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八章

 そして。ついにその日がやってきた。

 国際展示場駅から出て、僕たちはサークル参加者用のルートである、屋根の下を通ってゆく。

 一日目、二日目の来場者数はまたも過去のコミフェを更新し、今日行われる三日目は史上最大になるだろうとも言われている。

 右手に並ぶ一般参加者列は、まるで網引されるシラスのように雑多だ。老若男女がこの地に集まってきている。

 ぱっと向けた視界だけでも優に数千人はいるこの空間なら、一〇〇〇部を売り上げることくらい簡単に思えてくる。しかし世界は広く。ビッグサイトはなお広い。僕たちは、大宇宙をさ迷う参加者に、自分の新刊をアピールしなければならない。

 僕は心臓に手を当てて、そっと鼓動を確めた。……少し、早い。

「いよいよ、ですね」

 隣を歩く友が話しかけてきた。昨日は興奮して眠れなかったらしく、目元には隈がある。

 友は、半袖のフード付きシャツというよく分からないものを着ていた。当然パンダ柄で、帽子代わりだろう、フードを頭から被っている。

「ああ。そうだね」

「……頑張りましょう」

 友はそれだけしか言わなかった。

 やるべきことは総てやってきた。後は、いつも通り頒布するだけだ。

 僕は左隣を歩く大門を見た。

 ……今回のメンバーは、僕、友、そして大門だ。本来先輩が来る予定だったのだが、結局彼は今日になっても捕まらなかった。だから必然的に、代わりを務めるのは大門ということになる。

 しかし――

「……、……、……」

 大門は、既に息も絶え絶えだった。彼が肥満体型であることも一つも要因だろうが――

「……なんでそんな服着てるの?」

 彼は何故かコートを着て、大きな帽子を深く被っていた。そのせいで、頭どころか顔さえ見えない。コート自体は薄手のようだが、この炎天下で着るのは自殺行為だろう。

「ちょっと、理由が……」

 ぼそぼそと大門は話した。そのまま、不機嫌そうに会話を打ち切ってしまう。コートを着るなんて理由がないわけないだろうが、話したくないのだろうか?

「……倒れないでよ、ホントに」

 僕は嘆息しながら、大門に麦茶を凍らせたペットボトルを手渡した。彼はコートからふるふると右手を伸ばして、ありがたそうに受け取った。


 コミックフェスティバル・夏――

 一般に、夏コミは初心者には向かないと言われている。すさまじい暑さがその理由だ。

 誰しも経験はあるだろう。例えば中学校の、夏休みに入る前の終業式。通気性が最悪である体育館に、何百人と押し込まれたあの空間の気温を思い出していただきたい。

 その規模を、何千倍にも拡大した、異常な空間――それが夏コミだ。

〝サウナのよう〟と称されるが、それは間違いだ。サウナはすぐに脱出できるからである。どちらかと言えば、蒸し器で蒸されているという表現のほうが正しい。

 会場の中は、まだ開場前だというのに激しい温度と湿度になっていた。

「……あ、ぁあ、ぁ……」

 大門はもはやゾンビ状態だ。コートを脱げばいいのに頑なに脱ごうとしていない。

「……あつい、ですね」

 友がハンカチで額の汗を拭いた。汗かきではない僕も、既にシャツがしとどに濡れている。

 だがこれはまだ序の口。これからビッグサイトは人で埋まり、温度がぐんぐん上がるだろう。

 僕は熱いため息をつきながら、通路を歩いた。

 今回は男性向け、〝ばくおん〟ジャンルで申し込んだので、行き先は西ではなく東ホールだ。〝門〟の字になってる西ホールとはまた違い、東ホールは長方形の会場が左右に分かれており、中央通路からそれぞれ行ける、という形になっている。

 エスカレーターを降り、一階へ。僕たちのスペースは東四ホールなので、一番奥の右手側だ。

 四ホールにつくと、半年前に見た通りの机の海が僕たちを出迎えた。

「……行こうか」

 はしゃいで飛び出した川原先輩はもういない。僕から歩き出して、友と大門を導いた。


 スペースにつく。〝レ-44 サウザンド〟と机に張られているのを確認して、中へと入る。

 机の下に、箱が四つあるのを確認する。

「……あれ? ヒロさん、箱少なくないですか?」

 友が指折り数えながら僕に聞いてきた。

 刷った数は、ばくおん本六〇〇、竹物語本六〇〇、そしてオリジナル本二〇〇だ。一〇〇〇ぴったりにしなかったのは、一種類だけよく売れたのに、売り切れてしまった――という状況を防ぐためだ。

 しかし、総計一四〇〇部刷ったのに四箱しかないのは確かに少ない。が、

「これでいいんだ。島中にたくさん箱を搬入したら周りに迷惑になる」

 過剰搬入についての問題はかなり蔓延しているらしく、コミフェから送られてくる冊子にも厳重に注意が書かれている。

 作った本は三種類どれも三六ページ前後と薄いが、それでも一箱に入るのは一八〇部程度。総計一四〇〇部となると、八箱にもなってしまう。

「じゃあ、コミフェ会場には箱がないんですか?」

「いや、あるよ」

「え……? でも、どこに?」

「他のスペースに」


「おー、有名人!」

〝羊水〟さんは、僕を快く迎えてくれた。サークル〝梅カリカリ〟は、〝ム〟列の島中だ。

「大人気じゃない、君たちのサークル!」

「あ、はは」

 3chではいまだ僕たちの話題が続いているらしく、〝サウザンド〟のサイトの掲示板はいつも荒れたままだ。

「まー、でも、昔は俺もそういうことやったからなあ。君たちと違ってバレなかったけど。若さは馬鹿さだよ、やっぱり」

 うんうん、と頷く羊水さん。……工作経験あるのか?

「でも本当に、不躾なお願いを受けてもらって、ありがとうございます」

 そう言って、僕は〝梅カリカリ〟スペースの机、その下に置かれた段ボールを見た。その箱には、〝レ-44 サウザンド〟と書かれている。

 ……八箱を島中の一スペースに搬入することはできない。しかし、二スペースで半分ずつだったら、何とか収めることはできる。

 悪い評判が流れる僕たちの本を、羊水さんは快く置かせてくれて、しかも委託販売もしてくれることになった。

 どうも、工作行為が逆に彼の心の琴線に触れてしまったらしく、ダメ元で頼んだ僕の申し出を二つ返事で受け入れてくれた。しかも、竹物語本にゲスト原稿まで描いてくれた。

「俺、今回新刊落として置く本ないのよね。だからむしろちょうどいいんだ。なははは」

「あはは……」

 羊水さんのスペースには、イラストの描かれたペーパー以外、何も置かれていなかった。快く引き受けてくれた背景にはそんな事情があったらしい。

 僕は〝梅カリカリ〟のスペース内を見渡した。机の下には一箱しかない。

「箱、もう空けちゃいました? 多分〝ばくおん〟の本も入ってると思うんですけど」

「あー、別にばくおん本もうちに置いていいよ。机の上を埋められるんなら何でもアリだ!」

 その申し出はありがたかったが、聞きたいのはそこではない。

「ばくおん本、入ってませんでした?」

「というか、俺まだ箱空けてないけど」

「……え?」

 僕は耳を疑った。だって――

「机の下には、一箱しかないじゃないですか!?」

 思わず大きな声を出してしまい、羊水さんはたじろいだ。

「いや、俺が来たときから一箱だったよ。間違いない」

「そん、な……」

 羊水さんも、そこで事の重大さに気づいたように、はっと息を呑んだ。

 まさか。まさかまさかまさか。

 ――箱が、ない?


