『失われた歌』
その歌は、いつからか人の記憶から消えていた。
今では誰も口ずさまない。
永久に紡がれる事のない、失われた歌。
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旅人は訊ねた。
『キミは、いくつ?』
幼い少女は答える。
『7歳』
『何をしているの?』
『薬を作ってるの。【イシ】ってクスリ』
少女はあどけない笑みで誇らしそうに言った。
【イシ】はこの世界では、麻薬として禁じられている薬の事。その常識を少女は知らない。此処にいる人達全員。世界の人々を救う為に作っているのだと、自慢出来る位に話していた。
――違う。それは、人々を救わない。闇に突き落とす毒だ。一度触れたら、逃げられない。
『旅人さんは、何て名前?』
『葉月。キミは?』
『響。ハヅキ、よろしくね』
それが、彼女との出逢いだった――。
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歌が聴こえる。以前にも聴いた事のある懐かしい歌。奏でているのは、大人になった彼女。
ボクは、その歌を間近で聴く事が出来ない。
七年前、彼女達を否定してしまったから・・・。
彼女が、あの歌を奏でられるなんてあの時は知らなかった。もっと早く聴いていれば、否定なんてしなかったかもしれない。
いつものように巡る後悔。考える事なんてそれ位しかなかった。キミを思い出しては、その歌が霞む。
キミはまた、禁じられたものに手を出しているの――?
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薄暗い地下牢。近付く者など滅多にいない。醜悪な匂いが立ち込め、美が枯れると言う。
「♪ ♪ ♪」
鼻唄を奏でながら、地下牢へと足を運ぶ少女。その足取りは軽快で楽しそうだ。
静寂に支配されたその場所に囚われているのは、一人の青年。以前は色んな世界を旅していたらしい。
「気分はどう?」
冷たい声。刺さるような視線。きらびやかな格好に似つかわしくない、杖。
「・・・また、歌ったの?」
「聴こえたんだ?厄介な耳だね」
「あまり聴かせていいものじゃない。今は何も無いから大丈夫だろうけど、蓄積されたら・・・!」
「言うな!皆にバラしたら殺すわ」
「・・・言わないよ。でも、自覚はあるんだ?」
「あんたには関係ない。其に、聴こえてるあんただって、皆と一緒よ」
「・・・・・・」
「もう、此処には来ないわ。あの歌も聴かせない。お前は此処で誰にも知られずに死んでいくのがお似合いだよ」
少女は嘲笑うかのような表情で檻を叩いた。杖から振動が伝わり、手が痺れる。
「気を付けるんだよ」
青年は、変わらない笑みで少女を見送った。
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旅人は、少女の手を止めた。
『それは作ってはいけないものだ。今すぐ止めないと大変な事にな・・・』
『殺されたいの?』
7歳の少女からそんな言葉が出てくるとは思わず、旅人は恐怖を感じた。
『この薬で救われる命がある。誰も作らなくなったら、助かる命も助からない』
『その薬で助かったとしても、いずれは死ぬよ。一時だけしか効力がないんだ』
『其でも!』
少女は泣きながら叫んだ。
『辛いままにはさせたくない。その一時だけでも救われるなら、これが無駄だなんて思わない』
強い瞳に感化されそうになった。少女の言葉も正しいのかも知れない。けれど、夢は一瞬だ。現実はそんなに甘くはない。
『この仕事に誇りがある。止めたくない。見殺しになんて出来ない!』
『でもそれは・・・』
旅人は、もう少女達を納得させる言葉を探せなかった。常識を知らない。世界の理を知らない。この中では旅人の方が、常識を知らない者だった――。
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もう何日も、彼女の歌を聴いていない。聴こえないだけか、其とも、遠くで歌っているのか――。
この世界でたった一人、その歌を奏でる事の出来る少女。最初に聴いた時は驚いた。まだこの世界に歌える者がいたなんて。旅人すら、忘れかけていた遠い歌。
その歌は、ある空白の期間によって人々の記憶から末梢されていった。どんな歌だったか、なんという歌詞だったか、それすらも思い出そうとしない。それが当然のようになりかけていった。
だが、ある国でその歌を聴いた。奏でていたのは、磔にされ、処刑される寸前の修道女。最期の一時、その歌を口ずさんだ。
愛しい位の柔らかい響き、懐かしい程に遠くにあった想い、美しい程に綺麗な音色。
聴いたのはほんの一瞬だったのに、今でも残っている。彼女が愛したこの歌を忘れずにはいられない。
焦がれる位に、大切で切なくて儚い旋律。
・・・けれど、歌い継がれるモノではなかった。何度も繰り返し口ずさんだ。気に入っていたから。歌うだけで幸せになれた。解放された気分になった。まるで夢のように・・・。
