その八
翌日、士郎は昼休みに担任に呼び出されると職員室で軽く叱られた。それは、アルバイトをするのなら前もって話しておけという内容だった。しかも、バイト先が捨て去り探偵事務所ではなく、昨日の夜に行った桃源喫茶だった。まあ、さすがに探偵事務所でのバイトなんて学校側が許すはずも無い。それに、後見人が桃子に代わるのだ。だから桃源喫茶は打ってつけのアルバイト先というわけである。
なにしろ、実際は捨て去り探偵事務所で働いていても、体面では桃源喫茶でのアルバイトである。まあ、喫茶店でのバイトなら学校側から文句が出るはずもなく。だから、士郎は前もって話しておくようにと、叱られはしたが、バイト自体は許可されたのだった。
何にしても、これでアルバイトの許可は取ったワケである。まあ、昨日上がった話なのだが、ここまで迅速に事が進められている事に士郎は驚いたが、福寿と桃子なら、何となくだが、その速さが分かるような気がした士郎だった。だから、士郎はアルバイトを理由に友人の誘いを断ると、すぐに捨て去り探偵事務所に足を向けるのだった。
「おつかれさ~ん」
一応、簡単な挨拶をして捨て去り探偵事務所の中に入った士郎は、奥から聞こえてきた福寿の声を聞いて、奥に向かうと驚くのだった。
それは、福寿の向かい側にあるデスクの上に、昨日まではなかったパソコン一式があったからだ。更に福寿から驚きの言葉が発せられる。
「今日から、そこが君の席だ。パソコンは自由に使ってもらって構わないが、厄介なサイトは覗かないように。それから仕事用だという事を覚えておきたまえ」
「いや、そんなサイトは覗かないし。というか、これって自由に使って良いのかよっ!」
士郎が福寿の助手になったのは昨日の事だ。それなのに、こんな設備をすぐに用意するとは、福寿が発した手際の良さに士郎は感心しながらも、電源を入れて、新品のパソコンを起動させた。仕事用とはいえ、こんな物まで用意してもらったのだから、嬉しかったのだろう。
だが、そんな士郎の雰囲気をぶち壊すようにモニターの上から書類が入っていると思われる茶封筒が降って来た。まあ、位置的から福寿が投げ込んだ事は確かだ。そんな福寿の行動が意味しているのは、パソコンを堪能するまえに書類に目を通せという事だろう。
だから士郎は起動中のパソコンを放っておいて、先に茶封筒に入っている書類を確認する。そして、最初の書類を見てから士郎は驚くのだった。なにしろ、最初の書類には昨日、彩乃を連れ去った男性の顔が記載してあり、男性の関する詳しい情報も記載されていたからだ。
その内容は、こうなっていた。
まずは左上に男性の写真。その横には男の名前と現住所が書かれていた。そして、その下には驚くべき事実が記載されていたのだ。その内容が、こうである。
男性の名前は松枝哲也、現在二十六歳。大手会社の副社長をしている。どうやら、親の会社であり、私生活でも裕福だったようだ。そのため、次の社長候補となっているのだが、本人には未だに、そのような自覚は無く、夜な夜な遊び歩いていたようだ。そのため、夜の遊びではかなりの金をばら撒いている。
それだけではなく、公然わいせつ罪での逮捕歴もある。しかも三度もあるために、最近では夜の遊びを控えるようになったらしいが、会社での態度は変わっていないようだ。親の威光を盾にしてセクハラをしている疑いもあるが、確実な証拠があるわけでも無く、誰も口に出さない事から立件にも至っていない。
そのうえ、上記の逮捕歴も全て罰金を親が払っているために、本人には犯罪を犯したという意識が薄いようだ。だが、その親から説教を受けたようで夜の遊びを控えるようになったが、本人の態度はまったく変わっていない。だからか、警察側でも強制わいせつ罪が有るのではないかと疑っているようだが、未だに証拠が上がらずに警察でも簡単な監視程度しか行っていない。
だが、今回のケースでは更に悪い方向へも考えられる。未だに、それは不明だが、これから見る事実によっては訴訟も可能になると思われる。そのため、私達は彼を訴えるためにも、証拠と彩乃の行方を付き止めなければいけない。彩乃を見つける事こそ、今回の案件を訴える事が出来る唯一の手段だと考えられる。
書類を読み終わった士郎は書類をパソコンの隣に放り出した。確かに、昨日の段階では悪い方向へと進む可能性があった。だが、相手の男が、こんな奴だと分かると士郎の不安は確実なものになって行き、黒を見た時と同じように気分を害するのだった。
そんな士郎が慌てた様子で立ち上がって福寿に言葉を掛けようとするが、福寿の方が先に口を開いてしまった。
「落ち着きたまえ。君がここで取り乱しても何の意味も無い。それよりも、まずは冷静になって自分が出来る事を考えたまえ、その程度は私の助手としてはやって欲しいものだ。それに、今回の依頼で松枝を訴えられるチャンスかもしれない。そのためにも、折笠彩乃を見つけないといけないのは分っているだろうね。最善から最悪までのケースを考えて折笠彩乃を見つける。それが私達のやるべき事だ」
福寿がそんな言葉を放つと、士郎は力が抜けるように、また椅子に座ると、乱れきっている自分の心を落ち着かせ、尚且つ、これからの事を考えるのだった。
落ち着け、よし、まずは落ち着こう……。福寿の言うとおりだ、ここで俺が取り乱しても彩乃を見つけるのが遅くなるだけじゃないか。俺達に出来る事……それは、少しでも早く、彩乃を見つける事だ。そのためには何が必要だ……そう、冷静さと的確な判断力だ。どんな状況であっても、その二つを失ったら何も分からないし、見えない。それは昨日の山吹を見た時だって、そうだったじゃないか。俺が出来る事が出来なかったからこそ、ミスを犯した。黒を見た後に冷静さが無かったから福寿にやつ当たりをしてしまった。だから、今度こそ、全てを冷静に受け止めないといけない。そう……それしか俺には出来ないんだ。
そんな事を考えていると士郎は自然と落ち着きを取り戻していた。そんな士郎を福寿はモニターの横から見たのだろう。今では身体を戻して福寿の顔は見えないが、しっかりと言葉に出してきてくれた。
