扉を閉めた。
ぎしぎしと音のなる階段を登ってすぐの部屋の前に立って、リナは扉の先に声をかけた。
「パパ!」
「リナかい? 入っていいよ」
穏やかな男の声が聞こえ、リナは扉を開いた。部屋には丸メガネをかけた気の小さそうな青髪男が、ベッドの前の椅子に座っていた。その後ろの机では、同じく優しそうな顔をした青い髪の女性がリンゴをむいている。
「やあ、リナ、お帰り」
リナはすぐさま「パパ!」と言って、父の胸に飛び込んだ。
「パパ、今日はすごい人が来てくれたんだよ! 何と何と、じゃじゃーん! 白様です!」
「え、し、白様が!? うわ、本当だ!」
リナの話に驚いた様子の父が、ドアに視線を向けてさらに驚いた。白はぺこりと、会釈した。
「何、白様だと!?」
リナの父とは別の野太い男の声が聞こえると、ベッドがもぞもぞと動き出した。リナの父は慌てて介助する。
「カルロ、あんまり無理するな」
リナの父に助けられながら身を起こしたカルロは、がたいのいい男だった。しかしその大きな顔から苦しさがにじんでいる。髪はくすんだような黒だった。
「白様が来てくださったと言うのに、寝てるわけにはいかんだろ。初めまして、白様。俺はカルロ。この町でハンターをやってるもんです」
「初めまして、カルロさん。大丈夫ですか?」
「これしきのこと、どうってこたあないですよ! って、ぐああ……頭がぐらぐらする……」
「ほら、言わんこっちゃない。君は今、僕の患者なんだ。医師の言うことはちゃんと聞いておきなさい」
リナの父はゆっくりとカルロを寝かせ、こちらに向き直った。
「すみません、こいつは昔から無茶ばかりする奴で。僕はベルナール。ブルーで医師をしています。この娘は、知っているかもしれませんが、娘のリナ。彼女は妻のマリーです」
リナの父、ベルナールが紹介すると、リンゴをむいていたマリーは静かに会釈した。あとリナは普通に女の子だった。
「ブルーの方なんですか?」
「はい。ブルーで医院を営んでいるのですが、インディゴが大変なことになっていると行商人から聞きつけて、力になれればと一家で駆けつけたのです。たまたまカルロとは古い付き合いでしたからね。今は彼の家を拠点に医療活動をしています。と言っても、みなさんが寝込んでいる間の健康管理とか、鎮痛剤の処方くらいしかできませんが」
つまりボランティアである。どこの世界にもこういった立派なことのできる人はいるのである。しかしなるほど、リナはブルーの出身。インディゴの出身ではないから平気なのか。
「それで、あなたは一体……」
ベルナールは自己紹介を終え、先程から蚊帳の外の透に目を向けた。何だか怪訝そうな表情である。そりゃあ、まったく知らない男が知らないうちに家に入ってきていたら誰でも不審に思うだろう。
「桧色透。白と旅をしているものです。どうぞよろしく」
こういう場面での自己紹介も慣れたようで、透はまずそれだけ言って手を差し出した。いきなり勇者とか言っちゃうと話がややこしくなるので、とりあえず白という信頼のおける人物の名前を出しながらわかりやすい言葉で伝える。
「トオルくん、か。よろしく」
白と旅をしている、ということでベルナールも警戒心を解いたようで、柔らかい笑顔で握手に応じた。
「ねえパパ。白様、何か聞きたいことがあるんだって」
全員分の自己紹介が終わったところで、ベルナールの膝に座っていたリナが話を進めた。
「聞きたいことですか?」
「はい。まず、藍と紫が失踪してしまったことは、知っていますか?」
「はい、それはもちろん。カルロやインディゴのみなさんがこうなってしまったのも、藍様が失踪して、弱っているからだと認識しています」
それを聞いて、白は透に顔を向けた。透は無言でうなずくと、白は話を続けた。
「透さんと私は二人を探すために旅をしているのです。藍がいなくなって直接的に被害が出ているここなら、何か情報を掴めるんじゃないかとやってきたのですが……」
「なるほど、そういうことでしたか」
「みなさんは、何かご存知ありませんか? 二人について」
「うーん、申し訳ありませんが、僕は何も知りませんね……。マリー、何かあるかい? 気づいたこととか」
「私も、思い当たることは何も……」
「すいません、俺も何が何だかさっぱりです。藍様のために協力したいんだが。何せ、朝起きたらいきなり体中がだるくてって、重い風邪みたいな症状が出ただけですから……」
「ごめんなさい、白様……」
最後にリナまで申し訳なさそうな顔をして、全員黙りこくった。
