第八話〜転生
誰もいない洞窟の中をヨルは歩き続ける。泣きじゃくりながら歩く。
ピッケルを汚れたものでも持つかのようにずるずると引きずりながら。
あちこちに雲母でできた絵がコケまみれになり、化石に近い状態転がっていた。
先に歩くうちに、そのいくつかは、幽霊のように、何かが絵から飛び出していた。
生き物になりきれなかった絵を避けながら、ヨルは先を目指した。
暗い中水音が、まるで何かの声のように反響する。青白く光るコケがより一層その灯りを強くしていた。水彩色に染まった鉱石があちこちで点滅する。
どこか夢の中のような光景だった。
けどそれも、もうどうでもよかった。
巨大な岩石の山が立ち並び、その先は断崖絶壁のように何も見えなかった。
それでもその傍でランタンの明かりを照らすと、山に刻まれた模様が反応し、谷底の中、微かに光る道が次の山へとつながっていく。
ぼんやりとした眼をしたまま、ヨルは歩き続けた。いつの間にか蛍のように蛍光色に光る生きものがあたりを飛び交い、頼りのないランタンの光をより一層強くするかのように、徐々に集まってきていた。
わあ。
きれいだなあ。
思わず感嘆の悲鳴が上がってしまう。
すこしだけ嬉しくなる。色々な光が混ざり、どこかヨルの周りだけ違う世界のように見えた。
先へ進むうちに、また地面が凍りつく、何かひどい寒気がした。また凍り男がどこかにいるのかも知れない、そう思うと怖くなる。
激しく争う音が聞こえてくる。
こっそりと覗き込んだ崖下には星型の頭になった凍り男に、丸い頭をした黒くぬめった妙な生き物が噛み付き辺りに血と氷の破片が飛び散っていた。
どちらかが倒れるのだろうか。そのおこぼれにあずかろうと、何か見なれない生き物があたりにはたくさん集結しているようだ。
凍り男の鋭い爪が、ぬめった生き物の腹を貫通した。
それでももう凍り男もどこか息も絶え絶えで、動くのもつらそうだった。
どうしてかヨルは恐れも忘れて、その場へと飛び降りて行った。
冷気がたまり、生き物が呼吸をやめている。集まった生き物たちも凍り男が発する冷気を恐れてか、どこかに隠れてしまったようだ。
ぬるぬるした黒い死体の横で、大怪我をした凍り男が静かにうめく。
ヨルが近付くと威嚇するかのように、目のない顔で、こっちを睨んだ。
怪我してるの?
そうヨルがたずねると、低い声でうめいた。
痛いの?静かにそう聞いて、傷口付近にランタンを照らす。
抉れたような跡があった。深手だ、もう助からないかもしれない。
それでもせめて、とヨルは思い、傷口に薬を塗った。
どうしてだろう。あの子のことを考えるとひどく胸が痛んだ。
それでも、今はこの目の前の子を助けなきゃと、思うことができた。
何か色々な物を達観していたのかもしれない。
失われたものは、もう戻らないから。
傷口の手当が終わっても、凍り男はその場から動かなかった。
星型の結晶が放つ光もどこか弱々しい。しばらくがたって、ヨルが歩きだそうとしたときに凍り男は巨大な右腕をヨルに差し出した。
どうしたの?
ヨルがそうささやいた。
光る巨大な爪の先端には、小さな花が不格好に握られていた。
「くれるの?」
そうやってそっとヨルは爪に触った。驚くほど冷たくて、透きとおるような色をしていた。
凍り男がうなずいたような気がした。
ありがとう。
リュックに青白く光る花を挿し、ヨルはゆっくりと暗闇の中を歩く。
冷たく大きな氷の結晶があちこちに並んでいた。黒いひびがその表面には浮かび、氷の中には何かが閉じ込められていた。無言でヨルはピッケルをそのままひびに押し当てた。
パキリと音が聞こえ、氷が砕けた。
光るランタンがほのかに、煌く。氷の柱はあちこちに立っていた。
ひどく無造作にぎこちなく。
ヨルはピッケルを振るいながら、それを砕いていく。
パキン、パキン、パキン。
割れるごとにランタンは輝き、暗い空間の中を少しずつ埋めて行った。
でもまだ、足りないんだ。
そうヨルの心の中に悲しみが広がる。
私の一番大事なものはもうないんだ。
洞窟の最深部、誰もいない回廊の底までヨルは来た。朽ち果てた城の内部ように、らせん階段や、崩れた石の煉瓦のような跡がそこにはあった。
これ以上深くも潜れない。そこには何もなかった、ただ空っぽの空間と静寂のみに包まれヨルが本当に欲しかったものはそこにはなかった。
冷たい空間でヨルは一人、座りこんでしまった。ここまで頑張ってきたつもりだけどもう何もない、誰にも会えないということが、ひどく重くのしかかってきた。
地面に溶けるようにして消えたリューリーン。
もう一度会いたかったから。もう一度会えたら、あの時はごめんなさいって謝れる気がしたから。ここまで来た。
それでも、そんなのも幻想だったんだな。そうやってヨルは一人泣いた。
冷たい地面に座り込みながら。
失ったものはもう取り戻せないのだという、気持ちでいっぱいだった。分かっていたのだとは多分思う。冷たく青白く光る地面が、うつむくヨルを包みこむ。
光る地面にほんの少しだけ心が動いた。もしかしたら、ここが最後の。
もう一度だけ頑張ってみたら、もしかしたら。
ヨルは立ち上がり、力を込めて地面を叩く。
薄い壁に覆われた。この大地が最後のランタンを守る壁だ。せめてこれだけでも
壊せれば、ほんの少しだけでも何かが変わるかもしれない。
もうなにもかもの覚悟を決めて、ゆっくりとその場に立ち止まり、後ろを振り返った。
追いかけてくる凍り男の冷たい表情の中、良くなじんだリューリーンの瞳が見えた。
生気のない目、青白い肌、体中がふくれあがり、もうあの頃の面影はどこにもない。
そうなんだ、きっと全部分かっていたのだ。それでも心のどこかで全部を否定して、現実から逃げ出していたかったから。私はきっと。
私と対峙した凍り男、いやリューリーンは静かに、瞳を見つめたままじっとしてもう動かなかった。襲い来る両の腕も、もう力なくだらんと垂れ下がったまま。
そうだね、きっともうこれで本当に最後なんだ。ごめんね、上手く助けてあげられなくて。
悲しい気持ちが具現化して、両方の目から溢れ出しそうだった。涙が止まらなくなりずっと。白い教室の中でいつまでもみんなで仲良くしていられたのなら、何も変わらずにそれが続いてくれたのなら、私はきっと、いつまでも笑っていられたのだろうか。
それでも、新しい世界を夢見て先へ進んだんだ。ごめんなさい、ほんとうにごめんなさい。そう心の中でリューリーンに何度も何度も謝りながら、ヨルはピッケルをリューリーンの体へと振り下ろした。
世界が白く光り輝いた。地面はひび割れ、あちこちからランタンが登り、地面を、壁を、天井を明るく照らす。暗闇を追い払い、何もかもが見違えるかのように。
ヨルの見上げる先には、星空のような無数のランタンが輝く。天井が崩壊し、遥か空の彼方まで、地の奥からの空間がつながった。その縦穴をランタンは何処までも上がって行く。数えきれないぐらい、何処を見渡しても広がり、魂の回廊のように。
ああ、これできっと私も。ヨルは静かにそう思い、光る大地の中、ヨルはその地面にゆっくりと眠るように、倒れ落ちた。
その姿もやがて光りに捕われ、ゆっくりと消えてゆく。