三章
翌日。再び僕は部員を部室に呼び出した。今は春休み中だが、夏コミまでほぼ毎日のように呼び出すつもりでいた。
僕は元川原先輩の席である部室の上座に立つ。代わりに先輩は僕の対面、入り口側の下座だ。
「それじゃ……まずは、読んでもらいたいものがあります」
そう言って、僕は同人誌を三冊取り出して、机の上に置いた。
「咲――〝奈糸〟が描いた同人誌です。読んでみてください。短編を選んで持ってきたので、すぐ読み終わると思います」
まず最初に手を伸ばしたのは友だった。次に大門、最後に川原先輩。
「なん……なんたる……なんたる……っ」
二分ほどした後、友がぼろぼろ涙をこぼしていた。どうやら感動しているらしい。
「……うぉ、これは」
仏頂面で読んでいた川原先輩からも、声がもれた。
大門は何も言わずに読みふけっている。が、ページをめくる手は止まっていない。
〝フロンティア〟主催、咲こと〝奈糸〟。絵柄にクセはなく、実直で読みやすい。しかし、大胆な構図と緻密な書き込みで、独特な世界観を構築していた。
特筆すべきは絵の実力だけではない。描く物語は練られた設定、多数に張り巡らされた伏線、予想を裏切る展開、そして衝撃のラスト――読者は息をするのも忘れてのめり込む。
咲の描く物語は、〝ダークファンタジー〟と言えるだろう。どこかおどろおどろしく、起こりえるのは悲劇と悲愛ばかり。だが、何も救われないはずなのに、だからこそ引き立つ退廃美は、人を強く惹きつけた。
「あらためて認識して欲しいのですが、こんな作品を描いた人に、僕たちは喧嘩を売ったのです。咲はその本を、一日で四桁売りました」
驚いたのは友だけだった。大門と川原先輩にはそのすごさがよく分かっていないらしい。
〝これだけ面白いんだから当たり前だろう〟――そう思っているのだろうが、大間違いだ。
「非成人向けで、しかもオリジナルです。分かりますか? 活動してるのはある意味僕たちと同じジャンルです。コミフェで、もっとも読まれにくい分野で同人誌を四桁売り、壁サークルとして出続けているんです。
覚えてますか? 咲が冬コミで何と言ったか。〝午前中で完売しちゃったから、暇つぶしに歩いてた〟――です。咲はこういう本を、午前中で完売させたんです」
これだけ言えば伝わったようで、川原も大門も驚きに目を見張っていた。
「いくつもの出版社からプロデビューの話が来ているようです。……あくまで噂なんですが、ありえない話ではないとは分かるでしょう。何故かデビューを拒んでるみたいですけど」
「……天才じゃないか」
ぽつり、と川原先輩が言った。
「先輩。それは違います。この世には天才なんていません」
「何言ってんだ。悔しいけど、めちゃくちゃ面白かった。こんな面白いの、天才にしか……」
「咲は、小学生の頃から毎日絵を八時間描いていました」
「はちっ!?」
先輩が裏返った声で驚いた。
「八時間です。小学校からずっと、おそらくは今も。彼女は絵と漫画を、描き続けていました。
中学に入ると、僕と一緒にストーリーラインの作り方を学びました。大体二人で教本を五〇冊は読んだでしょうか。絵の練習とは別の時間に、です。
絵が上手くて、話が面白いのは、総て彼女の努力です。断じて才能などではありません」
ぐ、と先輩は黙った。
才能などこの世に存在しない。才能と読んでいいものは、例えばバスケをするときに高い地点まで手が届く高身長とか、野球でスプリットフィンガード・ファストボールを投げられる指の長さとか、そういうものだけだ。
「ただ、別に咲との実力差に絶望しろ、と言いたい訳じゃありません。ここで言いたいのは」
僕は笑みを作った。
「どんな相手でも努力と戦術で何とかなる、ということです」
一端話を区切り、間を空けてから僕は再び口を開いた。
「イベントに出て知名度をあげようとした先輩の方法は、決して間違っていません。なので、僕たちも夏コミまでに、色んなイベントに出続けます」
「けど、どうするんだ? 小説オンリーイベントなんて、夏コミ前にはなかったぞ」
先輩がすかさず口を挟んできた。
そう。小説オンリーイベントは、もうしばらくない。
ない、が――なければ別のイベントに出ればいいじゃない。
「再来月……四月の上旬にある、このイベントに出ようと思います」
