とびきりの恋をあげる
濃紺の空を背景に、星よりも眩しい光が輝いていた。
目の前にあるのは、電飾に彩られた大きな大きなクリスマスツリー。
隣で一緒に見上げている菊池くんは、かっこよくて、とびきり素敵な男の子だ。
そのこともあって、知代の目には、これまで見たどんなツリーよりも美しいものに見えていた。
菊池くんはおしゃれで、背が高くて、きれいな顔立ちをしていて、おまけに社交性が高い。そんなハイスペックな男の子が、地味系の知代とデートしてくれているなんて、信じられないことだ。
「付き合ってくれとは言いません。でも、一度だけでいいので、私とデートしてください!」
二週間ほど前、知代はそう言って菊池くんをデートに誘った。
彼女と別れたと聞いて、いてもたってもいられなくて、ほとんど衝動的にしたことだ。
派手めのグループに属する菊池くんに、前から憧れていた。それに、二十歳までにデートというものをしてみたかった。だから、今しかないと思ったのだ。
「中沢さん、青色好き?」
ツリーから知代にいつの間にか視線を移し、菊池くんが唐突にそんなことを尋ねてきた。その何だかいたずらっぽい表情に戸惑いながらも、知代はうなずく。
「よし。じゃあ、今からツリーの色を変えるから見てて」
そう言って、パチッとウインクしてみせる。
そのキザな仕草にドキッとして、知代の顔が赤くなったそのとき。
それまで白く光っていた電飾が、一斉に青色に変わった。
「わぁ、すごい!」
「俺の魔法、気に入ってくれた?」
「うん! すごくきれい! ……すごいねぇ」
小さく手を叩いて知代は喜んだ。目を輝かせる知代を見つめて、菊池くんもニコニコとする。
でも、やがてちょっと困ったような顔になる。
「えっと……ごめんごめん。魔法っていうのは嘘。時間が来ると色が変わるんだ」
「え……」
びっくりした知代を見て、菊池くんは申し訳なさそうにしていた。真相がわかって恥ずかしくなった知代は、また顔を赤くする。
子供みたいにはしゃいでしまって、恥ずかしい。
そんなことを思うのに、菊池くんは決して馬鹿にした様子はなく優しく微笑んでくれている。
困った顔やそうやって笑う顔もやっぱりかっこよくて、知代はそんな彼とデートできている幸せを噛みしめた。
ほとんど何の接点もなかったのに突然デートに誘った知代に、菊池くんは嫌な顔も怪訝な顔もしなかった。それどころか、「ちょうど予定が空いてるから、中沢さんさえよければクリスマスにデートしない?」とまで言ってくれたのだ。
そのうえ、デートは初めてだという知代のために、デートプランまで考えてきてくれた。
待ち合わせをして、映画を観て、ランチを食べて、ウィンドウショッピングをして、お茶をして、ちょっといいところで夕食を食べて……。そのあいだずっとスマートにエスコートしてもらって、夢のような時間を過ごすことができた。
二十歳までに素敵な男の子とデートをするという、子供の頃からの漠然とした憧れが、思い描いたもの以上の形で叶ったのだ。
「中沢さん、楽しい?」
柔らかく目尻の下がった目を細めて、菊池くんが知代を見つめて尋ねる。
歩くときも歩幅を合わせてくれるし、さりげなく人ごみから守ってくれる。そして、常に知代が退屈していないか気遣ってくれるのだ。
さすがは女の子の扱いに慣れているなぁとは思ったけれど、ちっとも嫌な気分にはならなかった。
「うん。すごく楽しいよ。初めてのデートが菊池くんとで、本当によかった」
「そっか」
知代が本心から言って微笑めば、菊池くんも安心したように笑った。
「まだ、あっちのほうまでイルミネーションは続いてるから歩こうか」
「うん」
そう言って、ごく自然に手を差し伸べられた。半日以上一緒に過ごして少し慣れた知代は、照れながらもその手を取ることができた。
でも、手のひらに指先をちょんと引っかけるだけにしておきたかったのに、菊池くんは当たり前のように指を絡めてしまった。いわゆる、恋人つなぎというやつだ。
(手、つないじゃった! 恋人じゃないのに……!)
