イヴリンの妥協
「なっ、イヴリン様!」
イヴリンがダレンの声に足を止めるわけがない。むしろ全速力で逃げた。
「イヴリ」
「こないで!」
一歩通りに出た瞬間、イヴリンは悲鳴のような声をあげる。
「こないで!」
「なにを」
年頃の少女が必死に逃げるさまは、それだけで行き交う人々の保護欲をかきたてるのに役立った。言われのない中傷にたじろぐダレンを横目に、イヴリンは“怯えて逃げる少女”を演じながらどんどん人の中へ潜り込む。
「イヴリンさ」
「ちょっと待てよあんた! そんないい身なりして、あんな少女を追いかけ回そうってのか?」
「ちが」
「あんたみたいな身分のいい人がそんな真似するもんじゃないわよ!」
「いや、ですから」
イヴリンの逃げる演技に緊迫した空気を感じたのか、町人はわらわらとダレンの前に立ちふさがった。これではダレンも簡単には追えない。
(変装を見破ったのはさすがだけど、くくっ、ざまぁないわね親衛が)
イヴリンは民家の陰でさっとマントを羽織ると、ちらりとダレンの様子を覗いてから、長居は無用と立ち去った。
「じゃあなんだ。あんたは王様のご命令で、あの女の子を追っかけてたわけか」
「ええ、お分かりいただけましたか。あの方の協力が必要なのです」
「そうか。いや、悪かったな」
口々にダレンに謝りながら、町人はひとり、またひとりと去っていく。
ふう、と息を吐いた若者に、ひとりの老爺が助言した。
「でもな、若い娘さんの協力を得るのに、あんな風に追いかけちゃいかんぞ」
「……は」
「娘さんはいつだって可憐でいたいもんだ。それに、乱暴な扱いは怖がらせるだけじゃ」
「……ご教授、感謝いたします」
イヴリンがあれくらいで怯えたりしないということを、ダレンはすでに悟っていた。
町人たちがダレンの元を去ってから、ダレンはひと通り町を探した。もしかしたらすでに去っているかも知れないが、なんとなく、どこかに潜んでいるような気がしたのだ。
(はあ……しかし、変装に、妖精が付いているとは恐れ入った。イヴァン様も教えてくだされば良いものを)
まったくもってひどい主だ。しかしこれで、イヴァンの妹というのがただ者でないことがはっきりした。となれば、こちらも接し方を考えなければならない。
(小娘だと甘くみたな)
オズに近しい者だからといって、妖精の恩恵を受けるわけではない。ましてや妖精が付いているとは考えもしなかった。オズが近くにいれば、その可能性も考えただろう。だがイヴリンの場合、オズとは離れて暮らしている。
だから、甘くみた。
「……さて、態度を改めるとするか」
なんとしてもイヴリンを連れていかなくては。でなければあのイヴァンは言うことを聞きはしないだろう。
ダレンが立派な牡馬の手綱を引きつつ、覚悟とともに町を出ようとした時だ。行く先に、マントを羽織った小柄な少女が立っているのが見えた。後ろ姿で顔は見えないが、まさか、と期待する。
「イヴリン様?」
人違いかと思いつつも声をかけると、少女はゆっくりとこちらに振り向いた。
「……!」
「そんな、幽霊でも見るような顔しないでいただけます? 生命力に溢れた年若い女の子に向かって」
紛れもないイヴリンだ。いまだ髪を赤く染めてはいるが、イヴリンに違いなかった。
「まさか、出向いていただけるとは」
唖然とイヴリンを見つめるダレンに、イヴリンはずんずん近づいて、ふん、と鼻を鳴らした。牡馬がわずか、居心地悪そうに足踏みをする。
「だって、仕方ないんですもの。こちとらしがない小娘ですよ? 路銀なんて片手で握るくらいしかないんです」
「……つまり、金が尽きたと」
だんだんと呆れ顔になるダレンに、イヴリンはにっこりと笑いかけた。
「ええそうです。それしか親衛様の前にわざわざ出る理由がないでしょ?」
この、笑顔。台詞。清々しいほどだ。二週間の逃亡生活で服や体が薄汚れていても、イヴリンにはどこか底知れぬ輝きがあるように感じた。
「では、イヴリン様。路銀はお任せいただいて、イヴァン様の元へご同行いただいても?」
態度を改めて、ダレンはイヴリンに向かって礼をした。胸に手を当て、少しかがんで目線を下げる。そうして伺い見たイヴリンは、ちょっと意外そうに目をぱちくりさせて、それから満足そうに笑って頷いた。
「承知しました、ダレン様」