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六章

 一度会って話をしたい、とメールをすると、今度はちゃんと返信がきた。


 翌日。彼が指定した時間は、午前一〇時。二限の講義が始まった時刻だった。

 場所は部室棟の屋上。本来なら扉に鍵がかかっているはずだが、今日は外されていた。

 僕は屋上に出ると、屋上の中央に川原が立っていた。彼はぼんやりと、遠くを見つめていた。

「……おう、来たか、ヒロ」

 ドアの音で気づいたのだろう、川原が振り向いた。

 僕は、川原に早歩きで近づいて――

「……ッ!」

 殴った。

 右拳を握り締めて、大きく振りかぶって、彼のつややかな頬を思い切り殴った。できれば当たり所が悪くて死んで欲しいという願いを込めて。

 川原は不意の一撃に対応できなかったのか、無様に倒れた。

「……痛ェな」

 体を起こしながら、川原はそれでも笑っていた。

「言えよ。何でだ。どうして余計なことをした……っ!」

 川原は倒れているので、いつもとは逆に僕が見下していた。

「ちょっと事情があってな」

「……っ! ふざけるなっ!」

 僕は屈み、川原の胸元を掴む。川原は、まったく懲りていない風に肩をすくめて、言う。

「本当なんだ。仕方ないだろ?」

「仕方なくなんてあるか……っ! お前のせいで、皆が……!」

「皆が、なんだ?」

 急に、川原の目が細くなった。ふざけた笑いが消えて、真剣な表情になる。

「皆が、どうした?」

「迷惑だ! そんなのことも分からないのか!?」

「そうか。迷惑か」

 川原は、また笑った。今度は、僕を罵るように……嘲るようにして。

「何が、おかしい?」

「〝皆〟って、誰だ? 友君か? 大門か?」

「当たり前だ! 皆は皆だ! 文芸部員だよ!」

 川原は少し声のトーンを落とした。

「……俺が部会をサボった日、な。アメリアとデートする予定だった」

「だから、何だッ!」

「落ち着け、デートする予定だったんだよ」

 こいつは、何を言っているんだ?

「友君の病院に付き添ってた」

「友、の?」

「ああ。ついでに、友君と色々話し合ってた」

 そういえば。この前の部会は、友も川原もいなかった。

 前々から考えていた疑問が繋がる。ということは、まさか――

「……浮気相手、友だったのか?」

 しかし、先輩は苦笑した。

「どうしてそうなるんだ。友君には一年前に告ったけど、〝好きな人がいる〟ってとっくにフラてれるよ。それからはずっと先輩後輩同士の関係だ」

 川原は肩をすくめて、少し寂しそうに言った。

 手を出さないのではなく、既に手を出そうとした後だったのか。ようやく疑問が氷解した。

 特に友とぎくしゃくしていなかったのも、川原の垣根を作らない性格のなせる技だろう。

「けれど、フラれたのをきっかけに色々話すようになってな。それで、たまに友君の相談に乗ってたりしてたんだ。どうなろうと、友君は俺の可愛い後輩だ。

 あの日は腱鞘炎のことと……友君の家庭のことを話し合ってた。そのせいでアメリアのデートすっぽかしちまったけどな。一日すっぽかしただけで浮気扱いとか、ひどいよなぁ」

「……一体、何を」

 ドクン。心臓が高鳴って、僕は掴んでいた川原の胸元から手を外してしまった。

「ヒロ。友君の家、行ったことあるか」

「……家の前なら、ある」

「何か、おかしなことなかったか」

「ない、……いや、あった」

 友が家に入ったあと、何かの割れる音がした。しかし、あれが一体何を――

「友君は、毎日一二時間絵の練習してたから、腱鞘炎になったらしいな」

「……ああ」

「どうして、毎日のようにそんなことしてたか、分かるか?」

「……暇だったんじゃないのか」

「ははは! お前は面白いやつだなぁ、ヒロ」

 ちっとも面白くなさそうに川原は笑った。

「友君の両親な。離婚寸前なんだそうだ」

「――は?」

 気づけば。反対に僕の胸元が、川原に掴まれていた。首が絞まって苦しい。

「毎日毎日喧嘩が絶えなくて、聞きたくないからあんまり家に帰りたくないんだそうだ。だから、毎日図書館に遅くまで残ってるんだそうだ。……暇だった? ああ、確かにそうだったんだろうな、友君には絵を描くしかなかったんだからな!」

