四
透は走っていた。左手に白の手を引き、うっそうと茂る木々を器用にかわし、時折後ろを振り返っては、また声を上げる。
「うおおお! なんじゃありゃあああ!」
地面を削り取るような勢いで迫る四つん這いの黒い獣は、戦車のようだった。
ホワイトを出発して早数十分。とっくに見飽きている森の風景を忌々しげに眺めながら歩いていると、さっそく遭遇してしまったのである。ウォルムのグッドラックは呪いの言葉だったらしい。
透にその小さな手を引かれ、同じくひた走る白は息の乱れた声で質問に答えた。
「あ、あれはクロヒグマですう!」
やはりクマさんなどいなかった。ある日森の中で出会ったのは間違いなく熊である。
熊が人を襲うのは、人間への恐怖から先制攻撃をしているという話だが、こと奴に限ってはとてもじゃないがそんな風には見えない。どう見ても獲物を見つけた野獣の表情である。
こんなことになるなら遠回りでも安全な街道を行くべきだった。透はまたしても心変わりしていた。
「ていうか熊速すぎだろ! でかい奴は遅いものだって相場が決まってるだろ!」
巨人かと思わせる程の巨体をアクティブに動かしまくって、クロヒグマは全力で走る透たちに着々と近づいていた。
大抵のアニメや漫画では体のでかい、いわゆる脳筋的設定のキャラクターはスピードが遅く、噛ませ犬の代表格である。しかし体を動かすのは筋肉なのだから、そのでかいというのが脂肪でなく筋肉によるものなら、そっちの方が速くなるのは当然である。
透が「やばいやばい」と騒いでいる内にも確かな速度差を持って、クロヒグマは怒涛の勢いで距離を詰める。そしてついに獲物まであと一歩のところまで迫り、一気に押しつぶしてやろうと跳び掛かってきた。
「ひいっ!?」
命の危機を感じた透はとっさに右に転回し、すんでのところで白を抱えてダイビング。小さい奴の数少ないアドバンテージは小回りである。
「たはあっ! やべえ、やべえって、あれ!」
透はすぐさま起き上がり、息を整えた。クロヒグマは着地から体勢を立て直すのに手間取っている。やはり単純なスピードは速いが、自分の体重も相まって遠心力や反動は大きいようだ。
「って、安心してる場合じゃねえ! 巧くいってくれよ、まじで。じゃないと俺死んじゃう」
透は片膝を立ててレインボウを引いた。そしてすばやく狙いをつけ、ようやく体勢を立て直したクロヒグマの振り向きざまに放つ。光の矢は頬をかすめて背後の木に刺さった。
「……きゃいん!?」
クロヒグマは一瞬硬直した後、犬みたいな鳴き声を上げて逃げていった。その様子を見て、透は弓を下ろして地面に座り込んだ。
「助かったあぁ……」
チャイノには効いた威嚇射撃が熊にまで効果があるか不安だったが、何とか巧くいった。この分なら他の多くの動物にも効きそうだ。
「透さん、お疲れ様です。おケガはありませんか?」
言いながら、白が手を差し伸べてきた。透は照れくさそうに白の手を掴んで立ち上がった。
「ああ、大丈夫だ。ありがとう。でも心配するなら助けてくださいよ」
「しかしそれでは巧くなりませんよ?」
「まあ、そうだけどさ……」
相も変わらず白は、圧倒的な戦闘能力を持っていながら、透のヘタレが伝染して野生動物を傷つけられずにいる。とはいえ動物を傷つけられないという条件は透も同じであり、根本的な戦闘能力は白が上である以上、透にできる威嚇射撃が白にできないわけがない。なので稀に手助けはするのだが、透の訓練のため白は基本的には手を出さないようにしているのだ。
というのも危険な道を行く以上は、自分の身は自分でも守れた方がいいという白の判断からである。透はここでも、安全な道にしとけばよかったかなあ、と後悔した。しかしおかげでレインボウの扱いもかなり様になってきたので、白の判断は正しかったのだろう。
「それでは透さん、明るいうちに進みましょう」
「そうっすね……」
透はホワイトに続く道を名残惜しそうに眺めてから、どんどんと先に行く白を追った。
パチパチと音を立てて燃える火の光が、暗い夜の森を照らしている。空には細い三日月と満天の星が輝いている。
村に着かぬまま日も落ちてきたので、二人は野宿をすることにした。焚火の火は熱いが、すぐ近くを流れる緩やかな川から涼しい空気が送られている。
「おお、美味いな、これ」
金属の小さな皿によそったスープを一口飲み、透は思わず顔をほころばせた。感想を聞いて、焚火を挟んだ向かいに正座する白はほっとした表情をした。
