第三輪・花の戯れ
宵闇に包まれた海辺に穏やかな潮風が吹いている。
薄暗い夜の闇が深い闇へと変わりゆく中で、一人の女性が朧気に海を眺めている。
青空のような水色の髪は夜空の色に染まり、碧い瞳は深海へと沈んでいく。
彼女は海に咲く『百合の花』のように美しい女性だ。
「夏葵焔……夏葵……綾っ……」
切なげにある少女の名前を呟く。
夏葵焔、『向日葵の花』のように光輝で可憐な少女。
そして、『向日葵の花』に因縁がある兎の少女、淋しげな表情をしていた、まるで『片栗の花』のようだ。
美しい花々が巡り逢い、散り逝くその時まで絡み合い、戯れ、生を全うする。
『百合の花』と『向日葵の花』が巡り逢ったのも、また必然だろう。
『片栗の花』と『向日葵の花』も巡り逢っていた、しかし、彼女たちが共に歩むことを阻む者がいる。
綾に……夏葵にとってあの兎の少女はきっと大切な存在だから、私は彼女の為に出来ることをするだけ、と心の中で呟いた。
「ここにいたの、碧」
「……あら、お帰りなさい、藍」
澄んだ少女の声に水色の髪の女性が振り向く。
長い白髪に藍色の浴衣姿の少女がこちらを見ている。
「どうやら、夏葵はこれから出掛けるみたいよ」
「そう、じゃあ兎の少女も、そしてあの女も……」
「ええ……恐らくね」
夏葵に兎の少女と二人の仲を引き裂くあの女も付いて行くということ、それなら……。
「藍……私たちも行くわよ」
「そうね、ということは……」
「まぁ……久しぶりのお出掛けね」
碧の言葉に嬉しそうに、喜びの舞を踊る藍、その姿は年相応に見える。
夏葵待っていてね、貴女とあの娘を繋いでみせる、と碧は胸に誓い宵闇の空を見上げた。
晴れ渡る青空、澄み渡る大海、そして……。
深海の底のように沈んだ心。
「うぅ……兎ちゃん……」
「夏葵、何を項垂れているのです?」
いつも明るく元気な夏葵が生気の抜けた顔をしているので渚が心配していた。
そう彼女たちは休日に部活の合宿として的場菫の別荘に来ていた。
この年頃の女子たちは海では、はしゃぎ回るだろうが……夏葵だけは塞ぎ込んでいる。
水色の水着の上に白いパーカーを着てビーチパラソルの下で体育座りしている夏葵。
お揃いの紺色のスクール水着を着た渚と茅が夏葵の前で立ち尽くしている。
「夏葵、一緒に泳ぎましょうよ」
「いつまでもじめじめしてるとカビるぞ~」
渚と茅の方を見る夏葵。
「渚は、わたしが泳げないの知ってるでしょ……」
「そ、そうでしたね……」
渚は目を泳がせる。
「茅は、どうしてカビるなんて言うの……?」
「いや……、なんとなくそんな気がしたからだよ、深い意味はないぞ……」
茅は少し反省しているようだ。
夏葵はため息をついた。
「わたしのことなんてほっといて二人でひと夏のアバンチュールを楽しんでなよ……」
それを聞いた二人は呆れ顔になる。
「あのねぇ、わたくしたちは貴女のことを心配してぇ……」
「まぁまぁ、そっとしておこうや~」
紫色の水着とパレオを着た菫は渚の肩をぽん、と叩く。
「そうね、じゃあ私たちは向こうで遊んでいるから気が向いたら夏葵ちゃんも来てね~」
黒色のフリフリな水着を着た桃が手を振って駆けて行く。
その後を三人は追って行く。
「それじゃあ、後で来いよな~、夏葵」
茅の声に小さく頷く夏葵。
夏葵はしばらくぼんやりと海を眺めていた、水色の海を見ていると一人の女性のことを思い出してその名前を呟いた。
「碧さん……」
「あら、呼んだかしら?」
水のように澄んだ声に振り返ると、そこには夏葵が思い浮かべた女性が日傘を差して立っていた。
「み、碧さん!? どうしてここに……」
夏葵は驚いて立ち上がった。
碧は水色の日傘を閉じて微笑んだ。
今日は、黒いローブは着ておらず、白いサマードレス姿に白いキャペリン(つば広帽子)を被っている。
「貴女に逢いたくなったから、かしら?
