『大好き。』
それはまだ自我が芽生えていない頃の記憶。
口元に笑みを浮かべた女が近付き、彼の腕に触れた。
その瞬間、彼は悲痛な叫び声を上げ、泣き叫んだ。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い・・・!
女は見えない様に塩酸を塗ったハンカチを手に持ち、それを彼の腕にくっつけたのだ。
火傷のような痛み、内側から突き刺すような痛みに彼は耐えきれず腕を切り落とそうとした。
『ダメよ。もっと苦しんでくれなくちゃ』
女に止められ、彼は身体を大の字に固定されながら次の痛みを受けた――。
その叫び声は誰にも届かず虚無に消えていった――。
戦争の絶えない国で僕らは生まれた。
初めて耳にしたのは重い銃声の音。
初めて見たのは人が血を流しながら死んでいく所。
武器を持った者が世界を制し、弱い者は理由も無しに命を奪われていく。
そんな世界で、水と蓮は生きてきた。
兄は15才、弟は12才だった。
毎日毎日終わることのない争いの中で、二人は優しい母と強い父に守られながら育った。
二人は銃の腕前と刀の使い方を取得し、父に習って強くあろうとした。
町の外れに住んでいても戦争の火種は飛んできた。
一瞬で家が燃やされ、外に避難した瞬間にその危険にいち早く気付いた父が家族を守り兵達の銃弾によって命を絶たれた。
哀しむ暇もなく、母に手を引かれて必死に逃げた。
けれども兵達は追ってくる。
止まない銃弾を避けながら水が抵抗を見せる。
蓮に母を任せ、先に道を進ませた。
何処へ逃げれば良いかも解らず、3人は森の中へと深く入り込んでいた。
「水・・・」
「蓮は母さんと一緒にこのまま逃げて。オレがあいつらを食い止めるから」
「ダメだよ!水も一緒に・・・!」
「蓮。母さんを守ってね」
「水!!」
追手の道を塞ぎ、水は姿を現した。
すぐに銃声の連続音が轟いた。
「蓮!」
母に促され、蓮は泣きながら国を離れた――。
それから3年の月日が流れた。
メルディア王国ではこの日、新しい王が即位しようとしていた。
王の望みは「平和と平等」のある世界を目指す事。
まだ若き王は民の信用と臣下達からの信頼を得ていた。国でも一番の刀の使い手でその強さに惚れて臣下になりたいと申し立てる者達も多かった。
「陛下。申し上げたい事が・・・」
「なんだ?」
「奴隷達の暴動が収まりません」
「またか・・・」
王の悩みはただ一つ。この世界には奴隷制度が敷かれていた。王になった時に廃止にしようとしたが臣下達に必死に止められ、仕方なくそのまま放置にしていた。
けれど奴隷達もただの犬ではない。強い意思を持った若者を筆頭として暴動を起こしていた。
「――私が止めにいくよ」
「いえ、筆頭の若者を捕まえたので会って頂けるだけで宜しいかと」
「そう?」
王は臣下に促されるままに拷問部屋へと向かった。この部屋も平等の邪魔になると取り壊そうとしたのだが、躾の為に使用する価値があると言われ、そのままにしていた。
暗い部屋に入ると、鎖に繋がれた若者の姿があった。どれ程の拷問を受けたのか、その身体は傷だらけだった。
「お前か?バカな真似をしたのは」
俯き加減に顔を伏せている若者に刀を突きつけながら王は聞いた。
「おい!陛下が聞いているのだぞ!返事をしろ!」
臣下に怒鳴られ、若者はゆっくりと顔を上げた。
時は経っていたが面影はあった。
王は信じられないと言った表情で若者を見つめていた。
「陛下?」
「――随分と偉くなったものだね、水」
久しぶりに聞く声。もう会えないと思っていた存在。