「よかった。おかわりはまだありますので、どんどん食べてくださいね」
焚火では、枝を組み合わせた手作りのファイヤーハンガーに吊るした鍋で、野草や木の実を入れたスープを温めている。その周りには木の串に通された魚が二尾、刺さっている。透はその串を一本捕り、腹からかぶりついた。
「やっぱ魚も自分で捕ると一味違うな」
透は偉そうに言うが、別に彼は捕まえてない。正確には自分で捕ろうと努力した、である。
野宿の準備において、透の貢献はほとんどない。いや、はっきり言って、ない。
この焚火を設置したのも着火したのも白であり、さらにそのための焚き木を拾い、それでファイヤーハンガーまで作ったのも白。食材として野草や木の実を見つけ出し、調理したのも白である。
透はその一時間程の間ひたすら川魚を追いかけまわし、結局一尾も捕まえられないまま、加勢に入った白が二尾をあっさり捕まえた。さらにさらにその魚の下ごしらえと味付けも白である。これだけで透がどれ程足手まといかわかる。
ちなみに肉を食えない透が魚を食える理由は単純である。人間と全然違うからだ。体を毛ではなく鱗が覆い、手足ではなくひれが付いており、肌も弾力はあるがこう、ヌメッとして気色悪い感じはあまりに人間とかけ離れている。その上食べ慣れているものだから、虫とかと違って抵抗感は薄い。
そもそも肉だって完全に食べられなくなったわけではない。今は実際に生きている野生動物がとても近くにいる生活をしているから、何となく申し訳ない感じがするだけである。旅が終わり、しばらくしてほとぼりも冷めれば、信念の弱い彼は誘惑に負けて肉を食いだすだろう。
「そう言えば透さん、レインボウの扱い、巧くなりましたよね」
火の調節をしながら、白は話題を振った。白は食べる必要がないので、食糧や塩の節約のため食事をしていない。それだけに誰かの食事中は手持無沙汰になるのだろう。
「そ、そうかな?」
「はい! とても強くなったと思いますよ! 今朝はクロヒグマも撃退しましたから!」
「ああ、あいつか……」
透は今朝遭遇したクロヒグマを思い出した。何とか命からがら撃退できたが、恐ろしい相手だった。一歩ですげえ跳んでくるし、木とか一撃でなぎ倒すし。スピードもパワーも人間とは桁違いである。
それに遭遇したのはクロヒグマだけではない。チャイノにも何度か出会い、三頭くらいに囲まれたこともあった。あとグレーホークという鷹の空襲にもあった。それらの状況を死にかけながらも何とか切り抜けてきたのである。
最初のころはあっちこっちに暴れまくっていた光の矢も、もともと扱いやすい武器と言うこともあって、かなりの精度でコントロールできるようになってきた。野生は人間をたくましく育てるのである。
「ところで、寝てる間の見張りとか、どうするんだ?」
とはいえ、やっぱり怖いものは怖いので、透は身震いして質問した。昼間の連中にはまさか会わないだろうが、ウォルムの話では夜行性の猛獣もいるらしい。寝ている間に食われるとか、たまったもんじゃない。いや、起きてる間に食われるのも嫌だが。
「私が起きていますので、透さんは安心して寝てください」
「でも色の精霊は夜とか、暗いのに弱いんじゃなかったっけ?」
「そう、なのですが……」
「まあ俺だってずっと起きてられるわけじゃないからな。ここは交代制でいいんじゃないか? 俺が前半で、白が後半」
「ですが、それでは透さんに負担が……」
「気にするな。俺は早起きは苦手だが、夜更かしは大得意だ。むしろ夜からが俺の時間とさえ言える」
「そうなんですか?」
「ああ。それに女の子だけに無理させたんじゃ、男がすたる」
透の男なんてとっくにすたれているが、透は決め顔で言った。
「そう、ですか……。では、すみません。お言葉に甘えさせていただきます」
白は正座したまま、小さく会釈した。顔が赤い気がするのは焚火のせいだろうか。
「え、えっと、あの、透さん、おかわりいかがですか?」
「ん、あ、ああ」
透は慌ててスープを飲みほし、笑顔で手を差し伸べる白に皿を手渡した。
「頼む」
白は受け取った皿にスプーンでスープを注ぎ、透に返す。
「はい、どうぞ」
「うむ、ありがとう」
熱いスープが、胃に流れ込んだ。
ガクン、と。
天地がひっくり返ったような衝撃に、透は意識を取り戻した。
閉ざされた瞼をゆっくりと開き、未だ覚醒しきらぬ脳みそで状況を確認する。目の前の焚火は消えていて、森の中はすっかり暗くなっていた。
