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雨に香る  作者: 遊森謡子
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後編

 ユエも結婚したとはいえ、若い娘である。ジウムに関する悩みや母親の思惑はともかくとして、初めての旅に興奮を抑えられなかった。

 何しろ自分の住む村以外、せいぜい隣村の学舎にしか行ったことがなかったのだ。他の村にも親戚はいたが、ユエの家が本家に当たる立場だったため、親戚がやって来ることは多くてもこちらから行くことはなかった。


 遠くに連なる山々へと一本の道が伸び、その両脇に広がる畑はそれぞれの葉の色で何色にも染め分けられている。そこに空に浮かぶ雲の影が落ちかかり、ゆっくりと動いていた。

 ジウムの馬の後ろについてユエも馬を歩かせながら、広がる景色を眺め、風の匂いを嗅ぐ。いつの間にか標高がさがり、畑の緑に野の花が彩りを添えていた。


 一日目の夜は野宿になった。馬に長時間揺られたのと興奮とで、ユエはすっかり疲れてしまった。夕食にジウムが燻製肉を焚火で焼いてくれたのだが、肉をかじりながら舟を漕いでしまう始末。ジウムと向きあうどころではなかった。


 翌朝、頬に感じる温かさに目覚めてみると、ジウムがすでに起き出して火を起こしていた。ユエの身体は毛布の上からしっかりと皮でくるまれて防寒されており、夫の優しさにユエは嬉しくなる。

(私、今のままでも十分幸せじゃないかしら?)

 ユエはそんな風に思い始めていた。


 しかしそんな気持ちも、二日目の夕方に小さな村に立ち寄るまでのことだった。


 ジウムは毎年こちら方面に旅をする際、いつもこの村に立ち寄るらしい。村長夫妻が快く家に泊めてくれ、ジウムも持参した土産の品を渡す。

 ジウムの紹介でユエが挨拶をすると、年老いた村長夫妻は嬉しそうに顔を見合わせ、そして夫人が言った。

「それじゃ、ようやく夫婦になったのね。良かったわねぇ」


 ――きっと、シュエと間違っているのだろう、とユエは思った。ジウムがシュエの話をしていたのだろう、と。

 なぜなら昨年の今ごろ、ジウムがこの家を訪ねたであろう頃には、まだユエとの結婚の話は持ち上がっていなかったからだ。


「ああ……まあ……」

 ジウムがうろたえたのに気づき、ユエはことさらに明るく夫人に返事をした。

「ええ、よろしくお願いします!」

 

 ユエはジウムといられて幸せでも、シュエを想うジウムはこうして戸惑い続けている。

 そう考えると、ユエは胸をじわりと締め付けられるように感じた。


 翌日は再び野宿だったが、そのまた翌日はやや大きな村に立ち寄った。市が開かれており、大勢の人で往来はごった返している。

「すごい、こんなにたくさんの人を見たの、初めて! 市も見てみたいわ」

 感嘆の声を上げたユエは、手をするりと握られ飛び上がった。ぱっと視線を上げると、

「お嬢さん、こっちだ。はぐれるから」

とジウムのいつもの横顔。

 人ごみに入ると、自分の目線より下は人々のまとう色とりどりの服ばかりだったが、つないだ手の温かさが際立って感じられた。


 地面に直接置かれた露台がずらりと並び、その後ろで老若男女が商いをしている。ユエはどこかに立ち寄ってみたいとは思ったものの、結局目移りしてしまい、ジウムについてキョロキョロしながら歩いていた。

