前編
アジアの架空の国チャイサートを舞台にしたシリーズ5作目で、3作目の『雨を織る』と同じ時期のお話。独立して読めるようにしてはありますが、他の作品と密接にリンクしています。
その村の、半分の土地を所有する地主は、女だてらに織物の一大事業を営む実業家だった。
農閑期、村の女たちは地主の家に集まり、地主が何機も抱えている機織り機で布を織って給金を得る。地主は各地で布を売り、糸や染料を仕入れてくる。そのようにして生まれる布は、女地主の情に厚く豪快な人柄と相まって、村の名を広めるのに一役買っていた。
さて、この女地主には、珍しいことに三つ子の娘があった。名を、シュエ・ユエ・ホアという。
母親は子どもたちを厳しく育てたけれど、子どもたちはしっかりとその厳しさの中に愛情を感じ取りながら育ち、母親も娘たちを自慢にしていた。
そんな娘たちも年頃になり、すったもんだが始まることになる。
まずホアが、隣村の鍛冶屋の弟子と恋に落ちた。結婚の許しを得る前に娘が孕み、激怒した女地主は、土間に額をすりつけて謝罪する鍛冶屋師弟を半殺しにしたとかしないとか。
結局のところ、ホアは鍛冶屋の弟子の所に嫁ぎ、幸せにやっているという。
シュエは素晴らしい織り手で、周囲からは地主の後継ぎと目されていたし、本人もその心づもりでいた。が、彼女の織った布を身につけた花嫁が、式当日に行方不明になるという事件があって以来、彼女の手になる織物に縁起の悪いうわさがつきまとうようになった。シュエを化け物呼ばわりする者がいると聞くたびに、地主はその者を見つけ出しては半殺しにしたとかしないとか。
結局のところ、シュエは遠い親戚を頼って家を出てしまった。母親である地主の行動を悲しんだとか、泡を食って逃げ出したとか、色々と事情が取り沙汰されたが、真実はどうあれ人のうわさは勝手なものだ。
そしてシュエに代わって最後の娘ユエが、跡取りということになった。
跡取り娘が変わったことで、大きな影響を受けた男が一人いた。この家の使用人頭、ジウムである。
住み込みで働いているジウムは、三十一歳になる物静かな男だ。糸や染料などを仕入れて管理する仕事をしている。口数も少なく表情も変わらず、そして図体は大きく、剃り上げた頭に布をかぶって縛っている。小さな子どもなどは、そんな彼の風体を恐れてあまり近寄らない。
ジウムは村長の四男坊で、十代の頃からこの家に居候して織物の仕事を助けてきた。いずれはこの家の婿になるのだろうと、本人も周りもそのつもりでおり、シュエが年頃になったのでそろそろ……という話が進んでいた。
が、そんな時に、シュエが家を出てしまったのだ。
それから二年が経った。
木々が紅葉を始めたある日、ジウムは、女地主に呼び出された。
「ジウム。話というのは他でもない、あんた、ユエと一緒になる気はあるかい?」
軽く下がっていたジウムの剃りあげた頭が、起き上がりかけたまま固まった。
「シュエが出てってから、二年が経った。その間、あんたには浮いた話ひとつなかったね。待っていてくれたんだろうけど、あの子はもう戻るつもりはないようだ。あんたには、本当に申し訳ないことをした」
女主人は難しい顔をして、話を続ける。
「だから、あんたの意に沿わないことをするつもりは、あたしにはないんだよ。ただ、ユエがね……あんたがいいって言うもんだから」
ジウムはゆっくりと身体を起こし、背筋を伸ばした。
「……ユエお嬢さんは、シュエお嬢さんと本当に、仲が良かったですから……シュエお嬢さんの代わりに自分が結婚しなくては、という気持ちなら、俺のことは気にしないで欲しいと思います。俺もこの二年の間に三十を越えてしまいました、ここで働かせてもらえさえすれば」
「うん。あたしも、ユエに色々と聞いたんだけどね。あんたがいいんだってさ。あんたと一緒になら、この家を切り盛りしていける気がする、って」
ジウムはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「もったいないお話です、俺に何の異存もあるはずがありません。とにかく、ユエお嬢さんが一番幸せであるようになるといいと思います」
「そうかい。それじゃ、この話、進めてもいいんだね?」
ジウムはうなずき、頭を下げた。
よほどの理由がない限り、女主人の言葉は絶対である。そもそも雑巾がけの頃からこの家で世話になってきた使用人頭に、否やがあろうはずもなかった。
母屋を出ると、雨が降り始めていた。ジウムはちらりと空を見上げると、足早に歩き出した。
土の匂いの立ち上る前庭からぐるりと裏手に回り、生け垣と建物の間を進むと、裏手にはいくつもの物置小屋が建っている。そのさらに奥に、彼の暮らす離れがあった。離れと言っても、見かけは物置小屋とそう変わらないのだが。
鶏が地面の虫をついばむ横を通り抜け、ジウムは引き戸を開けて中に入った。腰にはさんであった布巾を取り、剃り上げてある頭をぬぐいながら、後ろ手に戸を閉めようとして――その動きが、途中で止まる。
淡い空色の外衣に梔子染めの腰布を締めた娘が、戸の隙間からするりと中に入ってきたからだ。
「……お嬢さん」
たしなめるように言うジウムに、娘は視線を上げる。
「『お嬢さん』はやめて。この家の娘はわたし一人になったんだから、区別つくでしょ。名前で呼んでよ名前で」
かつてはこの家に三つ存在した、やや吊り眼気味の勝気そうなその顔は、現在ではたった一つ。そこに立っていたのは、跡取り娘となった十九歳のユエだった。
「…………」
黙っているジウムをユエはしばらく眺めていたが、やがて口を開いた。
「断れないよね。ごめんなさい」
「いや……俺の方は。しかし」
「私はジウムが良い。これは本当。ずっとこの家で暮らして来たから、ジウムが見かけより怖くない、優しい人だって知ってるし。それに」
ユエは、ジウムの握った布巾のあたりに目をやりながら言った。
「シュエをずっと待ってくれて……大事に思ってくれて。私も大好きなシュエを」
そして、朝露をこぼして跳ね返る若葉のような勢いで顔を上げると、きらりと笑った。
「あ、まだ結婚前だった。あんまりここにいたらまずいよね。……嫌だったら私に言ってね、私からお母さんに言うから。……じゃ!」
ジウムが何か言いかけるのに背を向け、ユエは戸口から飛び出すと、徐々に強く降り始めた雨の中を母屋へと駆けだして行った。背中で跳ねる数本の三つ編みが遠ざかる。
「…………」
後ろ姿を見送ったジウムは、しばらく戸口に立ち尽くしていたが、やがて一つため息をつくと、静かに引き戸を閉めた。
年が明けて数日が経ち、「織り初め」の日に、女地主の家で働く女たちのささやかな宴が開かれた。昼食と菓子が振る舞われたその席で、女主人の口から、ユエがジウムを婿にすることが伝えられた。
女たちはシュエの事情も知ってはいたけれど、ユエが幸せそうにしているので大変喜んで、自分で花嫁衣装を織るユエを手伝い、ジウムを見かけてはからかいした。
そして春、織物を生業とする家にふさわしく大変豪華な結婚衣装に身を包んだユエとジウムは、夫婦の誓いを立てた。ユエは初めて、既婚女性の印に髪を結い上げた。
隣村に嫁いだホアは、夫と子どもと共に祝いの席に参列し、一緒に暮らしていた頃のようにユエと大騒ぎして母親に叱り飛ばされた。儀礼用織物の職人となったシュエは仕事を求めて放浪の旅に出てしまい、連絡がつかなかったのが一同の心残りではあったが、とても賑やかな祝いになった。
その夜。
まだまだ大騒ぎの母屋の宴会を辞し、花嫁と花婿は衣装を脱いで贅沢に湯をつかってから、それぞれ寛いだ格好になって離れに向かった。夫婦のために、新たに建てられたものだ。
花のほころぶ季節とはいえ、朝晩は冷え込む。木造の離れの竈にはすでに火が入れてあり、ユエは床に入る前に一息つこうと、茶の支度を始めた。
ところが、ジウムは腰を落ちつける間もなく、今度はいつもの仕事着に着替えて立ち上がった。