僕は、イベントのポスターを皆の前に差し出した。
* * *
それから僕は、部員全員に様々な指示をした。
書く内容は日常コメディがいいこと。決してシリアス要素は入れないこと。
川原先輩はコメディなんて書けないと不満をたれていたが、僕が大量の資料を突きつけて勉強しろと言うと黙った。無論それだけでは不親切なので、僕もギャグのネタ出しを手伝った。
冒頭のインパクトと一目で分かるコンセプトの面白さを入れること。小説本なんて、長い間立ち読みはできない。ゆえに、三〇秒以内にこの本が欲しいと思わせなければならない。
大門はその辺りを解していないようで、冒頭から世界観の説明なんて入れていたが、僕は心を鬼にしてダメだと断言した。
そして、とにかく大衆に受けるのを目指すこと。読んでいて気持ちいいシーンだけを詰め、犯罪とか陵辱とかそういうネガティブな要素は一切入れないこと。
……なので、友の言う〝愛〟を込めるのも禁止。彼女に本気を出させるととんでもないことになってしまうので、あらかじめ先手を打っておいた。友はだいぶ不服そうにしていたが、理由を話すと何とか納得してくれた。
そして、二ヶ月後――
* * *
先輩は三年生に、僕と友と大門は二年生に進級した、四月四日の日曜日。
「……〝ばくおん〟、ねぇ」
川原先輩が眉をひそめながら呟いた。
僕たちはJR蒲田駅に来ていた。この近くにある、大田区産業プラザPioという建物でイベントが開催される。
行われるのは、〝ばくおん!〟オンリーイベントである。言うまでもないがばくおんに関する本を作るイベントで、オリジナルの同人誌を出す場所ではない。
ばくおんイベントは二月に浜松町で開催されたばかりだが、それとはまた別のイベントだ。人気作品だと、数ヶ月に一回オンリーが開催される場合もある。
川原先輩は、明らかに釈然としなさそうな顔だった。この二ヶ月で耳が腐りそうなほど理由を説明したのだが、まだ納得してくださっていないらしい。
まあ、ついてきてくれただけましと思うことにしよう。
メンバーは僕と先輩、そして友だ。少し後ろを歩く友は、どこか眠そうにしている。
今は朝九時。明らかにサークル参加者と分かる人たちが、歩道をぞろぞろと歩いている。おそらくは一般参加者もかなりの人数になるだろう。
僕たちが、オリジナルの同人イベントではなく、パロディを描く〝ばくおん〟オンリーに出た理由は四つだ。
一つ。今期のアニメが大当たりし、今一番勢いのある作品だから。
二つ。原作はライトノベルであり、そこからアニメ化ゲーム化と発展していったので、少なからず小説好きの需要が存在するから。
三つ。オリジナルよりも、パロディのほうが手っ取り早く売り上げに直結するから。
四つ。咲は〝小説本を一〇〇〇部売る〟としか言っておらず、別にオリジナルである必要はないから――だ。
建物につくと、自動ドアをくぐってロビーへ。すぐ左手に、会場に続く大きなドアが開け放たれていた。
そこは浜松町の建物よりも広かった。小学校の体育館という例えを使えば、横に二つ分はあるだろうか。天井もビル三階分はあろうかというほど高い。机が見渡す限りに並んでいる。
スペースは〝い〟の25。向かって右手だ。
一八歳未満立ち入り禁止と書かれた仕切りを越えて、僕たちはスペースへと向かった。
机の上に、〝い 25 サウザンド〟と書かれたシールの張ってあるスペースへ入る。
ちなみに、〝サウザンド〟とは僕たちのサークル名だ。〝中明大学文芸部〟なんて、素人集団丸出しのサークル名では確実に人を呼べないので、改名した。一〇〇〇部売らなければならないから、〝サウザンド〟。命名は川原先輩である。
机の下に、印刷所から届いた箱が置かれていた。
机に載った大量のチラシをどけつつ、僕は鞄からカッターを取り出して、箱を開けた。
中に入っていたのは、平松友渾身の一枚――〝ばくおん〟のキャラクターの全裸体が表紙に描かれた、B5本だった。
当然、成人男性向け同人誌である。
理由はお分かりだろう。非エロより、エロのほうが売れるからに他ならない。
「…………」
川原先輩と友、その二人から息が漏れた。前者は一八禁に頼らざるを得なかった情けなさを嘆いてか、後者は自分の描いたエロ絵を見られることを恥ずかしがってか。
