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一章

 僕が中明大学に進学するにあたって、入るサークルに文芸部を選んだ理由は三つだ。

 友達が欲しかったのと、僕も昔から小説を書いていたのと、

 ――自分より実力の低い人を見て、見下したかったからだ。


 中明大学部室棟の四階。廊下の一番奥にある、やたらと仰々しく重いドアを開く。

 中に入ると、目に飛び込んでくるのは大量の本だ。壁に沿って配置された三架の本棚にはぎっしり本が詰まっていて、部室のほとんどを占領する中央の机にも、書店のように平積みされている。

「おう、ヒロ! 今日はいい話があってな! まあ、座れ」

 入り口から見て上座に座っているのが、部長の川原伸一である。文芸部なのに何故か体育会系のがっしりした体格をしていて、身長は一八〇センチある。一六〇センチ台後半の僕は、常に彼に見下ろされてしまう。髪を茶色に染めていて、爽やかな今風の若者といった感じだ。

「何なんですか、先輩」

「ふふ、全員来てから話してやる」

 ニカッと白い歯を見せて笑う川原先輩。実に美しい笑顔だ。モテるのだろうなと思うし、実際かなりモテているらしい。

「そんなことより昨日の〝ばくおん〟観たか? まさか泣かされるとは思わなかったなぁ!」

 露骨な話題の逸らし方に、とても嫌な予感がした。ちなみに〝ばくおん〟とはアニメ作品のことで、先輩は外見にそぐわず結構なオタクである。

「みんな優しくていい子たちだ。ああ、全員嫁にしてやりたい」

 気持ちの悪い先輩の言葉を聞き流しつつ、とりあえず僕は、下座のパイプ椅子に座る。

「大門も観たか?」

 先輩が僕の右手に座る人物へ話しかけた。

 大門元気という名の彼は、声をかけられて大仰にびくりと震えた。

 髪はぼさぼさ、小太り、猫背、そして臆病……と一昔前の〝オタク〟を現すテンプレートのような人間だった。今は〝竹物語〟と表紙に書かれたライトノベルらしきものを読んでいる。

「……また、何か、よからぬ、ことを、考えて、る?」

 大門は先輩の目を見ずに、怯えた声で話した。普通の会話をするだけでこんな感じである。

「よからぬこととは何だ、大門。いいニュースだぞ?」

「……どう、だか」

 大門の暗い返事にも、川原先輩はカカカと明るく笑いを返す。分け隔てなく接せる人なのだ。

「すみません、遅れましたっ」

 そんな声とともに、背後のドアが開かれた。

 走ってきたのだろう、顔に汗で髪を貼り付けた――パンダパーカーの女性が立っていた。

「おう、待ったぞ友君。早く座るといい」

 ぺこぺこと頭を下げながら、机の左手に座る女性。名は平松友という。

 雰囲気を言えば、〝おしとやか〟だろうか。腰まであるロングヘアーと、整った目鼻立ち。一緒にいるだけで静謐な雰囲気が場に生じる。どこかの木陰で純文学でも読んでいたらきっと画になることだろう。濃い文芸部の面子の中で、一番〝オタク〟らしくない。

 しかしパンダパーカーである。全体が白く、所々が黒い。フードには顔と、黒い耳部分がついている、パンダを模したパーカー。それを常に着ているのは、なかなかシュールな光景だ。

「よーし、全員揃ったな。部会始めるぞ」

 川原先輩が言った。そう、部員はこれで全員だ。

 本当は二〇人以上いる部活なのだが、みんな幽霊部員となってしまって、まともに活動しているのは僕を含めて四人だ。

「そろそろ部誌の締め切りが近づいてきてるな。各自、作品は必ず提出するように」

 我が文芸部は、年に部誌を三、四回発行して、大学内で配布するのが主な活動内容だ。部誌には僕たち部員が書いた小説が載っている。

「俺は今回、連載を始めてみようかと思っている。ハイ・ファンタジーだ。今までにない設定を盛り込んだ。構想が壮大すぎるから、卒業までに完結できるかどうかが怪しいがな」