「……出かけてくる」
「え、どこに行くの?」
ユエが手を止めて尋ねると、ジウムは頭に布を巻き付けながらぼそぼそと言った。
「友人たちが……祝ってくれると」
「私は行かなくていいの?」
「あまり、酒癖のいい連中じゃないから、来ない方がいい。お嬢さんは先に休んでいてくれ」
新婚初夜に花婿が一人で出ていってしまうなど、聞いたこともなかったが、ユエは笑って
「わかった。行ってらっしゃい」
とジウムを送り出した。ジウムは黙ってうなずいて土間で長靴を履き、離れを出ていった。静かに板戸が閉まる。
残された花嫁は軽くため息をつくと、鉄瓶からしゅんしゅんと吹き出し始めた湯気を眺めてつぶやいた。
「まだ『お嬢さん』、か」
翌朝ユエが目を覚ました時には、ジウムは隣の布団で眠っていたが、彼女が身じろぎした気配に気づいたのかすぐに目を開いた。
じっ、とユエを無表情で見つめるジウムに、ユエの方から微笑みかける。
「おはよう」
すると、ジウムも表情を柔らかくして
「おはよう」
と答えた。
この家で働く者は、食事は母屋で一緒にとる習慣だったが、この朝の食事だけは特別に離れで作れるように食材が用意してあった。
ユエが温かい麺に肉や野菜を入れたものを作り、低く丸い卓に出す。まだ寒い季節なので、屋内で敷物の上に座って食べるが、もっと暖かくなれば母屋の軒先に机と椅子を出して食事ができるだろう。
卓を挟んで座り、食べ始める二人。
「これだけは、ちゃんと作れるのよ。お母さんは料理が苦手だけど、おばあちゃんに教わったの」
そう言いながらも、ユエが少し心配そうにジウムを見ると、彼は黙々と食べていた頭を上げ、また表情を和らげた。
「うまい」
よかった、とユエも微笑み返す。
周りから見て、とても仲睦まじい夫婦だった。
ユエは織物や家事はそれなりに手伝ってはいたものの、母親の仕事をあまり真剣には学んでこなかったため、これまでの日課に加えて帳簿の付け方や糸の目利きの仕方などを教わり始めた。気の短い母親にしょっちゅう叱り飛ばされ、めげずに口答えしながらも悔し泣きのユエ。そこへジウムが一言、二言控えめに声をかけ、ユエが笑顔に戻る光景が何度も見られた。
この家に出入りする者たちは皆、その様子に目を細め、ユエが身籠るのもすぐだろうとその日を楽しみにしていた。
しかし、夜になるといつも、ジウムは「牛の様子を見に」とか「仕事が残っている」などと理由をつけて、ユエと暮らす離れを出て行ってしまう。
それに最初に気づいたのは、やはり母親だった。
ある日、ジウムが所用で村長の家に出かけている時に、女主人はユエを自室に呼んで尋ねた。
「ユエ。あんた、ジウムとうまくいってないのかい」
「え、どうして? 仲良くやってるわよ、知ってるでしょ?」
はきはきと答えるユエだが、目が一瞬泳いだのを母親は見逃さない。
「あんたがあたしの目をごまかせたことなんか、一度だってあったかい? ……ジウム、夜になると出かけてるね?」
「…………」
うつむくユエの真正面に座り、女主人は娘の顔を覗き込んだ。
「……あんた、本当にジウムと一緒になって良かったのかい? 本当は好きじゃないのに、他のことを色々気にして、そうするしかないと思ったんじゃ」
顔を上げるユエ。母親と目が合うと、ユエはちょっと呆れたように笑った。
「やだお母さん、それ本気で言ってるの?」
「……ま、あんたがそんなことに気を遣う性質だとは思ってないけどさ」
女主人も苦笑いして身体を起こす。
「あんたがジウムを好いてるってことは、あたしも疑ってないよ。だからこそ結婚を許したんだ」
「うん」
ユエは微笑んだ。
数年前の出来事が、脳裏に蘇る。
シュエが心を込めて織り、刺繍をした花嫁衣装は、それはそれは美しいものだった。初めての大きな仕事を任されたシュエが、真剣に糸を選ぶ所から見守っていたユエは、それをよく知っていた。