「そうですか……。いえ、仕方ないですよ。気にしないでください」
白はまた一瞬落ち込んで、すぐに笑顔を取り繕った。どこに行っても同じ反応。もしやと期待をかけたインディゴでもダメ。これでは次のパープルに行っても収穫がある可能性は薄い。
「それで、よければもう一つ聞きたいのですが、黒がいなくなったことは……」
「黒……様、ですか……? 申し訳ありません、黒様とはいったい……」
「あ、いえ、なんでもありません」
そう、この反応もすべて同じだった。今まで回ったどの村で聞いても、黒のことはそもそも存在自体知られていないのである。何でも白の話によれば、黒は人格化しているものの、守護精霊として町を司っていることもなく、一般人の目に触れる機会はないのだそうだ。
「まだまだこれからです! めげずに聞き込みを続けましょう!」
「そうだな」
自分に言い聞かせるような白の言葉に、透はできるだけ明るい声で答えた。白もつらいはずだし、気丈にふるまうのも疲れるだろう。透は何もできず、歯噛みした。
「僕もこれから往診に向かいますので、一緒に行きましょう。案内します」
そう言って、ベルナールは膝からリナを下ろして立ち上がり、机の上のカバンを持った。
「お願いします!」
白は祈るように、大げさに頭を下げた。
一行はまずインディゴのとある民家に来ていた。カルロの家よりは幾分か小さい気もするが、立派な二階建ての家である。
「ごはん、ここに置いておきますね」
ベルナールはカバンと、一緒に持ってきたバスケットを机の上に置いた。机にはすでにもう一つ、バスケットが置いてある。
「ベルナールさん、いつもすまねえな」
「ありがとうございます。マリーさんにもお伝えください」
二つのベッドに寝た男女が疲れ果てた様子で言った。女の人は美人だが、髪が黒くくすんでいる。
「いえいえ、お気になさらず。では、こっちのバスケットは回収しておきます」
ベルナールは優しい笑顔を浮かべながら、もう一方のバスケットを回収した。二人はまた疲れたように感謝した。
そんな大人たちのやり取りを無視して、同行していたリナは女性が寝ている方のベッドに駆け寄った。
「遊びに来たよ!」
リナが声をかけると、ベッドの中からひょっこりと、くすんだ髪の幼女が顔を出した。無邪気な笑顔だが、どこかつらそうにも感じる。
「わあ、リナちゃん! いらっしゃい!」
「あのねあのね! 今日はすごい人もいるんだよ! 誰だと思う?」
「え、うーん、誰かな?」
「正解は、何とこの人です!」
リナは元気に言いながら、幼女の背中を起こした。
「わっ! し、白様ですか!? ほんと!?」
「初めまして」
白はにっこりとほほ笑み、小さく手を振った。
「は、初めまして! すごいすごい! 私、白様に初めて会った!」
幼女は目を輝かせて喜んだ。そんな幼女の反応に照れながらも、白は傍らにしゃがんで幼女たちの輪に入った。
幼女たちが話している間に、ベルナールは診察に入っていた。
「うん、栄養状態は悪くないと思います。筋肉は……まだ大丈夫ですかね」
男の腕を掴んだベルナールの表情が一瞬曇った。男の腕は枝のように細くなっていた。
「では、次は奥さんの診察に移ります。その間に……」
ベルナールはちらりと白を見てから、透に視線を移した。
「よろしければ彼の話を聞いてあげてください。彼は白様とともに、藍様と紫様を探して旅をされている少年です」
白は幼女たちの話の相手をしているから、ここで情報収集するのは透の役目である。
「おお、そうなのか」
ベルナールの紹介に安心したようで、男は疲れたような笑顔で言った。
「桧色透です。よろしくお願いします」
「よろしくな、トオル。それで、俺に何か?」
「はい。少し聞きたいんですが、失踪した藍と紫について、何か情報があれば教えていただきたいんです」
「うーむ、そうだなあ。……すまねえ、藍様も紫様も、失踪したということしか俺にはわからん……」
「そうです、か……」
一瞬「そうですよね……」と言いそうになり、慌てて言いかえた。
「ご協力ありがとうございます」
「力になれず、申し訳ない……」
「いえ、気にしなくていいですよ」
初めて一人で聞き込みをしたが、覚悟していた答えでもつらかった。その後に申し訳なさそうな顔をされるのも、何だか逆に申し訳なくなる。白はいつもこんな気持ちで、いやもっとつらい気持ちで聞き込みをしていたのだろう。透はちくちくと痛い心臓を抑えて、白を見やった。