知代が内心でそんなふうに焦っているのには気づかない様子で、菊池くんはスイスイと知代の手を引いて歩く。
キラキラしたイルミネーションの光が、少し前を歩く菊池くんの姿を淡く縁取っている。
その輪郭を、知代は視線でそっとなぞる。この幻想的な光の海のような光景と、それを隣で見てくれた菊池くんの姿を、しっかりと焼きつけておこうとしているのだ。
そうすれば、今日のデートが終わっても、きっと何度でも思い出すことができる。
菊池くんのような素敵な男の子とデートできる機会など、これからおそらくないだろう。それでも、今この瞬間を覚えていれば、ずっとずっと幸せに生きていける気がした。
「あのさ、何で俺のこと、デートに誘ってくれたの?」
ふいに菊池くんが足を止める。振り返るその表情は、逆光になって見えない。
「えっと、前から菊池くんのこと、素敵だなって思ってて……」
「でも、『付き合ってください』じゃなくて『一度でいいからデートしてください』って言われたのが、実は気になってたんだよね」
小首をかしげ、優しげな声で尋ねられ、知代はドキッとした。
交際を申し込むわけではなく、デートだけに誘うというのは不誠実だったのだろうか。それをなじる様子はないけれど、知代はどうしようかと悩んだ。
二十歳までに、素敵な男の子とデートをしたい。
これは、知代が子供の頃から抱いていた憧れだ。もう気にしなくてもよくなった今でも、知代にとって二十歳という数字は大きな意味を持ち続けている。だからこそ、自分では釣り合わないとわかっている菊池くんをデートに誘えたのだ。
「あのね、私、ずっと『二十歳までに素敵な男の子とデートをしたい』って思い続けてたの」
知代は、自分のことを話してしまおうと思った。
重たいと思われてしまいそうな話だ。あるいは、くだらないと思われるかもしれない。
それでも、尋ねてくれた菊池くんに適当なことは言いたくないし、何と思われてもこれっきりだからいい。
そう思って、知代は口を開いた。
「私、子供のときにちょっと重たい病気をしてて、二十歳まで生きられないかもって言われてたの。だから、私にとって二十歳って何だか大きな節目みたいに感じてて、病気が治ってからも、ずっとその意識だけ変わらずに生きてきたの」
なるべく重たい話に聞こえないように、知代は明るい声で話した。
実際のところ、今となっては重たい話ではないのだ。
子供の頃は何度も入院したし、激しい運動を制限されるなどの不自由はあったけれど、知代は何とか生き延びた。
あと数日で、大きな節目だと思っていた二十歳になる。
「……そんな、特別なデートだったんだ。その相手が、俺でよかったの?」
菊池くんは、つないでいる手にギュッと力を込めた。その手の感触とぬくもりに、どうやらドン引きされてはいないようだと知代はホッとする。
「菊池くんが、よかったの」
改めて言うのは恥ずかしくなって、知代は自分の顔が赤くなるのを感じていた。でも、菊池くんの顔が見えにくいように、向こうにも知代の顔はあまり見えていないだろう。だから、顔を赤くしたまま言葉を続ける。
「それまで大学内で見かけても全然意識してなかったんだけど、バイト先で偶然見かけたときから、素敵だなって思うようになって」
「バイト先って、駅ビルの本屋だよね」
「うん」
子供のときから入院生活を送ったり、激しい運動を制限されたりしていた影響で、知代が本を読むようになるのは自然なことだった。
本が好きで、読書が好きで、それでアルバイト先は迷わず本屋にした。
そんな知代だから、本を大切にしない人は嫌いだ。
「前にね、菊池くんたちのグループがうちの店に来たとき、雑誌を立ち読みしてたんだけど、片づけずに散らかしたまま帰っちゃったの。でも、菊池くんはさりげなくその散らかった雑誌を全部もとに戻して、それから最後に店を出て行ったんだよね。それを見て、いいなって思うようになったの」
菊池くんの行動は、良識ある客なら当たり前の行動だ。でも働いてみると、そういった良識ある客というのが思った以上に少ないことがわかる。
「すごいな。そんなとこまで見られてたのか。でも、当たり前のことしただけなんだけど」
「うん。でも、その当たり前のことをできるのって、実はすごいことなんだと思う。友達がやらないなら、なおさら。人間って、簡単に楽なほうに流れちゃうから。だから、素敵だなって思ったし、意外だったというか」
「ああ……チャラいグループにいるから?」
照れた様子だった菊池くんだったけれど、前髪をいじって、わざとキザっぽい仕草をする。
「そうだね。人を見かけで判断するのはよくないってわかってるんだけど、とにかく意外で、それから気になるようになって。そしたらうちの店も結構利用してるって気づいたし、読書家なんだなってこともわかって」