〝男女が結びつくには、愛が必要だとは思いませんか?〟。そんな友の声が脳裏に浮かんだ。

 僕の体が、川原に持ち上げられた。つま先が浮く。

「お前。友君のこと、ちゃんと見たことあるか」

「見て……た。でも、腱鞘炎に、なったのは、悪かったって、思って――」

「オリジナル同人のイベントのときだ! トイレから帰ってきた友君の目は、赤かった! それに気づかないでか!? フラれた俺よりも見てないってのは、どういうことだよっ!?」

「……ぁ、」

 苦しい。息ができない。

 だが、それは何でだ? 川原に掴まれているからなのか? それとも、

「大門だってそうだ! いつもあいつは怯えてた! 本当は、あいつはゆっくり付き合ってやるべき奴なんだ! 突然前に出されて、対応できる人間じゃない! だから、怯えて怯えて、怒られたくないからほとんど友君と同じくらいの努力を続けて! それで寝不足だ! その結果生じたミスだ! 誰のせいだ!? 誰のせいだ!!」

 大門。目元にあった大きな隈。

 いつも、話しかけられるたびに震えていた大門。僕の言葉に黙って従っていたのは、怒られたくなかったから?

「ヒロ! 答えろ! お前は何を見てた!? 友君と大門の、何をっ!」

 気が遠くなる。なのに、心臓の激しい鼓動が、僕の意識を活性化させる。

 ――見てるわけ、ないじゃないか。

 僕は最初から、文芸部の奴らを道具だと思っていた。だから、僕に逆らうのなんて論外だ。

 僕は関係ない。悪くなんてない。僕は総て正しかった。指示に従わない奴がアホなんだ。勝手に故障する奴がアホなんだ。

「お前の行動は、俺たちの本を破いた咲と、何が違う!?」

 ――そう、言われて。目の前が暗くなった。

 痛かった。しかし首もとはもう感覚がない。

 痛いのは胸だった。キリキリと、千枚通しで突き刺されているような。

 違う。そう答えたかった。

 違う。そう答えられなかった。

 何が違うというのだろう。何を違うと答えられるのだろう。

 僕は――――


「部長! やめてください!」


 悲鳴にも似た声がして、僕は川原の手から解放された。

 重力に縛られて、地面へ尻から落下する。

「……っげほ、げほ。……けほっ、げほ……」

 あと一歩で意識を失う寸前だった。体内に新鮮な呼吸が入ってくる。

「……友、君」

 川原が、ドアのほうを振り返って呟いた。

 パンダパーカーの少女。平松友が、そこに立っていた。

 彼女は、頭からパーカーを被っている。まるで、この世総てから自分を覆い隠すようにして。

「事情はどうあれ。部長が、アメリアさんと喧嘩をし、私たち文芸部に不利な行動をしたのは、確かです。……私が無理をしすぎたせいで、部誌に参加できなくなったのも、確かなのです」

「友君っ! それは、違う!」

「総て、私のせいです。私が、悪いのです。……私さえいなければ、よかったのです。

 もう誰にも、――争いなんてしてほしくなかったのに!」

 友はそのときだけ、想いを吐露するように叫んだ。だがその声はすぐ空に溶け、泡と消えた。

「違うっ! そんなこと言うな! 友君!」

 友は、もう川原の言葉には答えず、ただ首を振った。哀しくなるほど、ゆっくりと。

「ヒロ、さん。一つだけ、言わせてください」

 起き上がるのさえ面倒だった僕は、首だけ向けて友を見た。

「私、咲さんが、ヒロさんから離れた理由、分かっちゃったかもしれません」

「え……?」

 何を言っているのか分からず、僕は聞き返した。

「考えても見てください。咲さんは、オリジナルで描いているのでしょう? それなのに、どうしてわざわざジャンル研究をしに、即売会に来たんでしょうか? ……どうして、頑なにプロデビューを拒んでいるんでしょうか?」

