二
光の女神、レイナの屋敷から西へ。草原の間に伸びる道をしばらく歩くと、緑豊かな森に入った。現実ではありえないような幻想的色使いの風景は、レイナの屋敷の周りだけらしい。
青々と生い茂る木々の間を、白い木漏れ日が明るく照らす。吹き抜ける風が枝葉を打ち鳴らし、鳥たちのさえずりが心地よく響く。
そんな静かな森の中に、叫び声が木霊する。
「だあ! また外したあ!」
左手に弦のない弓を携え、透は頭を抱えた。その前方十メートルほどには、板の中心に円の描かれた的が立っている。さらに先を見ると、まったく見当違いの木に白く輝く矢がむなしく突き刺さっていた。
「何が素人でも狙いやすいだよ! 全然当たんねえじゃねえか!」
「透さん……」
透の斜め後ろで、白は呆れたように言った。言外には出さないが、透はそのつぶやきの中にに「まじかよ、下手すぎだろ……」的なニュアンスが含まれている気がした。被害妄想である。
旅に出発した二人は、屋敷からほど近い森の中で弓の練習をしていた。早急に藍と紫を探さねばならないのだが、しかしせめて最低限、武器が扱えなければ冒険などままならない。そこでこの、白力作の的を使って訓練をすることにしたのだ。
すでに何度か矢を放っているが、一向に当たる気配がない。ひたすら矢を生産しては適当な場所に捨てる行為を繰り返している。まあ光の矢は一定時間すると自然に消えるようなので、ただごみを捨てる行為になっているわけではないが、たまに木に当たったりして傷つけているので環境破壊であることに違いはない。
「つーか、弓って難しすぎだろ……」
弓は難しい。まず硬い弓を引くには力と技術が必要であり、さらに矢を命中させるには風と重力を念頭に置かなければならない。
しかしこのレインボウはその二つを必要としない。さらに無反動なので、ちょっと練習すれば非常に扱いやすい部類の武器である。いくら弓なんて使ったことがないとはいえ、まぐれでも一発くらいは当てていいものであるが、絶望的に的外れである。
「ああ、なんかもう一気に自信なくなったわ。もう帰る。結局俺に世界を救うなどという大それたことはできなかったんだよ。レイナには失敗したと報告しといてくれ。俺は亡命する」
ついさっきの決心はどこへ行ったのか。世界の命運を託された勇者は開幕早々、音を上げた。
「ちょっ! 待ってください! 諦めるの早すぎですよ! もうちょっと頑張りましょうよ!」
「無理だ。もうどうあがいても当たる気がしない。世界も救える気がしない」
「無理じゃありません!」
「いや無理だろ、どう考えても」
「透さんはレイナ様が選んだ勇者様です! 私はレイナ様のことを、そしてもちろん透さんのことを信じています!」
「……無理だと思うぞ?」
白に屈託のない、天使のような笑顔でまっすぐ見つめられ、透は思わず目をそらした。
「しかし、何かこう、もうちょっと早く巧くなる方法とかないものかね。ただ的に向かって撃ってるだけってのも、ちょっと飽きてきたし」
「簡単に強くなる方法なんてありません! 練習あるのみですよ!」
透の発言はあまりに根性なしだが、白も少し根性論チックだ。意外と体育会系なのかもしれない。
「それでは、まず私が手本をお見せしますので、よく見ててくださいね!」
そう言うと、白は的の前に立った。
「お、おう。じゃあ、これ」
「いえ、大丈夫です」
透がレインボウを差し出すと、白はそれを制止した。しかし白は武器になりそうなものなど持っていない。完全に手ぶらの状態である。
一体どうするのだろうと透が見ていると、白は右手を胸に当て、小さく深呼吸した。そしてその手をまっすぐ的に向け、人差し指と親指を広げて指鉄砲の形を作る。するとすぐに人差し指の先端が白く光りだした。白はしばらくそのままじっと的を見つめ。
瞬間、遠くで爆音が聞こえた。
「……え?」
一瞬のできごとで、透には何が起こったのかわからなかった。ただわかったのは、ひゅっという極小さな音が聞こえたかと思ったら、すかざず巨大な爆音が響いたということ。
的に目を向けてみると、いつの間にか中央に親指ほどの丸い穴が開いており、うっすらと煙が上がっている。いや、それだけではない。よく見ると、的の後ろに生えている太い木にも穴が貫通している。
「このように精神を統一して狙いを定めてですね」
「い、いやちょっと待って! その前に今の何だ!?」
歯牙にもかけず解説を始めた白に、透は慌てて待ったをかけた。
「え、今のって何です?」
「いや、今の爆音だよ! まさか白がやったのか!?」