「わ、私、着替えてきますね」
顔を朱に染めつつ、そそくさと友はスペース内から出て行った。
「それじゃ先輩、設営しましょうか」
「……ああ」
先輩の声は低く、機嫌がお世辞にもよくなさそうだった。
これは仕方ない。割り切ってもらわなければ。
* * *
『本の主役は、これから友の絵になります』
二ヶ月前。僕が部員の前でそう言い放つと、みんな驚きの表情を浮かべた。
そういえば、先輩と大門は友が絵を描けることを知らないのだった。
『ちょっと待った!』
先輩が挙手をした。が、僕はそれを遮った。
『友は絵が描けます。最近僕も知ったばかりですが、実力はそれなりにあります。……まさか今更、絵をつけることが邪道だ、なんて言いませんよね?』
先輩は黙った。
僕は改めて友に向き直る。
『これから友には、流行の絵柄、キャッチーな絵柄を学んでもらう。資料をたくさん持ってきたから、まずトレスして流行を掴んでくれ』
僕は鞄に詰めてきた漫画や同人誌を、どさどさと友の前に積んだ。その量は一五冊ほど。中にはエロ同人や商業エロ漫画も含まれていたが、まあ友なら問題はないだろう。たぶん。
『一日八時間、とまでは言わないけど、起きてるときはできる限り絵を描いて欲しい。退屈な授業中、放課後、寝る直前……創作の実力は、えてして質より量で決まるから』
それから、と僕は続ける。
『〝pixi〟ってサイトを知ってる? イラストのSNSサイトなんだけど、絵を描いたらそっちにもアップして欲しい。やり方が分からなければ後で説明するよ』
ピクシィは、絵師として活動していく上で、避けて通れないサイトだ。おそらく今、ネット上で人が一番集まるイラストサイトだろう。登録制のSNSサイトで、有名絵師が多数いて活気があるので、閲覧者も多い。絵師として名を上げるには手っ取り早い場所である。
『…………』
友は黙った。
あっさりと言ったものの、それが簡単ではないと僕にも分かっている。やはり、きつかっただろうか……?
『……分かりました、やります。私、時間ならありますからっ』
と、彼女は頼もしく頷いてくれた。
『ありがとう、よろしく友。……それから友以外にも、作品執筆とは別にやってもらいたいことがあります』
僕は、先輩と大門を見て、作戦の説明を始めた。
* * *
イベント開始四〇分前。
「ふぅ、お疲れ様です」
僕と先輩で力を合わせた結果、思ったよりも早く設営は終わった。
「なかなかサマになるもんだな」
体を動かしているうちに機嫌が直ったのか、先輩はいつもの表情に戻っていた。
まず、机にはテーブルクロスを敷く。そのまま置くよりは本が目立つし、大きめのテーブルクロスにして前面に垂らせば、机の下に置いた荷物を隠すこともできる。
また、机の前面にはポスターを貼った。友が描いた新刊の表紙を引き伸ばして、A1サイズにしたものだ。局部は隠しているが、肌色多めの絵なので、通りかかる人の目をかなり惹くはずだった。
机の上も、ポップやスケッチブックなどで飾り付ける。
「こんにちはー。〝レイダー〟さんはいらっしゃいますか?」
と、僕たちのスペースに見知らぬ女性がやってきた。
歳は二五、六と言ったところだろうか、僕や先輩より少し年上だ。ロングヘアーの、目鼻立ちの整った、綺麗なお姉さんだった。スペースの雰囲気が華やいだ。
イベント開始前に会場内にいるということは、間違いなくサークル参加者だろう。
「あ、レイダーは俺です」
と、先輩が僕をのけて前に出た。
「初めましてー。〝アメリア〟です。いつも感想ありがとうございます」
「あ、アメリアさん!? いやー、どうもすみません! わざわざ来てもらっちゃって!」
さっきの不機嫌はどこにいったのか。美人を目の前にして、先輩は驚くほど明るくなった。
「ついにレイダーさんも同人デビューですか。一体どんな本を……って、エロ本でしたか」
「どうっすか、結構いい感じに使えると思いますよコレ」
「何に使うんだい、何に」
はははは、と笑い合う二人。
……僕は素直に感嘆していた。どうも、先輩の能力を過小評価しすぎていたようだ。
まさか、二ヶ月のうちに下ネタを言い合えるほど仲良くなれるとは。
* * *
『営業ぉ?』
二ヶ月前。僕は、川原先輩を大学のパソコン教室に連れてきていた。