 先輩は、部会中に唐突に自分の話を突然始める。ちなみにハイ・ファンタジーとは異世界を舞台にしたファンタジー小説のことだ。

「おっと、脱線したな。何で俺が連載を始めようと思ったのか、その理由は分かるか?」

「……作品への愛が高まったからですか?」

 挙手して発言したのは友だった。

「残念ながら違う。そもそも、俺の作品への愛は常に頂点だ」

「そうですか……」

 友は残念そうに俯いた。心なしか、背中のパンダ耳がいつもより垂れ下がっていた。

「どこかに投稿でもするんですか?」

 これ以上話が進まないのは面倒なので、僕はそう言った。

「惜しいな。分からないか?」

 やれやれと演技じみた仕草で肩をすくめてみせる先輩。

「俺はもう、大学二年の一〇月だ。文芸部に所属してそろそろ二年だ。けれど、俺は今まで何も成してないような気がしたんだ。だから、何かでかい花火を打ち上げないと」

 先輩は机の引き出しから、青色の封筒を取り出した。

 ……僕はそれを見て言葉を失った。が、気づいたのはこの場にいる僕だけのようだった。

「ふっふっふ、ヒロは分かったようだな。そう――」

 先輩は立ち上がり、胸を張って言った。

「――冬コミに、出るぞ!」


* * *


 コミック・フェスティバル。通称コミフェ。東京ビッグサイトで夏と冬の年二回、三日間ずつ行われる、日本最大の同人誌即売会である。

 同人誌とは、出版社を通さず自主制作をした本のことだ。その内容は多岐に渡る。特定のアニメやゲームのパロディ漫画であったり、オリジナルの小説であったりする。文芸部が作った部誌も広義では同人誌になる。

 各団体がサークルとして参加し、参加者に手渡しで同人誌を売る。それが同人誌即売会だ。

 その最大の即売会に、川原先輩は参加するという――


>hiroki:俺のクソ文芸部、冬コミに出すとか言いやがったwww

>bud:うはwマジで?www よく出す気になったなーw


 深夜一時。

 僕は一人暮らしのアパートでパソコンに向かい、メッセンジャーの画面に文章を打ち込んでいた。メッセンジャーとは、一対一できるチャットのようなソフトだ。

 画面のhirokiが僕で、budは知り合いだった。

「軽小説研究所」という小説投稿サイトで、何度か感想のやり取りを直でしているうちに、仲良くなった人だった。ネット上でしか付き合いがない友人だが、着眼点がなかなか鋭く、同人方面にも造詣が深いので、話していて楽しかった。


>hiroki:辞めましょうって言ったんだけど、聞いてもらえなかったw


 文末についている〝w〟とは、(笑)を簡略したものだ。ネット上でのスラングである。要するに、(笑)をつけなければ語れないようなことを話しているわけだ。

 川原先輩は前から頭がおかしいとは分かっていたが、ここまでだとは思っていなかった。


>bud:まあ、頑張ってみれば?ひょっとしたら爆売れするかもww

>hiroki:ねーよwwww


〝w〟をつけて話してはいるものの、割と真面目に言っている。

 断言する。文芸部の部誌が売れることなど、ありえないと。


>bud:そういえば、hirokiの軽研に投稿した新作、結構いい評価だったじゃん?

