ダレン、捕獲する
翌朝、イヴリンは水筒の水でさっと顔を洗って出立した。
艶めく蜂蜜色の髪は赤色に染められ、ワンピースはシャツにベスト、そして、少し厚手の巻きスカートへ変わっている。踵の高い編み上げブーツは相変わらずだが、およそ“可憐な少女”の風貌はなりを潜めていた。
「おっし、今日も元気に行くぞー!」
『おーっ!』
イヴリンの声に応えたヒュルヒュノは、今はイヴリンの胸元で揺れる懐炉箱に収まっている。パルティはイヴリンの影の中だ。
ダレンから逃げ出して、はや二週間が経とうとしていた。逃亡生活はうまくいっている。
イヴリンが連れているヒュルヒュノは火の粉の妖精で、真っ黒い炭の蜥蜴のような姿をしている。ヒュルヒュノが体温を低くしていれば、昨夜のイヴリンがやっていたように素手で触れることも可能だが、限界まで上げれば火の玉になる。
パルティは暗闇の欠片の妖精で、昼間はダレンにまとわりついたような黒い煙、もしくは小さな人の姿をしている。しかし夜になると自在に姿を変え、周囲の暗闇を操ることが出来た。
そんなお供がいるから、イヴリンはダレンの追跡から逃れることが出来ている。
とはいえイヴリンも年頃の女の子である。いい加減、文明的な生活に戻りたくなっていた。
(路銀もあんまりないし。かといって野宿続けるのもイヤ)
早く可愛い服が着たい。お風呂に入りたい。お菓子食べたい。
「そろそろ町に潜むか」
ぐっと鞄の持ち手を握りしめ、イヴリンはいよいよ町に潜り込むことにした。
野宿していた場所から歩くこと数十分。少し大きめの町にイヴリンは到着した。
ざっと歩いてみただけでも、なかなかおしゃれな町のようだ。服飾店がたくさん並び、宿屋も多い。
「ここなら上手く潜めそうね……」
きょろきょろと見回し、ひとまず細い路地に入って相応に身なりを整えることにした。普通なら宿屋で部屋を取ってから着替えるだろうが、それをしては万一ダレンが探しにきた時に、一発でばれかねない。
幸いにもイヴリンにはパルティがいる。着替えるときに囲いがなくても、目くらましなどお手のものだ。
宿屋の横にひときわ細い路地があったので、そこを選んでイヴリンは入っていった。路地の壁は高く、進めばすぐに薄暗くなる。気にせずどんどん進んで行くと、だんだんと賑やかさも遠ざかっていく。
それと逆に、鮮明になっていく音があった。
(……やっぱり裕福な場所には暇人がいるもんなのね)
数人が付けてくる。多分、男たちだろう。
(もっと暗い場所の方が好都合だけど……こんな真っ昼間じゃ、そうもいかないか)
早足で角を曲がって、さっと鞄の持ち手を片手に纏めて準備する。
どくどくと心臓が高鳴る。足を軽く開き、角から遠い方へわずかに体重を傾けた。
これで準備万端だ。
(今か……今か……今!)
ぶんっ、と音を立てて鞄を振り抜いた。自分の頭よりも上を目掛けて。
ドゴッという音と短い悲鳴が聞こえた。それを合図にイヴリンは駆け出す。殴ったやつとは別の手が伸びて、イヴリンの髪を掠めた。わずかに引っかかったのを無理やり走り抜けると、髪をまとめるのに使っていたピンが抜け落ちてしまう。
(けっこう気に入ってたのにな。……全部で三人。あと二人かぁ)
なりふり構わず駆ける。速くもない少女の足でもすぐに捕まらないのは、パルティが目くらましをしているからだ。しかし薄暗い路地裏とはいえ、昼間は一度に一人が精一杯。時間は稼げてもいずれは追いつかれる。
(ちっ。土地勘ないから時間かかっちゃうな)
「待て!」
近くで声を聞いて焦る。振り向きざまに距離を確認すると、すぐそこに手があった。
「っ……ヒュノ!」
叫び声に近かった。情けないと思いつつも構っていられない。イヴリンの声を聞いたヒュルヒュノは、すぐさま懐炉箱から飛び出て、イヴリンを掴もうとする手に飛びついた。体中の体温を上げればすぐに火の玉だ。
「なっ、うああああっ! 火が!」
「うわっ、どうなってんだ!」
怯える男たちの声にイヴリンは冷や汗混じりににやりと笑う。しかしそれに油断したのかーー足がもつれた。
「きゃっ……!」
(こんな派手に転んだら、顔、思いっきり擦りむくじゃない!)
ズレた考えだが、イヴリンにとっては割と重要な問題だ。しかしその心配は、誰かに抱えられることでなくなった。
(くそ、まだいたの!?)
助かったと思うのと同時に、イヴリンは次なる行動を考える。だが、イヴリンにかけられた声は意外なものだった。
「見つけたぞ! まったく、こういう事か!」
「えっ」
がっちりとイヴリンを抱え込んだ相手は、もうずっと会うつもりはなかった、ダレンだったのだ。
ダレンはイヴリンを自分の後ろへ追いやると、燃えるヒュルヒュノに混乱している男たちに向きなおりながらイヴリンへ問う。
「あれをどうにかしろ。殺すつもりか?」
あれ、というのはヒュルヒュノのようだ。
「殺すなんてとんでもない。灸を据えてるだけですよ。ヒュノ! もういいわ」
イヴリンの声を聞いてヒュルヒュノは男から飛び退いた。あまり脚力はないのですぐ地面に落ちそうになるが、パルティが煙になってヒュルヒュノをイヴリンの元へ運ぶ。
ダレンはその様子を観察しながら、男たちに声を上げた。
「お前たち! まだこの娘に用があるか!?」
その隙にこっそり逃げようとしたイヴリンだったが、ダレンはがっしりとイヴリンの腕を握っていた。
一瞬、ダレンの腕も火傷させてやろうかと思ったイヴリンだが、これ以上執拗に追いかけ回されたくないので止めた。
「そ、そいつなんなんだよ!」
「ただもんじゃねぇ!」
怯えも露に叫ぶ男たちに、イヴリンは鼻で笑う。だがその様子はダレンに隠れて男たちには見えなかったようだ。残念だ。
「まだ用があるのか聞いている!」
「くそ、ねぇよ!」
イヴリンの不気味さとダレンの迫力。両方に気圧され、男たちは慌てて走り去っていった。
その場が静まり返るーー前にイヴリンは身を翻した。