『はい。先輩には営業をしていただきます。といっても――』
僕はパソコンを示しながら、言う。
『活動してもらうのは、主にネット上です』
ログインすると、ブラウザを起動、とあるサイトにアクセスする。
『……ツウィッチ?』
僕が画面を示すと、先輩は不思議そうな声を出した。
表示されたのは〝Twitch〟というサイトだ。
〝Twitch〟は、主に一四〇字程度の「呟き」で構成される。自分専用のページには、自分の投稿と、自分がフォローしたユーザーの呟きが表示される。
呟き自体は不特定多数のユーザーに対してのものだが、特定の人に向けてのメッセージを送ることもできる。
『これからツウィッチには、〝サウザンド〟の公式アカウントを作りますが――それとは別に先輩もアカウントを作って、他の同人作家と仲良くなってください』
『……は?』
先輩は目を点にさせた。
『ツウィッチには大手から底辺まで同人作家がいます。その人たちに取り入って、コネを作って欲しいんです』
それから、僕は別のサイトに移動する。〝ximi〟という別のSNSサイトだ。
『今はもうツウィッチが主流ですが、〝シクミィ〟もまだやってる作家がいっぱいいますし、その他にもいいSNSサイトはたくさんあります。あとで僕がサイトと手頃な作家をリストアップしておきますので、先輩はそれを見て〝営業〟してください』
先輩は、幾人もの女性と同時に付き合っていた。それだけ様々な女性をオトせるということは、人の心に取り入るのが上手いということだ。
直結はできないだろうが、コネ作りにも応用できるはず……と、僕は考えた。
『この前先輩のことをさんざんに言いましたが、僕はあなたの能力を信頼してます。今はまだ納得できないかもしれませんが、営業は一〇〇〇部売り上げるために必要不可欠なんです。
人の心がよく見える、先輩にしかできないことです。どうかやってもらえないでしょうか』
『…………』
先輩は、不満げな顔で黙り込んで――
* * *
「はははっ! よければ俺んとこの新刊持ってってくださいよアメリアさん!」
「じゃ、遠慮なく。お返しにこれ、あたしんとこの新刊ね。よければレイダーさんも使って」
アメリアは、持ってきていたらしい新刊を差し出した。
「マジっすか! あざーすっ! んじゃ早速トイレっ」
「おいおい、まだイベント始まってないっつーの」
ぺし、とアメリアが先輩の額を叩く。その遠慮のなさは、まるで初対面とは思えなかった。
「それじゃ、今日はよろしくお願いしますね」
「はい、アメリアさんも頑張ってくださいっす!」
アメリアは僕にも軽く会釈をして、スペースから去っていった。
……アメリア。同人サークル〝友達一〇〇人〟主催者。〝ばくおん〟ジャンル等で活躍する、中堅どころの描き手だ。
僕がリストアップした作家たちの中に入っていた一人である。
「チャーミングだったなぁ。ガサツそうだけどきっと中身は繊細だぜ、あの人」
先輩はしみじみと呟いている。少し気持ちが悪かったが――
「さすが先輩ですね。まさかここまで仲良くなれるとは」
僕は掛け値無しの賞賛をした。彼は、顔も見えないネット上で、それをやり遂げたのだ。
「まぁな。アメリアさん、他の人との会話から、優しくて綺麗そうだって分かったから、速攻で仲良くなった」
「……なるほど」
「同人にもああいう人っているんだなぁ。なんだか楽しくなってきた」
現金、とはこの人を言うのだろう。先輩は満足げにうんうんと頷いている。
何にせよ、動機を固めてくれるのは喜ばしいことです。
* * *
「……も、戻りました」
イベント開始二〇分前。友がスペースに戻ってきた。
「おかえり友、……」
少し、僕は言葉を失った。
「おお! 友君、なかなか似合ってるじゃないか!」
先輩が嬉しそうに言った。
友は今、〝ばくおん!〟キャラの格好――いわゆるコスプレをしていた。作中に登場する高校の制服姿で、真緒というキャラのものだ。
友の黒髪と茶色のブレザーはよくマッチしている。普段変なパーカーを着ているからか、そのギャップもすごい。思わずじろじろと見てしまった。
「……あんまり、見ないでください」
「あ、ああ、ごめん」
友は顔が真っ赤だった。制服のミニスカートの裾を引っ張り、太股を隠そうとしている。