「それでね、それでね! ……白様、どうしました? 何だか元気がない気がします……」
「へ? い、いえ、そんなことありませんよ!」
白にも聞こえていたらしい。気丈にふるまうのはどれだけつらいだろうか。
「私は大丈夫ですから、お話の続きを聞かせてください!」
「う、うん……。でも白様、無理しちゃダメですよ?」
「はい、お気遣いありがとうございます。私は大丈夫です」
「うん、ならよかった! それでさっきのお話しは……そうそう、パパったらね!」
白が笑うと、幼女も再び笑顔で話し始めた。
「しかし、カルロには感謝しねえとな」
元気に会話する幼女たちを眺めながら、男がつぶやいた。ベルナールは幼女の診察を始めていた。
「カルロさんですか?」
「そう、カルロ。いや、もちろんベルナールさんには一番感謝してるけどよ。でもベルナールさんが来てくれたのだって、カルロの人脈のおかげだからな。それに、あいつはこうなる前から町の中心だった。常に冷静で優しくて。ハンターやってるからか、急な事態にも一番落ち着いてるんだ。この家もたしか、突風で屋根が飛んだ時はあいつに直してもらったんだよ」
「いい人、ですね」
「ああ、そうだ。あいつはいいやつだ」
男は満面の笑みで答えた。この人はカルロを本当に信頼しているのだろう。
「では、今日はこれで終了です。お疲れさまでした」
幼女の診察も終え、ベルナールは幼女の頭を撫でてから立ち上がった。
「ありがとうございました、ベルナールさん」
両親がまた感謝を口にすると、ベルナールは笑顔で会釈した。
「それでは白様、トオルくん、次に向かいましょう」
「あ、はい。ありがとうございました」
透が男に挨拶すると、男は疲れた笑顔で「頑張れよ」と返した。
「リナも、もう行くよ。次の患者さんが待ってる」
「あ、うん、パパ。じゃあね。また明日」
「え? う、うん……。リナちゃん、バイバイ。白様も」
幼女は一瞬寂しそうな表情をして、白とリナに手を振った。
案の定何も得られないまま、夜になった。
聞き込みの結果は全員が、二人が失踪したこと以外は知らないという、だいたい予想通りのもの。そしてもちろん聞き込み以外にも、路地裏など隅々まで探索してみたが、やはり何も手がかりはなかった。
道を挟んだ向かい側にある宿は休業しているため、今夜はカルロの家に泊めてもらうことになった。さすがに一般の民家では部屋の数も限られており、寝室は二部屋しかない。その中に寝たきりの家主と、幼女のいる一家族と、男女の一組が宿泊するとなれば、まさか男女を同部屋にするわけにはいかない。よって今回ばかりは透と白も男部屋と女部屋にわかれている。
現在、透たちは夕食も終え、ろうそくを灯した部屋でくつろいでいた。
「はあ、振り出しかあ……」
透は壁を背もたれにして座り、溜息を吐いた。するとベッドに寝ていたカルロが申し訳なさそうに言った。
「本当なら俺も力になりてえんだが、すまねえ。この体が全然思うように動かなくてな……」
「あ、いえ、別に大丈夫ですよ。こっちは白と俺に任せてください」
透は気を使って答えながら、カルロを見た。大きくて頑丈そうな体を見ればとても病気などしそうにないが、その顔は実につらそうで悲愴感に満ちている。黒くくすんだ髪が絶望の色にさえ見えた。
今日出会った人々もみんな、同じ表情をしていた。老若男女問わず、それこそ子供からお年寄りまで、みんながみんな、病というより呪いにでもかけられたようにつらそうだった。透が旅を始める少し前からこの状況だったとしても、少なくとも二か月以上はそんな状態でいたということだ。一番つらいのはインディゴの人々と、未だ妹たちに一歩も近づけない白である。溜息なんか吐ける立場ではない。
これまでに透が聞いていたことは、世界の崩壊とか征服とか、そんな漠然としたことだった。一応インディゴやパープルが大変なことになっているとも聞いていたが、それも所詮は聞きかじり。初めて事態の重さを実感した。透は勇者としてのプレッシャーが、脱臼しそうなほどに肩にのしかかっていることに、今さら気づいた。
「でも、トオルくんはすごいね。僕よりもずっと年下なのに、レイナ様から天命を受け、ホワイトからここまで徒歩で旅して来るなんて」
そんな透の心中を察したのかは知らないが、椅子に座って窓の外を見ていたベルナールは、空気を入れ替えるように話題を変えた。不意の賛辞に、透は慌てて答える。
「え、そう、ですかね?」
