二章
咲と僕の話をしようと思う。
僕と咲は家が近く、幼稚園から高校まで一緒だった。いわゆる幼なじみと言うやつだ。
男子と女子ではあるが、小学生になってもお互いの家に遊びに行くほど仲が良かった。
咲は昔から絵を描くのが好きだった。きっかけは何だっただろうか。多分、漫画でものすごく感動する作品があったとか、そういう理由だったと記憶している。
彼女は絵を描くのが性に合っていたのか、毎日のように続けていた。僕と遊んでいるときも、遊んでいないときも。あまりにも夢中で絵を描くものだから、僕も何か創作をしたくなった。
それで、ライトノベルを選んだ。咲が絵なら、僕は文章を書けば二人一緒に創作できる――そんな子供じみた動機だった。
咲はそれでも僕が創作を始めたことを喜んでくれた。
小学校も高学年になるとさすがにお互いの家に遊びに行かなくなったけれど、それでも休み時間や放課後、ちょくちょくお互いの作品を見せ合っていた。
そのときの咲は。お世辞にも感情豊かとは言えない子供だった。絵を描くときも作品の話をするときも、仏頂面だった。だけど、僕の作品を読むときはいつも、小さく笑顔を見せた。
だから僕の動機は、途中から〝咲の笑顔が見たいから〟になっていた。
中学生になり、高校生になって。
同人誌と、それを売る即売会という存在も知った。僕たちは当然のごとく、飛び込んでいった。
即売会の参加条件として、「サークル主催者が一八歳以上であること」というイベントがほとんどなので、年齢を誤魔化して。
二人で一つのペンネーム、〝night〟として本を作った。
僕は作品を書くとき、時々変な感覚にとらわれることがある。まるで魂が体から離れたように、キーボードを叩く自分を空中から眺められるのだ。大抵それは、胸を張って自信作だと言える作品を書いているときに起こったし、起こった作品は評価がよかった。
そのとき書いた〝Witch is Night〟という作品も、件の〝幽体離脱〟が発生した。だから、作品にかなり自信はあった。
パソコンで印刷した原稿をコンビニでコピーして、ホチキスで閉じたコピー誌で、オリジナル同人即売会に参加して。
僕たちの〝Witch is Night〟は――大爆死した。
絵の力で一冊だけ売れたので、その点文芸部よりましだったのかもしれない。
それでも、まだ現実を知らなかった僕と咲は、こんなはずではないとすぐさま次の即売会に参加した。〝Witch is Night〟の続きを新刊として出して。
また、書いているときに幽体離脱が起こった。
だが、同じ結果だった。
一人だけ、前回も買ってくれた人が来てくれた。面白かったですとも言ってくれた。ただ、売り上げはそれだけだったので、優しい言葉をかけられただけ、余計に惨めな気持ちになった。
それでも僕たちは諦めたくなかった。次も、次も出した。
同じだった。
咲の顔が、イベントの度に暗くなっていくのが分かった。
僕はようやく、同人小説が売れないことに気づいた。漫画のほうが売れることにも。
だが、僕は小説しか書けない。今更絵を描いて咲に並べるとは思えない。
客観的に見れば、小学生の頃から書き続けてきた僕の作品は、決してつまらないわけではないはずだった。
それでも、〝面白い〟だけでは売れてくれない――。
僕は、売れるために何をすればいいかを、必死で考えるようになった。
考えた結果、あと一話で完結するはずの〝Witch is Night〟を破棄した。その当時流行していた、いわゆる〝セカイ系〟の作品を書いた。
咲は何も言わなかったが、かなり不満げに絵を描いていたことがよく分かった。
僕も書いているとき、〝幽体離脱〟は起こらなかった。
起死回生を狙った、次のイベントで――
僕たちはまた、一部しか売ることができなかった。
そうして、場面は夕暮れの公園へと飛ぶ。
咲は叩きつけるように叫び。段ボールに入った僕たちの本が風で吹き飛び。僕は何も言えず。
「――小説なんて、売れないのよ!」
咲はそう、今までの鬱憤を晴らすかのように、咆哮して。
高校三年生の冬。彼女は僕の前から去っていった。
それからの彼女は知らない。どこの大学に行ったのかさえ聞いていない。
ただ、咲の行動だけは追っていた。今までの名残なのか、ペンネームを〝night〟と同じ読みの〝奈糸〟としていたので、すぐ分かった。
咲は、他の人にネームを描いてもらった漫画で、すぐさまブレイクした。元々地力があったのだ、当たり前だろう。
僕は、取るにも足らない同人ゲームのシナリオを書きながら、小説本へ絶望を抱き――
――咲へ、理不尽な恨みを募らせていった。
分かっているのだ。原因は僕にあるのも。僕が足を引っ張っていたせいなのも。
だが、信じていた人に捨てられた哀しみを。僕は二度と忘れない。
* * *
「許さんっっっっっっっ!!!!!!!」
部室の中。川原の怒鳴り声が高らかに響いた。
「あの女! ちょっと顔がいいからってつけあがりやがって! あんなの絶対嫁にしたくないな! 心がなってないっ! 悪魔だアイツは! ファッキンッ!」」
正月すぐの一月二日だというのに、川原の怒りは頂点だった。腕を振り回しながら部室をうろうろしている。なんだかもう小学生の悪口だ。
「まことに。〝ふぁっきん〟甚だしいです、部長」
と。友が、落ち着いた様子で先輩に頷いた。ふぁっきんの意味分かってるんだろうか?