「うわぁ……やっぱ、店員さんってお客のこと見てるんだ……読書なんてキャラじゃないって、わかってるんだけど」
相当に恥ずかしかったのか、菊池くんは空いているほうの手で顔を隠した。
女の子慣れして社交性がある菊池くんでもそんなふうに恥ずかしくなるのかと、知代は何だか不思議な気持ちになる。
「そんな、読書好きにキャラとか、そんなのないよ。恥ずかしくなんてないよ」
つないだ手にちょっと力を込め、知代はなぐさめるような気持ちで言った。
読書は趣味で、それ以上でもそれ以下でもない。だから恥じることもないし、誇ることでもないと思っている。
「いや、何だろう……俺が照れてるのは、趣味が読書だってバレたことじゃなくて、何かそうやってちゃんと好きだって言われたのが初めてで」
体の向きを少し変えたことで、菊池くんの表情がわかりやすくなった。目を細めて、でも唇を引き結んで、恥ずかしさに耐えるような顔をしている。少年っぽさの増したその表情を見て、知代は「かわいいっ」と思った。
「今まで、顔とかファッションとか雰囲気とかノリとか、そんなので選ばれてきたからさ、俺」
パッとつないでいた手を離して、菊池くんは歩き出してしまった。
怒ったのだろうかと、不安になって知代もそのあとを追う。
今夜、このデートが終わればそれっきりになってしまう関係だ。それでも、今このとき怒らせてしまったのなら悲しい。怒らせたままお別れになってしまうことも。
「あの……もしかして気を悪くさせちゃった?」
イルミネーションを見るためにやってきているほかのカップルにぶつからないように、知代は菊池くんの背中を追いかけ横に並んだ。不安いっぱいで見上げると、菊池くんは首を横に振った。
「……ちがう。逆だよ、逆。誰も……自分でさえ評価してなかったことをそうやって褒められて、すっごく照れちゃったわけ。あー、調子狂うなぁ……」
せっかくセットした髪を、菊池くんはぐしゃぐしゃにしてしまう。学内や本屋で見かける菊池くんの姿は、おしゃれで、ひょうひょうとしていて、そんなふうに取り乱す様子は想像できなかった。
だから知代は、目の前の菊池くんを新鮮な気持ちで見つめていた。
そして、菊池くんは本の中に出てくるよくできた王子様ではなく、こうして照れたり取り乱したりする普通の男の子なのだとわかって嬉しくなった。
でも、髪を乱して視線をそらしている菊池くんは、何だか浮かない顔をしている。
「どうしたの?」
歩いているうちに、イルミネーションから離れてしまっていた。
ふたりがいるのは光の海に灯された幻想的な夜ではなく、街灯に照らされた現実の夜だ。
(あぁ……魔法がとけちゃったみたい)
そんなことを、知代は思う。
「何かさ、中沢さんがすごく素敵な気持ちで俺をデートに誘ってくれたのに、俺はしょうもないことを考えてたんだなってわかったから、嫌になっちゃって……」
「しょうもないことって?」
手櫛で前髪を整える菊池くんを、知代は心配そうに見上げた。薄暗がりの中で、菊池くんもそらしていた視線を知代に向ける。
「中沢さんは、俺が彼女と別れたって知って、デートに誘ってくれたんだよね?」
「うん」
「じゃあ、何で別れたか知ってる?」
「ううん……」
首を振る知代に、菊池くんはふっと笑った。楽しげな笑い方ではなく、何だか投げやりな感じだ。
「浮気されたんだ。しかも相手は、同じグループの友達。……それでさ、なーんかグループにも居づらくなって、いろいろ嫌になって、やさぐれてたところに中沢さんからデートに誘われたんだ」
嫌だったのだろうかと、知代は不安になる。けれど、菊池くんは微笑んだ。痛みをこらえるみたいな顔で。
「正直、嬉しかったよ。これで、クリスマスをひとりで過ごさずにすむなーって。……最悪だろ? 中沢さんにとっては特別なデートだったのに、俺はそれを自分の見栄とかプライドを守るために利用したからさ。……ごめん」
ああ、これは懺悔だったのだなと、知代は理解した。
菊池くんはきっと、自分の不誠実さを告白したのだ。知代のデートに対する思い入れを聞いて、胸が痛んだのかもしれない。
それを聞いて、何も言わず気前よくデートしてくれた素敵な男の子のままでお別れすることもできたのになぁと、知代は本人も気づいていないだろう菊池くんのまっすぐさに優しい気持ちになる。
「別に、謝るようなことじゃないよ。すっごく素敵な時間を過ごさせてもらって、幸せだったもん。これ以上、望むことはないよ」
知代は本心から言って、にっこり笑った。
本当に、今日一日は知代にとって幸せな時間だった。
待ち合わせ場所に現れたその瞬間から、菊池くんは知代のことをまるでお姫様のようにエスコートしてくれた。