「え、ああ、はい。そうです。私の中にある光のエネルギーを凝縮させて射出したんです」
「はあ、つまり光の弾丸ってとこか?」
「特に名前とかはありませんけど、そういうことですね」
なるほど、名前はないのか。では便宜的に銀の弾丸と呼ぼう。やべえ超クール。などと、透は勝手に名づけることにした。
「まあお手本なのでちょっと出力を抑えていますが。それが岩盤に当たったんだと思います」
「今ので出力抑えてるのか……」
つまり本気を出せばもっと高威力で攻撃ができるということである。
ここから正面に岩のようなものは見えない。聞こえた爆音も遠くから響いてくるようだったし、つまり当たった岩盤はかなり奥にあるということだ。そんな遠くの岩盤を、的の中央を正確に狙ったうえで砕き、まだ上があるというのは何ともチートである。
「……もうこの旅、白だけでいいんじゃね?」
シルバーバレットがあれば戦闘は白ひとりで充分である。ゲームなら回復担当なども必要なのだろうが、透は魔法使いでも何でもない。消毒薬と包帯だけ持ってるただの人間である。
他にただの人間である透にできる役割と言えば荷物持ちくらいだが、これも透は小さなポーチ一つしか持ってないし、筋力もないのでそんなに沢山持てるわけではない。頭だって特にいいわけではないので、どう考えても足手まといにしかならないのである。
「そんなことありませんよ! 頼りにしています、透さん!」
「こんなこと言うのも何だけど、さっき会ったばっかの男に期待かけすぎじゃね?」
誰が見たって邪魔にしかならないのは明白なのに、なぜこうも白は透を信じられるのだろうか。しかし白は透のそんな疑問に、何の躊躇もなく答える。
「当然です! だってレイナ様は聡明なお方ですから! そのレイナ様が勇者様だと判断した方ですから、私は迷わず付いていくだけです!」
「そうなのか……?」
「そうです!」
白ははっきりとこう言うが、やはり透にはレイナが聡明な方には思えなかった。印象としては適当そう、あるいは怖いの二つしかない。いや、白がこれだけ言うのだから、普段はやっぱり聡明な方なのだろう。
しかしそれならもっと疑問なのが、その聡明な方が、なぜ透を勇者に選出したのかである。こればかりはどう考えても見当がつかない。
「そういや、光のエネルギーってよく聞くけど、何なんだ?」
勇者に選ばれた理由は聞いてもどうせ答えてくれないので、透は別の質問をした。
レイナによるとレインボウはそれ自体が膨大な光のエネルギーの集合体と言っていたし、その矢は周りの光のエネルギーから作り出すと言っていた。さっきの白の攻撃、シルバーバレットも光のエネルギーを凝縮させて射出したらしい。
「光のエネルギーとは光そのもののことであり、光の女神であるレイナ様が扱える特別な力の源ですね。このエネルギーを使ってレイナ様は色々な奇跡を起こしたり、神具を創ったりするんです。レイナ様に創られた私たち精霊も、この光のエネルギーによって構成されています」
「ということは、じゃあさっきのは体削って撃ってるってことか?」
たしか白は、体の中にある光のエネルギーを射出したと言っていた。そしてその白自体は光のエネルギーから構成されている。ということはつまり、自分を構成しているエネルギーを放出することで、攻撃を行っていたということだ。
なるほど。だとしたら、これはむやみに撃てるわけではない。だから白ひとりでいいというわけではないのか。
「まあ、そうですね。でも光さえあればエネルギーは常に回復しますので、昼間なら何の負担もなく無尽蔵に撃てます」
そういうわけでもなかったらしい。むしろ夜までエネルギーを溜めておけるので、完全にレインボウの上位互換だ。やっぱり白ひとりで充分な気がする。
「さ、私のことはいいですから、レインボウの練習に戻りましょう!」
「ん、ああ、そうだったな」
「遠くの的に当てるには、さっき私がやったようにしっかり狙って、精神を集中させる必要があるんです。こう、グーっとやって、ギュギュっとやって、ジーっとして、グワっと放つんです」
「ぐ、グー? ギュ、ギュ……?」
抽象的すぎて、透には何を言っているのか、わからなかった。いや、何となくニュアンスは伝わってきそうな感じではあるが、それでもニュアンスしか伝わってこない。これが天才か。
「もうちょっと日本語でお願いします」
「え、日本語だったのですが……?」
白は心底驚いたように言った。残念ながら透は松井じゃない。ミスター語は理解不能である。