しかし意外だ。つい先日、あれほどの出来事があったというのに、今の友は平静だった。服装もパンダパーカーのままだ。
「おい大門! 何でコミフェにこなかった!?」
川原の怒りの矛先は、ゲーム雑誌を読んでいる大門に向いた。彼は川原の剣幕に肩を跳ねさせ、やがてぶるぶる震えだした。相変わらず怯えすぎだ。
結局あの日、大門は僕たちのスペースに姿を見せなかった。迷ったのか、倒れたのか。
「……寝落ち、した」
どうやら家から出もしなかったらしい。
「ふざけるな! 闘いが始まったんだぞ!」
大門はその怒鳴り声に、手足を閉じ込める亀のように、体を丸めて黙った。
自分のヒートアップぶりに気づいたのか、川原は一度咳払いをした。
「まぁ、いい。過ぎたことを言ってもしょうがない。まずは将来のことを考えよう」
川原は、僕を見た。
「ヒロ。あの女と知り合いみたいな雰囲気だったな。……話して、くれるな?」
「…………」
こうなることは分かっていた。だから僕は、黙って文芸部からフェードアウトしたかった。
だけど、正月も早々から僕の携帯に一〇〇件近く留守電が入っていれば、来ないわけにはいかなかった。
こういうときは、さっさと話してしまうのが一番だ。それが一番、傷は小さく済む。
「咲……〝奈糸〟は、僕の幼なじみです。彼女は昔から絵を描いていました。僕は彼女と仲がよかったので、ただそれを近くで見ていただけです。……それから先は、僕も知りません。昨日再会するときまで、壁サークルだったことも知りませんでした」
嘘と本当を交えながら、〝かわいそうな天野ヒロ君〟といった感じに話した。あたかも、今にも涙をこぼしそうな暗い口調で。
「こんなことにみんなを巻き込んでしまって……すみません」
さすが川原先輩、僕の感動的な話を信じていただけたようで、同情の眼差しを向けてくれた。
「自分を責めるなヒロ。あのビッチに反応したのは俺と友だ。お前の気持ちはよく分かるよ」
「部長の言うとおりです、ヒロさん。気にしてはいけないのです」
友の言葉に川原は頷いて、
「だが、これは喜ぶべきことでもある。ははは、封印していた本気を出す大義名分ができた! あいつを倒すとっておきの作品を出すときがきたようだ! 俺でさえ出すのを躊躇っていたほどのやつをな!」
いや、最初からそれ出せよ。
「我ら文芸部ッ! 一〇〇〇部ごとき、来週にでも売ってみせよう! やるぞ、お前ら!」
「おー!」
「……おー」
川原は叫び。友も笑顔で腕を上げ。大門は小さな声で同意して。
僕はどうやったら早く帰れるかを考えていた。
* * *
一月三十日。
一月に同人誌即売会があるのは珍しい。冬コミと正月のすぐ後だからだ。
しかし会場の都合なのか、主催者の都合なのか分からないが、とにかくそのイベントは開催された。
〝ノベル・マーケット〟。通称〝ノベマ〟。秋葉原にある中小企業振興公社秋葉原庁舎、という建物で開催されるその同人誌即売会は、小説オンリーという珍しいイベントだ。エロでもパロディでもOK、ただし漫画はNG、と何とも分かりやすい。
川原大先生は大先生なりに、小説サークルがのし上がるのはまず小説から、と考えたらしい。
冬コミの新刊は破られてしまったので、二十日少々の強行軍で新たな本を作り、文芸部は〝ノベマ〟に参加した。
……まあ、結果は分かるだろう。
ただ、さすがは小説オンリー。何人か手にとって読んでくれる人はいたらしい。
もちろん、〝手にとって読んでくれた〟だけだったけど。
僕は本当に付き合いで作品こそ提出したものの、面倒だったので適当に理由をつけてイベントには行かなかった。
* * *
図書館は好きだ。
本から溢れるインクの匂い。温かい空気。何より、清らかな静謐が心を捉えてやまない。
僕は部会も授業もサボって、学校の図書館、そこの自習スペースにいた。机に向かい、A4の紙へシャープペンを走らせる。
やっているのは勉強ではなく、プロット作成である。そろそろ今作っている同人ゲームのシナリオが完成しつつあるので、次の企画を考えているのだ。何を作るか。題材は。どんな絵師に頼むか。製作期間は。費用は。エトセトラ、エトセトラ――
〝シュプレヒコール〟の知名度もあがってきたことだし、次はどれほど売り上げるだろうか。
この前通帳を見たら、貯金が無駄に五〇万円も貯まっていた。使う予定は特にない。
……一応は。僕も、それなりに物を作って売り上げてはいる。しかし、咲に対抗できるほどではないし、咲に対応できる内容でもない。
そもそもゲームのシナリオを始めたのは、少しだけでも〝売れている〟という感覚を味わいたかったからに他ならない。それが絵師の力であっても、売れるのは快楽だからだ。
だけど。時々何故か、空しくなる。
昔、作品を書いているときに感じた幽体離脱も、もう起こらない。
「……クソ」
何かを罵倒してみた。それは自分にか、咲にか、文芸部員に対してかは分からなかった。
「あら。奇遇ですね」
誰かに話しかけられた。左を向くと、そこには友が立っていた。
「……なに?」
ひょっとして連れ戻しに来たのだろうか……?