「うん、立派だと思う。僕はブルーとインディゴ以外のことは何も知らないけれど、トオルくんはそんなに遠くから自分の足で歩いてきたんだから」
「そ、そうですか。あはは」
白以外から褒められることに慣れていない透は、照れ笑いを浮かべた。おかげでマイナス思考はリセットされたらしい。
「でもそれを言うなら、ベルナールさんもすごいと思いますよ。他の町の人のために無償で働くなんて」
「え、い、いや、そんなことはないよ」
ベルナールも人にほめられるのは慣れてないのか、透同様に照れ笑いを浮かべながら謙遜した。
「僕は医師として、みんなを治すことができない。思っていたより無力な存在だった。それに僕より立派な人はたくさんいるよ。僕のわがままに付き合ってくれている家族はもっと立派だし、僕と同じようにパープルまで行った友人もいる。それに僕が一番すごいと思ったのは、ウォルムくんだね」
「え、あの行商人のウォルムさんですか?」
透はやる気のない目をした赤髪の男を思い出した。たしかにすごい人だとは思うが、性格悪そうだし、とてもひとかどの人物には思えない。しかしベルナールは力強くうなずいた。
「そう。彼は僕が来た少し後にインディゴに来たんだけど、事情を知ってすぐに積荷の半分を下ろしていったんだ。代金は出世払いでいいって。帳簿もつけずにどうやって取り立てるつもりなんだろうね」
ベルナールはおかしそうに笑った。なるほど、たしかにすごい。おそらく代金を取り立てるつもりはないのだろう。しかし後々代金を払うということにしておけば、インディゴの人たちの負い目を軽減することができると考えたわけだ。これはウォルムの評価を見直さねばならないかもしれない。
「そして、もう半分の荷物をパープルで下して、荷台をすっからかんにしてブルーに向かった時にも、彼は言った。またすぐ来てやるって。僕はインディゴに昔から縁があったけど、彼にとってはいくつもある商売相手の一つでしかない。それも規模はかなり狭い。実際他の多くの行商人たちは取引から手を引いているからね。彼らだって生活がかかっているんだから、それは仕方ないと思う。それでも、そんな中で物資を提供してくれた彼は、本当に立派だと思う。僕なんかよりもずっとね」
すごい人だと思っていたが、まさかここまでとは。考えてみれば他の行商人がホワイトに数日滞在する中で、ウォルムは透たちと同じく強行スケジュールだった。インディゴがこの状況では作物もできないわけだから、食糧もすぐになくなるだろう。
そう言えばウォルムは出発のとき、「行商人には行商人の道と役目がある」と言っていた。それは透たちの向かう先が馬車の通れない道だったからなのだが、あえて役目という言葉も付いている。勇者一行としての同行は拒否されたが、その真意は、行商人には行商人なりの協力の仕方があるということなのだ。
「まあたしかにウォルムはいいやつだが、やっぱりお前も立派だと思うぜ」
透が感心していると、カルロが話に入ってきた。
「き、君まで、一体どうしたんだい?」
「いや何、単純に感謝してるんだ。ウォルムの持ってきてくれた食糧がなきゃ、俺たちはとっくにくたばってた。でもそれがあるだけじゃ意味ねえからな。マリーさんが料理してくれて、お前がみんなの下に持ってきてくれるから俺たちは生きてる。それに寝たきりだから話し相手がいねえ。そんなとき往診って言ってお前やリナちゃんが来てくれると、心が落ち着くんだ。生きる気力が湧くってのかな。とにかくもう少し辛抱しようって気になるんだ。人間ってのは生きるのに理由がいるからよ。病気を治すだけが、医者の仕事じゃねえだろ?」
「そうか。そう言ってもらえると嬉しいよ」
「うーん、しかし昔はこんな男らしいやつじゃなかったんだがな。臆病だし、自分から何かするなんて絶対なかったんだが。何がきっかけで変わったんだ? やっぱ結婚か? 俺も結婚しようかなあ」
「結婚って……結婚は一人じゃできないんだよ?」
「ばっかお前、なめんじゃねえよ! 相手くらいいるわ! この前なんかなあ……」
と、その瞬間であった。不意に走ったノイズにより、三人の時間は同時に止まった。
悲鳴が聞こえた。
誰のものかはわからないが女性の、恐怖におののく悲鳴だった。隣室は女部屋である。一瞬のうちに思考が回復し、再び時間が動き出した。
「白!」
「マリー! リナ!」
透とベルナールはそれぞれの大切な人の名前を呼びながら立ち上がり、隣室へ駆けだした。