今更ながら僕は、友が可愛いと言える子だったことを思い出した。
……コスプレは友の趣味――ではなく、僕が指示してやらせた。
イベントではとにかく道行く人の目を惹きつける必要がある。スペースの飾り付けが丁寧で、なおかつ可愛らしい売り子がコスプレをしていたなら、人の足を止める確率を少しでも底上げできるはずだ。
そう考えて、僕は唯一の女性部員である友にコスプレを指示した。当然恥ずかしいと断られたが、何とか説得した。
男女差別を助長するようで恐縮だが、女性であるだけで本が売れるのならやるべきだろう。
僕も友も他の部員も、コスプレ道具など持っていなかったので、一から勉強することになった。キャラに真緒という子を選んだのは、ロングヘアーの少女なのでウィッグなどをつける必要がなく、友の地に制服を着れば何とかなるからだった。
しかし、友の出来は予想以上だった。下手をすれば、〝売り子の可愛いサークル〟として評判がつくかもしれない。
「ううう……」
友は今も頬を赤らめていた。
「こういうのもいいもんだなぁ、ヒロ。へへ、やってくれるじゃねえか」
先輩が友を見てうりうりと僕を肘で小突いてくる。酔っぱらった中年のような仕草だった。
そんな彼に、僕はふと疑問に思った。友は、客観的に見て可愛らしい少女だ。
ならば、どうして先輩は友に手を出そうとしないのだろう――と。
……もちろん、そんなこと聞けなかったけど。
* * *
〝――それでは。ばくおんオンリーイベント、『ヘッドバンキング!』、ただいまから開催いたしますっ!〟
スタッフの声がスピーカーから流れ、イベントが始まった。
それとともに、今まで和やかだった雰囲気が一変した。会場のドアが解放され、参加者が雪崩のように飛び込んでくる。
そして、早速聞こえ始める数多の声。怒号、スタッフの指示、呼び込みの声――
スポンジに水が浸透していくように、通路は人で埋まってゆく。あっと言う間に、流れるプールのような絶え間ない人の濁流が形成された。
「……おい、ヒロ。人が来ないぞ」
スペースの前に立つ先輩が、僕を振り返ってそう言った。
彼の言葉通り、参加者は視線こそ送ってくるものの足が止まらない。
「大丈夫ですよ。コミフェと同じで、最初はみんな大手に行くものです。僕たち新米の勝負は三〇分後からです」
「そういうもんか?」
「そういうもんです」
ちなみに売り子は、当然コスプレした友と、あとは先輩にやってもらっている。僕ではなく先輩なのは、彼のほうが顔がいいからだ。
人の価値は顔ではない、という批判が聞こえてきそうだが……同人イベントにおいては中身より外見のほうが重要なのだ、とは再三お伝えしてきた次第だ。当然それは本だけでなく、人にも適用される。
あんまり美男美女を前に置いてもそれはそれで引かれてしまうだろうが、少なくとも先輩は〝親しみやすいイケメン〟程度だと思うので、きっと目を惹いてくれるだろう。
思ったよりもそれは早く訪れた。
開始から一五分後。ふと通りかかった参加者が、スペース前で足を止めた。
「……っ!」
友と先輩が固まるのが、後ろからでも分かった。
僕は二人の隙間から覗き込んで、参加者の姿を見る。その男性は、机に積んだ新刊を手にとって、本の最初辺りを読んでいた。それも、じっくりと。
その理由は成人向けであることもそうだが――本の冒頭はマンガになっているのだ。
* * *
再び二ヶ月前の、部室にて――
本の最初にはまずマンガを入れる、と僕が言ったとき、友は疑問符を顔に浮かべた。
『私たちが作るのは、小説本、ですよね? なのに、どうして漫画を……?』
『漫画のほうが売れるからだ』
『え……でも、私はどちらかといえば小説のほうをよく買いますけど』
『それは友が特殊なんだ。一般的に考えれば、漫画のほうが小説より売れる。これはしょうがないことなんだけど、小説は読むのに時間がかかるし、単価が高い。しかも、絵と違って、ぱっと見上手い下手が分からない。購入者にとって、ほとんど綱渡りみたいな行為なんだ』
だから、と続ける。
『まず読んでもらいやすいように、友の漫画を冒頭に据える。小説を載せるのは漫画の次のページからだ』
『……でも……小説本で一〇〇〇部と言われたのに、漫画なんか入れていいんでしょうか』