「と、とにかく! 透さんはまだ弓の初心者だから、基本ができてないだけです! 基本さえマスターすれば、透さんなら必ず巧く扱えるようになります! はい、もう一度弓を引いてください!」
「ああ、はい」
透は言われた通り的に向けて弓を引いた。
「はい、まずそこです。矢の持ち方が違います。透さんのそれは何だか和弓みたいです。レインボウは洋弓です。ですからこうやって、人差し指と中指と薬指の三本で弦を引くんです」
白はエアーで弓を引くような仕草をしながら説明した。
「こ、こうか?」
白に指摘された通り、透は実際には弦などない弓の弦を想像しながら引いてみた。しかしまだぎこちない。
「そうじゃなくて、こうです!」
「こうか?」
「うーん。何か違います」
白は腕を組んで首をひねった。そしてそのまま透の前まで歩いていく。
「こうやるんです」
「おおう!?」
突然白に手を握られ、透はびくっとした。驚いた拍子に手放した矢はまったく見当違いの方向に飛んでいった。
「それでここに弦があるとして……聞いてます?」
「え? お、おう! 聞いてるぜよ!」
「それなら、いいですけど」
白の手は、その名の通り白く小さかった。おまけに柔らかい。透の骨ばった手と比べるとあまりに違いすぎる。
「では、このままググッと、首辺りまで弓を引いてみてください」
「うっす」
透は心臓をバクバクさせ、自分の手を握る白の手をちらちらと見ながら弓をひく。弓を持つ左手と、引いた右手の間で一筋の光が伸び、やがて一本の矢が完成した。
「そしてよおく狙いを付けて、ここと思った場所で指を開いてください」
「うっす」
透は白の説明などほとんど聞き流し、的を狙うことよりも白の手の感触を確かめ続けることに集中していた。もちろん狙いなどほとんどつけず、ほぼ放心状態のまま透は矢を放した。矢は正面へまっすぐ進んでいき、的をかすめて後ろへ飛んでいった。
「おお、もうちょっとでしたね! すごいです!」
白はすかさず褒めるが、すごいのは白の方である。基本的に狙いを付けたのは白だ。むしろ白だけならちゃんと当たっていたコースである。しかしあと一歩。透の心に動揺と邪念があったせいで外れてしまった。
「そ、そうか? た、たまたまだよ。あは、あはは」
透は何とか謙虚な姿勢を保っているが、まんざらでもない表情である。武器はまともに扱えないし、色仕掛けには簡単に引っかかりそうだし、すぐ自信をなくすし、そのくせお世辞は真に受けるし。ここまで初期能力どころか伸びしろにも期待できない勇者というのも珍しい。
「きっと透さんには才能があるんですよ!」
「そ、そうか。じゃあ、もうちょっと頑張ってみようかな」
「はい! 頑張りましょう!」
白にまんまと乗せられ、透はまた弓を引いた。
すとん、と光の矢が円の中心に突き刺さった。
「やっと一発当たったあ!」
透はもろ手を挙げて喜んだ。木立の中でレインボウの練習を開始し、一時間近くがたっていた。
一時間で一発である。
白にアシストしてもらった後も何度となく矢を撃ったが、今の今まですべて外してきた。もちろん多少は進歩しているので惜しいところにはいくようになったのだが、それでも一向に当たらなかった。透はそれだけ邪念と雑念の多い人間なのである。今回もはっきり言ってたまたまである。
「やりましたね、透さん!」
白は一時間も矢を外す場面を見せられてさぞ退屈していたのだろうが、そんな表情は一切見せずに透を褒めた。まさに天使のごとき優しさである。
「いやあ、何とか巧く行ったな!」
今でこそ透のテンションは高いが、さっきまでは一回外すたびにやる気をなくしては、白が励ますという無駄に長い戦いがあった。勇者のお守りも大変である。
「すごいです透さん! やっぱり透さんは勇者様に選ばれるべくして選ばれたんですね!」
「ああ! 何かこう、今なら魔王だって余裕で倒せそうだ!」
おだてられればすぐ調子に乗る。おそらくこいつは極限まで厳しくして、まず根性から叩き直さねば世界の破滅を加速させるのではないか。ある意味、白が優しすぎるせいで透をよりダメにしている気もする。
「ところで気になったんだが、この冒険ってモンスターとか出るのか?」
練習もひと区切りつき、透はかねてより思っていた質問をした。
「モンスターですか?」
「世界を救う冒険って言ったら、道中でモンスターと戦闘したりするだろ? スライムとかさ。今こうやって弓の練習してるのも、そういうやつらに対抗するためじゃないのか?」
「うーん、スライムはいませんし、モンスターってわけじゃないと思いますが、野生動物はたまに襲ってくると思いますよ?」