「なかなかではないか。まだ二日目だというのに、そんな顔が出来るなんてね。さて、後は君次第だ。君の覚悟が出来たのなら出発しよう。分っていると思うが最悪も想像しておくように。それが出来れば君は冷静さを保つ事が出来る。だから、後は君次第だ」
それだけを言うと福寿は黙り込んだ。そして士郎は福寿の言葉を胸に刻むのだった。そう、この後、どんな残留思念を見るかは分からないが、どんな色をした残留思念だったとしても、士郎は、それを見なくてはいけないし、残留思念が残したものを全て受け止めないといけない。それこそが士郎に出来る事なのだから。
そんな士郎が席を立とうとするが、すぐに座りなおした。それは未だに少しだけ焦っている自分を感じ取ったからだろう。そんな士郎が、更に自分を落ち着かせるために思考を巡らす。
後は……俺次第か……。そうだよな、福寿は俺に何度も問い掛けた。人の醜態を目にし、人の醜言を耳にする覚悟はあるのかと。何度も、そんな問い掛けをしたのは、最悪なケースを想像しろという意味もあったのだろうな。そして……それを目にして、耳にする覚悟も必要だと……。今までの、いや、今でも俺は甘いのかもしれない。でも……これから強くなれる、強くならないといけないんだ。俺は、この道を選んだ事に後悔はしていない。これこそが贖罪に繋がる道だと確信したからだ。なら……後はやるしかない、いや、やってやる。たとえ……どんなものを見て、聞こうとも。
そんな事を考えた士郎が深く深呼吸をすると自分自身が完全に落ち着いた事を実感するのだった。そんな士郎が立ち上げたばかりのパソコンを落とす。そう、今は必要が無い。今は少しでも早く、彩乃を見つける事が大事だと士郎は確信をしたからだ。
そして、パソコンを落とした音が福寿にも聞こえたのだろう。福寿も、区切りを付けるとパソコンの電源を落として立ち上がると士郎も立ち上がった。そして福寿は士郎の顔を見ると、いつもの無表情で言うのだった。
「覚悟は出来たようだね。なら、行こうか、すぐにタクシーを手配しよう」
それだけを言うと福寿は電話を掛けた。タクシーを手配するためにタクシー会社に電話をしているのだろう。そして、その電話が終わると士郎は福寿に向かって尋ねるのだった。
「昨日の黒である程度の場所は分かるけど、場所は特定が出来たのか?」
そんな士郎の質問に問題は無いとばかりに歩き出しながら、簡単に説明をする福寿だった。
「河川敷、背の高い草、人通りが無い住宅街から離れた場所。これだけのキーワードがあれば、ある程度の特定は出来る。後は彩乃か松枝の残留思念を見つけるだけだ。もっとも、そんな場所に残留思念を残すのだから、今日は彩乃や松枝の顔を覚える必要は無いからね。草の中にある残留思念を探したまえ」
「あぁ、分かった」
士郎が短く答えると二人は一緒に捨て去り探偵事務所を出るのだった。それから、福寿はしっかりと鍵を掛けて、看板を外出中にすると一階まで降りてタクシーを待つのだった。そして、タクシーは十分も経たないうちに到着したのだった。
二人を乗せたタクシーは捨て去り探偵事務所から、一番近い河川敷を上流に向かって走っていたのだが、すぐに行き止まりになってしまい河川敷から離れた。まあ、それも仕方ないだろう。なにしろ河川敷に面している道路が全て舗装されているワケではないのだから。
だが、彩乃を乗せた車は確実に河川敷を走っているはずだ。それは昨日の黒を見た時点で分っている事だ。それに先程まで走っていた道路はしっかりと舗装されており、河川敷も整備されていた。さすがに放置状態の河川敷ではなかったのだ。そのため、福寿も大して注意を払っていなかった。
そう、昨日の黒で松枝は、はっきりと草が高い河川敷と考えていた。それに、この町に走っている川は、この一本だけだ。つまり、この川を辿って行けば必ず条件に合う場所があるという事だ。
そのため、タクシーの運転手になるべく河川敷を走るように福寿は最初から言ってある。そのため、運転手も河川敷を走っては道が途切れると一般道に戻り、そしてまた河川敷の道に入るというルートを走ってくれていた。
そして五回目の河川敷に入った時だった。市街地よりも、かなり離れた河川敷は放置状態であり、草が高く茂っていた。それに近くに建物も無い。つまり、ここほど松枝が考えていた場所に相応しい場所は無いという事だ。
それに福寿も最初から、この辺りに狙いを絞っていたのだろう。この河川敷に入ると士郎に向けて言ったのだ。
「念のために下流から来たわけだが、この辺がキーワードの全てに当てはまる。だから、君も注意深く反対側を見ていたまえ」
「了解」
福寿の言葉に短く答えた士郎は川とは反対側を注意深く、真剣な眼差しで残留思念を探すのだが、さすがにこんな場所に人が入り込む事はほとんど無いのだろう。だから未だに一つも残留思念を見ていない。
それに福寿は、この河川敷に入ってから運転手にゆっくり走ってくれと言ったので、タクシーはゆっくりと舗装されていない道をゆっくりと進んで行くのだった。そのため、士郎もしっかりと冷静に残留思念を探す事が出来た。
そしてタクシーが、この河川敷に入ってから半ばぐらいまで走った時だった。突如として福寿が声を上げる。
「止めたまえっ!」
突如として発せられた声に驚いたタクシーの運転手は急ブレーキを踏み込んだ。ゆっくりと走っていたのだから、後ろに座っている士郎達も少しだけ揺られたが、何事も無く、タクシーは止まるのだった。
それから福寿は料金をクレジットカードで払い。それから、二人はタクシーから降りるのだった。そんな二人を置き去りにするようにタクシーはすぐに走り出し、福寿は少し道を戻るように歩き出した。そんな福寿の後ろから追い掛ける士郎。だが、目的地からは、あまり離れずに止まってくれたみたいで士郎が福寿に追い付いた時には福寿は足を止めていた。
そんな福寿の隣に立って辺りを見回す士郎。そして、それを見つけると士郎は驚愕するのと同時に草の間から頭だけが少し見えている残留思念に意識を持って行かれそうになった。それでも、何とか冷静さを維持しようとする士郎。そんな士郎に福寿から皮肉染みた言葉が発せられた。
「やれやれ、君は相当、紅に縁があるようだね」