「まじか……見張り中に寝るとか俺まじか……」
つまり透は居眠りをしていたのである。キャンプの経験なんて学校の体験学習的なものでしかないので、そもそも透に焚火の維持など出来ようはずもないのだが、足掻いた跡も見受けられないということは、結構早い段階で寝ていたらしい。
夜更かしが得意とか息巻いていたが、そもそも夜更かしの得意な人間はあまりいない。カフェインとかノルアドレナリンとかブルーライトがそうさせるのであって、電気もなく暇つぶしできるものもなく、それなりに健康的な生活を送っていて辺りが暗くなれば、おのずと眠くもなる。
右太ももが痛いのは、おそらくここに肘を立てて寝ていたのだろう。ふとした拍子にそれが外れて目覚めたということだ。
火打石で火を起こすなどと言う芸当ができない透は、とりあえず白の様子を確認しようと立ち上がった。
しかし、そこに白はいなかった。
「あ、あれ、白、さん……?」
布団代わりにと貸し出した透のブレザーも含めて、白が寝ていたはずの場所には何もなくなっていた。周りを見てもそれらしき人影はない。
「お、おおお……?」
透はみるみる青くなっていく。まさかウォルムの言っていた夜行性の猛獣が現れたのだろうか。それでまさか……。
白が心配になると同時に、透は怖くなった。そして。
「し、白ぉぉ……」
情けない声で幼女の名前を呼びながら、男は駆け出した。
数分走ったところで、自分がアホだったと気づいた。
まずその夜行性の猛獣と言うのが現れたとして、それなら白同様、逃げも隠れもしていない透が無傷なのは不自然だ。いやまあ、その猛獣が透みたいな変態なら、男には見向きもしないだろうが、相手は理性のない獣である。食欲に男も女もないだろう。
そして何より、何の当てもなく夜の森の中で走り出したことがアホである。ウォルムも言っていたが、暗闇で迷ったらお終いだ。もし白が自発的にどこかへ行ったなら、何か戻る手立てもあるかもしれないが、サバイバル能力のない透は完全に遭難である。
と、白の心配が薄れると、今度は怖さが倍増した。透は立ち止まって辺りを見回す。夜の森は、寝起きで目が慣れきっていないこともあって、周りが何も見えない。本当に一寸先が闇である。
「ひいっ!?」
夏の生暖かい風が肌を撫で、飛び上がった。そんなもの普段なら全然気にしないが、状況が状況であるから神経も過敏になっている。
風でガサガサとなる草木も虫たちの微かな鳴き声も、全てが不幸の前兆ではないかと疑い始めた。そしてついに恐怖が限界値を突破した透は、涙目になりながら叫んだ。
「……し、白ぉ!」
「透さん!?」
「ひいっ!?」
透は背後から突然かかった声に飛び上がった。しかしその声が聞き慣れたものだと気づき、恐る恐る振り返る。驚いた様子で立ち尽くす白がいた。右の手のひらに、ぼんやりとした光球が浮いている。白いワンピースの上には、透の紺のブレザーを肩に羽織っていた。
「おお、白! 白ぉ!」
透はほっとして、白の足元に飛びついた。白は何が何だかわからずアワアワしながら、とりあえず透より頭を低くしようと、手のひらの光球を消して屈んだ。
「透さん、ど、どうしてここに!?」
「それはこっちのセリフだ! 俺を一人にするなよぉ!」
幼女に泣きつく男とか見苦しいにも程がある。しかし白はそんなことも気にせず、子供をあやすように透の背中を撫でた。
「す、すみません、交代の時間には川沿いを歩いて戻るつもりだったのですが……」
「ていうかこんな時間、に……」
言いながら今さら自分の情けなさに気づき、透の言葉は尻すぼみになった。そして精一杯クールを装って立ち上がる。
「うん、ごめん。取り乱した」
透は居心地悪そうに、特に意味はないがネクタイを正した。もはやどんなに取り繕っても意味をなさない。
「あ、いえ……」
白も狐につままれたような顔で立ち上がった。
「……それで、何だ。どこ行ってたんだ、こんな時間に?」
さっきのことはなかったことにして、透は改めてクールに聞いた。
「えっと、何と言うか、森の中を歩き回っていました」
「歩き回ってたって、何で?」
「いえ、その、やっぱり眠れなくて。居ても立っても居られなくて、こんな森の中を闇雲に探したって、見つからないことはわかっているのですが……」
つまり白は妹たちを探し回っていたのだ。精霊同士は共鳴し合っているから、近くになればわかるそうだが、とはいえ森の中をむやみに探しても効率は悪いし、とても見つかるとは思えない。それは白もわかってはいる。その行動に何の意味もないことが分かっていても、とりあえず動かずにはいられなかったのだろう。