「や、野生動物って、リスとかだよな……?」
「まあリスもいますが、襲ってくるのは普通にイノシシとかクマとかです」
「く、クマ、だと……」
透はぞっとしてつぶやいた。
クマには二種類存在する。ひとつはいかにもファンタジーと言ったかわいらしいクマ。つまりテディーベアとかそういった類のクマさんである。そしてもう一つはたまに野山から住宅街に降りてきて人とかヤッちゃう危険なやつら。クマ。いや、熊と表記した方がいい。
ここは異世界である。なので人間世界に出没するようなやつらでなく、クマさんである可能性はあるっちゃある。
しかし今までのレイナとのやり取りから察するに、それは非常に淡い期待である。なにせ回復アイテム、というか治療アイテムとしてオキシドールが出る世界である。
つまり襲ってくるクマさんは熊である可能性が高い。現実的な猛獣であるだけに、ある意味モンスターなんかよりも恐ろしい。
「まあ、こちらにはレインボウもありますから、大した相手ではないと思いますよ?」
白のそんな言葉はすでに透の耳には入っていなかった。透は身震いして、また思い直す。今日何度目かの心変わり。
これは本気で死んでしまう。
このままこの旅を続ければ、いや続けるも何もほとんど始めてないのと同じであるが、とにかくこれでは命がいくらあっても足りない。そもそもいくつか命があっても一回だって死にたくない。
やはり無理だ、この冒険は。白と世界には悪いが、早いとこ断らせてもらおう。そしてレイナには脅迫もされているが、まあ土下座でもなんでもして許してもらおう。レイナだって罪のない一般人に必死で命乞いされれば、よもや慈悲なく死刑を宣告するような心無い神ではないはずだ。根拠は一切ないが。
もはや芸術的な程に手のひらを返した透は早急に白にリタイアを申し出ようと、口を開いた。
「な、なあ白、やっぱり……ひいっ!?」
しかしその瞬間、背後の草むらがガサガサと音を立て、透は思わず軟弱な悲鳴を上げた。
「何だ!? 風か!? 風だよな!?」
透は半泣きになり、風であってくれと祈りながら振り向く。その先には。
「フゴッ! フゴッ!」
茶色い毛色のブタさんが、しきりに地面を蹴りながら、荒く鼻を鳴らしていた。その鼻の両脇には、ブタさんらしくない太くて鋭利な牙がご立派にそそり立っている。
一瞬の静寂。いろいろな衝撃で透の思考が一瞬フリーズする。そしてまた一瞬の間で再起動した透の脳みそが瞬間的にある判断を下し、白の手首をつかんだ。
「ふえっ?」
突然のことに困惑する白をよそに。
「のああああ!」
透は、全力で走り出した。
つまり逃走である。白にも気が回ったことは多少マシかもしれないが、しかしやっぱり勇者としては落第点である。
透はとりあえず、がむしゃらに走った先にあった茂みの裏に転がり込み、ブタさんの死角に入った。そして息を整えながら。
「うおおお! 何だあの凶悪なモンスターはああああ!」
絶叫した。
「あれは、チャイノですね」
白も同じく息を整えながら、赤くなった顔で説明した。
「ちゃ、チャイノ?」
「はい。チャイロイノシシ。略してチャイノと呼んでいます」
「イノシシってあんなでかいのか!?」
ブタさん改め、チャイノは透の身長くらいの大きさがあった。透にとってリアルのイノシシと言えば、テレビで見たことあるウリボーなので、このサイズはモンスターにしか見えなかった。やはりファンタジーなクマさんたちの存在を淡くも期待した方がバカだった。やつらは物語の世界か妄想の中にしかいない。
「ですが動きは単調ですし、狩りやすい部類だと思いますよ? せっかくですし最初のクエストはチャイノの討伐に……」
「狩りやすいって何!? これそういう話だったっけ!? ひと狩り行くやつだったっけ!?」
透はツッコみながら、広大なフィールドでゴリラやらカニやらドラゴンやらのモンスターを狩るあのゲームを思い出した。あの世界が現実なら、人類は確実に食物連鎖の最下層に位置することになるのだろう。それより透は白から「狩る」などという野蛮な言葉が出てきたことに若干ショックを覚えた。
「だいたい初めて武器扱うやつにいきなりファンゴと戦わせるってどういうことだよ! 俺は何度か突進当たっても大丈夫なハンター様じゃないんだよ! 一発喰らったらおしまいなんだよ! HPという概念は俺にはないんだよ!」
「ですが戦わなければ経験値入りませんよ?」
「俺にレベルが存在すればそうかもな!」