>hiroki:お、マジで? 見てくる


「軽研」とは「軽小説研究所」の略称である。つい三日前に小説を投稿したのだ。

 budは小説を投稿しない見る専利用者だが、だからこそ随時軽研をチェックしているらしい。

 僕は感想掲示板を開いた。僕が〝night〟というペンネームで投稿した作品のスレッドには、かなりのレスポンスがあり、そのどれもがよい評価だった。


>bud:俺も読んだけどなかなか大衆に迎合した感じの作品でしたねぃ


 budの言うとおりだった。〝会話劇〟〝日常もの〟〝コメディ〟――投稿したのは、今流行している要素を詰め込んだ小説だ。

 一〇〇%ではないものの、ネットは一般市場の縮図だ。今売れるものは、シリアスやアクションなどではない。ジャンクフード感覚で読み捨てられる、気軽なものなのだ。


>bud:ま、割と今の市場を掴めてると思うし、面白かったよ。特にヒロインの幼女がよかった

>hiroki:お前は幼女なら何でもいいんだろwwww



 馬鹿話をしているうちに、深夜三時になる。さすがに寝ようと思い、僕はbudに挨拶をしてからパソコンの電源を落とした。

 そうすると、何も映っていないディスプレイに、見慣れた自分の顔が現れる。

 大きめの瞳と、男にしては長いまつげ、薄い唇。昔はよく女に間違えられ、今でもよく〝可愛い〟と言われる自分の顔は今、

「…………」

 歪んだ笑みを浮かべていた。


 ――僕は、卑屈だ。


* * *


「読んでくれ、ヒロ!」

 翌日。放課後に部室に行くと、いきなり川原先輩に紙の束を渡された。

「な、なんですかこれ?」

「昨日言っただろ。俺の連載第一話だ。読んで感想を聞かせてくれ!」

 したり顔で先輩はそう言った。

 断れそうな雰囲気ではなかったので、仕方なく僕はパイプ椅子に座って原稿を読み始めた。


『クリスタル・クリステル プロローグ

 そのとき、世界は三つに割れた。

 闇の力を司るダーク・イリュージョニストの反乱により、光と空が分かたれたのだ。

 この世界は今まで三つの力で支えられていた。先述の闇、光、そして空である。

 だが、ダークイリュージョニストが放った必殺魔法、〝メテオスォーム〟により、全人類の七割が滅亡するという大損害を被った。

 以来、惑星テラは焦土と化し、そして主人公の物語は始まる――――――――――』


「…………」

 そのときの僕の顔を想像して頂けるだろうか。大体それで合っていると思う。

「闇と光という概念はよくあるものだ。しかし! そこに〝空〟という属性が加わることで、世界観は無限に広がる! どうだ、斬新だろう!」

 先輩は嬉しそうに言った。何も疑わない赤子のような、純真無垢な瞳をしていた。

 突込みどころは両手の指に余った。だが僕は、笑顔を作って口を開いた。

「なかなか素晴らしいと思います。確かに、今まで見たことがないです」

「だろう、ハハハッ。ちなみに三話まで出来ている。明日持ってくるからまた読んでくれ」

 僕はげんなりする気持ちを押し殺した。先輩、筆だけは早いらしい。

「ううっ、ううっ、そんな、別れるなんて……っ」

 と。左手で、友がぼろぼろ涙をこぼしていた。どうも先輩の原稿を先に読んでいたようだ。

 原稿を斜め読みすると、プロローグで主人公とヒロインが悲劇的な別れをするようだ。どうやら友はそこに涙を流しているらしい。パンダパーカーの耳がふるふる左右に揺れている。

 友は、よく言えば感受性が豊かなのだろう。悪く言うことは際限なくできるが差し控えたい。

「…………」

 机の右手に座る大門も同じく原稿を読んでいるが、じっと黙っている。時折ぶつぶつ呟いたり、変に笑いをこぼしたりしていて、見ていて不気味だ。

「ところで、先輩」

 僕は一呼吸置いて、切り出した。

「なんだ?」

「今度の部誌、冬コミに出すんですよね? お金を取って、売るんですよね?」

「当然だろう。そのためのコミフェだ」

 僕の中にあるちっぽけな善意を込めて、本当に真面目なアドバイスをした。

「表紙はどうするんです?」

「……なに言ってるんだ?」

 馬鹿なことを、といった感じで先輩は続けた。

「表紙なら決まってるじゃないか。伝統を崩してどうするんだ?」

 と先輩は、壁の本棚にずらりと並ぶ、我らが文芸部の部誌を示した。一〇年前からの歴代の部誌が並んでいる。

 そのどれもが、表紙に〝中明大学 文芸部 部誌 第○○号〟と書かれただけだ。余計な装飾は一切ない。

「……この文字だけの表紙ですか?」

「そうだ」

 僕は懸命に言葉を選びつつ、返す。

「だけど今までの表紙って、何と言うか……味気ないじゃないですか。もう少し外見を飾ったほうが、」

「恥を知れ!」

 どん、と先輩が机を叩いた。その音に驚いて、友と大門が肩を跳ねさせた。

「いいかヒロ、まだ分かっていないようだな。我ら文芸部は中身で勝負だ。表紙で人を釣るような商業主義に走ってたまるか。面白ければ絶対に買ってもらえる。……それとも、ヒロは小説に自信がないとでも?」

 エスカレートした先輩は、僕の肩を掴んで前後に揺さぶり始めた。

「俺たちは文章で勝負をする! 分かったか、天野ヒロォ――!」

「わ、わかり、わかりまし、たっ、」

 息も絶え絶えに返事をすると、先輩はニカッと笑って、ようやく解放してくれた。

 僕は乾いた笑いを返しつつ、内心で思った。


 ああ。馬鹿な人を見るのは、とても楽しいなあ。


* * *


>bud:なwwwんwwwだwwwそwwwれwwwwww


 家に帰り、メッセンジャーで先の出来事を書き込むと、budは〝w〟を何本も生やした。


>hiroki:な? これで売れると思う?www

>bud:爆売れ決定だろwwwww


 budはネットの向こうで笑っているだろうし、僕も顔からニヤニヤ笑いを消せなかった。


>bud:お前の文芸部、ホント面白いなー

>hiroki:まあ、文芸部入ったのはイタい人観察のためだしね。ホント、当たりだったよw


 現実ではこんなこと口が裂けても言えないが、顔の見えないbudだから素直にそう書けた。

 人間は、自分より下の存在を見下すことで自尊心を保てる。僕も無論そのクチだ。

 川原先輩。大門元気。そして平松友。彼らを見るのは、とても楽しい。


>bud:ところで、シナリオライター氷路鬼サン。もう新作のシナリオはできたの?