動揺する王に不信感を抱いた臣下が冷たい視線を向けた。
「今では一国の王か。大したものだ」
「黙れ!陛下に向かって失礼な口を叩くな!」
バシッと鞭で打たれ、若者は吐血した。
「やめて・・・」
「何度も暴動を起こしやがって!身の程を思い知れ」
「駄目・・・っ!」
若者の代わりに臣下の鞭を浴びたのは、若き王。
その行動には臣下達も驚きを隠せない。
「陛下、何を・・・!」
「下がりなさい!この者は、私の兄です!」
「なっ・・・」
突然の告白に臣下達はざわつく。王は騒ぐ臣下達を部屋から出し、若者と二人きりになった。
「兄さん・・・ごめん・・・」
若者の鎖を外しながら王は泣きながら謝った。
「出来れば、知られたくなかったんだけどな」
「僕がこの国の王だって知ってたの?」
「あぁ。若い王が即位したって聞いたよ」
「どうして・・・奴隷になんて・・・」
若者はあの日の事を語り始めた――。
3年前、水と分かれた蓮と母親は遠い国まで逃げ切る事が出来た。しかし、その国では余所者は受け入れられず奴隷としての烙印を押されてしまった。
母はその美しさを買われ、国王の側近として生きる事を強いられた。
それから3年。
母は病に倒れ、そのまま還らぬ人となった。同時に蓮も他国への駆り出しで他の奴隷達と共にこの国へと売られてしまった。
「大人しくしてる心算だったんだけど、お前が王になったって聞いてから会いたくなった。奴隷としてじゃなく、兄として。だから奴隷のままでは知られたくなかったんだ」
「兄さん・・・」
「オレを庇って、バカだね。臣下達の信用は揺らいでいるよ」
「・・・元々、王になる気はなかったんだけど。前の王に気に入られちゃってどうしても跡を継いでくれって頼まれちゃってね・・・」
「相変わらず優しいな、お前は」
久々の兄弟での会話。蓮は兄に会えた事が嬉しくついつい話が止まらない。
「もう戻った方が良いんじゃない?王が奴隷と仲良くしてるなんて国民にバレたら大問題だ」
「奴隷制度は廃止する」
「えっ・・・」
「やっばり、身分を図るなんておかしいよ。こんなの絶対間違ってる。兄さんもそう思うでしょ?」
「――でもね、水。世界はそんなに甘くない。階級がある事で生きられる人もいるんだ」
「兄さんは解放されたくないの?ずっとこんな・・・蔑まれるような生き方するつもり?」
「解放はされたい。でも、私情で国の情勢を変えるのは良くないよ」
「其は解るけど・・・」
「もう暴動は起こさないよ。お前の迷惑になるつもりもない。だからお前は王としての役目を果たしな」
「兄さん・・・」
「オレの事は気にしないで。大丈夫だから」
「・・・・・・解った」
蓮は暫く拷問を受け、水は王としての責任を担った。
揺らいでいた臣下達の信頼もすぐに取り戻し、穏やかな日常へと戻っていった。
メルディア王国は資源豊かな国だった。他国との貿易も盛んで豊かな暮らしが出来ていた。
あの日以来、兄弟は顔も会わさず王と奴隷として生きていた。王が目指す「平和と平等の国」はもう少しで完成されようとしていた。
そんな矢先の事。
隣国のアルディン共和国が敵国との戦争に白旗を上げ、植民地とされてしまった。更に敵国のライラ王国はアルディン共和国と親しみの深いこのメルディア王国をも支配下に置こうと戦争を持ちかけてきた。その知らせを聞いた王は戦争はせず話し合いで決めたいと申し付けたのだった・・・。
「ならばそちらの奴隷をくださらないか?」
話し合いに応じたライラ王国の国王・玉欄はある提案を持ち出した。
「其は出来ない」
「何故?」
「奴隷制度はいずれ廃止にする。あの者達は自由になるのだ。簡単に手離す訳にはいかない」