ズキン――
突然の頭痛。体の痺れ。目眩、吐き気、吐血。一気に現れた症状に旅人は怖くなった。あの歌をずっと歌っていたから。脳にまで影響するなんて。
大好きな歌が、霞んでいく。歌いたいのに、口が開かない。聴いていたいのに、音が離れていく。
・・・あぁ、これが、代償か・・・。
どうして失われたのか、何故誰も思い出そうとしなかったのか、解った気がする――。
「今度、式典を開いてあの歌を奏でるわ」
久しぶりに会いに来た少女は唐突に伝えた。
「式典・・・」
「多くの人々を魅了するの。この歌を奏でられるのはあたしだけ。色んな人が聴きに来るわ」
「・・・いけない・・・!そんな事したら」
「解ってる。もう、この歌の存在も。だから、彼らに知って欲しいの。この歌の価値を、効力を。其さえ理解してくれれぱ、何も恐れない」
「・・・・・・」
「何が起きても、何も知らなかったって言って」
檻の鍵を旅人に放り投げながら彼女は俯いた。
「逃げて。この世界は明日で終わる。この歌も、もう語り継がれる事は無い」
「ダメだ!先が見えているなら何故・・・」
「もうね、体が言う事聞かないの。痺れも回ってきてる。昨日は血を吐いたわ。今も頭が痛いの。でもね、歌っている時だけは全ての痛みから解放されるの。それが、やめられないんだ・・・」
「・・・ごめん。もっと早く止めてれば・・・」
「いいの。覚悟はあったわ。この歌とともに死ねるなら本望よ」
「キミは、どこでその歌を?」
「・・・ママがね・・・昔歌ってくれたの。でも、1回だけだった。だから、一音一音漏らさず記憶に留めた。この歌だけがママの想い出。だから、知って欲しかった」
「・・・悔いはない?」
「うん。もう、十分だ」
最後に少女は可愛らしく笑った。旅人も、もう何も言わず、微笑んだ――。
*******
『【イシ】はね、体に良いんだって』
まだあどけなさの残る響は葉月に言った。
『確かに解放される感じはあるけど、響は口にした事あるの?』
『うん・・・でも不味いから一口でやめた。あたしにはもっと違う治療薬があるから』
『そうなんだ』
『今度、ハヅキにも教えてあげるね』
その約束は時を得て違う状で果たされた。
響の歌声は、世界の全てを浄化してしまうくらいに澄んだ音色だった――。
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救われる命があった。
生きたいと願う者達がいた。
その為に、薬を作る人達がいた。
それが、毒でも、一瞬の安らぎでも、助けたい思いが勝った。
【イシ】は世界中に広まり、多くの人が毒に身を焼かれた。
今でも、何処かの国で内密に生産されているという。
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響は、式典でその歌を奏でた。
聴いた者は、幸せな気持ちに溢れ、彼女を讃えた。
もう一度聴かせて欲しい。
誰もがリクエストした。
その光景は、彼女が夢みた世界。
この歌を聴いてくれる人達がいる。
それだけで嬉しかった。
繰り返し、歌を奏でた。
沸き起こる拍手喝采。
誉め称える声。
静かな毒は、効力を増していった――。
響が気付いた時には、もう誰も、その場には残っていなかった。
観客は、紅く染まり、地に伏していた。
見るも無惨な姿で。
それでも響は歌を止めなかった。
誰にも聴こえなくても、これが、最期の支えだった。
「ママ・・・」
掠れた声が空に響く。
倒れる少女を、旅人が支えた。
「・・・葉月・・・」
「もう良いんだよ、響」
「・・・ママにも・・・届いたかな・・・。あたしの歌・・・」
「聴こえてるよ。きっと」
「良かっ・・・た・・・」
「今はゆっくり休んで」
「・・・葉月・・・」
「ずっと、側にいるから」
「・・・ん・・・。また・・・明日ね・・・」
「そうだね」
彼女はゆっくりと目を閉じた。旅人の手を優しく握りながら――。
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「――なぁ。その歌、なに?」
帰り道、不意に聴こえた鼻歌に少年は訊ねた。
「あー・・・お祖母ちゃんが教えてくれた」
少女は可愛らしく答えた。
「どんな歌?」
「えっと・・・何だっけな・・・」
「日本語じゃないよな?」
「んー、どっかの言葉だって。あ!【失われた歌】だ」
「・・・なんか哀しいタイトルだな」
「お祖母ちゃんが若かった頃は歌とかあんまりなくて、疎開の途中で見つけた本に書いてあったんだって」
「へぇ」
「その本の中では禁忌とされてる歌だったみたい」
「でも、綺麗な旋律だった」
「あ、解った?あたしも大好きなんだ」
少女は楽しげに笑いながらまた口ずさんだ。
時代が変わっても、世界の色が変わっても、その歌は物語を添えて誰かの手に渡る。
変わらない歌声とともに――・・・。