第五話〜雪原
寒いな。ヨルはそう思った。
分厚い氷を打ち砕いて、さらに下の層まで来た。
先ほどの凍り男はもう追ってこないだろうか?
ヨルは、恐怖のあまりぶるっと身を震わせた。視界が真っ白く積る雪で覆われていた。
洞窟の中なのに、雪が降るんだ。そう思った。
見渡す限り白い大雪原だ。ぼやぼやしていると凍えてしまいそうで怖い。
暗い天井のどこからかは分からないが、雪は振り続けていた。
歩いた分だけ足跡が残る。
かじかむ足は、千切れそうに痛かったけど、後ろを振り返れば、延々と続く自分の足跡が見えて、少し先に進んでいるようで嬉しかった。
降り積る雪が、それをあっという間に覆い隠していく。
前を向かなくちゃ、ヨルはそう思った。ランタンの中に詰めたヒカリキノコの灯りもどこか弱々しい。もう限界かもしれない。
せめて、雪から身を隠せる場所があればいいのだけど。
時折痩せた木が、雪原には生えていた。もう石のように固くなって生きているのかどうかもわからなかった。
寒いなあ。溜息も凍りそうだ。
しばらくの間、そうやって歩き続けた。高台から降りて、起伏の飛んだ丘を越えた。足が冷たくて、もう上手く感覚が働いていないようだった。
それでもなお歩けば急に目の前が晴れ、巨大な石の像が並んでいるのが見えた。
人を模しているのだろうか?どれも奇妙な形の頭をしている。
像には精密な彫刻がなされ、軍服のような衣服に身を包み並んでいた。見上げるほどに大きい。頭の部分は奇妙な幾何学図形のようなもので構成されていた。洞窟の中の支配者達みたいだ、とヨルは思った。
すぐそばには、像の人物に合わせてあるのだろうか?巨大な剣が何本も地面に突き刺さり異様な光景を醸し出していた。この像は、動いたりしないよな?とヨルは思った。
巨大な像の足もとは雪から身を隠せそうだった。
足の指をマッサージする、血のめぐりが悪くて、青白く腫れていた。
油断するとしもやけになってしまいそう。
像の影に隠れて吹雪をやりすごしながらランタンの上部を取り外して、もうほとんど光らなくなっていたキノコを取り出しリュックにしまった。代わりにランタンの中には小さな電気石をつめて、アルコールによく似た液体を注ぎ込んだ。再びランタンに蓋をしてゆっくりと振る。
粘度の高い液体の中、石がゆっくりと光るのが見えた。同時にほのかなぬくもりがランタンから広がった。貴重品だったけど、もう寒すぎて、四の五の言っている場合ではなかった。
またいつ暗闇に包まれるかは分からないから、用心しておくに越したことはない。
少しは動くようになってきた体を起こして、像の影に隠れ、氷でできたレンズを使って火を起こした。ビンに詰めた水を温め、炒った豆を使った珈琲でも飲もう。
疲れが取れる。それからリュックの中にしまってあった食べ物をいくつか取り出し。ヨルは準備を整えて、またゆっくりと歩きだす。
巨大な像は等間隔に並んでいた。
目印代わりに、それを元に歩く。その姿は微妙に一体一体異なるようだ。
進むほどに像の姿はだんだんと崩れてきていた。それなりの距離を歩いたが、初めのものに比べ、ここまで来るとその様相は随分とひどい。表面は風化して穴があき、腕の部分は崩れ、頭がなかった。次第に像は劣化して、並んでいるのだ。
さらに先へ進めば、そこから先にはもう像はなかった。
いや崩れ落ちかけた像の足もとだけが雪の上に微かに出ていた。
この吹雪の中、いったいどうやってひびを見つければ良いのだろう。
ヨルは途方にくれてしまった。
凍り男から逃げ出しても、本物の吹雪にころされそうだな。
冷たく凍えた手に、息を吹きかけながらヨルはそう思った。
ランタンの灯も次第に薄れていた。何か少しでも暖まれるものはないだろうか。崩れ落ちた像の影に隠れるようにして身を縮め、必死にリュックの中をあさった。冷たい。この中に入ったら少しは暖まれるかな。
目の前が暗くなりそうだった、ひどく眠い。うとうとしてしまう。
支配者の像が並ぶ丘の向こうに、立ちはだかる、白い彫刻のような女性の姿があった。
丸くて白い仮面をつけて、表情も分からないまま、こちらを見つめていた。
なぜか頭の中に、昔の光景がよぎった。
ヨルはだめね。いつも寝てばかりだ。脳内に響くオルカ姉さんの声。
誰かにそんな風に叱られているかのようだった。
冷たい学校の校舎を思い出した。
確かその時はとても嫌な気分だったから、机に突っ伏して寝た振りをしていた。
それなのになんだかくすぐったいような感触がして、こっそり目を開けたら
自分より背の低いリューリーンが髪を触っていたんだっけ。
きれいだなあって、そう言ってもらったんだ。そんな記憶が蘇る。
先へ進まなきゃ、ふいに目を覚ましたヨルの目前まで仮面をつけた女性が迫っていた。地面から突如現れた石の右腕が地面をかき分け
すぐそばの雪を薙ぎ払った。
リューリーン?
雪のない岩肌に、鈍色に光る大地のひびが現れる。
あれだ、こんな近くに……とヨルは思った。
怒ったように仮面の女性が白いつららのような氷の塊を地面から生やして、
石の右腕を無数の氷の塊が貫通した。
体を震わせながらヨルは必死に岩肌へ向かう。
向かい風が、吹雪となって、雪を降り積もらせた。
振り上げたピッケルが、ひびめがけて振り下ろされる。
びしり、と音を立ててひびが変形した。黒い呪詛のように。
真っ黒な血をあたりに吹き散らしながら、震えて形を変えていく。
雪が黒く染まる。
構わずもう一度全力で叩いた。広がったひびが、眼球のように膨らんでヨルの顔を見つめた。
それでもヨルは、ピッケルを振り下ろす。眼球をつぶすかのように。
血はあっという間に雪を溶かし、地肌を露出させそしてそのまま大地を溶かすように砕いた。
震動が地面を揺らし、雪ごとヨルは下へと落ちていった。