しかし、その花嫁が行方不明になり、神隠しだの男と逃げただのという噂が流れるようになった。衣装が豪華だっただけに、シュエの手になる織物にまつわる不思議なうわさにも注目が集まり、馬で数日の距離のあるこの村にまで、おかしな尾ひれがついて広まった。
悩んだシュエは、とうとう部屋に閉じこもって出て来なくなり、やがて家を出ることを考え始めた。
その様子を見て自分のことのように胸を痛めたユエは、ある決断をした。
月の明るい晩、ユエは旅支度をしてこっそり母屋を抜け出した。厩から馬を引き出そうとしたところを引きとめたのは、ジウムだった。
「離してよ、本当は何が起こったのか確かめに行きたいの!」
振り切ろうとするユエに、ジウムは静かに告げる。
「俺が行く」
我に返ったユエがジウムを改めてまじまじと見ると、彼はすでに旅装を整えていた。
「お嬢さんが行ったら、何を言われるかわからない。俺が行った方がいい。何が起こったのか、調べてくるから」
ユエははっとした。
シュエと同じ顔をした自分が行ったら、余計家に迷惑がかかるかもしれない。そのことに頭が回っていなかったのだ。
「ジウム……」
背の高いジウムの顔を見上げると、彼はユエの頬に左手を伸ばした。皮膚の固い指先が、思いがけない優しさで涙をぬぐう。
そして彼は自分の馬を引き出すと素早くまたがり、振り返ることなく出て行った。
あの時ジウムは、ユエのことをシュエだと思っていたのだろう、とユエは思う。夜の暗がりの中の出来事だったから。
でも、三つ子が子どもの頃は、三つ子が泣くと面倒くさそうに頭をポンポンやっていたジウムが、初めて見せた仕草――優しくて、まるで大人の女性のように扱ってくれた仕草を、ユエは忘れられなかった。
ジウムが調べてきた花嫁についての状況は、どうにも不可思議なもので、噂を打ち消すことはできなかった。
結局シュエはほとんど飛び出すように家を出て、のちに儀礼用の織物に生きがいを見出すことになったのだが、大好きなシュエのために行動してくれたジウムに、ユエは感謝の気持ちを抱き続けていた。
その気持ちがやがて恋心に変わり、ユエは母親にジウムとの結婚の話をしたのだ。
――今もジウムがシュエを待ち続け、自分と本当の夫婦になろうとしないのだとしても、きっといつかは。
そこまでは、母親にも話すことはできなかったが、ユエは希望を持ち続けていたのだ。
「あんたがジウムを好いてるなら、この状況はやっぱりジウムに原因があるってことじゃないか。よし、ちょいと締めあげて」
腕まくりしながら立ち上がりかける母親の外衣の裾に、娘は慌ててすがりついた。
「やめてってば! いいの、ゆっくり夫婦になっていくんだから」
女主人はしぶしぶ敷布の上に座り直したが、腕を組んでしばらく黙りこむと、口角を上げた。
「……ふん。よし。あいつが夜、あんたから逃げられないようにしてやろうじゃないか」
「えっ」
目を見開くユエ。低く笑う母親。
「ふふ。そこからはあんたたちの問題だ。ゆっくり向き合うんだね」
「ちょっとお母さん、何するつもり? ねえってば!」
村長の家から戻ってきたジウムは、すぐに女地主に呼び出された。
「ジウム、頼まれてくれないかい」
「はい」
頭に巻いていた布を取って座った彼に、地主は言う。
「なに、いつもの仕事だ。マルバ村で布を売って、糸と染料を仕入れてきておくれ」
「ああ……あと二週間ほどしたら出発するつもりでした。今年は早いですね」
「今年はいつもより長い旅になるだろうからね。ユエも一緒に行かせたいからさ」
「え」
ジウムが何か言いかけ、口を閉じる。
「ユエにも、織るばかりじゃなくて商売の色々を覚えてもらわないとね。仕事がてらではあるけど、二人での初めての旅でもあるし、寄り道したって構わない。知らない土地だ、守ってやっておくれ。頼んだよ」
「……はい」
軽く頭を下げるジウムを、地主は面白そうに見やっていた。
こうして、二人きりで旅をすることになったユエとジウム夫婦は、その数日後に馬に荷物を積んで出発した。