>hiroki:ああ、今は大体8割くらいかな。ようやく最後のエロシーンができたとこ

>bud:おっ、男の娘はいますかっ


 男の娘とは、少女のようにしか見えない少年のことを言う。


>hiroki:ちゃんと入れたよwお前のせいで今回の絵師さんと少し喧嘩したんだぞw

>bud:いや、俺は今の流行をアドバイスしただけで別に性癖ってわけじゃないんだからねっ


 僕は〝night〟名義とは別に、〝氷路鬼〟という名前で同人ゲームのシナリオライターをやっている。同人ゲームとは、同人誌と同じ自主制作のゲームだ。

 僕が所属する〝シュプレヒコール〟というサークルは、主に人気アニメやゲームのパロディーゲームを作っている。そして大体が成人男性向けだ。要は版権キャラが男性と性行為をする、決して親には見せられない内容である。


>bud:にしても氷路鬼センセ、最近すごいな。DDMドットコムで今月一位だろ?


 同人ゲームは、ダウンロード販売といって、インターネット上でデータだけを売ることもできる。budが言った〝DDM〟とはそのダウンロード販売サイトの一つで、シュプレヒコールのゲームがいくつか登録されている


>hiroki:一位? すげーな。知らなかった。

>bud:さすが神ライター。氷路鬼先生はワシが育てた

>hiroki:あー。でもそれ、あながち間違いじゃないw budのおかげでかなり企画よくなったと思うし。あと、結構金積んでいい絵師雇ったし


 budには同人ゲームのアドバイスももらっていた。今回は彼のおかげで、よりエロくて売れそうな要素を取り入れられたし、依頼する絵師の方向性もすぐ決まった。

 僕は人を集めて適当に文字を打っただけで、大したことはしていない。売れたのはアドバイスがよかったのと、絵師が可愛くていやらしい絵を描けたからに他ならない。

 逆に言えば、それらの要素さえよければ、愚にもつかないシナリオでも売れるということだ。

 そう、所詮文章なんて、


 ――〝小説なんて、売れないのよ!〟


「…………」

 過去の傷が発作的に掘り返されそうになって、僕は慌てて思考を中断した。


>bud:卑屈になんなよw期待してるぜ氷路鬼センセ

>hiroki:もうゴールしてもいいよね……

>bud:死ぬなー!


 そう、僕は卑屈だ。だが卑屈だからこそ、現実は知っているつもりだ。

 少なくとも、あの文芸部員よりは。


* * *


 先輩のクリスタル・クリステルは連載開始スペシャルということで三話一挙掲載となった。

 また、それぞれ友と大門も各々作品を提出した。

 僕はというと、新しく書くのが面倒だったので、昔小説投稿サイトに出した作品を適当に改稿して出した。


* * *


 そして、あっという間に冬コミの日は来た。

「うぉお――! 人がゴミのようだー!」

 国際展示場駅を出ると、川原先輩がお決まりの文句を言った。

 まだ八時前だというのに、もう駅前は人でごった返している。長蛇の列とはまさにこのことを言うのだろう。

 どこを見ても人、人、人。手を少しでも広げれば、隣の人にぶつかってしまう。木枯らし吹き荒れる寒々しい天気だというのに、人が盾になって少しも風が当たらない。

 列はそのまま、遠くに鎮座する逆三角形……東京ビッグサイトへと続いている。

 本日は冬コミ二日目。一日目で早くも来場者数一〇万人を突破したコミフェは、その勢いが少しも衰えていないようだった。

 しばらく行くと、道が二手に分かれている。一般参加者と、サークル参加者を分ける道だ。前者はビッグサイトの外周へ、後者は屋根のついた道を辿ってそのまま建物へと向かう。