 ふと、彼が足を止めたのは、糸の束が並べられた露台の前だった。四十代くらいの細身の男性が、その後ろで眠そうな目を人ごみに向けている。

「知ってる人?」

 ユエが尋ねると、ジウムは首を振った。

「いや。ただ、珍しい色の糸だと」

「そうね」

 ユエは露台の前に屈みこみ、一つの糸の束を手に取った。雨がやんだ後の空のような、すっきりとした青で、シュエが好みそうだと彼女は思った。

 その時、店主の男性がユエを見て言った。

「おや、また来たね」


 驚いたユエは目を見開いたまま、口を開け閉めしていたが、咳き込むように尋ねた。

「シュエだわ! いつ? あの、私にそっくりの人が来たのはいつですか!?」


「え、あれ、奥さんじゃなかったのかい? そういや髪を降ろしてたか……ふた月前の市の時だよ」

 店主の言葉を聞いて、ユエはジウムを振り向いた。

 ジウムも軽く目を見開いていたが、ユエの視線に気づくと自分も屈みこんで男性に尋ねた。

「元気そうでしたか」

「ああ。姉妹か何かかい? 渡し舟のことを聞いて行ったから、ここから西に行ったと思うよ。うちの糸も買ってくれてね」

「そうですか。ありがとう」


 ジウムはユエを促して立ち上がり、二人はまた手をつないで人ごみに入った。他の店は覗くことなく、元来た方へ戻る。馬を預けてあるのだ。

「無事がわかって、良かった」

 ジウムが言う。ユエがうなずくと、ジウムは続けた。

「さて……このまま出発してしまおうか。そうすれば、今日中に目的地につける」

「ええ」

 ユエは返事をしたが、その後は黙りこくっていた。


 目的地のマルバ村は、すぐ近くだった。

 小さな村ではあったが、村長の家に村の女衆が集まって紡いだ糸は質が良く、また珍しい染料を使っていて、ジウムは毎年必ずここに来て糸を仕入れていた。

 村長はジウムとユエを温かく迎えてくれ、夫が何年もかけて築いて来たつながりが良好なものであることを感じて、ユエは嬉しく感じた。

 その日は村長の家に泊めてもらい、後はユエたちの村に戻るだけ。そろそろ雨期に入ってしまうため、戻るのにはちょうど良い日程だと言えた。


 しかし、あてがわれた部屋で二人きりになると、ユエはジウムに向き直って立ったまま言った。

「少し寄り道させて。シュエに会いたい、シュエを探しに行きたいの」

 ジウムは微かに笑った。

「言うと思っていた。ずっと黙りこくっていたから」

 少しも驚かない夫に、ユエの方が驚きながら答える。

「仕事がちゃんと終わるまではと思って。……いいでしょ?」

「ああ」

「いいの!?」

 ジウムはうなずく。

「お嬢さんたちがどんなに仲が良かったか、俺は知ってる。手がかりがあったんだ、探さなくては気が済まないだろう。ついでに新しい取引先を探してもいい。ただし、五日以内にシュエの行き先がわからなかったら、戻る。いいな?」

「うん! ……ありがとう」

 ユエは一瞬、ジウムに手を伸ばしかけて、慌てて引っ込めた。

「あ、じゃあ寝る支度しなきゃ」

 夫に背を向け、借りた寝具を整えながら、ユエの心は重かった。

(シュエに会いたいのは本当だけど、あんなにあっさり探しに行こうって……やっぱり、ジウムも会いたいんじゃないかしら。あれからずっと誰とも付き合わずに、シュエの帰りを待ってたんだろうし。……会って、ちゃんと話をした方がいい。それでもし、ジウムとシュエが一緒になるなら……私はここから一人で帰ったっていい……)

 

 翌日、筏のような渡し船で馬とともに川を渡ったユエとジウムは、シュエの足取りを追い始めた。田畑で農作業をする人を捕まえては尋ねてみるが、なかなか彼女の行き先はつかめない。

「女の一人旅だ、あまり目立たないようにしていたのかもしれない」

 ジウムが前方の山々を見透かすようにしながら言う。ユエはそんな彼を見つめてから、同じ方へ視線を投げた。

(シュエ……出て来て。話したいことがたくさんあるの。このままじゃ、私……)


 そして約束の五日目、二人は河のほとりの大きな町ライガップにたどり着いた。

 小雨の降る中、この町でも大きな市が開かれていた。本格的な雨期に入る前に商いを済ませ、必要なものを手に入れようとする人々が、ずらりと立ち並ぶ露店の間にひしめいている。天秤棒を担いだ商人の張り上げる声、馬やヤギの鳴き声。今まで二人が旅してきた田園地帯とは一転した騒々しさだ。