そう、二人が見付けた残留思念。それは、赤よりも赤い……紅の残留思念だった。そんな紅の残留思念が今まで見てきた残留思念よりも大きく、高い草に埋もれながらも、先端部分だけが草の間から見えていたのだ。
再び紅の残留思念を目にした士郎。自然と動悸が早くなり、息苦しくなってくる。やはり、紅の記憶が再び蘇ろうとしているのだろう。だが、士郎としては、このまま想い出のステージに立つつもりは無い。だからこそ、士郎は自分の心を静めようと、紅を見ても惹かれないようにと、自分自身の心をしっかりと保とうとしているのだ。
息苦しいが、無理にでも深呼吸をする士郎。川辺の冷たい空気が肺に入ってくる、それだけでも少しは楽になったような気がした。でも、未だに心は波立っている。だからこそ、士郎は心を静めるために、目を閉じて、しっかりと心を覚悟と決意の再確認をする。
大丈夫、俺は紅を見ても心を保てる、いや、保てる強さを得ると決めた。ここで弱音を吐くわけにはいかない。だから、大丈夫。俺はやれる、強くなれる、昔を乗り越えられる、そのための強さを少しずつだが身に付けている。だから、紅を見る事が出来る、見ても平静で居られる。そう、俺はそこまで強くならないといけないんだ。
改めて自分自身の心を覚悟と決意で固めると士郎はゆっくりと目を開き、再び視界に紅の残留思念を入れるのだった。もう大丈夫だった、士郎は紅を見ても平静で居られた、紅に惹かれる事無く、しっかりと見詰める事が出来た。だから、大丈夫だと士郎は紅が見れると自分自身に言い聞かせるのだった。
そんな士郎が再び深呼吸をした後に士郎は福寿に顔を向けた。そんな士郎の顔を見た福寿が、いつもように無表情でも、今回ばかりは少しだけ暖かい言葉を掛けてきたのだ。
「どうやら決意と覚悟はあるようだね。でも、無理はしなくて良い。君にとって紅の残留思念は特別な物だ。だから無理に見ろ、とは言わないよ。君は未だに残留思念には慣れてはいない。そんな状態だからね。今回は降りても構わない」
そんな言葉を掛けてきた福寿だが、士郎はすぐに自分自身の決意と覚悟を言葉に出すのだった。
「大丈夫、もう紅には惹かれない。それに……紅はいつかは俺自身が乗り越えないといけないものだ。だから先送りにするつもりは無い。今ここで、俺はしっかりと紅を乗り越えてみせる」
そんな士郎の言葉を聞いて、珍しく優しい微笑を見せる福寿。だが、その微笑みはすぐに意地の悪いものに変化すると士郎に向かって福寿は命令するのだった。
「そうかい。なら、紅を乗り越える前に道を切り開いてもらおうか」
「道?」
「見てみると良い。あそこに誰かが侵入したように踏み倒した草が見える。たぶん、二人はそこを通って紅がある場所まで移動したのだろう。だが、慎重に踏み込んだワケではないから、紅にまで行くには、未だに高い草が邪魔になっている。という事で、私でも通れるように草を踏み倒して道を作ってきたまえ」
「って! その道かよっ!」
「当然」
確かに、福寿が言ったとおりに、福寿が示した地点は少しだけ草が押し倒されている。だからと言って、しっかりと通れるほど押し倒されているワケではない。つまり、着物を着ている福寿が紅まで辿り着くために、草をしっかりと踏み倒して道を作れと言って来たのだ。
まあ、自分が福寿の助手であり、福寿の部下という認識は士郎にはあったが、まさか、このような事を要求されるとは思っていなかったのだ。だが、福寿に言わせれば、道を作るための、しっかりとした理由があるらしい。それが、着物だと紅まで歩き辛いから、という士郎がやっぱりと思うような理由だった。
そんな理由を聞いて、さすがの士郎も福寿が着ている着物について文句を言ったのだが、福寿は、こんな言葉を返してきた。
「私が普段から着物を身に付けているのも決意と覚悟を忘れないためさ。だから、毎朝、鏡の前で着物に着替えると、その時の事を思い出し、今日も一日頑張ろうと思えるのさ。という訳で、君はさっさと道を作ってきたまえ。着物を洗濯するには業者に頼まないといけないのだから。私としても、あまり汚れたくはないのさ。そこで、助手である君の出番というワケさ」
そんな福寿の言葉を聞いて、士郎は諦めたような溜息を付いた。まあ、福寿は決意と覚悟のために本名を捨てたほどの硬い心を持っている。そして、普段から着物を着ているのも、その一環だと士郎は素直に諦める事にしたのだろう。
だから士郎は学校の制服で来なければよかったと感じながらも河川敷に降りていくのだった。
「では、頑張って、紅まで道を作ってくれたまえ」
土手の上から、そんな言葉を掛けてきた福寿に士郎はすっかり諦めたようだ。だから、溜息を付いただけで、後は素直に紅に行けるようにと草をしっかりと踏み倒して道を作っていく。途中で自分は何をやっているのだろうと、素に戻る時もあったが、その度に近づいていく紅が目に入ると改めて決意と覚悟を蘇らせるのだった。
そんな作業をする事、三十分ほど、やっと河川敷の中ほどにある紅の前まで草を踏み倒し、福寿でも来れるように道をしっかりと作った士郎だった。だが、見た目ほど、よっぽど重労働だったのだろう。少しだけ息が上がっているが、福寿がゆっくりと歩いてきて、士郎の元に辿り着いた時には士郎の呼吸も正常に戻っていた。
そして二人は改めて紅を見詰める。そして士郎は思うのだった。
これで紅を見るのは二回目か……前は紅にほんろうされるみたいだったけど、今は大丈夫だ。紅を見詰めても俺は平静で居られる。もう、過去の記憶を蘇らせる事は無い。何と言うか……これが慣れというものなのか。だとしたら、俺は意外と適応能力が高いのかもしれないな。何も知らなかった時には、ただ惹かれただけだったのに、今では、こうして普通に見詰める事が出来る。だから、紅を見る事が出来る。よしっ! 行くか。
改めて自分自身の心を確認する士郎。そんな士郎が福寿に顔を向けると視線を合わせて頷くのだった。そんな士郎を見ていた福寿が無言で手を差し出してくる。士郎は、そんな福寿の手を、すっかり慣れたように手に取ると紅を見詰める。そんな士郎に福寿は再び話し掛けるのだった。