透がどんなにモンスターを倒してもレベルは上がらない。無論ステータスが上がることもなく、魔法を覚えることもない。まあ筋肉くらいはつくかもしれないが、それも高が知れている。
「しかしこれからもチャイノのような野生動物と戦闘することになると思いますし。経験は積んだ方がいいと思います」
「いや、まあたしかにそうだが……」
透は反論できず、押し黙った。チャイノに遭遇した衝撃で、断ろうとしていたことは忘れたらしい。しかし白、こういうとこでは意外とスパルタだ。
透はしばらく考え込み、白をちらりと見やった。
「わかった。頑張ってみるよ」
透は溜息まじりに言った。
「はい! 応援しています!」
白の声援を受け、透は邪魔なベルトポーチを下ろして静かに茂みの上から顔を出した。チャイノは相変わらず荒い鼻息を立てながら、最初に透たちのいた辺りをうろうろしている。地面の匂いを嗅いだりしていて、どうやら透たちを探しているらしい。モンスターというのは何でこう勇者やハンターを見れば迷わず襲ってくるのかと、透は疑問に思った。
とりあえずチャイノの位置は確認した。透は静かにレインボウを引いて、矢をつがえる。死角からの狙撃である。せこいが、これでも透にとっては最大限、勇気を振り絞った行動だった。
透はまっすぐ標的を見つめ、じっくりと狙いを定める。額に玉の汗をにじませ構えるその弓は、ゆらゆらと揺れていた。
かくしてじっくりと狙いを定めていた透だったが、しばらくすると弓を下ろして座り込んでしまった。
「……どうしました?」
「いや、何かこう、罪悪感というか、かわいそうというか……」
透はまだ何もしてないのに、すごく疲れたように答えた。
これがもし蟻なら、故意に殺めることに多少の葛藤はあっても、何とか実行に移せただろう。黒光りするあいつならその葛藤だっていらない。仮にスライムでも撃てたかもしれない。
しかし相手はイノシシである。あの固そうだが弾力のある皮膚は、虫などより「リアルに生きている」と感じられる。質感がどことなく人間に近い生物、特に哺乳類や鳥類といった生物を傷つけることは、なぜか憚れるのだ。
「でもお肉は食べますよね?」
「肉食うからって殺せるわけじゃない。目の前に牛一頭置かれて、今晩のおかずこの子にするから殺しといてって言われて、じゃあヤるかってならないだろ? むしろしばらく肉が食えなくなる」
「そう、ですか……」
要するに透は動物を殺し慣れていないのである。別に透が優しいからとか、動物を愛護しているからとかいうわけではない。牛肉でも豚肉でも鶏肉でも普通に食うが、だからといって自ら手を下すことはなぜか罪悪感があるのだ。
一般的に見ても、動物を殺し慣れている現代の日本人の方が少ないだろう。人間でも動物でも、傷つけることになれば多少なりとも罪悪感を覚えるのである。少なくとも最初は。端的に言えば、究極の平和ボケである。
しかしこれは冒険においては致命的である。たとえば最初の街を一歩出てモンスターとエンカウントし、攻撃コマンドを選択した瞬間に、「ダメだ! かわいそうで攻撃できない!」とでも表示されればどうだろう。モンスターとの戦闘を何とか回避しながら魔王のもとへ向かう、まさかのスニーキングミッションが開始である。もはやRPGとは別のゲームだ。現実の旅でも、襲ってくる凶暴な動物たちに銃を向けられなければ、人など簡単に食われてしまうだろう。
しかしこのままでは埒が明かない。先ほどの様子から、チャイノは透たちを探しているようだった。不用意に出て行けば攻撃される。かといってこのままチャイノが諦めてどこかに行くのを待っていれば日が暮れてしまいそうだ。それに今後も野生動物を見るたびにこうやってやり過ごしていれば、目的を完遂することだって途方もなく時間がかかってしまう。
「すまん……」
透は謝りながら、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
白はこんな自分に対して期待してくれている。どんな理由で、どんな根拠であろうと、それはうれしかった。しかし、自分のことだからよくわかる。自分はそんなに期待されるような人間ではないのだ。
「白、やっぱり俺、勇者降りるよ」
やはり何度考えても、自分が勇者というのは無理がある。世界のためにも、レイナのためにも、自分のためにも、そして妹たちを心配する白のためにも、すぐに他の勇者を探すべきだ。透はそう思って、世界を救う冒険のリタイアを決めた。
「そんなの、ダメです」
しかし、白はそんな透の提案を、静かに、それでいて強い意志を持った声で却下した。