 友は、にっこりと笑った。そのまま踵を返す。

「……この前の絵師さん、とても上手い方ですし、私の絵柄に似てましたから。それを、〝友が描いた〟と偽れば、いいんじゃないでしょうか」

 その姿が、やはり咲に被って。

 僕は何も言えずに、友が去っていくのを見ていた。

 友がいなくなり、静寂だけが残った。

「……分からなく、なったんだよ」

 立ちつくす川原が、僕に一瞥もくれずに言った。

「俺も、あの咲と同じことをやってるんじゃないか、って。俺はアメリアの心に惹かれたはずだった。でも、本当にアメリアが好きで付き合いはじめたのか? コネと体のためじゃなかったか? ヒロに指示されれば、一〇〇〇部売るための道具として付き合っていたんじゃないか――そう思ったら、急に怖くなった」

 何かをこらえるような、それは掠れた声だった。まるで、泣いているような。

「認めるよ。ヒロは正しかったよ。俺は間違ってたよ。お前は違うって真っ正面から言ってくれた。俺の馬鹿さを教えてくれた。感謝してる。感謝、してるんだ。

 ……けど、やっぱおかしかったんだ。何かが、違ってたんだ。やっぱり、ダメだったんだ」

 川原は僕に顔を見せようとしなかった。ただ、揺れ動く背中が、血を吐くような声を届ける。

「……ありがとな。楽しかったよ」

 そうして川原は、去っていった。

 僕は、一人取り残された。


* * *


 終わりだった。

 川原は去り。

 友は消え。

 そして大門も、僕から離れていくだろう。


 屋上の地面に倒れたまま空を見ていると、チャイムが聞こえた。二限終了のものだろう。

「昼休み……」

 僕は埃を払いながら立ち上がった。体中が重く、だるい。まるで血に鉛が流れているようだ。

 それでも、行かなければ。

 大門を探し出して、文芸部は終わったのだと伝える。

 それが、僕の最後の役目だ。

 まだ指導者面をしている自分に苦笑しながらも、僕は屋上を出た。


 部室の重いドアを開けると、大門はそこにいてくれた。

「あっ……」

 僕が入ってくるのを見るなり、何かを鞄の中に隠した。あれは……紙だろうか。何か書いていたようだ。

「大門。今日は伝えなきゃならないことがある」

「……少し、いい?」

 と。僕が話を始めようとするのを遮って、大門は言った。

「……前の、炎上の件。やっぱり、ちゃんと、謝罪した、ほうが、いいと、思う、んだけど」

 奇しくも、大門の行動は川原の言った通りだった。

 僕が怖いからだろうか。それともただ、彼が異様に臆病なだけなのだろうか。大門はまだ、〝今後のこと〟を考えようとする。

「もう、それはいいって言ったよ。大門はしばらく休んでくれ」

「…………」

 大門は口を閉ざした――のではなく、唇を噛んでいた。

「……いや、だ」

「え?」

 前髪の間から、綺麗な光を宿した瞳を覗かせて。僕を、真っ直ぐに見た。

「やりたいんだ。何か、やらなきゃダメなんだ。ボクは、このままじゃ終わりたくない。自分のミスを放置したまま、元のボクに戻りたくない……」

 途切れ途切れではなく。腹の底から出された、確かな言葉。

「……なんでだよ?」

 そう言い返した瞬間、僕の中で何かが切れた。

「なんで! そんなに必死になるんだ! こんなクソみたいな部活で! 僕みたいなくだらない奴に付き合って! 言われるがままに動画作って! それで失敗したから、責任を感じて罪を償うってか!? 大門! お前に意志はないのか! 自分の意志はどこにあるんだ! お前は、それでいいのかっ!」

 言っていて、気づいた。

 そうか。僕は、大門に責めて欲しかったんだ。常に何も言わずに僕に従ってきた大門なら、放つ刃は的確に切り裂いてくれるだろう、と。

「いいよ」

 しかし。至極あっさりと、大門は言った。

「……昔、いじめられてたんだ」

 それは辛い告白だった。だが、大門は逃げずに、僕に自らの傷を打ち明けてゆく。

「だから、人が怖かった。怖くてしょうがなかった。でも――これじゃダメだって分かってたから、文芸部に入って。みんなはボクに、普通に接してくれた。初めて居場所ができたんだ」