「この紅が他に比べて大きいのは二人分の想い出があるからさ。松枝哲也と折笠彩乃、または、加害者と被害者とも言っても良い。だから紅に触れたら、私達は人の醜さを実感させられる、無理矢理に聞かされる。もう覚悟は問わないよ。でも、今なら、まだ先送りが出来る。君が紅に触れられないというのなら、私が触れるが、どうしたいかい?」
そんな福寿の問い掛けに士郎は一度だけ大きく深呼吸をすると、しっかりとした言葉で返事をするのだった。
「俺が触れるよ。そして、どんなものを目にして、耳しても、きっと大丈夫。必ず乗り越えられると自分自身を信じる事が出来るから。自分自身の心が、それだけ強いと……今はまだでも少しは強いと信じる事が出来るから」
「……そうかい」
士郎の言葉を聞いて短い返事をする福寿。それからは福寿は何も言わなかった。士郎が福寿に顔を向けても、福寿は紅を見詰めたままだ。そんな福寿を見て、いつでも触れたまえ、と言われてるような気がした士郎。
だから士郎も紅を見詰める。そして、ゆっくりと手を伸ばして行き、紅に近づける。それでも身体は正直なのだろう。紅に触れる寸前で士郎は一度だけ手を引いてしまった。それでも、士郎の中にある覚悟が、自分自身の心を信じる、士郎の意思が、再び士郎に紅に触れろと訴えてくる。だからこそ、再び紅に手を伸ばす士郎。そして……遂に士郎は紅に触れた。
昨日も体験した事だが、なんだか初めてのような感触がした士郎。昨日も残留思念を見たのだが、やはり紅というのが士郎の中では引っ掛かっているのだろう。だが、そんな士郎に気を使うワケでもなく。残留思念はただ……現実を突き付けるのだった。
『痛っ! 痛いっ! もう……やめて。なんで……』
真っ先に聞こえたのは彩乃の悲鳴にも似た諦めの言葉だった。そして士郎は目にする、松枝が……彩乃を押し倒し、彩乃の衣服は切り刻まれて、その時に使ったと思われるナイフを彩乃の喉元に突き付けて、彩乃を犯している松枝の姿を。彩乃の目は既に生気は無い、ただ、早く終わって欲しいとばかりに涙を流しているだけだ。見詰めているのは虚空ばかりである。
そんな彩乃を目にして驚いている士郎。すると次に松枝の本心が強制的に聞かされる。
『久しぶりだからなっ! 随分と溜まってたから、三回もイッちまったよっ! けど、そろそろ限界だな。これを最後にしてやるか、また、中に思いっきり出してやるよっ!』
そんな松枝の声を聞き終えた瞬間、士郎は福寿の手を離しすと、目の前で彩乃を犯している松枝を蹴り飛ばそうと足を思いっきり振るう。だが、士郎の足は松枝を通り抜けてしまった。そして、何にも当たらなかった足が高々に上がると、士郎はバランスを崩して思いっきり前のめりに転がり、そのまま三回転ぐらいしてから止まった。
士郎にとっては思いっきり予想外だった事なのだろう。だから、不思議そうな顔で立ち上がると、再び彩乃が犯されている現場を目にするのだった。そして、そんな士郎に福寿から冷たい言葉が突き刺さる。
「君はいったい何をしているのかね。言ったはずだ、残留思念は人の記憶だと。それは過去に起こった出来事だ。だから、残留思念に干渉が出来るはずが無い。それは、既に終わった事だからさ。つまり、ここで君が何をしても、何も変わらない、何も出来ないのさ」
「じゃあ、このまま見てるだけかよっ!」
「そのとおりだよ」
あっさりと肯定した福寿に士郎は睨み付ける。けど、それと同時に自分自身の拳を強く握り締めるのだった。そう、士郎も分かってはいるのだ、何も出来ないと。けど、こんな現場を目にして何も出来ない事が悔しくて、助けたくて、それでも何も出来ない事が歯痒くて、そんな自分が惨めに思えたのだろう。
そして、福寿の言葉が士郎を目覚めさせるかのように再び放たれる。
「確かに私達はここでは何も出来ない。けど、ここでの出来事をしっかりと目にし、耳にすれば、出来る事はある。今まで見つけられなかった折笠彩乃を見つける事が出来る。証拠を残していれば松枝を裁判に立たせる事が出来る。だからこそ、私はしっかりと目にして、耳にしなければいけない。人の醜態と人の醜言を。ここまで来た君ならあるはずだ、人の醜態を目にし、人の醜言を耳にする覚悟が。その覚悟があれば、君は最後まで見ている事が出来るはずだ。本当に折笠彩乃を助けたいのなら、最後まで見ていたまえ。それが私達に出来る、唯一の事だ」
水を浴びせられる、という気分はこういうものかとばかりに意識がはっきりとする士郎。それは福寿の言葉が確実に士郎の心に届いたから、自分達がやるべき事が何かをしっかいと伝えたから。だからこそ、士郎はしっかりと目にして、耳にする。人の醜態を、人の醜言を。今は黙って、見て聞くのだった。
そんな士郎に現実は容赦する事無く、彩乃の無残な姿と松枝の楽しそうな姿を叩きつけてくる。けれども士郎は黙って見ていた、無理矢理に聞かされる二人の本心を耳にしていた。助けを求めて、声なき声を上げる彩乃。そんな彩乃を楽しそうに犯す松枝。そんな二人の姿と声を見て、聞き続ける士郎。
それでも、士郎はしっかりと目にして耳にした。二人の姿を、二人の本心を、そう、ここでの出来事をしっかりと記憶に刻み、次に繋げる事が自分の役目だと必至に自分自身に訴え続けながら。
そして、松枝の欲望が彩乃の中に注ぎ込まれると松枝はやっと彩乃を解放した。これで終わりだと安堵する士郎。だが、次の瞬間には士郎は一気に青ざめる事になった。なにしろ、彩乃を解放した松枝が冷たい光を放つナイフを振り上げていたからだ。もちろん、刃先が向いている所には彩乃が居る。そんな松枝の姿を見て、士郎は思わず声を上げる。
「や!」
だが、遅いし、意味が無かった。ここは残留思念、置き去りにされた想い出だ。そんな既に終わった光景を目にして言葉を出しても意味は無い。だから士郎が声を出した瞬間にはナイフが彩乃に突き刺さっていた。
けど、その一回だけでは終わらなかった。彩乃の身体から引き抜かれたナイフは紅の血に染まり、彩乃の身体からも紅の血が噴出す。そして、松枝は何度も彩乃に向かってナイフを振り下ろすのだった。確実に彩乃の息が止まるまで。
そんな光景を目にしていた士郎が倒れそうになる。だが、よろけただけで、何とか立っている事が出来た。そして思うのだった。自分が母親を殺した時もこうだったのかと? 自分はここまで楽しそうな顔で母親を殺したのかと?