「よく考えてくれ。どう考えても俺の役目じゃない。俺に任せてたら、いつまでたってもお前の妹たちは見つからない」
「そんなことありません! 透さんはきっと藍と紫を助けてくれる、世界を救う勇者様なんです!」
「何で、そんなに俺なんかのことを信じられるんだよ」
いや、その理由はすでに聞いている。白の主である、聡明なレイナの判断だからだ。
しかし、それにしたって根拠が薄すぎる。いくらレイナが白にとって絶対的な存在であっても、透のこれまでの発言や行動を見て、おおよそ世界を救う勇者には思えないだろう。いたって普通の、いや、普通以下といってもいいほどの、ろくでなしである。それでもまだ期待を寄せられるというなら、白はよっぽどバカで純粋なのだろう。
だからこそ、透にはその純粋な期待が痛かった。
「俺は、白が思ってるような人間じゃない。勇者なんて特別なものにはなれない、何もできないし、する勇気もない、平凡な人間なんだ」
「何で、何でそんなこと言うんですか……」
白は一転、泣き崩れたように言った。
「そんなに、ご自分のことを卑下しないでください。たしかに私には、レイナ様が透さんを選んだ理由はわかりません。もしかしたら透さんは、特別な人じゃないのかもしれません。でも透さんは、きっとご自分が思っているより、ずっとすごい人です。それだけはわかります。透さんは絶対に勇者様なんです」
「それは、レイナが選んだから、か?」
「それもありますけど、それだけじゃありません」
白ははっきりと答え、続ける。
「目です」
「目……?」
「はい。レイナ様から天命を授かったときの、あの目です」
レイナに天命を授かったとき。つまり屋敷を出る直前のことである。たしかそのとき、透と白は思いがけず目を合わせた。
「あのときの透さんの目は、何と言うか、すごくかっこよかったです。それまで見せていた優しそうな目とは違って、何だか覚悟がある目というか……。巧く言葉にできませんが、とにかく私は、そのときに決めたんです。何があっても、透さんに付いていこうって、透さんを信じようって」
透は愕然とした。現実を見れば透が勇者などに向いてないことは明らかだ。その事実を覆す根拠が、目。曖昧すぎる。そんな曖昧なものだけを根拠に人を信じるなど、普通はできない。
白は純粋すぎる。そしてそんな純粋な少女の、純粋な期待に、いや願いに応えられない自分に、透は腹が立った。
「それに大丈夫ですよ。透さんが戦えないなら、無理に戦わせるつもりはありません」
白は目じりに溜めた涙をふくと、ゆっくり立ち上がり、茂みから出て行った。辺りを嗅ぎ回っていたチャイノが白に気づき、地を鳴らし始めた。
「透さんが戦えないなら、その分は私が頑張ります。透さんは、私が全力でお守りします。ですから、もう降りるなんて言わないでください。もうご自分のことを貶めないでください。悲しいです」
白は困ったような笑顔を透に向けて、そう言った。
たしかに天命を授かったとき、透は覚悟を決めた。しかしそれは勇者としての、つまり藍と紫を必ず見つけ出す、といったものではない。白を、自分のことを一途に信じてくれる純粋なこの少女を、必ず守らなくてはいけないという覚悟である。
しかし今のこの状況は何だ。覚悟を決めたのに、ヘタレな心が何度も心変わりを繰り返す。あまつさえ守ると決めた少女に守られる。最低の男だ。かっこ悪すぎる。そしてそれに気づいても、思い切って出て行けない、勇気を振り絞れない自分が情けない。
白が指鉄砲を作り、チャイノに向けた。しかしまだ撃たない。引き付けるつもりだろうか。
チャイノが目いっぱい力を溜め、ついにスタートを切る。まだ撃たない。塔のように巨大な牙はまっすぐ正面に向けられている。あんなものが直撃したら、ひとたまりもないだろう。
チャイノは猛烈なスピードで突進し、どんどんと白に近づいていく。しかし白はまだ撃たない。引き付けるにしてはやりすぎだ。他に何か考えがあるのか。それか、もしや何かしらのトラブルでもあったのだろうか。ならば助けに出るべきだろうか。しかし出て行ったとしても足手まといになるだけだ。それに何か考えがあったとすれば、それを邪魔してしまうことになる。
なおもチャイノは突進を続け、もう白のすぐ目の前に迫っていた。それでも白は攻撃しようとしない。このままでは本当に直撃してしまう。やはり助けに出るべきか。しかしもし白に何か考えがあれば……。だいたい出たところで何の意味がある。まともに戦闘できないのでは何の役にも立たないのでは……。
いや、そうじゃないだろ。