勢いよくドアを開き、透は白の姿を探した。部屋の隅に、他の二人と固まっている白を見つけた。怯えた表情のリナがうずくまっている。マリーはリナをしゃがみ抱き、目を伏せている。白はその二人を守るように立ちふさがり、威嚇するように指鉄砲を構えていた。視線の先には。
「黒い、影……?」
ベルナールが透の後ろでつぶやいた。いや、正確には影などではない。しかしそれは影としか言い表せない何かであった。人のような形をしているが、間違いなく人ではない。生きているようには感じられず、まるでゾンビや傀儡のように腕をだらんと垂らしている。
影はすでに白たちにあと一歩のところまで迫っている。そして緩慢に腕を伸ばし白たちに触れようとして、透はとっさにレインボウを引いた。
躊躇なくすばやく狙いをつけて、放たれた矢は光速で進み、影の頭を的確に射抜く。鮮やかなヘッドショット。影はまた緩慢な動作で振り返ろうとして、砂の塔が巻き上がるように虚空へ消えていった。
透はふうと息を吐き、部屋に入った。
「大丈夫か、白?」
ベルナールが「リナ! 大丈夫か!」と言って、マリーとリナに抱き付いた。
「ありがとうございます、透さん。私は大丈夫です」
「それならよかった。でも、さっきのは何なんだ?」
「私にもわかりません……」
「白でも知らないのか……」
透はぞっとした。今まで対峙してきた相手は、自分のいた世界でもいる現実的な野生動物だった。しかしさっき見た影は、透の記憶にあるあらゆる生物と何もかもが違った。それこそ創作の世界にいるモンスターだった。よもやあれに情が湧くことはないし、故に攻撃に躊躇もしないが、だからこそ気持ちの悪い存在である。
いや、それだけならさして驚きはしないだろう。白はこの世界の動物に関して、歩く動物図鑑かのようによく知っていた。しかしあの影は、その白でさえ知らない。得体のしれない何かであった。
「パパ、怖かった……」
「リナ、もう大丈夫だぞ。パパはここにいる」
涙声でつぶやくリナに、ベルナールは何度も「大丈夫」と声をかけた。
「トオルくん、ありがとう。二人とも無事みたいだ」
「そうですか。よかった」
リナとマリーの無事も確認し、透は安堵した。が、しかし、安心するのはまだ早い。
「透さん、危ない!」
と、言うや否や、白が発射した光線が透の頬をかすめた。ゆっくりと振り返ると、黒い砂が巻き上がっていくのが見えた。
「ひいっ!?」
数舜遅れて悲鳴をあげる。
「まじかよ、まだいんのかよ!?」
「とにかくここではあまり動けません! 外に出ましょう!」
そう言って、白は先陣を切って走り出した。
「お、おい、待てよ! 俺を置いてくなよお!」
「二人とも、ここにいてくれ。僕も行ってくるよ」
透とベルナールも白を追った。部屋を出たところで、カルロが壁伝いを歩いてきた。
「お、おい。一体何があったんだ? さっき白様が慌てて走ってくのが見えたが……」
「大丈夫です。カルロさんは寝ててください」
「とても大丈夫なようには……って、ぐう……ダメだ、体が言うこと聞かねえ……」
カルロは壁に片手を置いたまま、膝から崩れ落ちた。とてもじゃないが無理をさせられる状態ではない。
「では、俺は先行きます」
「君はゆっくり休んでいた方がいい。何かあったら、家族を頼む」
「お、おい! ちくしょう、何なんだよ!」
二人はカルロを置いて、階段を降りて行った。
一階では、扉を開けたまま白が突っ立っていた。透とベルナールは白の後ろで立ち止まり、肩越しに外の風景を見る。
影の海があった。
透は言葉を失った。夜の闇に覆われ、静かでシックな雰囲気の街並みを、数え切れぬほどの影の大群が行進している。大群は秩序なくのさばっており、さながら夜盗の襲撃のようだった。
「う、うわあ、町のみんなが大変だ! 助けないと!」
一足先に我に返ったベルナールが声を上げた。
「でも、助けるったって、どうやって」
「それは……」
透の質問に、ベルナールはそう言ったきり押し黙った。
「ここは戦うしかありません」
白が飛び出していき、シルバーバレットを放つ。光線は直線上にいた十数体を貫通し、一気に消し飛ばした。それは初めて見たときよりも、先ほど影を攻撃したときよりも圧倒的に強力な光線だった。おそらく出力を上げたのだろう。
しかしそれでも削れた数は微々たるもの。割れた海が戻るように、影はすぐに削れた部分を埋めた。しかも今度は影たちが一斉に白を向く。どうやら攻撃してきた相手に惹かれる習性があるらしい。
「し、白!」