違うっ! と士郎は心の中で叫ぶだけだった。それは認めたくは無かったのだろう。自分が松枝のように、楽しそうな顔で人を殺している姿を。その姿を過去の自分と重ねる事を拒んだのだ。
けど、あの時と同じように血は舞い上がり、刃物は紅の雫を垂らし、松枝は血潮を浴びる。そして……彩乃も紅に染まって行く。それは士郎が行った過去とほぼ一緒の光景だった。だからこそ、士郎は認めなかった。過去の自分が松枝のように楽しそうに人を刺しているのを、紅に染まるのを。自分は……松枝とは違うと。士郎は心の底から、そう自分自身の納得させるのだった。
いや、認めるワケには行かなかったのだろう。士郎は母親を愛していたからこそ殺した。けど、松枝は自分自身の欲望を満たすために彩乃を犯して、今では殺そうとしている。そんな松枝と自分は違うと士郎ははっきりと認識をしたのだ。そして、そんな認識が出来た瞬間、松枝と過去の自分が重なる事はなくなった。この瞬間こそ、士郎が過去の出来事を少しだけ乗り越えた瞬間なのかもしれない。
何にしても、今では落ち着いて、自分でも驚くぐらいに冷静に士郎は目の前の光景を見詰め続けた。そして、松枝が動きを止めると、福寿は紅に染まった彩乃の姿を、虚空を見詰め続ける彩乃を見ながら冷静に、まるで当然の事みたいに言うのだった。
「刺し傷は十二箇所、かなり、むやみやたらに刺したみたいだね。ここまで、されたら即死で間違いないだろうね。しかも凶器は彩乃に突き立てたままだね。まあ、それだけで思惑が分かるというものだけどね。さて、肝心なのはここからだ。君もしっかりと見ていたまえ」
「肝心って、もう終わりじゃないのか?」
士郎は冷静に、けど、身体からはすっかり力が抜けている状態だ。無気力、そんな言葉が今の士郎には似合っているだろう。けど、福寿は、そして残留思念は、そんな士郎に現実をしっかりと叩き付けるのだった。
「ここで終わりなら、私達は彩乃の遺体を発見している。だが、ここに彩乃の遺体は無かった。そうなると松枝が、この後に彩乃の死体をどこかに隠した、もしくは、移動させたって事なのさ」
言われてみれば、その通りだと、士郎の頭は勝手に考えて、勝手に納得をするのだった。やはり、頭では分っていても、心はまだ追い付かないようだ。だが、残留思念は士郎の成長を待ちはしない。ただ、現実を、記憶を再生しているだけだった。
立ち上がった松枝は血まみれのシャツを彩乃の上に脱ぎ捨てると、今度は彩乃の両脇に手を入れて、そのまま引きずって行くのだった。その行く手には川があった。ここまで来れば、士郎でも松枝が何をする気なのも分っていたようだ。でも、どうする事も出来ない。だからこそ、士郎は黙って見ているだけだった。
そして士郎が思ったとおりに、松枝は川の近くまで引きずって行くと、そのまま彩乃を川に向かって投げたのだ。もちろん、人一人を遠くまで投げることなんて出来やしない。それでも、水音がしたから松枝は笑いを浮かべて、額の汗を拭うのだった。
そんな松枝の姿を最後に、士郎と福寿は、その光景から一気に白い虚空へと追いやられるのであった。そして、二人は現実に戻って来た。
士郎は虚ろな瞳で辺りを見ます。そして士郎は彩乃の死体が放り投げられたところに目を向けた時だった。士郎の目に残留思念と思われる、炎のようなものが目に写った。そして、次の瞬間、士郎はそちらに駆け出そうとしたが、未だに握っていた福寿の手が、福寿が力一杯、士郎を止めるのだった。
「……離せよ」
迫力も生気も無い、そんな声を放つ士郎。だが、福寿はいつもとは違って、鋭い瞳で士郎を睨み付けると、いつもとは違った鋭い声を放つのだった。
「君は今までの努力を無駄にする気かいっ! 紅の意味は君にも分っていたはずだっ! 紅があった時点で折笠彩乃が殺されているのも同然だった。それでも、君は紅を見たんだっ! 後は、それを告げるだけだっ! それなのに、君はここで下手な事をして全てを台無しにするつもりかいっ!」
「じゃあ、どうしろってんだよっ!」
福寿の言葉を聞いて士郎もやりきれない気持ちをぶつけるかのように福寿の手を振り払うのだった。けど、それだけで士郎は何かをしようとはしなかった。いや、何が出来るのか分からないのだろう。だから呆然とする事しか出来なかった。
それでも士郎が少しは落ち着いたと福寿は判断したのだろう。だから、福寿はいつものように無表情で淡々と話しを進めるのだった。
「前にも言ったが生者も死者も想い出を置き去りにする。つまり、今、君が目にしたのは死者の折笠彩乃が残した残留思念なのさ。つまり、そこに折笠彩乃の遺体がある。だが、下手に近づいては警察の捜査を邪魔するだけだ。ならば、後は専門家に任せればいい。少なくとも、ここで折笠彩乃の遺体が発見されれば、私達のやるべき事は終わった。後は松枝の事を伝えて、この件を強姦殺人として訴えれば終わりだ」
「伝えるって言っても、何を伝えれば良いんだよ。俺達は見ていただけで、何も出来ないんだぞ」
「それは君が未熟だからさ、証拠はしっかりとある。松枝は血まみれのシャツを折笠彩乃の死体に被せた。つまり、今でも松枝のシャツは折笠彩乃にかぶさっている可能性がある。そのシャツだけでも充分に公訴が出来る。そのうえ、凶器のナイフも折笠彩乃に突き立てたままだった。つまり、未だに凶器は始末はされてない。松枝は折笠彩乃の死体すらも見付からないと思ったからこそ、死体と一緒に凶器も始末しようとした。だから未だに松枝の指紋が付いているのは確実だ。それが折笠彩乃の死体に刺さっているのだから決定的だ。更に司法解剖で彩乃から松枝の精子が発見されれば言い逃れは出来ない。そして、今の時点では、それを知っているのは私達と松枝哲也だけだ。だからこそ、私達は目にしたものを、耳にしたものを伝えないといけない。それが私達のやるべき事だ。君はこれでも何も出来ないというのかい」