透はかぶりを振って、堂々巡りの思考を断ち切った。
白には自分を卑下するなと言われたが、やはり勇者などという特別なものに自分がなれるとは思えない。助けに出て行ったとしても、何の役にも立たないだろう。何もできないだろう。しかしあのとき決めたはずだ。白を守ると。
気づけば、透は飛び出していた。真横から白に飛びつき、そのまま自らの体を下にして地面にダイビング。間一髪でチャイノの突進をかわした。チャイノはそのまま直進して木に衝突し、牙が幹に突き刺さった。
「……あっ、す、すみません!」
白は突然の出来事に一瞬固まっていたが、慌てて跳ね起きて頭を下げた。
「やべえ、やべえよあれ……。まじで死ぬとこだったよ……」
透はひきつった顔で、うつろにつぶやいた。実際死んでいてもおかしくなかった。文字通りの間一髪。髪の毛一本分という奇跡的な間であった。あと〇・一秒でも飛び出すのが遅ければ、透も白もあの木のように、無骨な牙で串刺しになっていたところである。生きてはいるが、生きた心地はしなかった。
「あ、あの、すみません。ありがとうございます、助けてくれて」
息を整えて落ち着いた様子の透に、白は改めて頭を下げる。
「いや、無事で何よりだ。それと何か考えがあったのかもしれんが、だとしたら邪魔してすまん」
「いえ、そういうわけではなくてですね……。その、あんなことを言ったのにすごくかっこ悪い話なのですが、実は私もかわいそうになってしまって……」
「ああ、まじか。それは、俺が悪かったな」
つまり透がチャイノの討伐を渋っていたのが伝染したのである。透のせいで白さえも腑抜けになってしまった。
「……と、ところで」
透はこんなタイミングで言っていいものか少し迷ったが、耐え切れずに口を開いた。
「そろそろ降りてくれません?」
「へ?」
透に指摘され、白はきょとんとした顔で視線を落とした。白は透の上で馬乗りになっていた。
「ああっ! す、すみません! 重かったですよね!」
白は慌てて透から降り、その隣でかしこまって正座した。
「いや、全然重くはなかったんですけど……」
体勢が、ね。
「ていうか、それどころじゃないよな」
透は立ち上がり、正面を見据えた。その先ではチャイノがやっとの思いで幹から牙を引き抜いていた。
「今はこっちをどうにかしないと」
チャイノがこちらを向き、また突進の予備動作を始める。
「どうにかって、どうするんですか?」
はっきり言って、どうにもしようがない。万策尽きたといえる。
勇者として選ばれた透は罪悪感から動物を攻撃することができない。頼みの白も透のせいで戦えず、逃げるにしてもチャイノのあのスピードから逃げ続けることは容易ではない。追いつかれれば一貫の終わりであり、不用意に走り回るのはリスクが高い。とすると隠れてやり過ごす以外に方法はないだろう。
しかし透は、きっぱりと答えた。
「モンスターとエンカウントしたらやることは一つ。たたかう、だろ?」
にげる、という選択肢はないと。透はチャイノをにらみつけたまま、まっすぐにレインボウを引いた。光の矢が強い輝きを放ってつがえられた。
「できるん、ですか……?」
「決めたんだ。絶対に白を守るって。そのために必要だっていうなら、イノシシくらい殺してみせる」
透の声は、白の耳に力強く響いた。しかし同時に白の目に映るその手は、動揺を隠せず震えている。誰の目から見ても明らかな虚勢である。
チャイノがスタートを切り、砂塵を巻き上げながら突進してきた。透は震える手を伸ばしながら、それでも目だけはまっすぐチャイノに向けて、狙いを定める。
だんだんとチャイノが迫り、恐怖や罪悪感といった様々な感情が透の中で増幅する。透はそんな感情を、心の中で無理やり抑えつける。充分に引き付けなければ、当たらないことはわかっている。
透はまばたき一つせずチャイノを見据え、目測十メートル付近に入るのを待った。これが現状での透の射程距離である。ここまで引き付ければ、おそらく二発目はない。一発勝負である。透は今にも口から飛び出しそうな心臓を生つばと一緒に飲み込み、精神を集中させる。
まさにその通りの猪突猛進で走りこんできたチャイノが射程に入り、透は意を決して矢を放った。透の手から一筋の光が光速で伸び、そして。
チャイノの頭をかすめた。
「なっ……!」
透の決死の攻撃は、むなしくも外れた。勇気を振り絞って飛び出していき、決意と覚悟を持って挑んでも、最後までヘタレな心が邪魔をした。
透はがくっとひざまずき、悔しさと絶望を拳に込め、地面を殴りつけた。
「くそっ!」