「部会も講義もサボっちゃダメですよ」
友は僕の隣に座り、鞄を置いた。どうやら僕を探しに来たわけではないらしい。
壁掛け時計は午後五時を指していた。四限が終わった時刻だ。まだ一月なので外はもう暗い。
友は鞄の中から、ノートを取り出して机に広げた。そのまま、特に教科書は取り出さず、シャープペンを走らせる。
「……何、してるの?」
さすがに気になって僕は友に訊ねた。
「次の部誌で、どんなお話を作ろうか、と」
「ひょっとしていつもここに?」
「はい。放課後は、大体」
僕はたまにしか来ないが、友はどうも常連だったようだ。
「でも、帰らなくていいの? 結構外暗いけど」
「大丈夫です。あんまり、家にいても楽しいことなんてないですから」
そんなものなんだろうか。けれど友はあっさりと言ったので、まあそんなものなんだろう。
それから会話が途切れて、友は黙ってノートにペンを走らせ始めた。友が来たからといってすぐ帰るのもどうかと思ったので、僕は作成途中の企画書に目線を戻す。
「私」
突然、友が声を出した。
「ヒロさんの作品、好きですよ」
どんな意図を込めて言われたのか分からなかったが、まるで世間話のように友は言った。
「……ありがとう」
そう返すと、友は横顔で笑顔を浮かべた。
それから特に会話は続かず、時間が経っていった。
何だか、落ち着かなかった。
* * *
僕は今日も部室にいた。
部会をサボり続けていると、着信五〇回、メール七〇通が僕の携帯に来訪した。
川原にこうまでつきまとわれては、僕も部会に出席せざるをえなかった。もちろん着信拒否すればいいのだが、今度は教室にまで乗り込まれそうで嫌だった。
「何故売れないのだと思う? 率直な意見を頼む」
上座に座る川原が、神妙な顔でそう切り出した。
「ブレインストーミングというやつだ。どんなに辛辣でも構わない。好きに言ってくれ」
川原はがっくりとうなだれてから、
「……俺も自分の責任は自覚している。まさか、誤字があんなにあったとはな……」
いやそこじゃねえだろと突っ込みたかったが、僕はぐっとこらえた。
「やはり、私の作品がいまいちだったから、なのでしょうか……」
おずおずと手を挙げたのは友だった。
友の書く小説は僕もいくつか読んだ。〝愛〟が溢れた少女マンガチックな恋愛小説で、悪くはなかったが、悪くないだけでしかなかった。携帯小説にすれば受けるかもしれない。
「うむ、確かに友君の作品も詰めが甘かったかもな」
「ですか……」
顔を俯かせて落ち込む友。
「ボクの、は?」
と。珍しく大門が発言した。蚊の鳴くような声で、今にも泣き出しそうに喉を震わせながらではあったが、一応会議に参加しようという気はあったらしい。
「大門のは……小難しかったぞ。もう少しわかりやすく書くといい」
大門の小説は、単純につまらなかった。ライトノベル好きの大門らしく、流行の学園能力バトルものを書きたかったようだが、どこかで読んだような設定に、ご都合主義、キャラ立ての甘さなどが目に余った。
「そうじゃ、なくて、部誌の。構成とか」
大門は作品作りの傍ら、部誌の編集作業を受け持っている。川原に押しつけられたわけではなく、自分からやりたいと言い出したらしい。
僕はこの前ノベマに出した新刊を思い出す。表紙は論外として――中身のレイアウト自体はそう悪いものではなかった。
「いつもと変わらなかったと思うぞ。別に問題はない」
「……なにか、ない?」
大門の顔は、何かに気づいてもらいたがっているように見えた。僕は冬コミの本と、ノベマの本を脳内で思い返し――
「フォントが違ってた?」
その瞬間、陰鬱な大門の顔がぱっと輝いた気がした。
「う、うん、そう。ダイナソーフォントのパックを買ってみたから今回は作品ごとの雰囲気に合わせて変えてみたんだ。一万円もしたけど悪い買い物じゃなかったよやっぱりこういうディティールにこだわっていかないとこれからはやっぱり神は細部に宿って」
と、いきなり矢継ぎ早に大門はそう喋った。しかも普段の倍は明るい声で。
ちなみにフォントとは字体のことだ。明朝体とかゴシック体とか、そういう字の種類や形のことを言う。僕もあまり詳しくはないが、総て同じに見えるようで、やはりちゃんと違いはあるらしい。〝ダイナソーフォント〟なる物もその製品名だろう。
「あと今回オンデザインって結構高いソフトを導入してみたんだ覚えるの難しかったけどやっぱり高価なソフトはできることが違うね」
オンデザイン――確か、プロも使うDTPソフトだっただろうか。雑誌や書籍を編集するときに使う。言われてみれば、冬コミの本よりも中身のレイアウトが凝っていたように思えた。
川原先輩と友はよく分かっていないようだが、大門も無言の努力をしていたらしいことが分かった。普段黙っているが、人並みに〝誉められたい〟という願望があることも。
プロ用のソフトを扱えるということは、大門はそれなりにパソコン技術に明るいのだろう。
――パソコンに、明るい?