そんな福寿の言葉を聞いて何も言わない士郎。心は追い付かなくとも、頭では福寿の言うとおりだと納得したのだろう。だからこそ、士郎は心が頭に追い付くために、今は心を静めるのだった。そして、少しずつ静かになって行く心を感じながらも、士郎は残留思念が見える方向に目を向けながら福寿に尋ねるのだった。
「あの……残留思念は?」
「私の身長では見えないが、青よりも薄い青、蒼の残留思念だろうね。蒼は水に関係するケースに残る残留思念だからね。つまり、折笠彩乃の遺体は水に浸かっているものの、流されてはいないという事さ」
「なら」
「分っている。いつまでも、このままでは可哀想だからね。すぐに連絡するとしよう。君は休んでいたまえ……まあ、最初の事件にしては、君は良くやった方だと私は思う」
そんな言葉を最後に福寿は士郎に背中を向けて携帯電話を取り出し、そのまま電話を掛けた。そして士郎はというと、福寿の言葉に救われたかのように、そして、福寿が背中を向けているのは照れ隠しだと分かりながらも、少しだけ笑うと、紅があった場所から離れたところに座るのだった。
そんな士郎が思うのだった。
人の醜態を目にし、人の醜言を耳にする……こういう事だったんだな。そして福寿が本名を捨てた理由、それも分かったような気がする。紅で松枝は過去の俺と同じような事をしてた。けど、俺と松枝は全然違う。俺は自分の欲望を満たすためにやったわけじゃない。子供の言い分、子供の解釈がそちらに向いただけで、今では凄く後悔をしている。懺悔では済まないほどに。けど……松枝は違うんだろうな。こんな事をしておいて、平然と今を生きてる。後悔も懺悔もしてはいないだろう。ただ、今でも楽しそうに笑いながら生きてる。俺には、そんな事は出来ない事だ。だからこそ、俺達は見たものを、聞いたもの証明して伝えなければいけない。死者の魂を弔うために、生者の慰めになるために。
士郎が、そんな事を考えている間にも電話が終わったのだろう。福寿が士郎の元へとやって来た。さすがに河川敷なだけに座りはしないが、士郎の隣に立つ福寿だった。そんな福寿に向かって士郎は話しかけた。
「なんか、いろいろとキツイ体験をさせてもらったよ」
そんな士郎の言葉に福寿は瞳を閉じて、口元に少しだけ笑みを浮かべながら士郎との会話を続けるのだった。
「そうかい。まあ、君にとっては最初からハードだったと私も思っているが、同時に、それだけの強さも持って欲しいとも思っている。それでも、これからの事を決めるのは君だ。今なら、引き返す事も出来るだろうね。なにしろ、紅を見たのだからね」
「紅か……今更だけど、紅が意味するものを教えてくれ」
「本当に今更だね。紅は……血を意味している。死傷に関わらず、血が流れた時には紅が残るのさ。後は……血を流した物、流させた者の違いだけさ」
「変に気遣ってくれなくて良い。紅を見て、良く分かったから」
「そうかい」
「あぁ、俺は過去に松枝と同じ行為をしている。けど、俺は松枝のように楽しんではいない、今でも平然と笑って思い出せはしない。俺も福寿と同じさ、最初の依頼で人の醜さを痛感した。まあ、さすがに本名まで捨てようとは思わないけどな」
「まあ、覚悟の形は人次第だからね。私からは何も言わないよ」
そんな福寿の言葉を聞くと士郎は軽く笑うのだった。そう、福寿が本名を捨てたのは覚悟の現れである。福寿も士郎と同じように、最初の依頼で人の醜さを痛感した。それは過去の自分と重なったものの、自分はそこまで平然とは出来ないと悟った。だからこそ、それを忘れないために、強い覚悟を持つために福寿は本名を捨てたのだ。
そして士郎は、やっと福寿が言った言葉の意味を分かったような気がした。それは、士郎が福寿と似ている、その言葉だ。福寿は確かに士郎に向けて言った、君は私に似ていると。士郎は今まで、その言葉を自分と似た境遇に福寿も居ると思っていたようだ。けど、それは違っていた。
士郎も福寿と同じだけの強さを持てるだけの覚悟が出来る。士郎も、いつかは福寿と肩を並べて歩めるだけの強さを持てるという意味が含まれていた。そして、その中には士郎に自分と歩けるだけの強さを持って欲しいという福寿の願いが込められていたのかもしれない。少なくとも、士郎には、そんな風に思えた。
今まで、どんな経験をしたとしても、どんな辛い目にあったとしても、士郎にとって福寿は年下の女の子である事にも変わりは無い。今は助手だけど、いつかは福寿と並び、福寿を支えられるだけの強さを持ちたいと士郎は思うのだった。
そんな事を考えていた士郎に向かって福寿は会話を再会させてきた。
「それから言っておきたい事がある」
「何だ?」
「確かに、今回のように人の醜態を目にし、人の醜言を耳にする機会は多い。だが、人の心はいつでも醜いとは限らない。中には残留思念を見ただけで、こちらが元気を貰ったりする残留思念もある。だから、残留思念を悪いものだけとは考えないで欲しい。十人十色、千差万別、人が残す、置き去りの想い出も様々なのさ。だから、君がこれからも私の助手を続けるのなら、いつかは目にして、耳にするだろう。人が持っている、様々な想い出をね」