『いいんだ。小説だけの小説本を作りなさい、なんて咲は一言も言っちゃいない。小説さえ載っていれば小説本だ。そうだろう?』
『……それは、そうですが……』
友はどこか釈然としない顔だった。
『やれることは、犯罪以外なら全部やろう。そうしなきゃ、一〇〇〇部なんて売れないよ』
そう言うと、友は渋々ながらも頷いた。
* * *
参加者の男性はまだマンガ部分を読んでいる。
勝負は最初の三〇分からだ、と僕は言った。
イベントが開始して一時間ほどは、全体的に狙いを定めて回る参加者が多いため、非常に流れが早い。目に付いたスペースがあっても、後で寄るか、さっと見てぱっと離れる人が多い。
本の冒頭だけさらっと読んでそこがよければ買っていく人も結構いる。
そこで、冒頭のマンガである。この本はマンガ本である、と誤解させられればこちらのものだ。サイズをA5や新書ではなく、一般的な漫画同人誌のB5にしたのもそのためだ。
ほとんど詐欺紛いの手口だが、ただ単純にそんなことをやればリピーターはつかない。
そこで対策として、冒頭のマンガはマンガだけで完結せず、後半の小説部分へと繋げた。かなり強烈な〝引き〟で。ゆえに、マンガ本と誤解して買ったとしても最後まで読まざるをえない――そんな本になっているはずだ。
そして、僕の狙いは的中した。
「一部ください」
「…………っ!」
参加者の男性が、正面を向いて僕たちに言った。
友も先輩も、驚いているのか何も言おうとしない。慌てて僕が二人の背中をつつくと、
「さ、三〇〇円になりまべしっ!」
友が壮絶に噛んでいた。
本はB5三〇ページ三〇〇円と、かなり格安の値段設定にしている。このページ数の同人誌なら相場は五〇〇円だ。
値段を安くするのも、〝騙された〟と思わせないコツだ。赤字だが、コストは今回度外視しているので構わない。
男性は小銭を友の手のひらに乗せて、本を受け取って帰っていった。
「――あ、ありがとうございましたっ!」
友と先輩が、深々と頭を下げる。
そして、同時に僕を振り向いた。
「……う、売れました」
「売れちゃったぞ、おい……!」
二人とも喜びを溢れさせていた。
「ほら、前見てください」
僕は苦笑しながら前を指した。
スペース前にはもう、次の参加者が並んでいた。
* * *
二ヶ月前――
僕は大門を連れて、秋葉原にあるヨダバシカメラへと向かった。
『大門。君には広告を担当してもらう』
そう言うと、大門の目が怯えるように泳いだ。その太った体があからさまに震え出す。
『……ボク、そんなの、やった、こと、ない』
『まあ、そんな複雑な話じゃないから』
ヨダバシの中へ入り、エスカレーターで二階へ。
『大門、パソコンに動画編集ソフトとか、入ってない?』
『……ない』
『じゃあ、パソコンのスペックは?』
大門は少しだけ早口になって、スペックを教えてくれた。……うん、悪くない。
二階、北西のパソコンソフト売場へと向かう。店員に場所を聞きながら、お目当ての棚へ。
『あった』
手に取ったのは、アドベ社から出ている、プレミアムエレメンツとフォトグラフショップのセットだ。前者は動画、後者は画像編集ソフトだ。
アドベ社は、アカデミックパックという、学生が格安で買えるパックを出している。僕はそれを手にとってレジへと向かう。
学生証を見せて学生であることを店員に確認させてから、財布から二万円を出して購入した。
『はい、プレゼント』
『……え?』
ソフトが入った袋をそのまま渡すと、大門は怪訝な顔をした。そりゃそうだ。僕だって男にプレゼントなんてしたくない。
『〝にこやか動画〟って、知ってる?』
『……知ってる』
〝にこやか動画〟。今、ネットをやっている者で、知らない人はまずいないであろう動画投稿サイトである。
『大門には、そこに動画を投稿してもらおうと思う』
『……えっ!?』
予想外の回答だったのだろう、大門にしては珍しく声を裏返らせていた。
『もちろん、適当に作るわけじゃなくて、宣伝のためだよ。流行を掴んで、うまくランキングで上位に食い込めば、不特定多数の人が数万人も見てくれる。すごい広告効果じゃない?』
『……でも、ボク、動画なんて、作ったこと、ない』
僕は大門へ笑顔を向けて、
『ついでに教本も買おうか、大門?』