 大門は、震えながら部室の前でうろうろしていたのを、川原先輩が半ば強制的に引っ張って入部させたらしかった。

「それに、嬉しかった。ヒロに、褒めてもらえて。初めて、ボクの細かいこだわりに気づいてもらえた。……今までは、気づいてもらうのを待つだけだった。そんなんじゃ一生変わらないって分かってるのに。

 でも、ヒロはこんなボクに、大事な役割を与えてくれた」

 本当に嬉しそうに、大門は言った。

「部長と、平松と、喧嘩したんでしょ?」

「……そう、だよ」

「ボクは、ヒロについていくから」

 やめろよ。やめてくれよ。嫌なんだよ、そういうのは。

「それに。皆、同じ気持ちだと思うけど」

「……そんな、わけ」

「あるよ」

 大門は首を振って、僕に何か差し出してきた。

「さっき平松が来て、置いていった」

 A4の封筒だった。中はずしりと重い。何か入っているようだが――

「少なくとも平松は、ヒロを憎んだりなんかしてない」

 僕は、震える手で受け取って、その封筒を開けた。

 その中には、


〝――私、ヒロさんの作品、好きですよ〟


〝Witch is night〟と書かれた、同人誌が、三冊入っていた。

 三年前。僕が咲と一緒に出した、同人誌。

 瞬間、記憶がフラッシュバックした。

 即売会。年齢を誤魔化して参加したイベント。

 同年代の、高校生くらいの女の子が、わざわざ買いに来てくれた。

 次に参加したイベントで、二冊目も、三冊目も買ってくれた。

 その子は――

「…………あ、はは」

 顔が熱かった。大門が黙って僕を見ている。

「友、だったんだ」

 僕は、そのまま机に突っ伏して泣いた。

 複雑に絡まった気持ちを、総て吐き出すようにして。


* * *


 泣き終わると、もう三限が始まる時刻だった。

「大門」

 大門はまだ部室にいてくれた。自分の泣き顔を見られたのは恥ずかしかったが、それでも僕は素直に言うことができた。

「ありがとう。お前がいてくれて、よかった」

「……どう、いたしまして」

 大門は、ちらりと笑みを浮かべた。

「もう、何もするな、なんて言わない。大門が信じることをしてくれ」

「分か、った」

 僕は立ち上がった。同人誌を三冊、大事に鞄にしまって。

「行くの?」

「うん」

「頑張って」

「ああ」

 大門の激励を受けて、僕は部室を出た。

 何をするべきかなんて、考えても分からなかった。

 だから、何も考えずに動こうと思った。


* * *


〝彼女〟の両親は、僕をよく覚えていてくれた。そりゃ、毎日のように家に来て、創作活動をして帰っていく子供を忘れるわけないだろうけど。

 同窓会の葉書を出したいんですと適当に理由付けして住所を聞いたら、快く教えてくれた。

 場所は池袋駅から徒歩一〇分ほど歩いた場所にある、アパートだった。

 ついたのは午後七時。人を訪ねるにしてはやや遅い時刻だ。それでも、躊躇はなかった。

 二〇三号室の前に立ち、チャイムを押す。部屋の主は、すぐに現われた。

「……あなた」

「ひさしぶり。――咲」

 驚いた顔をした、

 日下咲だった。


 咲は、僕を部屋の中にあげてくれた。

 女の子の部屋という感じはせず、漫画家の仕事場を見ているようだった。部屋の中央には小さな机があるが、それは食事用だろう。別に、部屋の右隅に作業用らしき大きな机があり、そこにはスペックの高そうなデスクトップパソコンが乗っている。机には他にも大きめのペンタブも置かれていたが、最近描いていないのか、若干埃を被っているようだった。