「……続けるさ。これからもずっと……いつかは、助手ではなく、福寿と一緒に依頼がこなせるだけでの人物になってやるさ」
「それは頼もしい事だね。まあ、それでも私のところに居る限りは、給料は低いけどね」
「そこは優遇しろよっ!」
そして笑い出す二人。そこには福寿なりの気遣いがあったのかもしれないと士郎は感じながらも、今は福寿の気遣いに感謝しながらも、いつかは自分が福寿を笑わせるようになれれば良いなと思うのだった。
かれこれ二十分近く経った。その頃にはやっと警察の車やパトカーが何台も到着して、先程までは静かだった河川敷も、今では警察関係者と騒ぎを聞きつけてやって来た野次馬で、それなりに賑やかになっている。そんな警官達の中から士郎も見知った顔がめんどくさそうに士郎達の元に歩いてきた。
「お疲れ様、高杉警部」
「まったく、こんな所に呼び出しやがってよ。管轄の所轄や関係者に話をするのに、相当、時間が掛かったんだぞ」
「それはそれは、本当にお疲れ様。だが、これで一つの事件が解決するんだ。高杉警部も出世するかもしれないね」
「俺は出世よりもお前との縁を切りたいね。それで、そっちの小僧は? 前に見た時は部外者だと言っていたような気がするが」
士郎を見て、そんな言葉を掛けてくる高杉。けど、めんどくさそうな高杉の顔を見て、何となくだが分っていても、確認のために聞いているんだろうなと士郎にも分かるほどだ。だからか、福寿は嫌味ったらしい顔で高杉に言うのだった。
「昨日から私の助手になった思川士郎さ。という事で、君は他の警官に折笠彩乃の遺体がある場所を教えてきたまえ。私は高杉警部に犯人の事を話すからね。それでは、行ってきたまえ」
「こんな奴に、扱き使われるとはな、お前さんも、相当な物好きだね」
高杉から、そんな嫌味に似た言葉が士郎に向かって放たれたが、これは間接的に福寿に嫌味を言っているという事は士郎でなくても分かるというものだろう。だからか、士郎は苦笑いを浮かべるしかなかった。そして肝心の福寿はというと……してやったり、という、勝ったような表情を浮かべていた。
また、からかわれるな。そんな事を考えながら、高杉の血管が切れない事を心で祈る士郎だった。
それから、数人の刑事が士郎の元へ来ると、彩乃の遺体がある場所を聞いていた。そんな刑事達に最初は戸惑いながらも、どんな対応をすれば良いのかと士郎は迷ったが、何とか蒼の残留思念がある場所を指し示しながら、話をする。
けど、残留思念という言葉を使うワケには行かない事は士郎も重々承知していた。だからこそ、言葉と指で方向を指し示しながらも、何人かの刑事が士郎が言った地点へと向かう。そして、やっと、蒼の残留思念がある地点まで来ると、一人の刑事が大声で高杉に彩乃の遺体を発見した事を告げる。
そんな報告を聞いた高杉がめんどくさそうに鑑識官を、そこに向かわせて現場検証が始まった。もちろん、蒼の残留思念がある彩乃の遺体だけではない。既に福寿が話してあったのだろう、紅があった場所も、既に鑑識官が調べ始めた。
これで自分の仕事は終わったと思った士郎が福寿の元へ戻ると、福寿と高杉の話も終わったのだろう。福寿は高杉に「松枝の資料は後で送っておくよ」と言って、士郎が来ると、さっさと現場を後にするかのように歩き出すのだった。
何にしても、これで士郎には全てが終わったと思った。最後には悲しくて、悔しい思いもしたけど、これで終わりとなると、達成感と少しだけやり切れない気持ちが残ったようだ。だからか、士郎は福寿の隣を歩きながら身体を伸ばしてから言うのだった。
「これで……終わりか」
そんな言葉を吐いた士郎に向かって福寿は少し呆れた視線を士郎に向けながら言うのだった。
「君は何を言っているんだい。まさか、これで全部が終わったと思っているじゃないだろうね」
「へっ? 他にやる事なんてあるのか?」
士郎の質問に福寿はこれでもかと言いたいほどに嫌味を含めた溜息を付いて見せるのだった。そんな福寿の態度を見てから士郎は首を傾げるのだが、福寿は少しだけ悲しい顔を見せながら士郎に向かって言うのだった。
「まだ、依頼人への報告が残っているだろう。確かに私達の捜査は終わったが、今度は捜査の結果を依頼人へ報告をしなければいけない。まあ、警察からも話が行くだろうけど、私達からも話さなければいけない。けど、こんな終わり方をしたのだからね。少しは時間が必要だろうね」
「そっか……何があったかを……彩乃の本心も話さないといけないんだな」
「それが依頼を受けた探偵の役目でもある。捜査の結果を出来るだけ詳細に……なるべく悲しませないようにね」
「なんか……難しいな」
「まあ、報告は私がやるけど、そこには君も立ち会ってもらう。そうした事を覚えるのも君の仕事だからね」
「あぁ、そうだな」
そう、士郎達には、まだやるべき事が残っている。それは今回の発端となった依頼人への報告である。士郎達は、その依頼人に話さなくてはいけない。捜査で分かった事、それに、自分達だから出来た事、つまり、彩乃の本心を伝えないといけないのだ。依頼人である、彩乃の父親に。
だが、今回の依頼は、こんな形で幕を引く事になってしまった。士郎としては、どんな風に話せば良いのかも分からないぐらいだ。だが福寿は何度も、こうした経験を積んでいるのだろう。だから、少しだけ悲しみを見せたものの、動揺や戸惑いはまったく見せなかった。