とびきり素敵な男の子が、ずっと笑顔で隣にいてくれたのだ。映画を観るときも、食事をするときも、街を歩くときも。
そうやって同じ時間を共有することがこんなにも楽しいものなのかと、知代は夢心地で一日を過ごすことができたのだ。
「菊池くん、今日はありがとう。菊池くんのおかげで、子供の頃から夢見てたような、思い出に残るデートができたよ。私、ずっと忘れないと思う。……今日のデートは、私にとって宝物だよ」
「中沢さん……」
「初デートの相手が菊池くんで、おまけにクリスマスだなんて、自慢になるよー。……しないけどっ」
ふふっと口元に手を当てて、知代は笑った。
それを見て菊池くんはキュッと唇を引き結んで、眉根を寄せた。その困ったような、切ないような顔も好きだなと、知代も切なく思った。
おしゃれでかっこいいだけではなくて、照れたり恥ずかしがったりする姿も素敵だと知ることができた。そのことを、デートの思い出と一緒に覚えていようと知代は決めた。
それだけで、十分だから。
「中沢さん、今日のデートって、大人な夜を過ごしてみちゃおうとか、もしかしてそんな予定はある?」
「え?」
やや緊張した感じをただよわせて、菊池くんはそんなことを尋ねてきた。きっといつもなら、もっと流れるように自然に、そういった会話を女の子に切り出すだろうに。
でも、菊池くん以上に知代は動揺して、ガチガチになってしまっていた。
「そ、そんなことを考えないでもないけど……そりゃ、私も年頃の女子なので……」
地味系で奥手の知代でも、漫画なんかでそういった知識は得ている。そして、年相応の憧れも興味も当然持っている。
そのことを告白するような言い方になってしまって、知代は顔から火が出そうなほど恥ずかしくなった。
そんな知代を見て、菊池くんは目を細めた。そして、ポンポンと頭を撫でた。
「かわいいな。そういう顔されると、俺としてもお持ち帰りしたくてたまらないんだけど」
「え……」
「でも、それはまた今度にしよう。楽しいこととか幸せなこと、全部今日やっちゃうのはもったいないからさ」
「それって、どういう……」
戸惑う知代に目線を合わせ、菊池くんはにっこり微笑んだ。その直後、笑みの浮かんだ唇は知代の唇に重ねられる。
時間にすれば、きっと一秒にも満たない一瞬のことだ。それなのに、知代にとってはまるで世界が変わってしまうような、そんな劇的なことのように感じられた。
「今日一度だけと言わず、これからも中沢さんと……知代とデートしたいなってこと」
「菊池くん……」
「知代、俺と付き合ってよ」
「…………!」
今度こそ、知代は時間が止まったかと思った。
あまりのことに、頭が真っ白になる。
けれど、菊池くんはそんな知代を待ってはくれない。
呆然と立ち尽くす知代に、小首をかしげて問いかける。
「知代も、俺のこと好きだよね?」
「え……『知代も』って……?」
「俺、知代のこと好きになった。顔とかノリとかじゃなくて、俺の知らない俺のいいところ、好きだって言ってくれたから。そんなの初めてで……だから、これっきりにしたくない」
菊池くんは、とても真剣な顔をしていた。その顔にからかっている様子はなく、ただただまっすぐな気持ちが伝わってくる。
戸惑って混乱していても、そのことが嬉しくて、知代は懸命に言葉を探した。
何か、特別な言葉を返したくて。けれど、嬉しさで混乱しきりの思考では、何もうまいことは考えつかなかった。
「……嬉しい」
知代が口にできたのは、正直で飾り気のない、そんな言葉だけ。それでも、菊池くんの顔には満面の笑みが浮かぶ。
「よかった……!」
ギュッと知代の体を抱きしめて、心底ホッとしたように菊池くんは言う。
キスと告白という初めてづくしに驚いて思考停止に陥りかけている知代にとって、それは強すぎる刺激だ。けれど少し落ち着くと、男の人の腕に包まるのってこんな感じなのかと、幸せな気持ちが湧いてくる。しかも、それが好きな人の腕ならなおさらだ。
「……どうしよう。幸せすぎて、夢みたい」
菊池くんの胸にキュッとしがみついて、知代はポツリと呟いた。
「夢じゃないよ」
「じゃあ、とびきりのクリスマスプレゼントだね」
「プレゼントか。それなら知代に、とびきりの恋をあげる」
顎をつかんで顔をあげさせて、菊池くんは知代の唇を指先でなぞった。
顔が近づいてくるとわかって、知代はあわてて目を閉じる。
目を閉じる直前目に入ったのは、少し遠くに見えるイルミネーション。
(まだ、魔法は続いてるんだ)
まぶたの裏に残るイルミネーションに、知代はそんなことを思う。
ムーンさんのほうに、このお話の続編にあたる「とびきりの夜をあげる」を投稿しています。