 壁には本棚が二つ並べられていて、中にはぎっしり本が詰まっている。それは背景写真集であったり、絵の教本であったり、経済学の専門書であったり、医学書であったりした。

 エントロピーがすぐさま増大しそうな物量だというのに、理路整然と片付けられていた。咲らしい部屋だな、と思った。

 中央のテーブルを挟んで、僕と咲は座った。クッションなどは敷かない主義なのだろうか、咲は地のままで床に正座している。

 咲の服はいつも見るゴスロリ調ワンピースだった。家でもその格好らしい。

「何の用?」

 刺々しくはなかった。ただ、氷のように鋭い声だった。

 彼女の怜悧な瞳で見られると、逃げたくなった。僕の体が小刻みに震えているのは、咲ならとうにお見通しだろう。

 僕は太ももの内側をぎゅっとつねり、痛みで意識を覚醒させながら――咲を見返した。

「文芸部が、崩壊しそうだ。皆と喧嘩したよ」

「……だから?」

 何ら興味もなさそうに、咲は長い髪をさらりとかきあげた。

「恩赦をくれ、とでも言うつもり? 夏コミで本は出せないけど、頑張ったからって?」

 そうか、そういう手段もあったなぁ、と僕は今更ながら気づいた。今から咲に土下座でもして泣きつけば、許してもらえるのだろうか。

「赦さないわ。あの友って子が私にした侮辱は、何事にも変えがたい屈辱よ。一〇〇〇部売れなかったら、私は徹底的に貴方達を潰す。特に、あの友って子はね」

 どうやら泣こうが喚こうが無駄だったらしい。

 まあ、それはそれで、いい。

「それとこれとは別だ。僕は夏コミで、まだ君と戦うつもりでいる」

「……ふぅん?」

 咲は片眉を上げた。

「それじゃ、一体何の用なの?」

 僕は、太ももを強くつねった。

 言え。言え。畏れるな。勇気を出せ。――言うんだ!