 僕は〝サウザンド〟スペースに戻り、再度来ている箱を確かめた。四箱。それ以外に、ない。隣のサークルに紛れ込んでいるわけでもない。

「あ、ヒロさん。ばくおん本は、どこにありますか?」

 友が聞いてきた。

「…………それが、」

 僕は重い口を開き、説明をした。

「え……? それじゃ……!」

「……ばくおん本がそっくり搬入されてない。印刷所の搬入ミスだ」

 誰かに僕を殴って欲しかった。クソ。ぎりぎりの入稿になれば、それだけ印刷所のミスが起こる危険性は増す。それくらい、予想できたじゃないか……!

 どうする。どうすればいい。竹物語とオリジナルだけでは八〇〇部、一〇〇〇部には届かない。どうする。どうするどうする――

「印刷所に、電話しましょう」

 ふと、思案に沈んだ僕に、友が言った。彼女は、僕を諭すような冷静な口調だった。

「……あ、ああ。そう、だね」

「落ち着きましょう、ヒロさん。まだ、終わったわけではないのです」

 力強く友は微笑んだ。僕の鼓動が収まってきた。

「ごめん。ありがとう。……友の言うとおりだ。電話しよう」

 僕は携帯を取り出し、印刷所にかけた。

 …………。

「……出ない」

 コミフェ中に起こったトラブルの対処もあるから、印刷所が空というのはありえない。だが、繋がらない。何度かけ直しても。

 思わず携帯を地面に叩き付けそうになるのを、何とかこらえた。

 友の言葉を思い出す。とにかく、落ち着こう。まだ、〝来ない〟と決まったわけじゃない。

「僕はスタッフに聞いてくる。大門は、まずスペースを準備してくれ。あと、一〇分おきに印刷所に連絡頼む。友は着替えてきちゃって」

「了解ですっ」

 友の表情が引き締まる。後ろで椅子に座っていた大門も。さすがにぐったりしていられないと思ったのか、のそのそと動き出した。

 僕はスペースから出て、走った。とにかく急がなければ。


 四ホールの端にある、インフォメーションブースへ。そこでスタッフに聞いたが、当然のごとく情報はなし。一応、他の部署にも聞いてみるとは言ってくれたが、希望が持てるかどうか。

 僕がスペースに戻ると、着々と設営準備が進んでいた。友は、慣れない大門に的確に指示してくれていたようだ。

「僕が変わるよ。友は、先に着替えてきて」

「分かり、ました」

 額の汗を拭いつつ、鞄を担いで友はスペースを出て行った。

 と、携帯が震えた。慌てて出ると、画面には〝羊水〟と表示されていた。

『おー、night君、それで結局どうなってる?』

「……すみません、実は……」

 僕は今までの経緯をかいつまんで話した。

『そーかぁ。ひょっとしたら誤配かもな。俺も、知り合いのサークルに聞いてみるよ』

「ありがとうございます、すみません」

『良いってことよ。困ったら助け合いだ。んで、俺んとこのスペースの箱には竹物語本が入ってたけど、これはこのまま売っちゃってもいい?』

「はい、それでお願いします。お手数おかけします」

『はは、いいよ。飲み会で愚痴聞いてくれたお礼だ』

 温かい言葉に、泣きそうになる。

 僕は電話を切って、スペース設営に戻った。


 設営が終わった。テーブルクロスが引かれ、ポップやポスターで机が彩られている。とりあえず、オリジナル本と竹物語本だけ机に並べた。

 と、タイミングよく更衣室に出かけていた友が戻ってきた。今回はばくおんの真緒コスだ。

「あ、おかえり、友」

「ただいまです。……印刷所に、電話は?」

「まだ、通じてないよ」

「そうですか……」

「でも、羊水さんも探してくれるって言うから、信じて待とう」

 待つことしかできない。何とも歯がゆいが、動き回って体力を消費してもしょうがない。

「とりあえず、僕も着替えてくるよ」

「はい、行ってらっしゃい」

 鞄を引っつかんで更衣室に走った。


 着替え終わってスペースに帰ってくる。

「……はぅ。相変わらず、どうしてそんなに可愛らしいのですか、ヒロさんは」

「悪かったね」

 友は顔を真っ赤にして、僕をじっと見つめてくる。隙を見せれば犯されそうなほど、彼女の鼻息が荒い。非常事態だというのに、その反応は変わらないらしい。

 以前着た竹物語のセーラー服なので、友が空けた〝穴〟もそのままだ。決して友には後ろを見せまいと僕は決意した。

「…………」

 大門も僕を見ていた。そういえば彼にコスプレ姿を見せるのは初めてだった。ひょっとして引いてたりするだろうか、

「……ごくり」

「ごくり?」

 何だ、今の生唾を飲み込む音は。

 大門に目を遣ると、彼は慌てて帽子を目深に被って、鳴らない口笛を吹き始めた。

 ……まさか、そっちの趣味があるんじゃないだろうな、大門?


 開始一〇分前。

「ごきげんよう」

 咲がスペース前にやって来た。

 いつものゴスロリ姿で。傍らに一人、見知らぬ女性を侍らせて。

「ついに、この日が来たわね」

「……ああ」

 僕は、咲の顔を何とか見返す。手は、少し震えている。

「あなたたちが起こしてる騒動、小耳に挟んだけれど……はたしてこんな状況で何とかできるのかしら? 恩赦なんてないからね」

 僕は女装なんてしてるから、あんまり格好はつかないけれど。

「大丈夫。何とかしてみせるよ」

「……そう」

 咲はくすりと笑った。溺れそうなアリを見て哀れむ目で。

「そうそう、不正防止に見張りをつけさせてもらうわ」

 咲が言うと、彼女の隣にいたセミロングの女性がすっと前に歩み出る。

「不正なんてしないよ」

「分からないわ。所詮同人の売り上げなんて自己申告だもの。札束を用意して、同人誌をまとめてトイレにでも流せば、あっと言う間に一〇〇〇部売り上げ達成よ。そうじゃない?」