* * *
「動画観ました! 新作楽しみにしてます!」
新刊を買ってくれた人の中に、そう声をかけてくる人がいた。
……大門は四苦八苦しながら、この二ヶ月で数本、にこやか動画に動画をアップロードした。
にこやか動画では、主に〝MAD〟という、映像や音声を繋ぎあわせて一つの動画にしたものが主流である。その大多数が著作権違反なのだが、著作者側はほとんど黙認している状態だ。
また、瞬きの間に流行が移り変わってゆくのも特徴だ。しかし、その流行に上手く乗れればかなりランキング上位に行く。
というわけで、僕と大門は毎日のように流行を探り、製作する動画について議論した。
今にこやかの流行は、〝アルジャナイ〟というゲームのPVのMADだ。真面目な内容のはずなのに、どこかシュールなので、一気に火がついたのだ。
それを面白おかしく編集したものを、いくつか大門に投稿させた。
まだ大門が慣れていなかったこともあり、デイリーランキングに乗るところまではいかなかったが、投稿した動画はどれも平均して再生数四桁台を達成した。
継続して観てくれている視聴者もいるようで、さっき新刊を買った人はその一人だろう。
「〝番茶〟さんはいらっしゃいますか?」
と――今度は女性の参加者が声をかけてきた。
「あ、はい、私なのですが」
友が答えた。〝番茶〟は彼女のペンネームである。
「〝ピクシィ〟で、いつも絵観てますっ! 頑張ってください!」
その人は新刊を買い、友に握手を求めたあと去っていった。
「……ど、どうしましょう。愛が溢れてしまいそうです」
友は目を据わらせながら言った。落ち着け。
……動画は、ただ漠然と動画を投稿するだけでは宣伝にはならない。
にこやか動画には、作者コメントといって、動画の上側に短いコメントを書くことができる。そこで、同人誌の宣伝をすることは可能ではある。だが無論、それだけでは誰も見ないし、〝宣伝乙〟と馬鹿にされて終わる。
そこで友こと〝番茶〟だ。
友には、絵の練習がてら、絵師〝番茶〟として、大門の動画用に絵を提供してもらった。
あくまで絵を提供してくれた〝番茶〟の紹介――ということで、あらかじめ作っておいた〝サウザンド〟の公式サイトのURLを、作者コメントに張る。
これなら〝宣伝している〟という匂いを最小限まで消すことができ、しかも目玉絵師である友の知名度もあげられる。
その結果が早くも出たようで、開始一時間も過ぎた頃から、
「動画見てます!」
「絵、いつも楽しみにしてます!」
と、声をかけられることが多くなった。話しかけてくれる人は、大抵本を買ってくれる。
「あわわわわ……愛が……愛で……犯す……」
友は、ぐるぐる目を回しながらそう呟いていた。落ち着いてくれ。
* * *
イベント開始から二時間。
大手への流れは止まり、全体の動きが緩くなりつつあった。参加者は島中の本をゆっくり回る余裕ができ、僕たちのスペースに足を止める人が多くなってきた。
〝サウザンド〟新刊の売り上げはなかなか好調だった。少なくとも、文芸部の売り上げはゆうに越えている。というかゼロだったし。
このまま順調にいくか――に思われた。
「……おい、ヒロ」
先に気づいたのは先輩だった。僕に、指さしてその人物を教えてくれた。
見慣れたゴスロリワンピース――咲が、いた。
人のゆったりした流れに乗って、こちらにやってきている。
僕は、逃げ出しそうになる心を必死に押さえつけて、ポケットの中の携帯電話を握った。
「ごきげんよう」
からかうような声で、咲は話しかけてきた。
「何しにきたんだ」
声は川原先輩だった。その口調は敵意を隠していない。
「少し、ジャンル研究にね。まあただの気まぐれよ」
くすくすと笑顔を浮かべて、咲は机に置かれた新刊を手に取った。
「触るなよ」
先輩の言葉を咲は無視して、本を手に取った。
「私は本を見にきた善良な一般参加者よ。それを止めるっていうの? 悪質なサークルだわ」
「…………」
先輩は黙った。
咲は読んでいるのかいないのかという速度で本のページをめくり続けていく。
その白い、しなやかな指が本をなぞるたびに、先輩と友、そして僕も息を呑んでいた。
咲の一挙手一投足に目が離せない。
……何をしに来た? ……邪魔をしに? ……なら、どんな妨害を?
