イヴリン、逃走
「イヴリン様?」
がっくりと項垂れ、協力を承諾したイヴリンが家の中へ消えてから数十分。女性は支度に時間がかかるとはいえ、あの身なりではそう着飾ることもなさそうだ。路銀の他に入用なものは全てこちらで揃えると言ってあるし、どう考えても遅い。
(まさか、逃げられたか?)
ダレンの感が扉を開けろと言っていた。となれば躊躇いはない。
「失礼いたし……!」
扉を開けた瞬間、ぶわりと黒い煙が顔にまとわりついてきた。ただの煙ではない。そこに何者かの気配がある。
(なんだ!?)
数歩下がって顔周りを手で払うと、黒い煙は、煙らしくすぐに霧散した。
「……なんだ?」
得体が知れない。しかし、その正体を突き止める前にダレンは頭を切り替えた。
「イヴリン様!」
失礼を承知で家へ踏み込む。するとそこには、慌てて荷造りしたであろう形跡が残されていた。
(……くそ! 小娘に出し抜かれるとは!)
ダレンもなかなかに口が悪いようだ。
イヴリンが住んでいた小さな村から、歩いて数十分。少し大きめの町は喫茶店が多く、この辺りの旅人の休憩場所として重宝されている。
だから旅人は珍しくないのだが、可憐(に見える)な少女が大きな鞄を背負って歩いている姿は、注目を集めた。
大きな鞄は何が入っているのか、しっかり膨れ上がって、物を出すのも大変そうだ。鞄の横には大きめのカンテラがつり下げられている。
少女の出で立ちは軽装ではあるが、そこは年頃の少女の譲れないところか、肩まわりがふわりとした、袖口が広いワンピースを来ていた。膝が隠れる長さの裾に、膝までの編み上げブーツを履いている。
大きな鞄があるから旅の途中と思われるものの、その出で立ちはおよそ旅向きではない。
そんな奇妙な出で立ちの少女は、周りの視線などどこ吹く風で颯爽と歩いていた。そのきりりとした表情は一体なんなのか。妙な存在感がある。
イヴリンはダレンから上手いこと逃げおおせて、気分は上々、足取りは軽かった。思わず緩みそうになる頬を必死で引き締める。それが、周りからはきりりとした表情に見えているのだった。
(さてさて、ひとまず逃げられたけどこのままじゃ時間の問題ね)
頭の中は落ち着いていて、次なる作戦を練っている。
(きっとあっちは馬とか馬車で来てるだろうから、どうあがいても小娘の足じゃ逃げ切れない。となれば当然、夜を待つしかないわね)
イヴリンは手近な喫茶店に入ると、壁際の長椅子がある席を陣取った。隣にどさりと大きな鞄を置き、さっとメニューに目を通す。
珍客に困惑するウェイターが近づいてくると、相手が言葉を発する前に注文した。
「“あっさりクリーム添えカカオ香るガトーショコラ”と、“アッサムティー”ミルクで」
「えっ、あっ、はい! 畏まりました」
慌てふためくウェイターなどお構いなしに、イヴリンはどかっ、と背もたれに体を預けた。
「あー疲れた」
その様子すら注目を集めているが、イヴリンは目もくれない。
(さて、どうする)
まずは髪でも染めるか。髪はきっちり纏めて、旅用のマントでも羽織ろう。ともあれ速やかに遠くへ移動した方がいいから、どこかで馬車に乗るか、奥の手を使うしかない。
(……ったく。クソ兄め。なんだって姿晦ました)
理由は気になるが関わるつもりはない。兄は、ちょっと特殊だ。しかし自分は平凡であるから、関わりたくない。
「失礼いたします。“あっさりクリーム添えガトーショコラ”と“アッサムティー”でございます。ミルクもお持ちいたしました」
「ありがとう」
見るからに年下であろう少女に生意気にもそう言われ、ウェイターはさらに困惑しながらも席を去った。
「さて、とりあえずエネルギー補充ね!」
そう言いながら食べ始める時は目を輝かせ、とても嬉しそうだ。年相応のその様子を見た周りの客は、なんだかほっとして、ようやく少女から目線を外した。