「――ならば、力付くで奪うしかありませんね」
「戦争はしない!争いに駆り出す命など持ってはいない」
「これはこれは・・・。なかなか頑固な王ですね」
「何故戦争をしたがる?無闇に命を奪うだけではないか」
「先に戦争を仕掛けてきたのはアルディン共和国ですぞ」
「えっ・・・」
「我が国も戦争には反対だった。だが、あの国からの敵襲に遇い、戦争へと発展してしまったのです」
「そんな・・・」
「この国の資源はとても豊かだと聞きました。我が国のものにしたいと思う程にね」
「ならば同盟はどうだ?そうすれば貿易が出来るだろう?」
「――甘いですねぇ。陛下?聞く所によりますとまだ齢15才だとか?子どもを王に仕立てあげている時点でこの国は終わっているんですよ!」
パァン――
不意に放たれた銃弾。だが、当たったのは王の胸ではなく受け止めた刀だった。
「何を・・・!」
「ほぅ。刀の腕は一流だと聞いてはいたがなかなかのものだな」
「玉欄殿・・・!」
「交渉決裂だ。この国は我らの支配下にする!」
王の望みは叶わなかった。
ライラ王国はすぐに戦争を仕掛けてきた。メルディア王国も体勢を整え、戦力を上げた。
けれど、その差は歴然だった。「平和と平等」を願った王の元に集った臣下達もまた同じ望みを託し、争いのない国を願っていた。故に戦力はすぐに衰え、かくも虚しく国は押さえ付けられてしまった。
「若き王よ。その無力さを恨むのだな」
沢山の血が流れた。多くの民が殺された。いくら王が強くても全てを護りきる事は出来なかった。
敗者となったメルディア王国はライラ王国の支配下に置かれ、一つの国に王は二人も要らないと玉欄は若き王を罪人として牢へと 閉じ込めた。
戦争は繰り返される。例え話し合いで解決を求めようとしても何れは力で勝敗を決める事となる。
3年前と同じだ。
何も守れず、いつも独りだった。
若き王は自分の無力さを嘆き、その弱さに押し潰されそうになった。
暗い牢獄の中で静かに彼の泣き声だけが響き渡っていた――。
ライラ王国は正式にメルディア王国を支配下に置き、国政を広げる事を告げた。そして、謀反を起こした罪を背負った若き王を磔の刑にした。
「見るが良い!これが未熟な王の最期の姿よ!」
メルディア王国の臣下達も玉欄の強さに惹かれ、手のひらを返すようにそちら側についた。国民も奴隷にされる位なら大人しく玉欄のやり方に従う意思を示し、若き王の味方は誰もいなかった。
「さて・・・。どう処刑しようか。腕を一本ずつ剥ぎ取っていこうか。それとも、水牢に入れて苦しむ姿を国民達に見せつけるか・・・。迷うなぁ・・・」
既に若き王の身体はボロボロだった。兵士達からの残虐な仕打ちを受け、傷も癒えない内に磔にされてしまった。
「あぁ、そうだ。こういうのはどうかなぁ?」
玉欄が合図をすると、一人の若者が現れた。その手には鋭く光る刀が握られている。若者はフードを被ったまま、顔は見えない。
「さぁ、国民どもよ!今から楽しいショーの始まりだ」
若者は磔の王の前に立ち、刀を構えた。
「やれ」
ザンッ――
一振りの刀が切ったのは、王の身体。綺麗な紅い線がくっきりと浮かんだ。
「ぁあ――・・・!」
その痛みに声を漏らす王。肌を切り裂かれ、呼吸が苦しくなった。
「次は腕を切り落とそうか」
若者は玉欄の命に従い、王の右手を切り裂いた。更に悲痛な叫びが轟く。大量の血が勢いよく吹き出している。
「最後は思いっきり刺してあげなさい」
若者は容赦する事なく刀を構え、虫の息である王にトドメを差した。
グッと身体を貫かれ、吐血する王。その際に若者のフードが捲れ、その姿が露になった。