「ここで聞いて回って」

 つぶやくように言ったジウムは、ユエに顔を近づけて聞こえるように言い直した。

「ここで聞いて回って、見つからなかったら、戻ろう」

 ユエはうなずく。

「この町には、二年前に一度、来たことがある。盗まれないように馬を預けよう」

「うん」

 二人は馬を引いて、ジウムが知っているという宿へと向かった。


 人混みを抜け、大きな厩のある宿の前まで来ると、ちょうど厩から出てきた背の低い髭面の男が、ふっとこちらを見た。

「お? こりゃ、ずいぶん久しぶりだな!」

「これは……元気そうで何よりだ」

 ジウムが男に近寄り、二人は肩をたたき合って挨拶を交わす。知り合いらしいその様子にユエも近寄って行きながら、ふと心が陰るのを感じた。

(この人にも、ジウムはシュエのことを話しているかも。シュエと結婚すると……)

 また、シュエの振りをしよう。

 そう決めたユエの方に、男が顔を向け、そして破顔した。

「奥さんか?」

「はい、初めまして」

 名乗らないまま笑顔を作るユエを見て、男はジウムに言った。

「大人しやかな奥さんじゃないか! カエルが好きで悪戯ばかりの女の子が気になると言ってたから、どんなはねっかえりと結婚するのかと思っていたよ」

「え?」

 ユエはぽかんとして、しばらく男の顔を凝視してしまったが、やがてその視線をジウムに移した。

 ジウムは眉をしかめ、ユエから視線を逸らしている。

「あの」

 ユエは素早く男に向き直った。

「泊まる場所はありますか?」


 宿屋と言っても、空いている広い板間を衝立でしきり、そこで休めるようにしてあるだけの場所だったが、誰もいないそこには軒から落ちる雨だれの音だけが聞こえていた。

「ジウム。お願い、話して」

 奥の空間で二人きりになるなり、ユエはジウムに詰め寄った。

「シュエはカエルが苦手だった。さっきの人が言ってたのは、私のこと? でも、えっと、二年前? ジウムがこの街に来た時は、まだ私との話は出ていなかったはずだわ。どういうことなの?」

 黙っているジウムにもどかしさを感じ、止まらなくなったユエは、ジウムの腕をつかんで思いのたけをぶちまけた。

「結婚しても、ずっと距離を置いていたから、私……ジウムはやっぱりシュエを想いつつけてるんだって……だから、シュエを探してちゃんと話をしなくちゃって思った。もしジウムがシュエと結ばれたいなら、そうなるべきだって。でも違うの? 私、何か間違っていたの?」

「……済まない」

 ジウムはユエの手をそっと外させ、俯いた。そして頭に巻いていた布を外し、頭をぬぐうようにしてから、

「お嬢さんに嫌われても仕方のないことを、話そう」

と腰を下ろした。ユエもジウムの前に座る。


「……俺とシュエの結婚話は、はっきりとした約束を交わさないままだった。俺の立場からいって誰もがそうするだろうと思っていたし、俺自身でさえ跡取り娘の所に婿に入るのが当然だと思っていたから、わざわざ婚約を交わすこともなかった。しかし、シュエにあの出来事が起こって……」

 彼はそこで、ようやく顔を上げてユエを見た。

「覚えているか? シュエが作った花嫁衣装を着た女性がどうなったのか、調べに行くと言って……ユエが夜中に、旅に出ようとした時のことを」


 ユエは目を見開いた。

 ユエが初めて、ジウムを男性として意識し始めた時の出来事だ、忘れるはずがない。そして初めて「ユエ」と名前を呼ばれたことにも胸を高鳴らせながら、彼女は答えた。

「お、覚えてる、けど……あの時ジウムは、私のことシュエだと思ってたんだと……」


「そんな風に思っていたのか? 見分けくらい、つく。お嬢さんたちが年頃になってから、はっきりわかるようになった」

 ジウムは微笑んでから、迷いを捨てたかのように言った。

「だから、姉妹を助けるために旅に出ようとした優しい(ひと)に惚れたあの月夜から、俺には想いを告げる資格がなくなった」

「……ジウム? え、私を……え? どうして」

 ユエは混乱した。

 あの時にジウムも自分を好きになったのだと、想いを告げられた嬉しさと、それを打ち消された衝撃がないまぜになる。


 ジウムは膝に手を置いたまま、淡々と話す。

「だってそうだろう。お嬢さんたちは本当に仲が良かった。ユエは俺を、シュエを大事にするべき存在として見ていたはずだ。そんな俺が、シュエではない人を好きになったなんて、言えるわけがない。シュエが出ていった後も、俺の立場からは言い出せなかった」