「すごい……。なんだか、わくわくしますっ」

 僕の隣を歩く友が、上気した頬でそう言った。寒いからか、今日はパンダパーカーのフードを頭に被っている。

 コミフェでサークル入場できるのは、一度に三人まで。ゆえに、今日のメンバーは僕と友と、川原先輩だ。大門は一般入場が開始してから来るらしい。

 ……本音を言うなら、僕はあまりコミフェに来たくなかった。いくつか理由はあるが、中でも最たるものは、〝ある人〟と会いたくないからだ。

 ビッグサイトは広く、コミフェに来る人は三日間の累計で五〇万人を超える。待ち合わせでもしない限り、誰か特定の一人と会える可能性は皆無だ。

 それでも、万が一という可能性もあるので、できれば遠慮したかった。

 しかし先輩に、〝お前はこういうの詳しそうだから〟と言われ、強制的にチケットを押しつけられては是非もない。

 ただまあ、アイツと僕のサークルは遠く離れている。それこそ、顔を会わせることなどありえないくらいに。そもそも、アイツは今日僕が参加すること自体知らないはずなのだ。

 だから会わない。会わない、はずなのだ。

 僕は心臓に手を当てながら、サークル入場の道を歩いた。


 コミフェはビッグサイトの全館を借り切って行われる。東ホール西ホールと別れているうちの、後者へと向かう。

 長い廊下を歩いて、エスカレーターを降りて、西ホールへ入る。

 一気に風景が開けた。どこまで広がる机の海と、四階建てのビルもあろうかという高い天井。

 外は一桁の温度だというのに、開場前でシャッターが閉められていることもあって、体感温度は二〇度もあろうかというほどだ。

「うおおお……ここが会場かっ!」

 先輩と友は、感動で目を輝かせている。

「いこうっ。スペースはどこだヒロ!」

「〝くブロック 10-b〟だから……あっちですね」

 僕が指差すと、スキップせんばかりの軽やかな足取りで、先輩はそちらへと向かっていった。

「私たちも行きましょう、ヒロさんっ」

 友も待ちきれないとばかりに歩き出した。被ったままのパンダパーカー、その黒い耳がぴんと立っていた。


 コミフェのサークル配置は、ただ雑多に分けられているのではなく、きちんとジャンル分けがなされている。それは日にちだけではなく、ブロックによっても行われている。

 振り分けられたのは〝オリジナル文芸〟ジャンル。しかも、大学などの部活動として参加する人たちの集まりだ。

 僕たちは机で細長い長方形が形成された、〝島〟と呼ばれる一区画の内側に入る。

 隣や対面のサークルは、僕たちと同じくらいの年齢だった。

「おはようございます、今日はよろしくお願いします」

 僕は隣のサークルに挨拶をしておく。男三人で来ているお隣さんは、笑顔で会釈してくれた。

「うおおっ! ちゃんと! 本が! スペースに届いてるぞヒロ!」

 机の下には、印刷所の名前が書いてあるダンボールが置いてあった。

「そりゃ当然ですよ。ちゃんと申し込めば届けてくれます」

「うおおおっ! ちゃんと本が入ってるぞヒロ!」

 先輩は僕を無視して、既にカッターで箱を開け始めていた。箱の中には当然、入稿した本が入っている。

「……そりゃ、入ってますよ」

 呆れつつ隣を見ると、友が頬をぽうと赤らめて、じっと箱の中の本を見つめていた。彼女も雰囲気に飲まれているのだろうか。

 まあ、馬鹿なことしてないでとりあえず設営準備だけしてしまおう。

 僕は鞄から、机に敷くテーブルクロスを取り出した。


* * *


 午前十時。コミフェがついに始まった。

 怒涛のごとく、とはよく言ったものだ。赤壁の戦いで曹操が見た光景はこんな感じだったのかもしれない。ホールの入り口から、無数の人が入り込んでくる。わき目も振らず、遅れた者を尻目にして。目的はただ一つ、同人誌を得るがために。

 しかし、東ホールと違ってここ西ホールは、開幕直後はまだ緩いものだ。壁サークルにこそ人は集まるものの、オリジナル文芸ジャンルであるこの〝く〟ブロックに、すぐ人が来ることはない。来るとしたら、それはこの近辺に並ぶ人が少ないことを見越して、移動用に通路を使うときくらいのものだ。

「ついに我ら文芸部が、同人の覇権を握るときが来た! ふっはぁははははー!」

 川原先輩は高笑い。

 ちなみに売り子は僕がやっている。見栄えのいい先輩や友がやればいいと言ったが、却下された。曰く、友君は女性だからで、俺は部長だから、とのこと。レディーファーストという考え方はもう古く、むしろ女性蔑視に繋がりかねませんよと言いたかったがやめておいた。

「なぁ、友君。見たか?」

「はい? 何を、でしょう?」

 僕の後ろで、先輩が友に話しかけた。

「周囲のサークルだ」

 隣のサークルには聞こえないよう、先輩は声を絞っていたが、僕の耳には届いた。僕は先輩の言うように、両隣のスペースに目を遣ってみる。

 漫画研究会にでも依頼したのか、部内に絵の描ける人がいたのか……両隣の新刊は、きちんとした装丁の本だった。表紙に絵を使い、レイアウトも凝っている。少なくとも僕たちの本よりはよっぽど目を惹いた。