 そんなことをするつもりは毛頭ないが――しかし逆に考えれば、見張りがつくということは、勝ちに保証がつくということでもある。

「……咲がそれでいいなら、僕は構わないよ」

 大門と友を振り返ると、二人もこくりと頷いた。

「まあ、せいぜい頑張りなさい。じゃあね。私も、軽く売ってくるわ」

 咲は、そう言って去っていった。〝フロンティア〟のホームページを見たところ、咲はどうやら、夏コミで出した総集編第二弾を売るらしい。絶版になっている本も多いので、冬と同じく怖ろしい売り上げを誇ることだろう。

 後にはセミロングの見張りが残った。

 見張りの人は何も言わずに、僕たちのすぐ左隣のスペースへと入った。

 どうやら、隣のスペースにも既に息がかかっていたらしい。見張りの女性は椅子に座り、冷たい眼差しを僕たちに送ってきた。

 ……逃げられないようだ。


 それから後は、開始直前まで、ばくおん本探しをしていた。

 いける範囲までありとあらゆるサークルを見て回り、箱が紛れていないか確める。

 宅配コーナーにも行き、誤配がなかったかどうか聞く。

 だが、ついぞ見つけることはできず――

 午前一〇時。コミフェが、始まった。


* * *


 終了時刻は午後四時。六時間の闘いである。

 一般参加者が入場を開始した。

 東ホールは成人向けの同人誌が多く頒布されるため、西とは違い参加者が一気にやってくる。エロパワーは恐ろしい。

 開始一〇分も経たないうちに、僕たちの目の前にある通路が人で埋まってしまった。

 それでも、誰も彼も一カ所に立ち止まったりはしない。水かさの増した河川のように、素早くどこぞへと流れてゆく。

 ……コミフェではとにかく、人の目を惹くことが重要になる。会場では金銭感覚が麻痺するため、スペースに立ち寄ってくれたら即財布を開いてくれるような参加者が多数いる。開始一時間は特にそうだ。

 逆に言えば手に取らせてじっくり売っていくことは難しいので、とかくスピード勝負だ。

「どうぞー! ご覧くださーい!」

 僕と友は声を張り上げて、そう言った。まずは声出し。羞恥心を捨てて、大声で。それで、友のコスプレか机に張ったポスターに目を向けさせる。

 しかし――

「……人、来ませんね」

 さすがに、壁でもお誕生日席でもない島中は、開始直後はどうしても不利だ。そもそもの話、僕たちは自演発覚という巨大な枷を取り付けられている。

 焦燥感が増してゆく。誰か。来てくれ。誰か。誰か――

 だが突然、そのときはやってきた。

「見せてもらってもいいですか?」

「ど、うぞ」

 突然話しかけられたので、驚いてしまった。一般参加者の男性が、僕たちのスペース前にいつの間にか立っていた。

 彼が声をかけ、手に取ったのは……オリジナル本だった。

「…………」

 僕は、黙って彼を見つめた。

 何分経っただろうか。一分? 二分? ひょっとしたら僅かな時間だったのかもしれないが、僕には数時間にも感じた。

「これ、ください」

 男性はそう言って、僕にオリジナル本を差し出してくれた。

「……っ、ありがとうございますっ!」

 奇しくも――始めに売れたのは、オリジナル本だった。


 それを皮切りに、人がスペースに来るようになった。

 友のコスプレを見て来てくれた人、僕のコスプレを見て来た人(なんでいるんだ!)、ポスターに惹かれた人、偶然通りかかって表紙に目が留まった人――

 ぽつぽつ、といった感じにやってきて、売り上げも二〇を越えた。

 しかし、たったの二〇でしかない。島中である僕たちの本番はまだ先だが、今は人通りの一番多い時間でもあるので、何とか売り上げを伸ばしたい……

「……仕方ないか。友。頼める?」

「は、はいっ」

 暑いのだろう、紅潮した頬で友は頷いた。

「大門も」

「……う、ん」

 僕たちの後ろで、ぐったり椅子に座っていた大門も、頷いた。

 友と大門は同時に携帯を取り出し、僕も耳に当てた。


 数分後――

「新刊一部ください」

「見せてもらってもいいですか?」

「一冊ずつ~」

 立て続けに人が僕たちのスペースにやってきて、一気に売り上げが伸びいった。今も並ぶ列が途切れていない。

 どうして急に並んだのか。答えは単純だ。――サクラである。

 友、大門、そして僕の持つ人脈をかき集めて、一気に収集させたのだ。

 もっとも、コミフェ開始まだ一時間も経っていないこの時間、かき集めるのはかなり難しかった。友は〇人で、僕もネットの知り合い四人だけだった。

 それでも、ないよりはましだ。人は集団意識から、人の列に惹かれるものだ。並んでいるところ=売れているところ=よい本という三段論法で、つられて見に来る人はいるだろう。

 若干卑怯な手ではあるが――あくまで人の好意を頼っているのだから、反則ではない。

 意外だったのは、大門の人脈だった。

「ボク、ネットの、知り合いには、始発組、徹夜組が、いっぱい。廃人、ばっかり、だから」

 一応言っておくと、コミフェで徹夜は禁止です。近隣住民の迷惑になるのでやめましょう。

 それはともかく、大門のおかげで、一気に二〇人近くが来てくれた。彼らには本をじっくり読んでもらい、できる限りサークルに留まらせ、〝列ができている〟ことを演出してもらった。

 そのおかげで人が人を呼び、やがてサクラ以上の人たちが並びつつあった。


 一時間が経過し、人の流れに少しずつ変化が現れ始めた。大手への波が弱まり、徐々に島中へ人が滞留し始める。

 僕たちの本番はこれからだ。

「どうぞー! お手にとってご覧くださーい!」

「新刊ありまーすっ!」

 僕と友が声を張り上げる。

 そのおかげか、ぞろぞろと人がやってきた。

「ありがとうございますっ! どうぞご覧、」

 しかし――雰囲気がおかしかった。

 まとめてやってきたのは四人。〝本を探しにやってきた〟という気配は一切なく……確かな敵意に満ちていた。

「……〝レイダー〟さんはいらっしゃいます?」

 口調こそ丁寧だったが、その目にぎらぎらと危ない光を宿している。他の三人も一緒だ。

 僕はすぐさまポケットに手を突っ込み、携帯を握った。

 ……川原先輩の件か。彼女たちは一般参加者ではないだろう。アメリアの知り合い、サークル参加の作家たちだと思われる。

「あー、すみません、レイダーは今日来てないんです」

「じゃあ、さっさと出していただけませんか? 私たち、そいつが来るまでここからどきませんよ。知ってるでしょ? 友達が、傷ついてるんです」

 その言葉通り、四人の女性はテコでも動かなさそうな気配を出していた。先輩が直接彼女たちに手を出したわけではなかろうに、中途半端な正義感をかざしている。非常に厄介だ。

