異変
朝、とんでもない大音量の、意味のわからない音楽ともいえない、単なる雑音に起こされる。
何なんだこれは…。
窓の外を見ると、張りぼてらしきもので作られた巨大な眼鏡がしずしずと動いているのが目に入り、俺はぎょっとした。慌てて立ち上がり、窓に近寄ると、それを運んでいる複数の人間が目に入り、ほっとする。それと同時に形容しがたい気持ち悪さが背筋を走りぬける。遠くからなのでよく分からないが、眼鏡を運んでいる人間も旗やらスピーカー、それにどうやら太鼓まで持っているようだ。もちろん全員揃いの黒縁眼鏡をかけており、俺は朝っぱらからげんなりとしてしまった。
隣の友人を蹴り飛ばし、「おい、あの連中は何なんだ?」、と訊くも起きる気配が無い。
―そういえばこいつ、四徹したとか言っていたな…。
―しかしこの大音量の中でも爆睡するなんて、結構凄いよな…。
そんな事を考えながら、俺は友人を起こすことを諦め、窓の外を見ることに専念する。見ると、彼らは一軒の平屋の前に集まっていた。何をしているのかと身を乗り出すと、
彼らは何やら手に握っておりそれを―、
その手から家に向けて一斉に放った。
ガラスの割れる音が辺り一面に響く。
「んなあっ?」
どうやらそれは石だったらしく彼らは身をかがめ、次々と石をその家に投げつける。周りの家々は我関せず、とばかりに沈黙を決め込んでいる。
暫くして、疲れたのか攻撃が止むと、リーダー格の男が進み出た。その手にはスピーカーらしき物が握られており、割れ鐘のような声が辺りに響く。
曰く、何故眼鏡をかけていないのか、眼鏡を買う金が無いのなら『白鏡会』に入れば良い。裸眼でいるのは今の国民の意思に反している。よって我々が民意を代表して『正義』の鉄槌を下すのだ―。
要約するとこんな感じだった。本当はもっと下品で、乱暴なもの言いだったが…。
暴行を振るわれる事を警戒したのか、家の住民は出てこなかった。
暫く拡声器でがなりたてていた『白鏡会』の信者たちだったが、警察に通報される事を恐れてか、すぐにいなくなった。
後にはガラスの破片と重苦しい沈黙が残った。ざわめきが戻る。少しすると、家の中から白髪の男性が手に箒とちりとりを手に現れる。窓の外から覗く近隣の人たちに対し、一度頭を下げてから男性は、ガラスの破片を片付け始めた。
―おいおい、あんたは悪くないぜ、小父さん。
俺がそんな事を考えていると、ポン、と肩に手が置かれる。振り返るとライオンがいた。
いや、すさまじい寝ぐせを無理やりピンで押さえつけた、結果としてますますひどくなっているのだが微塵も気にかけていない友人の姿があった。
「ようやく起きたのか」
俺の声には反応せず、友人は、窓の外を眺め続ける。
暫くして、「酷いもんだな…」と呟いた。
「ああ、お前のその寝ぐせは酷いなんてものじゃない。一体何をしたらそんな髪型になるんだ?」
「寝ぐせの話じゃねえ」
「変な自由研究よりもその寝ぐせの解明に時間を掛けてみたらどうだ? そっちの方がよっぽど役に立つと俺は思うんだが…」
「寝ぐせから離れろ」
足を蹴られる。「おれが言ってるのは『裸眼狩り』の事だよ」
「『裸眼狩り』?」
「お前が見てたやつ」
そう言われて納得する。と、同時に疑問も浮かんできた。
「ここら辺全部、あいつ等の根城なんだよ。つまりこの辺に住んでる人間全員眼鏡だ」
「まじかよ…。それなのにお前、ここに住んでるの? 大丈夫なのかよ」
おもわず振り返りその顔を凝視してしまう。眠たげなその顔からは何も読み取ることができなかった。
「朝飯食おうぜ」
友人は立ち上がり、大きく伸びをする。
「食材あるのか」
俺の声に片手をひらひら振って友人は出て行った。
窓の外を見る。割られたガラスを片付けていた男は、終わったのかいなくなっていた。
この国は変わっている。皆狂っているようにしか見えない。
俺を振った彼女の顔を思い出す。言動はどうだったか、怪しげな薬はやっていなかったか、目の奥はまともだったのか。
狂っているようには見えなかった。彼女は普通すぎるぐらい、普通でまともだった。
眼鏡の威力はとんでもないのだな、と改めて思い直した。
―朝食はぜんざいとハンペン、どっちがいい?
友人の声に俺は冷水を浴びせられたようになる。ぜんざい、と答えようとしてはっと気づく。ところであいつ、昨日伊達眼鏡を着けていたよな?
それについて考えようとしたが、友人の次の台詞で俺はそれどこでは無くなった。
―さっさと来ねぇとぜんざいの中にハンペン入れて煮込むぞこの野郎。
その声に慌てて立ち上がる。
「待て、その組み合わせは止めろ! っていうか何でそんなもんしか無いんだお前の家は!」
「ぜんざいと生ハムの組み合わせもあるんだが、どっちがいい?」
「何でもかんでもぜんざいと合わせるな、他にはないのか?」
「あるぞ。蟹味噌と落花生、後は…、味の素だな。お前料理って出来るヒト?」
「その組み合わせで料理ができる奴がいたら尊敬するぞ俺は。もういい、コンビニ言って来る」
ジーンズのポケットに財布を突っ込み、部屋を出る。そこには片手に鍋、もう片方の手には落花生を持った友人の姿を見つけ、眩暈がした。一体何を作るつもりなんだあいつは。
「行って来る」
その声に友人は少し不安そうに頷いた。
「気をつけろ」
その様子に少し違和感があったが、妙なものを食わされまい、との思いが強かった俺は大して気にせず友人宅を出た。
時刻は午前八時。 この国に住む人間が、活動を始める時間だ。