どくん、と。
何故か分からないが、胸が疼いた。
「まあ、よく分からんが、編集は大門の仕事だ。がんばってくれ」
言葉通り分かっていない風の先輩にがっかりしたようだが、すぐに大門は仏頂面に戻った。
結局、今日の結論は、〝入稿前に徹底した校正と、内容の批評会を行う〟ことになった。
現状と何も変わっていなかった。
* * *
また一週間経った。川原先輩のストーキングのせいで、僕は蒸発する機会を掴めずにいた。
今日も今日とて部室に行く。
「部長」
「おう、なんだ友君」
ドアを開けると、ちょうど友が川原先輩に話しかけていた。
「次に出るイベントは、決まったのでしょうか」
う、と先輩はうめき声をあげた。申し訳なさそうに首を振って、
「……すまん。まだ、決めてない。小説オンリーがなかなか見つからなくて……」
二月には確か〝コミケティア〟というオリジナル同人誌即売会があったはずだが、川原先輩はどうも小説オンリーにこだわっているらしい。
「そうですか……しばらく、原稿は書かなくても大丈夫でしょうか?」
「ん、そういうことになるが、何か予定でもあるのか?」
「はい、少し私用が」
友がこんなことを言い出すなんて珍しい。何も言わずにこつこつ文章を書いていたのに。
まあ、よほど大事な用事なんだろう。先輩も追求はしなかった。
「……部、長」
「ん? 何だ」
と、ゲーム雑誌を読んでいた大門が、珍しく発言した。相変わらずおどおどしつつ。
「そんなこと、より。他の、問題が」
「一体どうした大門」
「……部費が。もう。ない」
「な……っ!?」
新たに現れた、〝資金〟という問題。
忘れていたのか、先輩は比喩ではなく頭を抱えて机に突っ伏した。
「さすがに、刷りすぎたか……? まさかあそこまで売れないとは思わなかったんだ……」
聞いた話では冬コミとノベマで二〇〇部ずつ刷ったらしい。そりゃ、部費がなくなるわけだ。
「すまん……イベント次第によっては、新たに部費を徴収することになるかもしれん……」
「あの。そんな状況で、どうやって一〇〇〇部刷るつもりだったのでしょう?」
友から冷静な突っ込みが飛んだ。
「う、売り上げで補填するつもりだったんだ! 本が売れてくれれば……ッ!」
まさに取らぬ狸の皮算用である。
さすがに部費まで徴収されたら、先輩がなんと言おうと逃げよう。
……そんなことを考えていると 部室のドアがノックされた。
「はい? 開いてるよ」
川原先輩がドアの外に声を投げかける。
ドアが開かれて現れたのは、髪をソバージュにした、今風の綺麗なお姉さんだった。
「……まゆみ」
どうやら先輩の知り合いのようだが、何故か露骨に驚いていた。
「少し話があるんだけど、いいかしら。川原クン」
「……分かった、いいだろう」
先輩は、普段からはありえないほど表情を引き締めて、部室の出口へと向かった。
まゆみ嬢とともに外に出て、ドアが閉じられた後、すぐさまビンタの音がした。
……さすがの先輩も女性に手をあげるとは思いにくいから、これはまゆみ嬢が先輩を叩いた音だろう。
『っけんな! 言うに事欠いて四股とはなァ!? 沙耶も梓も全員食ったなテメェ!?』
『……っ、それは悪かったと思ってる! だが! 俺がお前らに不自由させたことがあったか!? 誰一人として俺が不真面目に付き合った人はいない!』
『関係あるかァ――ッ!』
先輩の何故か毅然とした言い訳と、まるで猛獣が吠えるような怒号。……後者はまゆみ嬢の声だと推察できるが、あまり画は想像したくなかった。
『……ッ、だがなっ! 言い続けるぞ! 俺はみんなを愛してる! だから変わらず付き合っていこうじゃないか!』
『どの口で言ってやがんだヤリチンがァ――ッ!』
『ああ、そうやって遠慮なく突っかかってくるところも好きだまゆみッ!』
殴られても殴られてもまゆみ嬢に立ち向かっているらしい先輩。馬鹿だこいつ。
まさか文芸部で色恋沙汰を目にするとは思わなかった。
「愛ですね」
友がうんうんと頷いていた。いや、確かに愛なんだろうけどさ。
しかし川原先輩、モテるとは思っていたが、まさか四股とは。
人として最低だが、一応は彼なりの美学があり、決して悪意からの行動ではないようだ。
同時にこれは、一つの才能と言えるだろう。倫理を考えなければ、僕は素直に彼を賞賛する。人に好かれる術を理解し、狡猾に相手との距離を詰めていける――しかも同時に、何人も。
これは僕にはできないことで、
……できないことだから、
ドクン。
また何故か、胸が疼いた。
――僕は一体、なにを考えているんだ?