 ……今の時間は、言うまでもなく売り時である。この時間で流れに乗らないとダメなのだ。即刻、どいてもらわなければ。

「どけよ、クソども」

「……っ!?」

 僕は低い声音を作って、言った。

「いねーもんはいねーんだよ。邪魔なんだよ。スタッフ呼ぶぞ。妨害されたって訴えて、お前らのサークル永久出場停止にしてやろうか?」

「…………」

 四人は、あからさまに怯んだようだった。

 可愛らしい(残念ながら)格好をしている僕がいきなり凄んだことや、強硬姿勢に出られたことが意外すぎたのだろう。こういう輩は、自分たちが集団で行動しているから強気に出られるだけで、一点突破すれば脆いものだ。

「……っ! そんな手には乗らない! 悪いのは貴方たちよ! そうね、じゃあいくらか払ってくれれば、どいてあげてもいいわよ」

 一人が、そちらが有利である演出をしたかったのか、笑みを浮かべながら言った。だが、

「恐喝」

 僕はポケットから携帯を取り出した。先ほどから、会話をボイスレコーダーで録音している。

「スタッフじゃなくて、警察沙汰のほうがいい?」

「…………」

 四人は、さすがに表情を翳らせた。

「……っ、死になさい! ブス!」

 今日日小学生でも言わないような悪態を残して、四人は去っていった。

「ヒロさん、なんというか、敏腕刑事」

 唖然とする友に、僕は苦笑する。

「ちょっと、留守番頼んでいい?」

「え?」

「少し、出てくるよ。あいつら、多分もっと数を連れてきてまた来ると思う。その前に先手打って、スタッフに通報しとく」

 言うや否や、僕は携帯電話を掴み、スペースから出た。

 走って、先ほどの女性四人の姿を追いかける。

 近くにいた通りがかりのスタッフに事情を話して、拘束してもらった。

 どういうペナルティが下されるのかは分からないが、彼女たちにも作家としての立場がある。おそらくはこれ以上つきまとってはこない――と思う。

 スペースに戻ると、皮肉にも件の四人が人寄せとなってくれたらしく、列ができていた。

 友は大わらわで対応している。僕も慌てて手伝った。


 後ろで座っている大門はいまだコートを脱がず、暑さでダウンしている。休む代わりに、一〇分おきに印刷所への連絡を頼んでいた。そして――

「ヒロ。繋がっ、たっ」

 大門が背中を叩いて、教えてくれた。僕は接客を友に任せて、携帯に飛びつき、ばくおん本の行方を聞く。

「……運送会社!?」

 印刷所曰く――自分たちは、ちゃんと本を配送した。しかし、どうも他の荷物と紛れ込んでしまい、他の地区へと運送されたようだ。

「どうにかできないんですか!?」

 ――今、実は同じようなクレームがサークルから何件も相次いで、自分たちも必死になって対応しています。

 電話が繋がらなかったのは、そういうわけだったらしい。僕たちと同じ、二四時間や七二時間パックを使ったサークルだろう。

 ――運送会社に何とか対応させて、昼頃には届けるようにします。

「……昼、頃」

 今は一一時二〇分。最低でもあと四〇分はかかるということか。

 悔やんでも悔やみきれない。まさかこんなミスが起こるなんて。

 これも、予定通り本を作れなかった僕のミスだ。

「……」

 だが、苦悶は噛み殺した。しっかり前を向いて、できることをやらなければ。


「――えー、ばくおんの新刊ないんですかぁ?」

 わざわざ本を買いに来てくれた人が、がっかりした顔でそう言った。

「すみません……もう少ししたら届くと思うんで、また来てもらえますか?」

「〝虎穴〟に委託とかしますー?」

「今回スケジュールがカツカツで、委託申し込めなかったですよ……すみません」

 その人は納得しなさそうな顔で帰っていった。

 本当は委託を申し込むことはいくらでもできたが、あえてしなかった。

 夏コミ中に本を買ってもらいたいからだ。委託があると、〝後で買えばいいや〟という心理が働いて、来てもえなくなる可能性がある。しかし、

「……痛いなぁ」

 一度来たスペースに目当ての新刊が置いていなかった場合、委託があろうとなかろうと、もう二度と来ない可能性も大きいのだ。

〝ばくおんの新刊ないのか〟と聞いてきた人は、今まででもう一〇人近くいる。

 何とかしなければ――

「……そうだ、大門! パソコンつけられる?」

「え? あ、うん……」

 大門は汗だらけの顔で、彼の鞄からネットブックを取り出した。

「ツウィッチの、サウザンドのアカウントに入ってくれ! 今の状況を告知しよう!」

 すっかり忘れていた。サークルのアカウントは、炎上事件の影響もあり、かなりの人からフォローされている。そこで情報を告知すれば、帰ってしまう可能性は減る。

 コミフェ会場でツウィッチにアクセスする人は、意外に結構いるのだ。


 ふと、人が来ない時間が続いて、僕はあることに気づいた。

 視線を――感じる。至る所から。通りかかる一般参加者が、僕たちのスペースを見てくる。が、決して前に来たりはせず、ただ視線を送ってくるだけだ。

 また、さっきの女性たちだろうかと思ったが、違った。

 視線を送ってくる輩は、誰も彼も、顔に含み笑いを張り付けている。携帯で、許可もとらずに僕と友の写真を撮ってくる者までいた。

 はたと思い当たった。彼らは、炎上騒動で僕たちを知った者たちだ。一体自演工作したのはどんな奴らだろうと、わざわざ見に来ているのだろう。

「……ヒロ、あれ」

 大門も異様な雰囲気に気づいたらしく、僕の背中をつついた。

「気にしたら負けだよ」

 彼らはおそらく、僕たちのサークルの情報を3chにでも書き込んでいるのだろう。この時間は本番だというのに、あまり人が来ないのはそういうわけか。

 それは非常にまずい。まずいが、無視するしかない。一人一人携帯を取り上げるわけにはいかないし、そんなことしたら余計悪化する。

「…………」

 大門の顔は帽子で見えなかったが、何か考えているようだった。


 どうして、悪い状況はさらに悪い状況を呼ぶのだろうか。

「――ちょっと、いい?」

「はい、どうぞご覧に、」

 僕は前に立った人に笑顔を返して、固まった。

「……レイダー、いないの?」

 アメリアが立っていた。そして、他に八人の女性を連れていた。その中には、さっき来た四人も含まれていた。

「いません」

「嘘! うそつき! ふざけてるんじゃないわよ!」

 さっきの四人が、金切り声で言った。

 アメリアはそれとは対照的に、ただ無表情に立っている。しかし、声音には静かな怒りがこもっていた。

「……別に、あたしはさ。通報されたって構わないよ。ただ、あの男が許せないんだ。サークルのためだけに、あたしを利用して……」

 アメリアが僕たちの机を殴った。本が飛び上がるほど強く。

「出しなよ。あいつを。出すまではどかないから。警察でも何でも連れてきなよ」

「…………」

 僕は驚愕と焦燥を感じていた。

 まさかここまでとは思わなかった。アメリアの目は本気だ。前の四人とは違う。警察を呼ぶ素振りをしようが、本当に呼ぼうが、一切怯まないだろう。