ここで外すか、ここで。どれだけ持ってないんだ、俺は。
あふれ出した涙が涼しい地面にぽたぽたと落ちた。しかし泣いている暇はない。万事休す、などという言葉が頭をよぎったが、それでも往生際悪く自分と白が生き残る方法を考え始めた透は、ふと違和感に気づいた。
いくらなんでも考える時間が長すぎる。あのスピードで突っ込んでいれば、地面を殴りつけたときにはとっくに直撃していてもおかしくない。それでもまだ自分がこうしていられるのは、一体どういうことだ。
「透さん、あれ!」
「え?」
突然の呼びかけに振り返ると、白が正面を指差していた。その細い人差し指の先に視線を向けると、猛烈な勢いで迫っていたはずのチャイノがほんの数メートル先で立ち止まっている。足元では急ブレーキをかけたように土が盛り上がっていた。
「ふ、フゴッ!?」
しばらく動きが止まっていたチャイノは突然飛び上がって、その場で百八十度方向転換する。
「フゴーッ!」
そして荒い鼻息とともに走り出した。
「な、何だ、あれ?」
透は、何度も木に激突しながら去って行くチャイノを見つめながら、つぶやいた。
「おそらく間近を光の矢がかすめて、その威力を本能的に感じ取ったんだと思います」
つまり威嚇射撃である。光の矢は、実際にはチャイノに当たっていない。目の近くの短い毛をわずかに刈っただけだった。しかしそのときチャイノが間近で見た一筋の光は、チャイノに絶大な恐怖を与え、やばいと思わせるには充分だったのである。
「何だよ、それ……」
透は拍子抜けしたように、だが同時にほっとしたように座り込んだ。一撃でも喰らったらお終い。逆にこちらは一発も攻撃を当てられない。そんな中で一筋の光明が見えた気がした。この射撃を習得すれば、もしやこの旅も成し遂げられるのではないか。
「やっぱり、透さんはすごい人ですね」
透同様、気が抜けたように座り込んだ白が、透の後ろで明るい声で言った。
「結局一発も当てられなかったけどな」
透は空を眺め、つきものが落ちたような清々しい声で答えた。
「いえ、そんなに謙遜しないでください。やっぱり透さんは、私が信じた通りの勇者様です」
白は嬉々とした表情で返し、続ける。
「あのとき飛び出してきてくれて、そして私を守ると言ってくれて、すごくうれしかったです!」
「……あれ?」
その一言で、完全に雰囲気に酔っていた透は我に返った。
そう言えば俺は、なんてことを言っていたんだ。たしか「決めたんだ。絶対に……」、ダメだ。とてもじゃないが全文思い出せん。いや、思い出したくない。本当は一字一句漏らさず記憶が甦って来たけど、できることなら封印したい。
うわあ、何だこれ。何かっこつけてんだよ。キモイよ恥ずかしいよ。しかも考えてみたらもうだいぶ早い段階からかっこつけてんじゃん。何が「いや、そうじゃないだろ。キリッ」だよ。その考えがそうじゃないよ。うわ、まじで死にたい。いや、死にたくはないけど。なんつうか、死にたい。
透は心の中で悶絶した。一人だったら確実にベッドの上でのた打ち回りながら死にたいと連呼し、あげくベッドから落下しても、なおのた打ち回っていただろう。実際、透の脳内のイメージとしてはそんな感じになっている。
しかし今は白がすぐ後ろにいる。無論こんなところでのた打ち回れば、さっきのセリフ以上に痛すぎる。なので透は潔く、最後までかっこつけて通すことにした。
透は体をねじって白に向け、グッとサムズアップする。
「と、当然なんだぜ……」
意識するとダメらしい。明らかに照れながら、全然かっこよくないセリフを吐いた。というかサムズアップとかしちゃった時点でかなり間違えている。もはやただの変な人である。そして無意識のうちにあんな痛々しいセリフが出てくるなら救いようがない。
「まあ、なんだ。ところで、このあとはどうするつもりなんだ」
もうどうあがいても自分の尊厳を保つことができないと悟った透は、いろいろなかったことにして流すことにした。
「すぐ近くに町があるので、そこで情報を集めようと思います!」
白は相変わらずの満面の笑みで答えた。しばらく忘れてくれそうにない。透はため息を一つ吐いて、立ち上がった。
「わかった。じゃあさっそく行くか」
透はドロドロになったブレザーを整え、正座していた白に手を差しのべる。白は少し驚いた顔をしたが、くすっと笑ってその手を掴んだ。
「はい! あ、その前に荷物を取ってこないとですね」
顔を真っ赤に染めた透は、満面の笑みをたたえて、同じく若干顔を赤く染めた白を先導に、明るく光差す森の中を再び歩き始めた。