* * *
二月の第一日曜日。秋学期の期末テストも落ち着き、ようやく春休みとなった時期。
僕は山手線を乗り継いで、浜松町へと降り立った。
北口から出て、キャリーカートで段ボールを引く人たちについていく。
ここ浜松町にある、都立産業貿易センターというところで同人誌即売会が行われる。オリジナルではなく、とあるアニメ作品のオンリーイベントだ。オンリーイベントとは、ある作品を対象とした同人誌だけを頒布する即売会である。
今回は、〝ばくおん!〟という作品だ。ヘヴィメタルに目覚めた女子高生たちの日常を、面白おかしく描いている。
一応僕もオタクだからアニメは見るし、同人誌も気になる。だが、僕が即売会に行く理由の最たるものは、〝ジャンル研究〟だ。
流行は移り変わるもの。今このときに盛り上がっている作品の同人を描いてこそ、初めて売れるものが作り出せる。僕も同人作家のはしくれなので、流行には敏感でなければならない。
ネット上では高評価なものの、同人ジャンルとしての人気はいまいち……といった作品もあるので、やはり自らの足を使って確認するのが一番なのだ。
貿易センター前につくと、まだ十一時の開場前だというのに、かなりの列ができていた。建物前にある正方形の広場の外周に沿って、一五〇人ほどの一般参加者が並んでいる。
混雑しているイベントだと、入場規制が行われる。この人数だと開場してから三〇分ほど待たされるだろうか。
僕はイベントカタログを買ってから列に並んで、開場まで待ち続けた。
* * *
僕の予想通り、建物の中に入れたのは、開場三〇分後の十一時三〇分だった。
小学校の体育館ほどの空間に、所狭しと並ぶ机と参加者たち。
コミフェと違って会場は小さく、必然的に通路も狭くなるので、一般参加者がほとんど網のように道に立ち塞がっている。間を縫うようにして移動しなければならない。
とりあえず、あらかじめチェックしておいた大手サークルに向かうとしよう。
三〇分ほども経っただろうか、目当ての本はほとんど入手できた。
コミフェと比べて参加サークルも列の量も少ないため、小一時間もあれば大手サークルを総て回れてしまう。
ただ、総数が少ないだけで名の知れた大手サークルが参加しているし、一般参加者もかなりの人数が来ている。盛り上がっているジャンルと見て間違いはないだろう。
さて、と僕は会場の入り口付近に立つ。別に帰るわけではなく、これから大手サークル以外もざっと見て回るのだ。
とりあえず西側から行くか、と僕は左手へ歩きだした。
見て回るのは、置いてある新刊の内容だけではない。
どちらかといえばそれは二の次で、見るのはサークルスペースの作り方だ。
例えば、ただ机に新刊をぽんと置いてあるスペースと――テーブルクロスを敷き、ポスターやポップで飾り付けられたスペース。
おそらくは確実に後者に目が惹かれるはずだ。
そんなスペースの本なら、僕は無条件に見に行くことにしている。大抵作りがしっかりしているものだ。中身も大事だが、それよりも、〝外身〟が重要であると気づいているのだから。
半分ほど回って、買った本は三冊。
〝ばくおん!〟はアニメで一気にブレイクした作品だが、その原作は望文社から出されているライトノベルだ。元の媒体が小説だからか、小説サークルもちらほらと見受けられた。
西側を見終わり、会場の東側へ。
このイベントではゾーニングがきちんとなされていて、会場の東は成人向けコーナーとなっている。この先一八歳未満立ち入り厳禁と書かれた敷居を越えると、すぐさま女性キャラの裸体が飛び込んできた。
見て回る。…………。
…………。
買ったのは五冊だった。
一般向けの三冊より多かった。
いや、言い訳させていただくと、一応僕も同人ゲームを作る上で参考にするために色々買っているわけです。本当だよ。嘘じゃないよ。
そんな弁解を心の中でしつつ、端から端まで見ていくと――ふと、視線の先に一冊の本が目に止まった。
見たことがないサークルだった。スペースの装飾は一切されておらず、長机の地であるダークブラウンがさらけ出されている。机の下に置かれた箱もバッグも見えてしまっている。
ただ、置かれた新刊からただならぬ雰囲気を感じられた。
どうしたものかと一瞬だけ考え、僕はそのスペースに足を向けた。一応見るだけ見ておこう。
売れていないのだろうか、イベント開始から一時間少々だというのに、まだ机には多量に本が積まれたままだった。
僕は売り子さんに見させてもらいますと断って本を手にとった。
表紙は――まぁ、そこそこだろうか。半裸の女の子が大きく描かれているものの、背景や小道具のギターなどで全体的にごちゃごちゃしていて、何がメインなのかわからない。率直に言えば〝エロさ〟を感じない。女性が描いたものなのだろうか、どうも絵柄が少女漫画チックだ。
ページをめくって中身を流し読みする。
……しばらく読んで僕は、この本が放っていた名状しがたい空気の正体に気づいた。
それを、何と表現するべきだろうか。描かれているのは男女の裸で、行われているのは愛の営みだ。しかし、どこか歪んでいる。いや、決して狂気に満ちたホラー作品というわけではない。全体的に雰囲気は明るいのだが――
一言で言えば、挿入する穴の位置が違った。穴が違うと言っても、〝後ろ〟のほうという訳ではない。まったく異次元の〝穴〟だ。そこは本来穴には成り得ない場所だったはずだった。
そんな場所に挿入するのだから、当然挿入する部位も違った。まさに人体の神秘であった。
……焚書坑儒されかねないので、このくらいの表現で勘弁して欲しい。
今の気持ちを例えるとしたら――大きな石をどけて見たら、その裏側に醜穢な、けれども何故か目を離せない虫を見つけたときのような感覚。
絵はそれなり。話の構成も、面白いと手放しで誉められるものではない。売れない理由も分かる。が、俺はこれで世界を獲ってみせるという野望と愛が、ひしひしと伝わる作品だった。
僕はすっかり、この作品の持つ哲学の虜になってしまっていた。
「この本、一部もらえますか」
僕はスペースの中に立つ売り子さんに声をかけた。
「ありがとうございます! 五〇〇円です!」
僕は小銭入れから五〇〇円玉を取り出し、そのパンダパーカーを被った女性に手渡した。
――――――――パンダパーカー?