 なお悪いことに、確かに客観的に見て悪いのは川原先輩なのだ。どんな詭弁を用いても、アメリアの心は揺るがないだろう。

 どうする? まだ流れにも乗れていないのに。どうする。どうす――


 ばたん。


 そんな音が僕の右からした。

「……え?」

 友が、倒れていた。

「友っ!?」

 友の顔は真っ赤だった。

「……は、ぁ、ぁ、は、ぁ、あ、……っ」

 寝不足。体力の少ない女性。コスプレ。この茹だるような暑さ――

 考えるまでもない。熱中症だ。

「クソッ!」

 友は顔を赤くしていた。それでも売り子ができていたから、大丈夫だと思っていた。

 また、やってしまった。僕は何を見ていたんだ。あれだけ先輩に言われたじゃないか。友は女の子だ。倒れる時は倒れるに決まってる……!

 スペースの前にいる八人も、アメリアも、あまりの出来事に驚いているようだった。

「大門! 友を救護室に連れてってくれ! 場所は――」

「……だい、じょうぶ、です」

 なのに、友が机の縁にしがみつきながら、ふらふらと立ち上がった。

 肩を震わせながら、それでも背筋を伸ばして。まっすぐに、アメリアを見る。

「おねがい、です。どいて、くれませんか」

 ゆっくりと。けれど、強い言葉で。

「部長が、……レイダーが、ひどいことをしたのは、聞いてます。だけど、私たちの邪魔をして、何に、なります。あなたが話すべきは、私たちではなく、部長です」

 どうしてそんな体で話せるのか分からなかった。けれど、友は続ける。

「約束、します。私は、必ず、あなたの前に部長を連れて、いきます。だから、だから――どうか、ご一考を」

 アメリアは、しばし黙った。

「……私は」

 彼女の声から、怒りが消えた。今は哀しげだった。

「ただ、一言、謝って欲しかった。……それだけ、なんだ」

 だから、とアメリアは――友を睨んだ。

「ここは、どかないよ。……アンタらだって、同罪なんだ」

「――――」

 すとん、と友が再び床に沈みそうになり、慌てて僕が体を支えた。意識を繋ぐのさえやっとだったようで、彼女は息も絶え絶えだった。いつもは冷たい体が、マグマのように熱かった。

「……大門、頼めるか」

「わかっ、た」

 コートを羽織ったままの大門もふらついていたが、友よりは遥かにしっかり立ち上がった。友を肩に担いで、スペースを出ていく。

「…………」

 アメリアはその様子を、申し訳なさそうに見ていた。

 同情の眼差しを送ってはいるものの、一体彼女にはどんな言葉が届くだろう。友の言葉でも、揺るがなかったのだ。

 どうすれば。警察は呼べない。呼んだら、きっとコミフェ終了まで拘束されるハメになる。それに、〝サウザンド〟の評判は今度こそ地に落ちる。

 アメリアの耳に届くのは、もう――あの人の声しか――


「アメリア」


 その人の声が、した。

「……え?」

 アメリアが弾かれるように、声のほうへ振り向いた。

 いた。立っていた。何度連絡しても捕まらなかった人が。アメリアのすぐ後ろに。

 高い背。昨今の若者を体現しているような、茶髪。

 川原伸一が、そこにいた。しかも、竹物語のイベントのときに着た――コスプレをしながら。

「すまなかったっ!」

 先輩は土下座した。頭をごつんと地面にぶつけて。公衆の面前で、恥も外聞もなく。

「……あなた」

 アメリアは驚きに目を見開いている。

「言い訳はしない! ……と言いたいところだが、恥を忍んで言い訳させてくれ! お前とのデートをすっぽかした! けどそれは、他に大事な用があったからで、断じて浮気をしてたわけじゃない! 俺の大切な部員の、力になってやりたかったんだ!」

「……そんなこと、言って……!」

 アメリアは、土下座する先輩の首根っこを掴んで、無理矢理立たせた。

「デートの日以外にも、他のオフ会に行ってたの、知ってるんだから! 他の女と話してたの、聞いてるんだから! ――あたしに近づいてきたのは、このサークルのためなんでしょ! 横の繋がりが欲しいから、私とヤっただけなんでしょ!」

 先輩は、首を掴まれながらも毅然として、

「俺も最初はそうなんじゃないかと思った! 俺はそんな酷い奴なのかって自己嫌悪した! でも違う! サークルは関係なかった! 俺は、お前を結構ちゃんと愛してた!」

「言葉だけじゃ、何でも言えるでしょう!」

「違う! その証拠に――!」

 先輩は、体格の差を使ってぐいと掴まれていた手を払うと。そのままアメリアを引き寄せて、

「――――――」

 キスをした。

 それもただ唇を合わせるだけのものではなく、べろちゅーだった。

 ……僕は、すごく、反応しづらかった。さすがに照れた。

 えーと、なにこれ。こんなの最近エロゲでもやらないよ?

 たっぷり三〇秒は濃厚なキスシーンを演じた後、先輩は顔をアメリアから離した。

「……ぁ、……ぅ、……ぁ」

 アメリアは耳まで真っ赤になって、口をぱくぱくさせていた。

「思い出したんだ! 俺は、お前のそういう繊細なところが好きだってことをな!」

 嬉しそうに笑いながら、先輩は叫んだ。

 アメリアは三〇秒ほど黙り込んだのち、

「……その。ごめん。あたし、大人げ、なかった」

 まるで恥じらう処女のように、俯いてごにょごにょと呟くアメリア。本当に繊細らしかった。

「分かってくれればいいんだ。人を払ってくれるか?」

「……あ、うん」

 アメリアは取り巻きの八人を振り返り、

「……みんな。ごめん。その。もう、大丈夫な、感じが、しなくも、ないわ?」

 一番大丈夫じゃなさそうなのはアメリアだった。

 取り巻き八人は狐に化かされたような顔をしていたが、三々五々、散っていった。

「……あ、あの。その、レイダー」

「おう、なんだ! またキスか! それとも繋がったまま歩くか!?」

 アメリアはまだ顔を真っ赤にさせたまま、スペースの机を見て。

「……同人誌。あたしのスペース、委託、する? なんか、事情、あるんでしょ?」

「本当か!? そりゃありがたい! 是非頼む!」

「わかっ、た。じゃ、あたしのサークル、〝メ〟の20、だから」

 そう言い残すと、ふらふらとアメリアは立ち去っていった。


 僕は、素直に感嘆していた。

 てこでも動かなさそうだったアメリアが、引き下がってしまった。

「……先輩」

 僕が呼びかけると、机を挟んで、先輩はゆっくりと振り向いた。

『すみませんでしたっ』

 僕と先輩の声が重なった。

「……え?」

「お?」

 目が合った。

 そうしたら、突然笑えてきて。なんだか、総てがどうでもよくなってきた。

 先輩は、竹物語のイベント時、僕が無理矢理させたコスプレをしていた。それだけで、彼の気持ちは伝わってきた。十分だった。

「似合ってますね」

「お前も可愛いな、それ」

 そう、二人で笑いながら言った。

「ところで、ヒロ」

 先輩は、スペースの横で気まずそうにしている、緑色の制服を着た男性を示して、

「この人はなんだ?」

 彼は、台車に段ボール箱を乗せていて。


 やっと本が届いた!