「よくわからんが、緊急事態みたいだな」
透が白に加勢しようとレインボウを引いた瞬間、後ろから野太い声がかかった。振り返ると、巨体を引きずってカルロが歩いてきた。
「カルロさん、体はいいんですか!?」
「今はそんなこと気にしてる場合じゃねえだろ。とりあえず人の救出が最優先だ。宿を臨時に防衛拠点として、みんなを避難させるぞ」
カルロは苦痛に顔をゆがめながらも、落ち着き払った様子で指示を出した。
「は、はい!」
「わかった」
透とベルナールは同時にうなずいた。
「それじゃあトオルくん、こうしよう。白様と君で拠点の防衛をする。救出は僕がやろう」
「武器もなしにですか!? 危険です! せめて護衛として俺が……」
「僕は大丈夫。あいつらは白様に気が行っているようだし、今ならそれほど危険じゃないはず。それにあの量を白様だけに相手させるわけにはいかないよ」
「しかし……」
白を見ると、たしかに今のところは対抗できているが、徐々に押されてきているのは間違いない。やはりあれほどの数を相手にするのは、さしもの白でも厳しいらしい。
壁伝いを懸命に歩きながら、カルロが近づいてきた。
「宿にはまだ奴らがいるかも知れねえ。お前、戦闘経験なんてないだろ。お前は拠点の管理をしてくれ。救助は俺がやる。なに、俺の本業はハンターだ。ちょっと体調が悪いくらいで、あんな奴らに後れは取らねえよ」
そう粋がるが、カルロは今にもぶっ倒れそうなほどに息を荒げている。
「そんな状態の君を行かせるわけにはいかない。今この仕事ができるのは、僕だけだ」
「死んじまうかもしんねえぞ」
「僕だって男だ。宿の安全を確保したら呼びに行く。マリーとリナのこと、頼んだよ」
カルロは驚いたように目を大きく見開いた。そして一瞬何か考えるように目を閉じ、「ちょっと待ってろ」と、奥の部屋に消えた。そしてすぐに戻ると、ベルナールに何か手渡した。
「死ぬんじゃねえぞ」
ベルナールの手にあったのは短剣だった。派手な装飾のない無骨な剣である。
「わかってる」
ベルナールは力強く拳を握ると、駆け出した。
「トオル、頼りっきりになっちまって、すまねえ。頼んだぜ」
カルロは捨て台詞のように言って、階段をよじ登って行った。透はそんな状況じゃないのに、なぜか笑いがこみあげてきて、小さく笑った。
「白! 今行くぞ!」
透はレインボウを引いて、影の海に飛び込んだ。
「やばいやばいやばい」
透は焦っていた。光の矢をつがえては放ちを繰り返しながら、泣きそうな顔で騒いでいた。
三六〇度、どこを見回しても影であった。
もう一時間以上こうしているが、影は一向に減る気配がない。圧倒的な数の暴力である。
影に関しては読み通り、派手に攻撃してくる方に惹かれる習性があるようで、ほぼすべての注意を透たちに引き付けることに成功している。宿内の安全も確保されたようだし、本来なら順調に避難も進むはずなのだが、いかんせん人手不足である。ベルナール一人ではいつまでたっても終わるわけがない。
そして時間がかかれば、前線で戦っている者にも大きな問題が生じる。いわゆるガス欠である。つまり勢いよく飛び込んだはいいものの、すでに透のスタミナは限界に近付いているのだ。
「あとは私にお任せください。透さんは避難を」
透に背中を預けている白が、両手でシルバーバレットを撃ちながら言った。
「いやお前、そういうわけにはいかんでしょ……」
透の背中からは白の荒い息遣いが聞こえていた。
ガス欠は白にとっても例外ではない。それも、ある意味では透より深刻だ。
というのもシルバーバレットは、白の体を構成している光のエネルギーを撃ちだしたものだ。つまりこの技を使うたび、白は体を削っているということである。そのエネルギーは普段ならば、撃ちだした直後に補給が行われる。故に白は無限の弾数と無尽蔵の体力が実現できるのである。
しかし、夜になればその限りではない。暗くなり、エネルギーの供給が減れば、白の力は限りあるものとなってしまうのだ。
また心配事はそれだけではない。思い出すのは、インディゴで出会った幼女の顔。
彼女だけに限らず、インディゴの人々はみんな、どこか疲れ切った顔をしていた。仮にここで透が避難して、もし一人になった白がいつしか力尽きたら、人々はきっと成すすべなく蹂躙されるだろう。
もちろん透だって死にたくはないが、よもや白やインディゴの人々を置いていくなどという薄情なことはできまい。今戦えるのは他でもない、白と透だけなのだ。