瞬きをしてから、僕は再度前に立つ売り子に目を向けた。
「…………友、さん」
いつも部室で見る柔和な笑顔と、フードから覗く流麗な黒髪がそこにはあった。
平松友がスペースでエロ同人を売っていた。
「……ヒ、ロ、さ、……んんんっ!?」
ボン、という擬音をつけられそうなほど、彼女の顔が一瞬で赤く染まった。
「あ、あああ、あのあのあの、これはこれは、その、そのそのそのですね、ちが、ちがうのです、これは何かの間違いでしがっ!?」
まるで砂埃が巻き起こりそうな勢いで、彼女はぱたぱた両手を振る。
「知り合いにどうしても今回だけと頼まれましてっ! 私もこのような淫猥な描写をするのはどうかなと進言いたしましたのですが聞き入れられず真に遺憾の意を表したい次第なのですがっ! しかし表現の一つとして詮方無いとの結論に達しまして売り子をさせていただいているわけでございますがっ! 何かご質問はっ!?」
唾を飛ばしながら、友は一気にまくしたてた。頭に被ったパンダ耳がふらふらと揺れている。
――その姿を見ながら、僕は。
心臓が、激しく高鳴っていた。鼓動という表現では収まらない。暴走したかのような律動を刻み、ダムの決壊のごとく血液を送り出している。
友の真っ赤な顔と、パンダフードが遠く見えてくる。
あれ、なんだろう、この感覚は。僕は、一体何を考えている?
僕は、一体何に気づいてしまった?
友の顔と、咲の顔が、
交互にフラッシュバックして。
その瞬間、僕は――空中から、スペースの前に立つ僕自身の体を見ていた。
「きゃあああっ!? ヒロさんっ! ヒロさん!?」
――僕は、気絶した。
* * *
目を覚ました。
どうやらベッドで寝かされていたようだ。上半身を起こしながら胸に手を当てると、まだかすかに鼓動が早かった。
周囲を見回す。白いベッドに小奇麗な床と天井。周りはカーテンで囲まれている。医務室のような場所だろうか?
「――あ、ヒロさん。お体はどうですか?」
ベッドの傍らには友が付き添ってくれていた。
カーテンの向こうにある壁掛け時計は、午後五時を指している。四時間気絶していたらしい。
「イベントは?」
「終わりました。ヒロさんのことは、周りのサークルが助けてくれて。すぐにこちらに運んでもらえました」
いつも通りの柔和な微笑みで、友は言った。怒ってはいないようだが、僕は頭を下げた。
「ごめん。迷惑かけたね」
「いえ。ヒロさんがご無事ならそれに勝ることはありません。ただ、急に倒れるなんて、何か持病などお持ちなのですか?」
「いや、それはないんだけど……寝不足のせいかな」
僕自身も、倒れた理由は分からなかった。何かを掴みかけていたが、気づかないフリをした。
「この後打ち上げとかあるんじゃない? 迷惑だろうし、そっちに行っても僕は大丈夫だよ」
「いえ、平気です。私、イベントが終わると大抵すぐに帰ってしまいますし。……あんまり知り合いもいないもので」
少し寂しそうに友は笑う。
まあ、確かに女性一人というのはなかなか居づらいものだろう。成人向け同人誌だと、周りはほとんど男性になってしまうし。
「それに、ヒロさんと話さなければなりません」
友は上目遣いで僕を見て、
「今日見たことは、できれば、その、内密に……」
まあそうくるだろうな、と僕は予想していた。
「分かってる。話すつもりはないよ。僕もただ本を買いに来ただけだしね」
安心したように友は息を吐いた。
僕はベッドから出て、自分のバッグを探した。友が運んできてくれたのか、ベッドのすぐ側の床に置かれていた。中には買った本がちゃんと入っている。
「代わりといってはなんだけど、一つ聞きたいことがあるんだ」
ベッドの隅に腰掛けて、僕は友に向き合った。
「な、なんでしょう?」
「この本を描いたのは、友さんじゃない?」
僕はバッグから、先ほど友のスペースで買った本を取り出して、示した。
「……ッ、な、何を、言っておられるのですか」
友は、引きつった声で返した。その目はうようよと中空を泳いでいる。
「さっき、〝イベントが終わると大抵すぐ帰る〟って友さんは言った。つまり何度かイベントに参加した経験があるということだ。だけど、僕が倒れる前は、まるで売り子するのは初めてみたいな言い方だったね」
「あ、あの、あのあの、それは……」
「それに、あのスペースにはバッグが一つしかなかった」
まさか書き手がイベントに現れず、売り子に一人で売らせるなんてことはありえまい。
「あと、この前川原先輩に今後の予定を聞いてたよね。アレは、この新刊を作るためだったんじゃない?」