 先輩は、竹物語本とばくおん本を何往復かしてアメリアに届け、彼が戻ってくると、代わりに僕はばくおん本を羊水さんへと届けた。

 僕がスペースに戻ってくると、流れが一気に変わっていた。

 人だかりができていた。僕、友、大門でサクラを呼んだときよりも多い人たちが。

「先輩、これは?」

 売り子をしながら、小さい声で僕は先輩に聞いた。

「……俺が部活をサボってたとき、思ったんだ。お前がやってきたことは正しかった。……だけど、その考えは、やっぱり間違ってる。それが何か、ずっと考えてた」

 新刊が売れていく。次から次へと。

「だから、俺なりに考えて動いた。それが、この人たちだよ」

 そう言って先輩は、スペース前に並ぶ人を示した。

「じゃあ、これはサクラ……?」

「違うよ。そんなんじゃない。それじゃヒロと同じだろ」

 にやり、と先輩は笑った。

「俺は、俺の知り合い全員に声をかけて、作った同人誌を読んでもらったんだ。ネットの知り合いにも、参加した色んなオフ会にいた人たちにも、リアルの知り合いにもな」

「……え?」

「読んでもらっただけだ。あとは何もしてない」

 また一人新刊を買った。見覚えのあるその人は、いつか先輩をビンタしたまゆみ嬢だった。

「まー、やりやすいからオフ会では女性ばっかに声かけちゃって、そのせいでアメリアに勘違いさせたみたいだったけどな」

「……一体、何人に読ませたんですか?」

 さぁな、と先輩は肩をすくめた。

「覚えてないな。なんせ、一ヶ月かかったんだ」

 ああ。くそう。この野郎。僕の見立ては正しかった。どこまでも。

 川原伸一。あなたは、すごい人だ。

「やっと、言えるな。ヒロ。――これが、俺の答えだよ」

 はい。確かに伝わりました、先輩。


* * *


 午後一時半。

 現段階で把握している売り上げは、ばくおん一〇〇冊、竹物語一七〇冊だ。

 羊水さんやアメリアのスペースには、一〇〇部ずつ届けたのだが、そこそこ好調に捌けているらしい。

 先輩の力により、かなり人の波が続いたおかげで、通りがかりの人が多数釣られたらしく、ここ一時間は列が途切れなかった。

 大門もスペースに戻ってきた。友は今、救護室で横になり、大分落ち着いたらしい。

 大門は先輩の帰還に驚いていたが、僕が経緯を話すと、納得したように頷いた。彼はまた椅子に座って、パソコンを開いた。ツウィッチでの広告作業にいそしむのだろうか。いまだ目深に被った帽子とコートのせいで、その表情はほとんど伺えない。

 しかし、と僕は机に目を落とす。

 ばくおんは遅れこそしたものの、竹物語ととも順調に捌けている。

 問題は、オリジナル本だ。

 手にとってくる人はいるし、友入魂の絵を見て買ってくれる人も確かにいる。最初にスペースに来た人も、買ったのはオリジナル本だ。しかし、出る数は遙かに少ない。

 元々それを見越しての小部数だったが、こうまで顕著だと複雑な気持ちだ。

「オリジナル本なんて作ったんだな」

 僕の視線に気づいたらしく、先輩もオリジナル本を見て言った。

「はい。……けど、なかなか難しいですね」

「そうだな」

 先輩は慰めるように笑ってくれた。

 今回は、色々とトラブル続きで、まともに広告ができなかった。イベント参加や同人誌作りなど、総て円滑に進めば、おそらくはオリジナル本だけでもかなりの売り上げを誇ったはずだ。

 しかし、今は悔やんでも仕方がない。そもそも、トラブルがなければオリジナル本なんて作らなかったのだから。

 売れなくても、胸を張らなければ。

「さー! どうぞ! お手にとってご覧くださいっ!」

 さすが体育会系、といった感じの大声を先輩が出したので、僕も負けじと声を張り上げた。


 午後二時半。

 人の流れが、止まった。

 閉会の四時まで、もうあと一時間半。この頃になると、ほとんどの参加者が買い物を終え、家に帰るか床に座り込んで本を読むかしている。

 無論、この空いた時間帯を狙って買い物を続ける参加者もいるにはいるが、かなり少ない。

「どうぞー! ご覧になってーっ! くださーいっ!」

 先輩が腹の底から声を出している。近くにいる僕の耳がひりひりするほどだ。

 しかし、来ない。たまに来たと思っても、ぱらぱらめくって机に戻して、離れていく。

 正確な売り上げは委託先と合わせて数えないと分からない。が、おそらくまだ一〇〇〇部には足りていないだろう。

 けれど、ひょっとしたらもういったのかもしれない。かなりの人が立ち止まった。部員みんなのおかげで、集客もできた。羊水さん、アメリアスペースの委託もある。

 ……いった、んじゃないか? もう、大丈夫なんじゃないか?

 もう――

「……ヒロ! おい、ヒロ!」

「え?」

「何やってんだ、ほら、本渡せよ」

 先輩に言われて顔を上げると、人がスペース前に立っていた。既に先輩はお金を受け取っているようで、僕が本を渡していなかっただけだった。

「す、すみません。……お買い上げありがとうございます」

 慌てて本を手渡す。買ってくれた参加者は、苦笑しながらスペースを離れていった。

「ぼーっとすんなよ、ヒロ」

「すみません……」

「――まだだよ、ヒロ」

 先輩が、真剣な顔で言った。僕を責めているわけではない。ただ、確信している声だった。

「まだだ。気を抜くな」

 そうだ。僕は、何をふぬけたことを考えていたんだろう。冷静に考えて、一〇〇〇部にいっているわけないじゃないか。僕はそんなに売った記憶がない。

 一〇〇部でも五〇〇部でもない、一〇〇〇部なのだ。この程度で売れるわけない。

 まだ闘いは終わっちゃいない。楽をするな、逃げようとするな、天野ヒロ!