「・・・な・・・んで・・・」
若き王・水は薄れゆく意識の中でその姿を見た。目の前にいるのは、紛れもない兄の姿。
「ごめんね、水」
水の耳元で囁く兄・蓮。その声には感情が込められていなかった。
「・・・にい・・・さん・・・」
「良い夢は視れた?」
「・・・なに・・・を・・・」
兄は語る。水が生まれてくるまで母親から虐待を受けていた事を。母のやり方は次第に悪化し、蓮の身体は傷跡ばかりだった。父親も助けてはくれなかった。虐待を受けるのは弱い証だからと。いっそ死んでしまいたいと願った事もあった。だが、どういう訳か母に気付かれ止められてしまった。母の悪趣味にも慣れ始めてきた頃、水が生まれた。
両親は水を可愛がり、蓮への虐待も止んだ。
其からは何事もなく接してくれる両親に対し、蓮は安堵を覚えていった。
しかし、3年前のあの日。
水が余計な事をした。母親と二人にされ、蓮はまた母の怒りを買う事となった。
「辿り着いた国で母さんは言ったんだ」
――この子は奴隷以下の存在だから――
「嘲笑うように、オレを見放した。自分は美しさを利用して王に取り入って。でも、あの女は死んだ。ざまぁみろって思ったね!子どもを可愛がらない罰が当たったんだって」
「・・・そんな・・・」
「お前も同罪だよ、水 。あの時、オレと母さんを一緒にした事、許さない」
「・・・っ・・・」
「少しは好きになれるかと思ったのに。ガッカリだよ」
蓮は刀を抜き取り、付いた血を払い取った。
玉欄の狂ったような笑い声が響き渡る。
水は血を流しながら掠れゆく兄の姿を見つめていた。
「・・・それでも・・・にい・・・さんの事・・・が・・・」
意識が遠退き、水は静かに目を閉じた。
「やぁ、素晴らしい剣技だったよ」
「・・・・・・」
「まさか、あんな嘘を信じるなんてね」
「・・・えっ?」
玉欄の言葉に不安が過る。蓮は刀を持つ手が震えた。
「嘘・・・?」
「実はねぇ、君のお母さんは別の人でね。君に虐待してたのは義理の母親だよ」
「・・・何を・・・」
「蓮クンのお母さんは君を生んだ後、別の男に拐われて行方不明。父親は諦めて水の母親を目取った。だから最初から君が可愛がられる事も腹違いの弟を恨む事も無かったんだよ」
「今更・・・信じられる訳ないだろ・・・」
「じゃあ、これで信じてくれる?」
「えっ・・・」
気付いた時にはもう刺さっていた。いつからいたのか、いつ刺されたのか全く解らない程に、蓮の身体からは刀の刃先が見えていた。
「・・・っ」
「嫌だわ。甘かったかしら」
その声に蓮は視線だけ向ける。綺麗な女が口元に笑みを含みながら刀を握っていた。
「・・・だれ・・・?まさか・・・」
「そう。今話した君の本当の母親だ」
「・・・母・・・さん?」
「大好きよ、蓮。でもごめんなさいね」
スッと刀を抜かれ、蓮はふらつく。身体からは血が溢れ出ていた。
「あたし、この人に惚れちゃったのよ。あんなダサい男よりね。子どもなんて要らなかったのよ」
知りたくなかった現実が目の前にある。蓮はもう何も考えられず、水の元に寄りかかった。
「・・・スイ・・・」
もう聴こえる筈もない弟の名を呼んだ。
「・・・ごめんね・・・」
痛みに耐えきれず、流れ出る血が意識を奪っていく。蓮は力なく倒れ、そのまま二度と動く事はなかった。
「とんだ茶番だったな」
「そうねぇ。醜いわ」
「さっさと燃やしてしまおう」
誰にも哀しまれる事なく、兄弟の死体は呆気なく焔に包まれた。
紅く揺らめく炎の中で、微かにその手が愛しき者の手を握った事を、誰も気付きはしなかった――。