決定的な証拠はない。が、友であると推測できるヒントは所々に転がっていた。
「どう? 違ってる?」
「あ……ぅ」
金魚のように口をパクパクさせた後、友は顔を深く俯かせて――
* * *
「先輩が言った〝ふぁっきん〟って意味、ちゃんと分かってたんだね」
「まぁ、その。一応は、本職ですから……」
ぼそぼそと、赤い顔で友が言った。それ、本職って言っていいのか。
僕と友は、すっかり日も暮れた道を歩いていた。既に街にイベントの面影はなく、夜の道には一般人しか歩いていない。
「何で成人向け漫画なんて描いてるの?」
そう聞くと、友は責められていると思ったのか、黙り込んでしまった。
「あ、ああ、ごめん、別に女性が成人向け同人誌を描くことに偏見があるわけじゃないよ。第一線で活躍してる作家にも女性はたくさんいるし」
この事実を知ったときは僕も衝撃だった。男性向け同人誌を描く女性は実際にかなりいる。
「何で、漫画なのかなってさ。友さん、文芸部で割と硬派な恋愛小説書いてたから」
「…………」
友は少し足を早めて、僕の数歩先を歩いた。
「……私、小説も漫画も好きなのです。中学生の頃に少女小説とか、少女漫画とか……ライトノベルもよく読んでました。そのうち、自分も物語を作ってみたくなって、作文が得意だったから小説を書くようになったのです」
だけど、と友は続けた。
「ライトノベルみたいに、誰かに絵をつけて欲しかったのですけど――私、絵を描く人が周りにいなくて。ライトノベルを読む女子なんて、珍しかったですし」
確かに。今でこそライトノベルは一般的な認知を得ているが、僕や友が中学生の頃は、それこそ〝オタクが読むもの〟でしかなかった。
「だから、もう自分で文も絵も書いてしまえばいいのでは、と。それから絵も描き始めました。そのうち、漫画も描くようになりました」
なんとまぁ極端な人だ。
……もちろん世間には、小説も絵も一人で描ける人間はいる。いるが、圧倒的に少数だ。
しかし、友はそれをやった。相当努力したのだろう。
「それで、今までちょこちょこと漫画も小説も描いてきたのですが……」
友はそこで、少し言葉を濁した。
「……あいが」
「〝あい〟?」
友はくるりと僕を振り返った。街灯に照らされたその瞳には、涙が浮かんでいた。
「愛がっ! ラブがっ! 止まらなくなったのですっ! 男女が結びつくには、愛が必要だとは思いませんか!? 愛し合う行為が必要だとは思いませんか!? そして! 愛も高まり、愛し合う行為が続いた先には! あのような行為に発展するに決まってるのですっ!」
断言された。
いや。さすがにあの穴違い行為には発展しないと思う。マジで。
「……高校に入ってから、同人誌即売会というものの存在を知って、よく行くようになりました。即売会なら私の〝愛〟を思う存分描けることが分かって……高校を卒業してから、サークル参加するように……。やるしかなかったのです」
ドラマにおける殺人犯の独白のように、友は言葉を締めくくった。
大体経緯は分かった。この大和撫子が、あんなシュールなエロ同人を描くのか。
ただ、これ以上追及すると友の精神が保たない気がしたので、僕は話題をシフトさせた。
「まだ小説は書いてるんだ?」
友は顔をあげてはにかんだ。
「小説は、まだ読むのも書くのも好きですから……。即売会では漫画ばかり描いていたので、大学では文芸部を。私の絵を部誌に載せてみたかったのですが、なかなか言い出せなくて」
あの川原部長様様の方針では、そうなるだろう。
「そっか。もったいないね」
僕は、何となしにそう言った。何となしにだが、本心も含まれている。
創作について、川原先輩よりもちゃんと考えている人がいる。なのに、飼い殺されてしまうのはもったいない。
「ひ、ヒロさんっ!」
突然友が大声を出した。少しその顔は赤くなっていた。
「なっ、なに?」
「私やっぱり、川原部長に言いますっ! 私の絵を使ってくださいと! ずっと思ってたけど言えませんでしたっ! 川原部長は、間違っておられますっ! ……中身は大事ですが、外見も大事ですっ! このままでは、一〇〇〇部など売れないと思いますっ!」
それはやめたほうがいいんじゃないか、と言いたかったが、できなかった。
叫ぶ友は、街灯に照らされていた。まるで、スポットライトを浴びる女優のように。
眩しかった。
「私は、小説もっ! ヒロさんの作品もっ! 素晴らしいものだと言いたい! くだらないものなどではないと、証明したいのですっ! だから! そのためには――!」
僕は驚いていた。
友がそんなことを考えていたこと、ではなく。