 僕は両手で強く頬を張ってから、呼び込みの声を腹の底から出した。


 午後二時四十分――

 時間は残酷なまでに過ぎていく。スペースに人が来ては、本を置いて去ってゆく。この一〇分間で売れた本は、両手の指で数えられる程度だ。

 足りない。……何かが、足りないのだ。

 声出し? コスプレ? 本の内容? 委託先? コネクション?

 いや。それらのどれもが、最大限になるように尽くしてきた。もはや効果は望めまい。

 ならば、一体何なのか?

 僕は、今まで数々の失敗を犯してきた。そのどれもが、僕の固定観念によって、間違った指示を出してしまったせいだった。

 逆に考えよう。僕が思いもよらなかった、新たな価値観。そこから考えられる行動。

 例えば、そう。人の心を打つような、強い想いを――

「…………う、ぁ、」

 それは、突然訪れた。

 後ろで何か音がした。聞き覚えのある音だった。けれど、記憶にあるものより重いそれは、

「……大門!?」

 振り向くと、大門が床に沈んでいた。帽子とコートから覗く顔は水でも浴びたみたいに汗だくで、脱水症状でないのが不思議なくらいだった。

「あ……れ、」

 大門はまだ倒れたことに気づいていないらしく、もぞもぞと体を動かしている。

「ああもう、馬鹿、大門! そんなの着てれば、倒れるに決まってるよ! 早く脱いで!」

 僕がそう怒鳴っても、しかし大門は頑なにコートと帽子を取ろうとしない。

 馬鹿野郎、と僕は内心で罵った。どんな理由があろうとも、熱中症で命を失うよりマシだ!

 僕は倒れた大門のコートと帽子を、引きちぎらんばかりに無理矢理はぎ取った。

 すると、中から現れたのは――

「――は?」

 一瞬、誰が出てきたのかと思った。僕の記憶にある大門は、ぼさぼさの髪の毛で、顔の半分が隠れているような男だった。

 だが今、彼は――

「坊主……?」

 坊主だった。櫛を数年入れていないであろう荒れた髪が、そこだけ核爆弾でも落とされたように消えてなくなっていた。相当短く刈り込んだのだろう、地肌の肌色がよく見える。

 何だか初めて大門の顔を見た気分だ。意外と綺麗な肌をしているのを知った。

「な、一体どうした大門!? いじめでも受けたのか?」

 先輩が大門に詰め寄る。大門は半袖になって、大分楽になったのか、よろよろと立ち上がる。

「……ち、がう」

 隠す髪がないので、大門の表情はよく伺えた。坊主を見られたのが相当恥ずかしかったのだろう、彼は面はゆそうに指を弄っていた。

 なるほど、コートと帽子で体を見せなかったのは、恥ずかしいから坊主姿を隠すためだったらしい。しかし、何故そんなことを……?

 僕と先輩が視線で問うと、大門はしばらく黙り込んだ後……先ほどまでいじっていたパソコンを、僕たちに差し出してきた。

 そこには――

「……3ch?」

 3chの画面が映し出されていた。

「ボク、が、スレ、たてた」

 大門は画面を上にスクロールして、スレッド名を表示させた。


『一〇〇〇部売れないとサークルがなくなる・4』


 そんなタイトルの、スレッドだった。

 スレッド主の大門はそこに、何回も書き込んでいだ。

 散々叩かれ――いじめられ、トラウマになっていたはずの3chに。

 そのスレは四スレ目だった。大門はパソコンを操作して、一スレ目を表示してくれた。

 最初にスレが立てられたのは、コミフェの二日前。新刊データを入稿した翌日だ。

 悪評の立つ〝サウザンド〟が立てたスレということもあり、最初の一スレ目では当然叩かれていた。自演サークルが更なる自演を始めたのか、とボコボコに。

『死ね』や『サークル解散しろ』を始めとして、人格を否定するような書き込みまであった。

 しかし、とある大門の書き込みから、状況は一変した。

 サークルを代表して、大門が正式に謝罪したのだ。……そのときのために刈り込んだ、坊主頭を晒すことによって!

 それまで非難九割だった書き込みが、大門のあまりに誠実すぎる謝罪に、賛否五分五分にまで回復した。

 それから大門は、工作に至った理由を――僕たちの、半年間に渡る闘いを書き込み始めた。

特定の名称は避け、僕たちのサークル名だけ出しながら、波瀾万丈の半年間を綴っていた。

 咲との勝負。僕の指導。成功したイベント。起こった事件。離散した文芸部――今このとき進行している、夏コミのことまで。

 あまりの赤裸々な描写に、いつしか荒らしや茶化す書き込みは消え、スレにいる皆が、大門の語る話を見ていた。

 そして、大体の経緯を書き終えた後、〝今、一〇〇〇部まで売り上げが全然足りていない〟、と大門は書き込んだ。

〝>>1はどんな本作ってんだ?〟

 という、事情を知らなさそうな書き込みがあったので、大門は本の内容をスレに張り付けた。

 その反応は――

〝意外と上手くてワロタwこれ小説?〟

〝まだ本あるかな?ちょっと見にいくわ〟

〝俺も試しに行ってみよっかな。なんかよさそう〟

 と。好意的なものが多かった。

 大門がスレにあげた本の詳細は――オリジナルの、同人誌だった。

 もちろん、辛辣な書き込みも多数あったが、それと同じくらい、見に行ってやる、という書き込みも増えていた。

 これは。

 僕の辿り着けなかった、価値観だった。

「……あの、」

 と。無我夢中でスレを追っていた僕と先輩は、後ろから声をかけられた。慌てて振り返ると、

「スレ読んで、来たんですけど。……見せてもらっていいですか?」

 そう言った机の前に立つ人は――午前中、僕たちを面白半分に見ていた男性だった。


 そして、その一〇分後。

「こんなに……たくさん……」

 先輩が呆然と呟いた。

 スペースの前に、たくさんの人が並んでいた。五人、六人、……まだ増えてゆく!