分からない。何を考えているのか。どのように僕たちの希望を奪おうとするのか。その美しい微笑の裏に、どんな鬼謀を秘めているのか。
唾が喉の奥に張り付く。世界が急に色を失ってゆく。冷や汗が頬を伝う。時間の感覚が引き延ばされてゆく。疑心暗鬼が疑心暗鬼を呼ぶ。
心臓が痛いほどに鼓動している。爆発してしまいそうだ。
助けてくれ。帰ってくれ。やめてくれ――
「…………」
……ふと、手に何かの感触がして、僕は我に返った。
友、だった。彼女は、後ろ手に右手を伸ばして、僕の手を握ってくれていた。
ペンダコのせいか、少し固くなった指先の感触。けれど柔らかく、僕より冷たい手は――不思議と心を鎮めてくれた。
……やがて、咲が本を読み終わった。
「ま、こんなものよね」
そして、何もすることなく本を机に戻した。
「夏コミまでに一〇〇〇部よ。せいぜいあがきなさい」
咲は髪をかきあげた。
「あなた、そのコスプレ似合ってるわね。ふふ」
最後に友に舐めるような視線を送り、彼女は去っていった。
「……ったはー」
先輩が脱力して、床にしゃがみ込んだ。
特に何もなかった。別に本は破られなかったし、スペースが人に囲まれることもなかった。
「よかったですね、ヒロさん」
そう言って、友が僕から右手を離した。
僕は友に、お礼か何かを言おうとした……が、その前に、先輩が振り向いてきた。
「危なかったなぁ。何かされてたら、今度こそ詰みだったぞ」
僕は深呼吸を一つして、先輩に返す。
「大丈夫ですよ、先輩。手を出したら、むしろ咲の負けでした」
「? どういうことだ?」
僕は先ほどから握っていた携帯電話をポケットから出す。
「もし、何か不正をするようなときは、これのカメラで録画するつもりでした。映像をネットにでもアップすれば、あっと言う間に咲は失脚しますよ」
「……なるほどな」
一〇〇〇部を売るということは、すなわち咲と闘うということだ。部員、ないし部誌を護る手段も考えなければならない。
単純な防御法だが、かなりの抑止力になりえるはずだ。
僕は、もう一度深く息を吐いて、鼓動が高鳴る心臓の辺りをさすった。
友の手の冷たさが、まだ右手に残っていた。
* * *
そうして、午後三時――
『えー、以上を持ちまして、〝ヘッドバンキング!〟終了といたします! 参加者の皆様、ありがとうございましたっ!』
波乱含みの即売会は、終了した。
「……やっちゃいました……」
「……ああ……」
ぷるぷると、肩を震わせる売り子二人。
「完っ売っだ――――――ッ!」
「やりました――――――ッ!」
諸手をあげて、先輩と友は叫んだ。
そう。完売である。段ボールは空となり、釣り銭入れは小銭と札で溢れかえっている。
僕は、二人が手を取り合って喜ぶ姿を見ながら、ほっと息をついた。
今回刷った部数は一〇〇部だった。
部数を控えたのは、コストを抑えるためと、完売の快楽を部員に味わわせるためだ。自分たちの一生懸命作った本が売れる。そうなれば必ず、今後のモチベーションへと繋がってくれる。
それに部員たち、特に川原先輩はまだ僕の方針に反感を抱いている。
人を納得させるのはいつでも実績だ。今回のイベントで、同人誌を完売させれば、彼は少なからず僕を受け入れてくれるだろう。
リーダーだった先輩が僕に好意的になれば、部の一体感はより高まる。
咲の来訪は予想外だったが、今日のイベントは大成功と言ってもいいだろう。
まずはたった一〇〇部。されど一〇〇部。大きな一歩だ。
「ようしっ! この後打ち上げだっ! 飲むぞ若者たちよ!」
先輩は本当に嬉しそうにそう言う。
しかし。
「先輩」
「おう? 何だヒロ、来ないなんて言うなよ! 大丈夫だ、おごったる! 何でも頼め!」
「いえ、そうではなく」
僕は先輩に、プリントアウトした紙を差し出した。
「実はこのイベント、合同打ち上げがあるんです。一〇〇人規模の飲み会なので、多くのサークルが参加するはずです」
「……は?」
ローマは一日にしてならず。勝って兜の緒を締めよ。
「僕が代わりに申し込んでおいたので、潜り込んで営業してください」
「なん……だと……」
僕が笑いかけると、先輩はがっくりと床にしゃがみ込んだのだった。