「彼らには羞恥心がないのか?」

 先輩はぼやいた。友の顔は見えなかったが、何だか答えづらそうな空気が伝わってきた。


 開幕して二十分も経った頃だろうか。

 よほど小説が好きなのだろうか。まだ早い時間だというのに、明らかにこの〝く〟ブロックを見て回っている男性の参加者がいた。

「おっ、アレはっ! 来い、来い来い来いっ」

 先輩が呪文のように唱えていると、はたしてそれが通じたのか、その参加者はこちらのスペースへと近づいてきた。

「来たあっ! 俺の新作クリスタル・クリステルを読め――!」

 そうして彼は、僕たちのスペース――の右隣の新刊を手に取った。

「な……んだとぉ!?」

 彼はぱらぱらと本をめくった後、テーブルに戻した。

 今度こそ彼の視線は、僕たちのスペースへと向いて――あっという間に通り過ぎ、今度は左隣のスペースへと歩いていった。

「な……ぜっ!?」

 再びぱらぱらと読んだあと彼は、今度は一つくださいと言って、新刊を買った。

 そのまま僕たちのスペースに二度と視線をくれることなく、去っていった。

「なぜっ! アイツは馬鹿なのか!? 外見で人を判断するのか!?」

「だ、大丈夫ですっ、きっと売れてくれますっ。私たちの本には、愛がつまってますからっ」

 先輩は声を抑えずに喚き、友がそれをなだめていた。

 僕は面倒なので、しばらく何も考えず、ぼーっとすることにした。売り子がそんなことをしていては本来いけないのだが、別に構うまい。

 どうせ、一冊だって売れやしないのだ。


 先輩の希望は破れ、僕の展望は当たった。

 午前十二時半になり、西ホールも大分人でごった返してきた。〝く〟ブロックにも人が来るようになった。

 だが、人が通り過ぎてゆく。たまに視線を僕たちのスペースにやっても、すぐにあさっての方向に逸れる。新刊を買うどころか、手にとる人さえいない。

「……俺の、新作が……」

 先輩が呆然と立ちつくしていた。

 先輩、知ってますか。本というのは絵画と違って、手にとってもらえなければ中身を見てもらえないんですよ?