とはいえ、このままこうしていても、ただ破滅を待つのみである。幸い影の進軍速度は亀みたいに遅いので、今は何とか持っている。しかし透の体力も白のエネルギーもいずれは尽きるわけで、そうなればこの影の軍勢にも簡単に押しつぶされてしまうだろう。
「どうすりゃいいんだ……」
透は徐々に迫ってくる軍勢を押しとどめながら、思考を巡らせた。しかし素人の透には、考えても考えても策は出ない。第一こんな極限状態ではまともな考え事などできなかった。
そんな透にさらなる追い討ちをかける事態が起こる。
「べ、ベッドが足りない!?」
ベルナールの声が聞こえた。
つまり避難所として開放した宿に、住民が入りきらないのである。インディゴは小さな町とはいえ、それでも立派な町である。考えてみれば全人口を収容するほどのキャパシティが一般の宿屋にあるわけがない。
最悪である。もし住民を一か所に避難させられれば、最低限守る場所は宿だけでいいことになる。しかしそれが不可能となれば、取り残された住民の危険は一気に増すことになる。こうなってしまえば敗色濃厚、いやもはや終戦である。
いや、そもそも町の全員をたったの三人で救出するなど、無謀だったのだ。結局至った結論は、打つ手なし、という絶望的なものだった。透は弓を引きながら奥歯を噛んだ。
と、透が絶望に打ちひしがれていると、不意に赤い光が顔を照らした。
「な、なんだ……?」
透は幻でも見ているような錯覚にとらわれ、弓を引く手も止めて光源を探した。宿の二階の窓から、カルロが松明を持って見下ろしていた。
「カルロ、さん?」
透の小さなつぶやきに、背中の白も攻撃を止めて宿を見上げた。
「トオルとベルナールが男見せたんだ! 俺だけのうのうと寝てるわけにはいかねえからな!」
カルロは苦しみに耐えるような声で、しかし不敵な笑顔で叫んだ。
すると次第に宿中の窓が開いていき、赤く光り始めた。中から松明を持った男たちが次々と現れ、宿の前は夕焼けのように赤く染まった。いや宿の前だけではない。町中が、インディゴの男たちによって照らされていた。
温かく燃える火の光が目に染みた。
「これは、負けられませんね」
すっかり回復したらしい白は、落ち着いた様子で前を向いた。影の大群はじりじりと近づいている。
「ああ、そうだな」
透はふっと笑い、そして二人は、また背中合わせのまま構えなおした。
しんと静まり返った夜の町。その大通りの冷たい石畳の上で。
「無理……まじで無理……いやもうほんと無理だから……」
透はヘタレていた。
路上であることなどお構いなく、透は土下寝スタイルで鮪のごとく転がっていた。
「透さん、本当にお疲れさまでした」
そんな透を、傍らで石畳の上に正座した一番の功労者が労った。
影の襲撃から数時間。大群を殲滅し、勇者一行は町を救った。
インディゴ住民が松明を掲げて以降、先ほどまでの苦戦が嘘のように戦況は好転した。まさに白無双である。さながらアクションゲームのごとく影を根こそぎ消していき、その姿は幼女の皮をかぶった鬼神であった。
疲労と睡魔からみるみる動きが鈍くなっていった透は、もはや後半はいるだけの存在へとなり下がり、ちょこちょこ残党狩りをするだけだった。一仕事終わった風でいっちょ前にぶっ倒れているが、実は大した貢献はしていない。
「しかし、あれは何だったのでしょう?」
返事をする気力もない透の様子を見て、白は誰に聞くでもなく言った。
たしかにそれは透も気になるところだった。落ち着いて考えてみると余計に不気味である。白すらも知らない、得体のしれない何か。明らかに自然の産物ではなく、不自然そのものであった。
「藍たちの失踪と、何か関係あったり……」
透は土下寝のまま、ふと思いついたことをつぶやいた。
「まあ、そんなわけないか」
論理性のかけらもない直感的な発言なので、透はすぐに否定した。白は何も言わなかった。
それから二人は、しばらく口を開かなかった。
「白様! トオルくん!」
しばらくして、遠くから声が聞こえると、ベルナールが駆けてくるのが見えた。白は立ち上がって迎えた。
「お帰りなさいませ。……どうでしたか?」
心配顔でそう訊ねた白に、ベルナールは息を整えてから答えた。
「みんな無事です。ケガ人も一人もいません」
「そうですか。よかった」
白はほっとしたように胸をなでおろした。
戦いの直後、ベルナールは住民の安否確認に奔走した。全員を避難させることはできなかったため、特に宿から離れた場所に住む人たちの安否が気遣われたが、どうやら被害はなかったらしい。