 次から次へと本が売れてゆく。オリジナル本を中心に、ばくおんも、竹物語も、一緒に買っていく人がたくさんいた。

 一体どこにこんな人数が残っていたのかと思うくらい、目の前の通路が人で埋まっていた。

「スレ読みました! すごいですね、頑張ってください!」

「叩かれても負けないでください!」

 そんな応援をしてくれる人までいた。

 その波に、午前中にばくおん本を買い逃した人や、列に釣られて様子を見に来た人も加わり、午前中よりも人が集まるという、とんでもない事態になった。

「……大門」

 僕は、後ろを振り返る。

「ヒロの、おかげだ」

 坊主頭の大門は、汗だらけの顔で、

「ヒロが、ボクを信じてくれたから。背中を押してくれたから、できたんだ……」

 笑っていた。照れもせず、逃げもせず、僕を真っ直ぐに見て――とても、嬉しそうに。

「ありがとう」

 その声は、僕と大門、どっちのものだっただろうか。多分、両方だろう。

 僕はスペースの前に向き直り、視界に収まりきらないくらい並ぶ参加者たちを、先輩と一緒に捌いていった。

 それから、僕はしばらく後ろを振り向かなかった。

 笑う大門の顔は、汗以外のものでも、濡れていた気がしたから。


 残り時間はあっと言う間に過ぎていった。

 大門のスレはネットの色んな場所に張られ、口コミが口コミを呼び、スペースの前には数え切れないほどの人が訪れた。

 あと三〇分。まだ列は途切れない。

 二〇分。人がまばらになり始めた。

 一〇分。すでに周りは片づけを始めている。

 五分。三分――

「……戻りました」

「友!」

 午前中よりはだいぶ血色がよくなった友が、スペースに戻ってきた。

「ご迷惑を、おかけしました。本当にすみません」

「いいよ、そんなの!」

 僕がスペースの中に招き入れると、友は先輩を見てびっくりしていた。そうか、まだ彼女は先輩の帰還を知らなかったのか。

「売り上げは、どうですか」

「分からない。……行ったような気もするし、まだって気もする」

 先のラッシュで、一気に一〇〇冊以上を売り上げた。だが、合計何部かはまだ数えておらず、どこまでいったかは不明だ。

「そう、ですか……」

 友は不安そうな顔をしたが、すぐに笑顔に戻った。午後になり、気温も多少は下がったからか、その表情には生気が満ち充ちていた。

「最後まで、諦めないでいきましょう」

「……そうだね」

 僕は頷き、前を向いた。

 そして、先輩と友、僕の三人――それから後ろから大門も加わって、声を出した。


 残り二分、一分――

 最後に一人だけスペースに来て、本を一冊ずつ買ってくれて――


『以上をもちまして、コミックフェスティバル79、閉会となります!』

 その言葉と共に、拍手の渦が巻き起こった。

 僕の鼓動が早くなっていた。


* * *


「では、集計を始めましょう」

 見張りの人に言われ、僕たちは本を数え始めた。

 羊水さんとアメリアのスペースへ本を回収しに行く。一〇〇部渡したのだから、余った数を引けば売れた数だ。

 羊水スペースは、ばくおん六五。竹物語八〇。アメリアスペースは、ばくおん七九。竹物語八七。委託分の合計は三一一部となった。

 続いて、いよいよ僕たちのスペースでの売り上げだ。

 集計法は基本的に変わらないが、印刷所からの箱には大抵、刷った数より若干多めに入っている。その余部と、知り合いに配った数を引いて、余った数から総売り上げを算出する。

 気づけば、色んな人が僕たちのスペースに集まっていた。羊水さん。アメリア。アメリアの取り巻き。スレを見て来てくれた人たち。

 数え終わって、僕は携帯電話の電卓機能で、計算を始めた。

 皆が僕の指先を見守っている。

 竹物語本――総売り上げ二八〇部。

 ばくおん本――総売り上げ二五三部

 オリジナル本――一総売上一五四部。

 以上をふまえて、委託分三一一部を足した、総売り上げは――

「…………」

 僕は何度も計算し直した。念のため、友や先輩に確認してもらって、もう一度調べなおした。

 だが。何度調べなおしても――

「……売り上げ。九九八部、です」


 わずか、二部。

 一〇〇〇部には、届いていなかった。


「あっ、あたし、二部くらい買う!」

「俺もそれくらいは買ってやるよ!」

 アメリアと羊水さんが叫んだ。

「いけません。時間は過ぎました」

 だが、見張りが冷たくそう言い放つ。

「そん、な……」

 アメリアと羊水は肩を落とした。

「……終わった、のか?」

「そう、みたい、ですね」

 先輩と友が顔を見合わせる。その顔は、信じられないように茫然としていた。

 大門は体を丸めて、嗚咽していた。

 僕たちは、


 ――届かなかったのだ。


 場が、静寂に満ちていた。二〇人以上集まっているというのに、周囲の喧噪さえ聞こえず、ひたすら静かだった。

「結果を聞きにきたわよ」

 声がした。

 人混みが自然に割れていき、その中から咲が現れた。

「どうだったの?」

「私が確認しました。九九八部。一〇〇〇部には届かず、です」

 見張りの女性が、代わりに言ってくれた。

「……ふぅん?」

 僕は立ち尽くたまま、何も言えなかった。

 咲はかつかつと足音を立てて歩き、乱雑に本が積まれた机の前に立った。そしてオリジナル本を手に取り、読み始めた。

 今度は流し読みではなかった。ゆっくり、噛み締めるようにページをめくっていく。

 滑らかな指先が本を撫でるたび、僕の心臓は高鳴る。皆が咲の一挙手一投足に注目していた。

 時間の流れが遅い。止まったみたいだ。今、一体何分経ったのか――

「はい」

 咲は、突然そう言った。何が〝はい〟なのか、意味が分からなかった。

 机の上に、いつの間にか千円札が二枚乗っていた。

「……え、えっと?」

 僕がおそるおそる聞き返すと、咲は呆れた、という風に嘆息して。

「目の前に客が立って、お金を差し出したら、一体何を求められてるの?」

「……っ!」

 咲は、真顔のまま言った。

「三部」

 僕は、机の上にあるオリジナル本を三冊持って、おそるおそる差し出すと。

 咲は、それを受け取った。

「あ――」

「これで、何部だったかしら?」

 咲に言われて、混乱した頭で、僕は計算をした。

 えっと。九九八部足す、三部、だから――


「一〇〇一部、です」


「……やりっ! ましっ! た――――ッ!」

 叫んだのは友だった。

「うおおおおおおおおおっ! やったぁああああっ!」

 先輩も続き、友と高々にハイタッチした。

 それに煽られて、スペースを囲っていた人々も、一斉に歓声をあげた。その声はまるでオーケストラの演奏のように、会場に響き渡った。

 活動僅か半年の文芸サークルが、一〇〇〇部の同人誌を売る――

 僕たちは、そんな偉業を成し遂げたのだ。

「はははっ! おいヒロ、こっち来い!」

「え、あ、え?」

 まだ現状を把握していないまま、先輩に腕を引っ張られる。

「胴上げだ! それ! 飛んでいけ――ッ!」

「わあああっ!?」

 先輩は強引に僕をかつぎ上げて、宙高く投げ飛ばした。

 友も、大門も、アメリアも羊水も、周りの皆も――僕を、胴上げした。

 胴上げは、コミフェスタッフに注意されるまで続いた。

 僕は、ようやく解放されたとき、涙をこぼしている自分に気づいた。

 それは無理矢理胴上げされて痛いからなのか、嬉しいからなのかは、分からなかった。


 そして――

 咲は、いつの間にか姿を消していた。

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