 ……そう、僕は心の中で呟いた。口には出さない。楽しみがなくなってしまうからだ。

 人の挫折する姿。これこそ求めていたものだ。卑屈な僕が、唯一自尊心を保てる光景だ。

 時間は刻一刻と経ってゆく。このまま僕たちの本が誰の手にもとられないまま、コミフェは終わるだろう。

 その事実を突きつけられたとき、先輩と友は一体どんな顔をするのだろう。今よりもなお、絶望に支配されるのだろうか。

 早くそれを見てみたい。早く。早く。早く。

 早く―――――――


「――――え?」

 そのとき。僕は、ありえないものを、見た。


「……ヒロ、さん?」

 友が話しかけてきたが、答えられなかった。

 少し背が伸びていた。まだあどけなかった顔は、今は女性としての色香を備えはじめていた。

 だが、ボブカットの髪型も、その気の強そうな精悍な顔つきも、ゴスロリ調のワンピースも、あのときと同じままだった。

 まずい。逃げろ。壊れる。必死に保ってきた僕の自尊心が破壊される。

「きゅ――」

 急にお腹が肺炎の失血症で心臓ガンが肩に爆弾でトイレに行きたいんだ、と言おうとした。

 が、遅かった。

 一〇メートルほど離れた位置から、彼女の目は既に僕を見つけていた。僕たちのスペースへと、歩いてくる。

 周りはうるさいはずなのに、かつかつという彼女の靴の音はよく耳に届いた。

 時間が引き延ばされている。周囲は色を失い、しかし彼女だけがきつい原色をまとっている。

 やがて彼女は、僕の目の前に立った。

「ヒロ」

「……咲」

 三年前に夕日の公園で別れたはずの。僕の幼馴染。

 日下咲だった。


* * *


「久しぶりね」

 咲は優雅に微笑んだが、僕は言葉を返せなかった。目を見られない。

「何やってるの? ……って、聞くまでもないわね」

 咲は机においてある新刊に手を伸ばし、手に取った。

 奇しくも一番見て欲しくない人が、読者一号になった。背後で先輩だけが、「おおっ!」と喜びの声をあげていた。

 が、本の冒頭にある先輩の小説はスルーされた。彼女はぱらぱらとページをめくり続け、やがてある地点で指が止まった。その辺りは、ちょうど――

「これ、ヒロが書いたの?」

 僕は答えなかった。唇を噛みしめて、黙った。

「ふぅん……そう」

 そのときの咲の顔は、見なくても分かった。

「まだ、この程度なんだ」

 ――笑っていた。嘲笑していた。蔑んでいた。

 僕はありとあらゆる言葉から身を守るために、心に障壁を張っていたつもりだった。だが、ダメだった。彼女の言葉は、どんな銃弾よりも鋭く心をえぐった。

 膝が崩れそうになる。肩が震え出す。寒い。会場は人の熱気で暑いのに。

「私を越えてみせるって、あの日言ったわよね? あれは、嘘だったの?」

「ち――」

 違う。違うんだ。こんなクズみたいな部誌で僕を語らないでくれ。載っているのは適当に書いた作品だ。今の僕なら、もっともっと、素晴らしい作品を、書け――

 ――書けるのか? 本当に?

 怠惰な生活を送って、具にもつかない文章を書いているだけの僕が?

「おい、ちょっと待てよアンタ」

 と。僕を押し退けて、ずいと川原が身を乗り出してきた。

「言ってくれるな。そりゃこいつの作品は粗が多いけど、いいとこはたくさんあるんだぞ」

 ああ。川原。やめろ。川原先輩。やめてください。

「アンタ可愛い顔してるけど、創作したことあんのか? 言うは易く行うは難しと昔から、」

「はい」

 咲は川原の言葉を遮って、ポケットから何かを取り出して、机の上に投げた。

 それは、札束だった。

 一万円札ではなく、千円札の束ではあったが――ゆうに一〇〇枚以上あり、そのどれもがくしゃくしゃで、ゴムで乱雑に縛られていた。まるで、この会場内で束を作ったかのように。

 ただの一般参加者が、こんなにかさばるような持ち方をするだろうか?

「午前中で完売しちゃったから、暇つぶしに歩いてたのよ。今まで出した短編の総集編だったから、よく売れてくれたわ」

 そして今度は、川原の目の前にすっとチケットを差し出した。

〝東1 A-36 フロンティア〟。

 ……コミフェの配置は主に、〝島中〟と〝壁〟に分けられる。島中は僕たちがいるような、長方形の机が並ぶスペースの中。対して壁は、ホールの外周に沿って配置されたサークルだ。壁サークルだと同人誌を大量に搬入できたり、人の行列に対応できたりというメリットがあるため、主に大量部数を売り上げる大手サークルが配置される。

 東1ホールAブロックは、壁サークルだった。

「あ……う、」

 川原は、うめき声をあげて黙った。

 僕は今更ながら、周囲がざわついていることに気づいた。それはコミフェで自然に生じる雑音ではなく、明らかに僕たちの周りに集まりつつある音だった。

 ――おい、あれ〝奈糸〟じゃないか?

 ――嘘だろ? ……マジだ。なんでこんなとこに?

 視線を集めているのは咲だった。しかし彼女は周囲の注目を意に介さず、髪をかきあげて僕を見た。

 日下咲。ペンネーム、〝奈糸〟。サークル〝フロンティア〟主催者、絵描き、漫画描き。

 コミフェでは毎回壁サークルとして出展。一〇〇〇部をゆうに越える部数を売り上げる――それが、今僕の目の前にいる女性の正体だ。

 咲は僕と別れてから、たった三年間でそこまで上り詰めていた。

 ……ネット上で話題の同人作家〝奈糸〟が、咲だということはすぐに分かった。幼少の頃から彼女の絵を見続けていたのだ。

 だから、彼女の動向は逐一チェックしていた。今日コミフェに出ることも分かっていたが、彼女は東ホールの配置で、しかも壁だ。西に来る暇なんてないと思っていた。はず、だった。