「僕に一枚、絵を描いてくれないか?」


 長い沈黙があった。

 笑われるかと思った。腹を抱えて、嘲笑されるかと思った。

「……どういうこと? 同人誌に私の絵をつけるつもり?」

 しかし咲は、確かな知性を瞳に持たせたまま、聞き返した。

 僕は首を振った。

「違う。同人誌は関係ない。文芸部のことも、多分関係ない。僕の自己満足なんだ」

 咲は、にこりともせずに言う。

「私が、描くと思う?」

「思う」

 即座に言った僕に、咲はさすがに驚いたようだった。

「どうして?」

「……理由は分からない。でも、友の言う言葉を、信じてみたくなったんだ」

 咲が僕から離れた理由が分かった、と彼女は言っていた。昔の僕を知っている彼女が、だ。

「嫌よ」

 咲は僕より鋭く、なおかつ重い声で言った。

「一応、原稿だけ見てくれないか」

 僕は、鞄の中から封筒を取り出して机に置く。

 咲は乱暴に封筒をひっくり返した。

 中から出てきたのは、四冊の同人誌。

〝Witch is night〟三冊と。

「……これ、は」

 ついさっき、プリンターで印刷してホチキスで止めただけの、〝Witch is night〟完結編だ。

 僕が咲に見せることなく、没にした原稿。

「読んでみてくれないか」

「…………」

 咲は、完結編をじっと見詰めた。無表情だったから、何を考えているのかは分からなかった。

「思い出したんだ。僕は、売れるために同人誌を作り始めたんじゃ、なかった」

「……〝面白ければいつかは売れてくれる〟なんて、言うつもり?」

 訝しげな咲に、まさかと僕は肩をすくめる。

「学んだ価値観を捨てるつもりはないよ。売れなけりゃ読んでもらえないんだから」

「じゃあ、どうするの?」

「決まってる」

 次の言葉を言うときだけ、僕の体の震えは止まって。

 真っ直ぐに咲を見ることができた。


 僕は、それを咲に言った。


* * *


 咲は無言で原稿を受け取った。読むとも捨てるとも言わなかった。

 特にそれ以外に用はなかったので、僕は彼女の家を出た。

 僕は妙に落ち着いていた。


 家に帰り、考えていた。

 パソコンでbudと世間話をしながらも、ずっと。

 僕が持っていたもの。僕が持っているもの。

 それは、一体何だろう、と。


 昔使っていたメールアドレスに、咲からメールが届いたのは、深夜二時のことだった。


* * *


 翌日の放課後。

 僕は、友に会えないだろうかと電話をした。

 友は数十秒ほど躊躇った後に、了承してくれた。

 彼女は今病院にいるらしく、待ち合わせはその近くになった。


 夕方。

 病院の近くには、ちっぽけな公園があった。あるのはベンチと砂場だけ。ただ、子供が走り回って遊ぶための、空っぽの場所。

 周囲に植えられた木々には夕日が注がれて、金色に光り輝いている。

 友は約束の時間である四時になっても現れなかった。

 僕は待った。一〇分経った。来なかった。でも待った。

 三〇分後に、ようやく友は来た。

「……怒って、帰ってくれないんですね」

「当たり前だよ」

 夕日を浴びながら、友が公園の入り口に立った。ちょうど僕からは逆光になっていて、顔は見えなかった。

「……私は、文芸部には、戻れません」

 僕が何も言わないうちに、友はそう呟いた。強く、重く……哀しげな声だった。けれど、確かな決意が感じられる声だった。

「友」

 僕は友へと歩み寄る。それを見て、さっと僕から彼女は後退った。

「読んで欲しいものがある」

 僕は、鞄の中から分厚い冊子を差し出した。

「友に読ませられなかった、本だ」

 それは、僕が自宅のプリンターで印刷した文章を、ホチキスで留めて――更にその上から、咲が描いてくれた表紙を貼り付けた、〝Witch is night〟完結編、完全版だった。

「…………」

 友は言葉を失い、本に目を奪われていた。

「……咲、さん……の……?」

「そうだよ。友に読んで欲しくて、頼んできた」

 友は、長く躊躇っていた。だが、一歩踏み出した。

「新刊、一部……おいくら、ですか」

 少し茶目っ気のある声だったので、僕は笑い返した。多分、自然に笑えたと思う。

「お金はいらない。ただ、僕と一緒に本を作って欲しい」

「……どんな本を?」

 僕は言った。咲に言った言葉と、同じようにして――


「めちゃくちゃ面白くて、めちゃくちゃ売れる本」


「……ぷっ、あははははっ!」

 友が、大声で笑いながらもう一歩踏み出して。

 逆光が消えて、彼女がぼろぼろ涙を流しているのを、見た。

「〝愛〟を込めよう。友がこめられるだけの、とびっきりの愛をさ。……面白すぎて、友の両親が離婚をやめるくらい、とんでもないやつだ!」

「はい、……はいっ」

 友は、泣き笑いしながら、頷いた。

 そうして彼女は、僕の手から、〝Witch is night〟を受け取ろうとした、そのとき。

 強い風が吹いた。

「あっ!」

 ホチキスで止められただけの、間抜けなほど簡単な力で押さえられていただけの冊子は、その瞬間ばらばらになって、空に舞い上がった。

「ああああっ」

 飛び上がり、夕日の光を受けて輝く紙片を見ながら、僕はどこかデジャヴを感じていた。

 ……そうか。〝Witch is night〟は、まだ完成なんかしてなかった。

「な、何と言うことを……私は……っ」

 風はすぐ止み、紙は公園から出ていくことなくぱさぱさと地面に落ちたが、四方八方に飛び散ってしまった。

 友は顔を俯かせて落ち込む。

「いいんだ、友」

「え?」

 僕は地面に屈み、落ちた一ページ目を拾いながら。

「もう一度、一枚一枚、集めていけばいい」

 友は、少しだけきょとんと目を丸くしたが、すぐに、

「はいっ」

 頷いて、紙を拾うのを手伝ってくれた。


 二〇分ほどかけて、ようやく全部のページを回収できた。

 ぼろぼろで、砂だらけになってしまったけれど。

 僕は友に本を手渡して、彼女も泣きはらした笑顔で受け取ってくれた。


 このとき。初めて〝Witch is night〟は完成して。

 僕はようやく、一歩目を踏み出せた。

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