「すみません。バカですよね、こんな……」
確かに白はバカである。しかしバカとは罵倒のみに使われる言葉ではない。
バカとはすなわち、想いの強さである。野球バカなら野球に対する、漫画バカなら漫画に対する、親バカなら子供に対する、最大限の想いの強さ。そのためなら他には何も見えなくなるほどの強烈な想いである。やはり白はホワイトの酒場でも感じた通り、姉バカなのである。
「じゃあ白、ちょっと散歩するか」
透はそう言って、森の奥へと歩き出した。白は驚き、慌てて透の背中を追った。
「ど、どうしたんですか?」
「俺も寝れなくてな。ちょっと暇つぶしに付き合ってくれ」
「で、ですが……」
「ですがって何だよ。……まさかまた俺を一人にするのか!? 泣くぞ、マジで!」
「あ、いえ、そう言うわけでは……」
「だったら大人しく付いて来い。でないと遭難しちゃうぞ。俺が」
「は、はい!」
ここで透の言葉の真意がわからないほど、白も鈍感ではあるまい。透は一緒に探そうと言っているのだ。今やろうとしていることが無意味な行動だとはわかっている。その上で、透は白の気持ちを汲んで、バカな行動に付き合おうとしている。その苦しさを一緒に背負おうとしているのだ。
「俺じゃ頼りないとは思うけど、協力させてくれ。一人で気張るな。白が頑張るなら、俺だって頑張るよ」
白は羽織ったブレザーの襟をギュッと握った。
「あの、透さん」
「どうした?」
当てもなく、それでいて堂々と暗い森の中を練り歩きながら、透は聞き返した。いつもは白が船頭だが、今夜ばかりは透が前を歩いている。目いっぱい背筋を伸ばし、しっかりと大地を踏みしめるその姿は、まさに勇者のようだった。
「図々しいことだとは分かっているのですが、一つお願いを聞いてもらえませんか?」
「おう。遠慮しなくていいぞ」
「もう一人、助けてほしい妹がいるんです」
透は立ち止まり、少し驚いて白に向き直った。
「藍と紫以外にってことか?」
「はい。失踪した精霊は二人だけじゃありません。一番末の私の妹、黒もいなくなってしまったんです。ですが彼女は藍たちほど世界に影響を与える存在ではありませんから、黒を探すのは透さんの役目ではありません。ですから本当は私一人で探すつもりだったんですが……」
なるほど。白が夜弱いにも関わらず、こんな時間に歩き回ってまで妹たちを探していた一番の理由はこれか。
もちろん藍と紫のことも心配なのだろうが、そっちには天命を授かった勇者がいる。透に任せても巧く行きそうにない、ということについては信奉するレイナが選んだ勇者である以上置いておくとして、もう一人。末妹の黒については、透には知らされていない。故に自分ひとりで、それも透の旅に支障をきたさないよう探さなくてはいけないということだ。それが大きな不安になっていたのである。
もしかしたら昨日の晩、いつの間にか白が同じ布団に入っていたのも、これが原因かもしれない。透が寝た後に宿を抜け出して黒を探し回り、光のエネルギーが尽きかけたところで帰ってきて、ふらふらとベッドにたどり着く前に寝てしまったのだろう。
「何だ、そんなことか」
透は昨晩の白の行動をありありと想像しながら、笑い飛ばした。
「尋ね人が二人から三人になるだけだろ。もともと大変な話なんだから、一人増えたところで変わらねえよ」
「すみません、また透さんの負担を増やすことになってしまい……」
「別に負担じゃない。白の大事な妹を探すんだ。世界だのなんだのより、そっちの方がよっぽど重要だよ」
「……ありがとうございます。透さんはすごいですね。いつも助けられています」
「そうか? 白に全部任せっきりだし、足引っ張ってばっかで、むしろ申し訳ないくらいなんだけど……」
「いえ、そんなことありません。透さんには助けられてばかりで、感謝してもしきれません」
白の笑顔に、透は思わずそっぽを向いた。同時に今までのくさいセリフがフラッシュバックしてきた。
「そ、そうか。白の役に立ててるようならよかった。……まあ、何だ。それじゃあ、もうちょっと散歩、続けるか」
「はい!」
透は白に顔を見られないよう、歩き出した。白も透の一歩後ろを付いていく。二人は何を話すでもなく、ただゆっくりと夜闇の中を消えていった。
その日以来、白はぐっすりと眠るようになったという。