そして、士郎も、何となくだが福寿の気持ちや、自分がやるべき事が分かったような気がした。そう、悲しんではいけない、泣いてはいけない、今回の依頼で一番、悲しむのは依頼人だ。だからこそ、依頼人の前では気丈に振舞わないといけないのだ。
そんな事を福寿は何度もやってきたのだろう。だから、福寿の無表情が、そうした経験の結果だと士郎は思ったのだが、隣を歩いている福寿の顔を見ると……やっぱり生まれ付き、だとも思った。別に福寿が悲しみを感じてはいないとは思ってはいない、ただ、笑ったり、微笑んだり、するのを数えるほどしか見てない士郎だけに、そんな風に思ったのだろう。
何にしても、福寿がどんな思いを抱いているとしても、まずは自分の気持ちを整理すべきだろうと士郎はとりあえず、自分の事を考える事にしたのだった。
そして二人は捨て去り探偵事務所に戻ってきたのだが、戻った早々に福寿は士郎に次なる仕事を押し付けてくるのだった。
「さて、早速だが、今回の依頼は下に居る世話焼きが仲介した依頼だからね。だから、彼女にも結末だけで良いから、話してきたまえ」
そんな言葉だけを置いて、福寿はさっさと置くのデスクに戻ってしまった。すっかりおいてけぼりを喰らった士郎は、まあ、良いかと、とりあえずは下の桃源喫茶に向かって、また捨て去り探偵事務所を後にするのだった。
桃源喫茶は営業時間中だった。だから、ちらほらと客がいるのだが、アルバイトと思われる女性の何人かが接客に当たっており、桃源喫茶に入った士郎も最初は客だと勘違いされたようだが、すぐに桃子を呼んでもらうように言うと。それだけで士郎の事が分かったのだろう。すぐに誰も居ないカウンター席に案内されると奥から桃子が出てきた。
「おぉ~、士郎じゃないか、どうした?」
「えっと、桃子さんが仲介した依頼が終わったので、その報告を」
「なるほどね~。まあ、士郎の顔を見れば、どんな結末だったのかは想像できるけど、一応話してもらおうか」
桃子はいつの間にか用意していたコーヒーを士郎に出しながら、そんな返事をしてきた。そのため、しろどもどろではあるが、士郎は今日の事を話した。そして、桃子は黙って、それを聞いてくれたのだ。
そして全部を話し終わると士郎は終わったとばかりに息を吐き、やっと肩の力が抜けたような気がしたのだ。一方の桃子は、いつの間にか自分用のコーヒーを飲みながら話し出すのだった。
「悪いね、悲しい思いをさせちゃったね」
「えぇ、こんな事をなんて報告したらいいのか」
「違うよ、あたしは士郎と福寿に言ってるのさ」
「……へっ?」
思い掛けない言葉に士郎はすっとんきょうな声を上げるが、桃子は士郎とは視線を合わせないが、何かをやりきれないような顔をしていた。そんな桃子が会話を続けてきた。
「士郎も、そうだけどさ。最初の依頼が、こんな結末になっちまったからね。悪いのは、そいつだけど、悲しい思いをするのは少ない方が良いからね。だから士郎と福寿には負い目を感じて欲しくはないのさ」
「…………」
「依頼を仲介したあたしが言うのもなんだけど、あまり気にするな、こうなっちまったものは仕方ないって割り切りな。そうすれば、少しは楽になるだろうね」
「福寿も」
「んっ?」
「福寿も今回の依頼が、こんな形で終わって……悲しんでいるんですかね」
「当たり前だね、こんな結末を迎えて悲しまない奴がどうかしてる。けど、福寿は絶対に悲しみを表に出さないだろうね。福寿は、この報告を聞いて一番傷つく人を知っているからね。だから福寿は仕方ないと割り切って、悲しみを隠して依頼の結果を報告しているのさ」
「ですよ……ね」
「けどさ、今回は士郎が居る。士郎が傍に居る事で、少しは悲しみも軽くなるだろうね。だから士郎、自分の悲しみも、福寿の悲しみも、一緒にしちまいな。そんな悲しみも二人で抱えるのなら、楽に割り切れるだろうね。どうも、福寿だけに押し付けるのは性に合わなくてね、今までは気にしてたんだけど、これからは士郎が傍に居てくれれば、あたしとしても安心が出来るというものさ。まあ、抱えれなくなったあたしの所にきな。いつでも受け止めてやるよ」
「はい、ありがとう……ございます」
桃子は士郎の方へと顔を向けなかったが、士郎は桃子が言った言葉の中に、しっかりとした優しさと思いやりが沢山詰まっているのを感じた。だからだろうか、士郎は俯いて、一筋の涙を流していた。
それは桃子だけの優しさではない。福寿も、それなりに気を使ってくれたと分かったようだ。だからこそ、福寿は士郎に桃子のところへ行くように言ったのだ。福寿は最初から士郎の事を桃子に任せるつもりだったのだろう。だからこそ、士郎を一人で行かせたのだ。もしくは……福寿は一人になりたかったのかもしれないと士郎は思った。
何にしても、こんな結末を迎えて笑っていられるほど、士郎も福寿も強くは無い。いいや、悲しまない強さなんて人間として最低になるだけだ。だからこそ、士郎は思った。悲しまない強さはいらない、せめて……福寿と悲しめる強さが欲しいと。けれども、自分はまだ周りに気遣われるばかりだ。だからこそ、士郎は余計に、そんな思いを強く抱いたのかもしれない。
そんな士郎の頭に優しさが籠もった手が乗っかる。士郎は俯いたままだが、その手が桃子のものだと分かった。そんな桃子の優しさを感じながら、士郎は黙って涙を流すのだった。せめて、笑って捨て去り探偵事務所に戻れるぐらい、悲しみを吐き出してからと……。