「そ、そうなんだ……」
夏葵は嬉しそうに照れていた。
「少し海を見ながらお散歩でもしましょう」
碧は夏葵に手を差し伸べた。
夏葵は余り気乗りしなかったが、碧に誘われたので断れなかった。
無言で浜辺を歩く二人。
碧は夏葵が口を開くのを待っているようだった、だが夏葵はなかなか口を開けないでいた。
「あ、あの……」
「水着似合ってるわよ、可愛いわね」
「えっ、あ、うん、ありがとう」
夏葵は急に褒められて驚くが、嬉しそうににこりとする。
「碧さんは水着は着ないの……?」
「水着ねぇ……もういい歳だから着ないわよ」
「そうかなぁ、似合うと思うんだけど……」
いい歳、っと言っても二十代前半の外見にしか見えないので、同じぐらいの年齢ではしゃいでる桃と菫の顔が思い浮かんだ。
まあ、あの二人よりは落ち着きがある女性なんだと一人で納得する夏葵だが、内心、水着姿の碧が見たかったので少し残念そうな表情になる。
「あの娘のことを考えているの……?」
「へぇ、いやっ!? あ、うんっ!」
碧の水着姿を想像していたとは言えず、慌てる夏葵、心の中で兎に謝る。
「ごめんなさいね、貴女の大切な人だとは知らずに傷つけちゃって……」
先日、兎という少女に襲われて碧に助けられた、その時の話だろう。
「兎ちゃん……十年前と同じ姿だった……」
十年前に夏葵と兎は逢っていた、兎はその時と同じ姿だった。
「そうね、彼女は……いいえ、私たちは人ではないから……」
「人ではない……?」
余り驚かない夏葵。
「私たちは、人よりも気が遠くなるぐらい寿命が長いの何百年、何千年と生きるのよ……」
「じゃあ、兎ちゃんは、何百年も何千年も独りぼっちだったんのかなぁ……」
「ええ、そうでしょうね……」
夏葵は淋しげな兎の顔を目に浮かぶ、ずっと孤独だったのだろう。
「わたし、兎ちゃんを迎えに行く、って約束したのに……自信ないんだ……」
夏葵と兎を逢うことを阻む風。
その風は嵐のように激しく、容赦なく引き裂く。
吹き付ける潮風は穏やかなのに、どうして夜風はあんなにも荒々しいのだろう。
「わたしは、あの嵐を超えて兎ちゃんを迎えに行けるのだろうか……?」
夏葵が俯くと、足元の波が自分を呑み込んでしまうように錯覚して、慌てて後ろに下がる。
水までもわたしを阻むの? と暗い表情をしていると。
「大丈夫よ……」
夏葵の肩をそっと抱く碧。
「貴女なら、きっと嵐を超えていける……。一人で自信がないなら、私が貴女を支えてあげる」
「碧さんが……」
「海は貴女を呑み込んだりしない、優しく包み込んでくれるわ」
海は穏やかな漣を立てている。
「で、でもわたし金槌だから泳げないよ……」
「まぁ、そんなこと言わずに一緒に泳ぎましょう。折角、海に来たんだから」
「ちょっ、ちょっとま、待ってぇぇぇ!」
碧に手を引かれ強引に海へ連れ込まれる夏葵。
足のつく浅瀬でも溺れると思いながらも足を水面につける。
「あれ、沈まない……?」
水に沈む感覚はなく、水面の上を歩いているような感覚、いや実際に歩いていた。
「えっ、どうなっているの!?」
「ふふ、私の手を放したら大変よ」
「ちょっと待ってよ」
そんなことを言いながら水の上で戯れる二人。
くるくると回りながら、はしゃぎながら水面を歩く。
水難にあったことしかない夏葵にとって水の
「ははっ、楽しい」
「じゃあ、次は泳いでみる」
「無理無理無理、溺れちゃうよ」
「大丈夫、私が手を繋いでいてあげるから」
碧が手を繋いでいてくれる、それだけで大丈夫だと夏葵は感じた。
水面に沈む。
水に呑まれていく感覚はなく、海に優しく包まれるようだ。
息をすることも、目を開けることもできる。
碧に手を引かれ夏葵は海を漂う。
人魚のように優雅に泳ぐ碧。
碧が支えてくれる。
だから勇気が湧いてきた。
夏葵は碧の横顔を覗く。
碧は、夏葵を見て微笑み、口を開く。
大丈夫、そう言ってくれた気がした。
気が付くと、手を繋いでいてくれた碧はいない。
夏葵は一人で溺れていた。
海の中は暗く、昏く、深淵へと深海へと沈んでゆく。
夏葵は瞼を閉じる。
大丈夫、碧に勇気をもらったから、と夏葵は心の中で呟く。
瞼を開ける。
そこは、暗闇に包まれた世界。
淋しげな独りの少女が泣いている。
若紫色の髪に兎の耳がある少女、幽奇 兎。
夏葵は暗闇の中を駆けて、少女の元に辿り着き、少女を抱しめる。
「兎ちゃん! もう泣かないで」
潤んだ紅赤色の瞳で夏葵を見つめる兎。
「どうせ……またあたしを独りにするんでしょう……」
咎めるように兎は呟く。
しかし、彼女の腕が強く夏葵を抱きとめる。
その温もりを感じながら夏葵は力強く答える。
「もう絶対に独りにしないっ!」
兎は驚いて泣くのをやめる。
「約束するから」
夏葵の言葉を聞いて、頷く兎。
兎は笑顔になり、視界が目映い光に包まれる。
目が覚める。
これまでの出来事は夢ではないだろうと夏葵は感じた。
ここは、菫の別荘だろう。
窓の外を見る。
不自然なくらい静かな海は、空は嵐の前の静けさのようだった。