僕がこんなことを考えていたことに。
ようやく気づいた。僕のやること。すべきこと。
揃ってしまった。
先ほど感じた確かな〝幽体離脱〟の感覚。
気づいてしまったのだ。この物語の、結末までのプロットを。
川原。大門。そして、友。
「友」
僕は友の名前を呼んだ。
「はっ、はいっ?」
「それは僕が言うよ」
そう言って、僕は踵を返した。別れも告げず、友から離れていった。
* * *
「ヒロ。どうしたんだ急に」
川原先輩が部室に来たのは一番最後だった。既に友も大門も定位置に座っている。
友と話し合った翌日。僕は、部員全員を昼休みに部室へ呼び出した。
僕は、部室の下座ではなく、あえて上座に立っていた。入り口に立つ先輩と向き合う。
「先輩。本当に、一〇〇〇部売る気はありますか」
僕は、真っ直ぐに問うた。
先輩は何を言っているんだと言わんばかりに、ふんぞり返った。
「当たり前だ! 俺は売ってみせる! なぁに、信じれば道は開け、」
「不可能です」
僕は先輩を遮って、言い放った。
「先輩の今の方針では、どんな奇跡が起ころうと、一部も売れません」
「な……」
今まで大人しい部員だった僕の暴言に、先輩は一瞬鼻白んだ。だが、すぐに大声で言い返す。
「馬鹿にするな! 売ってみせるさ!」
「あんな本で?」
僕は、やや演技がかって侮蔑してみせた。
「表紙は文字だけ。本文に絵はない。どこを読んでもつまらない文章ばかり。しかも部長の頭がおかしいときてる。どこに売れる要素が?」
あまりの言い草に、静かに聞いていた友と大門が、おろおろと視線を迷わせていた。
「おっ……お前――!」
先輩が勢いよく踏み出した。机を回ってきて殴るつもりなのだろうか。
その前に僕は、あらかじめポケットに忍ばせておいた札束を、机の上に放り投げた。
「……え?」
正確には札束ではなく、札をゴムで束にしたものだった。一〇〇万には達していないからだ。
しかし、投げた量は五〇万円分。何も知らない人を黙らせるのに十分な額だった。
咲がやった方法の意趣返しである。
「それから、これも」
僕は次に、〝シュプレヒコール〟の、ダウンロード販売サイトでの売り上げ情報――それをプリントアウトしたものを、机の上に投げていった。
「僕が同人ゲームで稼いだ金と、その証拠です。少なくとも、先輩よりは分かっていると思いますが?」
人を納得させるのに必要なのは、弁舌の腕やカリスマ性ではない。ただ一つ、信頼に足る〝実績〟だ。
先輩は黙った。それは僕に言い負かされたわけではなく、単純に混乱しているからだろう。
「僕は咲に個人的な借りがある。だから一〇〇〇部を売り上げたい」
咲から離れて、僕は長い間燻っていた。愚にもつかないゲームのシナリオを書いて。大衆に受けるためだけに小説を書いて。なのに文章からはずっと、離れられなかった。
そんなとき訪れた、あの〝幽体離脱〟の感覚。僕は、自分の感覚を嘘だと思えない。
そして。咲に逆襲をしたい。僕を捨てた咲に、一泡吹かせてやりたい――。
「そのために皆の力が必要だ。だけど、このままじゃ一部も売れない。だから、これからは僕に指導させて欲しい」
川原先輩は、はっきりと迷っていた。自らの中にあるプライドと、良心か何かがせめぎあっているのだろう。
だが、友と大門は僕を見ていた。僕が差し出した実績に、目を奪われていた。
「先輩」
僕は、先ほどとは正反対に、優しく声を作って語り掛ける。
「本当は苦しんでたんでしょう? 何をやっても売れなくて。何をやっても認めてもらえなくて。でも、もういいんです。ダメなものはダメと言っても、誰も責めやしません」
川原先輩は頑固だが、責任感だけはあるだろうと推測していた。空回りこそしているものの、部員を引っ張っていこうという心意気は確かにあった。
だから。彼の想いを認めて、その上で諭してやれば――
「それに、僕に任せていただければ、部費を超える分の費用は総て出します。どうせ使い道のない五〇万円ですから。このままでは、そもそも一〇〇〇部を刷るところまで行き着かないと思いますけど」
〝コスト〟という、笑ってしまうほど現実的な指摘が、とどめになった。
「…………わか、った。お前が、やってくれ」
搾り出すような声で、先輩はそう言った。
僕は友と大門の顔を順々に見た。友はどこか畏敬の眼差しを僕に向け。大門は、ぼさぼさの前髪の隙間から、どこか期待の表情を見せ。
異論はないようだった。
「ありがとうございます。では、これから僕が指揮を執らせてもらいます」
僕は、笑顔で続けた。
「まずは、小説は売れないというところから始めましょう」