「よくも、恥ずかしげもなくこんなものでお金を取れるわね?」

 咲は乱雑に部誌を机に投げた。そのせいで表紙が折れてしまったが、僕は何も言えなかった。

「一体何部売れたのかしら? ふふっ、一〇〇〇部くらい? すごいわね、尊敬するわ」

 僕は反論すべきだった。この場で広辞苑を開いてでも、言い返す言葉を探すべきだった。

 だが、言えない。何も。何も。

「だから、言ったじゃない」

 咲は、言った。まるで決め台詞のようにして。


「小説なんて、売れないって」


 パン。

 そんな音がした。

「訂正して、ください」

 いつの間にか僕を庇うように立っていた、平松友が。

 思い切り、咲の頬をビンタしていた。

 友の横顔ははっきりと――怒っていた。整えられた眉を歪め、柔和な眼差しを鋭くし、咲を睨んでいる。

「訂正して、くださいませんか」

 静かな声。しかし、その裏側には反論を許さない重みがあった。

「なにを?」

 ビンタされたというのに、咲は平然と怜悧な目で友を見ていた。

「私たちの本は、くだらなくなど、ありません」

「くだらないものをくだらないと言って何が悪いの。言論統制でもするつもり?」

「どうしてそうやって、人が一生懸命作ったものを、馬鹿にできるのでしょうか」

「〝一生懸命〟なんかじゃ人は買ってくれないわ」

「それは、貴方が可愛そうなだけです」

「……かわい、そう?」

 飄々と話していた咲が、そのときだけ眉を動かした。

「あなたは、小説の力を信じられていないのです。だから、そんなことが言える」

「…………」

 凛とした言葉だった。友の言葉は抽象的な精神論でしかなかったが、不思議と身に染みる力強さがあった。

 咲は黙った。憤怒に燃えているのだろうかと思ったら、

「そう。なら、貴方たちを信じてみることにしましょう」

 にやりと――嫌らしく、笑った。

「貴方が言う〝一生懸命〟さで、くだらない本を買わせてみなさい。そうすれば、私は総ての言葉を撤回するわ」

「……そうですか」

「ただし。私を殴ったんだから、生半可な〝一生懸命〟さじゃ許さないわよ?」

 これ見よがしに、赤くなった頬を撫でる。

「そうね……一〇〇〇部。貴方たちの部誌を、来年の夏コミで一〇〇〇部売ってみなさい」

 ただの文芸サークルが、一〇〇〇部を売り上げる。

 不可能だ。さすがに友でもそれは分かるだろうと思っていた。一部でさえ売れなかったのだ。今日の惨状を見れば、どんなに馬鹿だって――

「受けるッッ!」

 僕と友を押し退けて、川原が前に出た。……そうだ。馬鹿より頭の悪い奴が、いたんだった。

「受けようじゃないか! ここまで馬鹿にされて引き下がれるか! たった一〇〇〇部売ればいいんだな! はっ、後で泣いても許してやらないぞ!」

 一体今の流れの中で、どこからそんな台詞が出てくるのか。自信に満ちた声だった。

「……部長」

 友が呆然と川原を見る。

「今の言葉、素晴らしかった。美しい心が伝わってきた。俺は友君の味方だ!」

「はいっ!」

 やめてくれ。そんな風にことを進めないでくれ。

 そう言いたかったのに、僕の唇は磁石みたいに張り付いたままだった。

「それじゃ、勝負は成立ね。貴方たち文芸部は一〇〇〇部を来年の夏コミで売る。プロ作家にお金積んで依頼なんかしちゃダメよ。あくまで、貴方達の力で、ね。

 もし売ることができたら、私は小説を素晴らしいものだと認めましょう」

「当たり前だ!」

 川原が茶々を入れたが、咲は冷たく無視して、続けた。

「もし、貴方たちが失敗したら――二度とコミフェに出られなくしてあげる」

「……え?」

 驚きは友の声。それは、咲の言葉に驚いたわけではなかった。

 僕も気づいた。いつの間にかスペースを取り囲む人々の雰囲気が、おかしくなっている。

 物々しい……というより、明らかに僕たちに悪意と敵意が向けられている。それは、スペース内で騒ぎ散らすのを咎める視線では決してなく。

「壁を何回かやってるとね。色々とツテが増えるのよ」

 人が、次々とスペースの周りに集まってくる。参加者。サークル主。コミフェスタッフ。

「だからこうやって、物理的に貴方たちを潰すこともできるわけ」

 誰かが咲の横から手を伸ばして、机に置かれた新刊を手に取った。

 それを皮切りにして、次々と周りの人々が新刊を掴んで、破ってゆく。

 破ってゆく。そこに躊躇は一切なく。ただ当たり前のようにして。

 破ってゆく。縦に。横に。無惨に。残酷に。陰惨に。

「いやあああああっ!」

「やめろ! やめてくれ!」

 川原と友が叫んでいる。

 だが、スペースは取り囲まれている。前も、いつしかスペースの中でさえも。ほとんど円形に包囲されているため、本が破られる光景は人が壁となって隠されている。

 白が舞う。吹雪のように紙片が宙を踊る。視界を埋め尽くす。雪のように床へ積もってゆく。

 それを、僕はどこか異世界のように感じていた。まるでベールを通したように、情景が淡い。

 世界は灰色で。咲しか色を持っていなかった。


「それと貴方。友、だったかしら? 可愛い顔ね。ふふ、色々と使い道がありそうだわ」

 総てが終わると咲は、何事もなかったかのようにスペースから離れていった。

 既にスペースを囲む人の姿もなく。残されたのは大量の紙片だけ。

 友は泣き。川原は言葉を失い。

 僕は、最後まで咲を見られなかった。

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