「カルロさんは?」
「自分の部屋で寝ています。家に帰るので精一杯だったんでしょう。かなり無茶をしていましたからね。立っているだけでもつらかったはずです。まあでも、心配はいりません。彼ならすぐに元気になります」
ベルナールは短剣を握りしめ、笑顔で返した。しかし、すぐに真剣な顔つきをして話を切り替える。
「ところで話は変わるのですが、お二人に見せたいものがあります」
「見せたいもの、ですか?」
「はい。北門なのですが、あの影と関係のありそうなものが見つかりました」
「わかりました、私が行きます。透さんはお疲れかと思いますので、先にお休みください」
向き直って白が言うと、透は少し考えてから立ち上がった。
「いや、俺も行く」
あの発言は直感的なものだが、なぜか気になった。
北門の中は暗かった。半開きの門から差し込む月明かりと、一本だけ掲げられた松明だけでは心もとない。
ランプを持つベルナールの先導で、透と白は扉の前にやってきた。
「閂が……」
白はランプに照らされた扉を見て、唖然としたようにつぶやいた。内側に開かれた扉には、真ん中で真っ二つに割れた角材が通してあった。断面は荒くささくれていて、無理やり折った様子が見て取れる。
「おそらく奴らは、閂のかかっているこの扉を、力づくでこじ開けたんだと思います。まあ閂は倉庫に予備もありますので、何とかなります。お二人に見てもらいたいのは、この先です」
ベルナールに促され、透と白は門の外に出た。空には満天の星が輝いていた。
「足元を見てください」
ベルナールの指示に、二人は下を向いた。昨晩の雨でまだ乾ききっていない地面に、ぼこぼこと跡がついている。何か形の悪い大きなものを引きずった様な感じである。目を動かしてその先も見てみると、ところどころに小さなくぼみが見えた。
「足跡、でしょうか? しかし、普通の動物の足跡ではなさそうですね」
白がその正体に気づいたらしく、つぶやいた。そのくぼみは、人間が履くような平らな靴底の形をしている。
「はい、僕もそう思います。それで、これは推測なのですが、この足跡は、あの影のものではないでしょうか」
推測だとは言っていたが、ベルナールの口調には確信めいたものが感じられた。同時に透の中にも、根拠のない確信があった。十中八九、この足跡はあの影につながっている。そしてその影は。
透は心音が速くなっているのを感じ、先に目をやった。
「行先は、決まったな」
どす黒い道筋が、暗く深い森に続いていた。
長い夜が明けた。
透はどこか光の弱い朝日に向かって、大きなあくびをした。
「透さん、眠そうですね。大丈夫ですか?」
「睡眠時間短かったからなあ」
心配そうに尋ねた白に、透は首をこきこき鳴らしながら答えた。
「まあ、大丈夫だ。もう慣れたよ」
「そうですか? 無理しないでくださいね?」
透と白はインディゴを出発するため、北門へ来ていた。日の登った町は何事もなかったように、静かでさびれた町に戻っていた。
「それではベルナールさん、リナさん、短い間でしたが、お世話になりました」
白は正面に向き直ってぺこりと頭を下げた。
「いえ、こちらこそ」
開け放たれた門をバックに、ベルナールは愛想のいい笑顔を返した。その後ろでベルナールのズボンを掴み、リナは眠たそうにまぶたをこすっている。
「しかし、結局カルロさんには挨拶できませんでしたね」
「そうですね。あの体調なのに昨日はかなり無理をしましたし、朝も早いですから。かく言う僕も、まだ眠いです」
言いながら、ベルナールはふあっとあくびをした。釣られてリナもくあっとあくびをした。
「やっぱり、カルロさんが起きるまでは待っていた方がよかったでしょうか? とてもお世話になりましたから」
「いえ、その必要はありません。そりゃあ、お二人がすでに出発したと知ったらがっかりするとは思いますが、彼だってわかっています」
「そうですか。それじゃあ、私たちもそろそろ出発します」
「はい、お気をつけて。ほらリナ。白様とトオルくん、もう行くって」
ベルナールが頭を撫でると、リナはぐしぐしと目をこすった。そして頑張って目を覚ますと、飛切りの笑顔で。
「白様、お兄ちゃん、行ってらっしゃい!」
太陽のようにまぶしい笑顔で、透の眠気は吹き飛んだ。その笑顔ひとつで、元気のない町が少し明るくなった気がした。
「おう、行ってきます!」
透はそう言って歩き出すと、白は二人に会釈して後に続いた。