 ジウムは自分の拳に視線を落とした。

「ユエから結婚の話をしてくれたと聞いた時は、嬉しかった。しかし……シュエとの結婚の話がありながら、ユエを想うようになったとは言えず、ずっといたたまれなかった」


「それで、私と距離を置いていたの? 私……ジウムはずっと、シュエを想い続けて、待ってるんだって……」

「違うんだ。……軽蔑するだろうな」

「そんなこと!」

 ユエは首を横に振った。

「私、私だって……シュエの代わりに後を継ぐからって理由をつけて、ジウムと結婚するって言ったのは……ジウムのことが本当に、好きだから……だから!」

「ユエ」

 二人は、目を逸らさずに見つめ合った。

 ジウムの武骨な手が、ユエの頬に触れる。あの月夜以来だ……と、ユエはそっと、自分の手を重ねた。


 夫の広い胸にすっぽりと包みこまれると、雨の香りとは別の香りが、ユエの心を満たした。


 翌日、奇跡のように、二人はシュエの行き先の手がかりを得た。この先のエラト山脈にある村から買い出しに降りてきた一行が、市で人に尋ねて回っているユエを見て、「次の仕事は見つかったかい」と声をかけてきたのだ。

 シュエはひと月ほど前までこの人々の村に滞在し、儀礼用織物の仕事をこなし、そしてライガップの町には降りずに隣の山の村へ行くと言って、尾根道に入って行ったという。


「それなら、まだそこにいるかもしれないわ! 行ってみましょう」

 ユエが見上げると、ジウムは頭の布を縛り直しながら軽く眉をしかめた。

「ずいぶん遠くまで来たが……そんなに頑張って大丈夫か?」

「だってどうしても、シュエの無事を確かめたいんだもの。シュエとホアは私の一番だから。あ、ジウムもその次に大事だけど」

「知っている」

 ジウムは苦笑し、ユエに雨よけに桐油(とうゆ)を塗った布をかぶせた。その腕にそっと手を添えて、ユエは微笑む。

「何だか、シュエに叱られそう。私たちがシュエを大事に思うあまりに、すれ違っていたなんて知ったら」

「きっと彼女も、俺たちがシュエを心配するのと同じくらい、俺たちのことを心配しているだろう」

 ジウムはそう言って、ユエをひょいと抱きあげて馬に乗せる。

 そうかもしれない、とユエは思う。何もかも置いて飛び出してきてしまった故郷を、そして自分の代わりに後継ぎになった姉妹を、シュエは心配しているに違いない。そんな彼女を安心させてあげたい。


 ふと、目の前のジウムの頭に視線が行って、馬上のユエは軽く首を傾げた。

「夫婦なんだから、ちょっと踏み込んだことを聞いてもいい? ジウムはどうして、頭を剃り上げてるの?」


 するとジウムは、口をひんまげてから答えた。

「……お嬢さんたちが子どもの頃に、からかったんじゃないか。俺の若白髪を」


「え!? 覚えてないわ! でもごめんなさい、それで剃っちゃったの!?」

 つい噴き出してしまいながら、ユエは心を決めた。

(家に帰るまでの間に、「お嬢さん」じゃなくて、ちゃんと私のこと名前で呼ぶようにしてみせるから)


 二人は緑の山を目指し、田畑を潤す瑞雨の中を進み始めた。



【雨に香る  完】


この後、『雨を織る』後編で、ユエとジウムは峠道でディラクとオウレンの二人に出会い、シュエの消息を聞くことになります。はい、その際にユエのことを「お嬢さん」と呼んでユエに呆れられているあの男が、夫のジウムだったのでした。

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