その六
一つは先程のように山吹の残留思念。そしてもう一つは紫に白を混ぜたように、紫を薄くした残留思念だった。そんな二つの残留思念を見付けたからこそ、士郎は戸惑ったのだ。まあ、士郎も二ついっぺんに見付けるとは思ってもいなかったのだろう。
けど、ここで途方に暮れていてもしかたない。まずは福寿を呼ぶべきだろうと士郎は携帯を取り出すと福寿に電話を掛ける。そして、五度目のコールが鳴っている途中で福寿は電話に出てきた。そんな福寿が開口一番に、こんな事を口にした。
『どうやら当たりを見付けたようだね。さっそく、その場所を教えたまえ』
まあ、福寿に場所を教えるのは当然だとしても、目の前にある二つの残留思念が気に掛かっている士郎は場所を言う前に福寿に尋ねるのだった。
「確認したから彩乃の残留思念に間違いはないと思うんだけど、なんか……二つあるんだよな。これって、どういう意味だ?」
『二つだって……色は?』
「一つは、さっきも見た山吹。もう一つは、なんか、紫を薄くしたような、そんな色をしてる」
『……どうやら……事態は悪くなっているかもしれないね』
「どういう意味だ?」
『全ては残留思念が教えてくれる。だから、今は残留思念に触れる事無く、その場所を私に告げたまえ』
そんな福寿の言葉を聞いて、考える事を後回しにした士郎は場所を福寿に伝える。すると福寿は、そこで待っていろ、という意味の言葉だけを残して電話を切ってしまった。福寿が意味深な言葉を残しただけあって、士郎はもう一度だけ電話を掛けようかと思ったが、どうせ福寿が来るのだからと携帯を仕舞うのだった。
そんな士郎の頭には、やはり福寿が残した言葉が残っているのだった。
事態が悪くなってる……どういう意味だ、俺達は行方不明になった彩乃を探しているだけだよな。……んっ、行方不明? ……あ~、そういう事か。年頃が年頃だからな、俺はすっかり家出をした彩乃を探してると思ったけど、福寿は様々な可能性を含めて捜査をしているという訳か。つまり、彩乃は家出をしているワケじゃない。というか、福寿が作った資料にも家出なんて言葉は一つも無かったよな。というか、その時点で気づけよ、俺。
何となくだが察しが付いた士郎は気分を害されたように溜息を付いた。そう、士郎は行方不明という時点で彩乃が家出をしていると思い込んでいたのだ。けど、可能性としては悪い方が多くの可能性を秘めていたのだ。
つまり、何らかの事件に巻き込まれた、もしくは、被害者となった。悪い可能性を考えれば、いくらでも浮かんでくるというものだろう。この状況からなら拉致監禁というケースも充分に考えられる。なにしろ三週間も消息が掴めていないのだから。そうなると、彩乃がどんな目に遭っているか、考えるだけでも士郎の気分を害するのに充分だった。
けれども、そうだと決まったワケではない。まだ結論は出ていないのだ。だからこそ、士郎は家出という可能性も捨てなかった。けど、やっぱり気に掛かるのは、紫より薄い、この残留思念だった。この残留思念は何を見せるのか、何を物語っているのか。そこから見えてくる真実を、それを見えるだけでも、ある程度は断定が出来るというものだろう。少なくとも福寿には、そう判断できたからこそ、あのような言葉を残したのだ。そんな中で士郎は、彩乃の身を祈るように案じながらも福寿が来るのを待っていたのだった。
そんな福寿がアーケードの奥からトコトコと歩いてきたのは、電話をしてから十分近くが経ってからだった。先程は士郎に走って来いと言ったわりには、自分はゆっくりと歩いてきたんだなと、士郎でなくても思ってしまうほどに福寿は普通に歩いてきた。
そして、福寿が士郎の元へ到達すると、士郎は思いっきり皮肉を込めた言葉を口に出すのだった。
「人には思いっきり走らせて、自分はのんびりと歩いてくるんだな」
そんな言葉を口にした士郎に対して福寿は意地の悪い笑みを浮かべると口を開くのだった。
「私は君の上司だ。だから君が私を待たせるのは悪い事だが、私を君を待たせるのは当然と言えるだろう。それに、この程度の事で不機嫌になるようでは、今後は私の助手なんて務まらない。まあ、君にとっては初めての捜査だからね。君の考えが甘くても私は怒るなんて事はしないさ」
「くっ」
士郎は初めて福寿を睨み付けた。それは福寿の言葉に怒りが沸いたからでは無い。福寿の言葉が士郎の心理を射ていたからだ。そう、福寿が残した言葉を聞いて、士郎は自分の考えが甘い事に気付いた。だからこそ、気が逸っていたのだ。そんな気持ちを福寿に気付かれたように、冷たい言葉で突き付けられたのだ。まるで受け入れたくない現実を突き付けるかのように。
けれども、士郎は自分の気持ちを福寿にぶつける事はしなかった。分ってはいるのだ、福寿は悪くないと、福寿は現実を見て、考えられる可能性を全て考えてあっただけだ。だから福寿は事態が悪い方向に向き始めても動揺しなかった。それに対して士郎は自分はどうなのかと、改めて実感させられたのだ。
そして……逐一、悪い方向ばかり考えていても仕方ない、という事を福寿は知っている。つまり、この場合は彩乃がどんな目に遭っていても心配してもしょうがない、という気持ちの区切りを付けているのだ。
考えてみれば福寿の行動は正しいと士郎は思い知らされた。依頼があるたびに、悪い方向にも考えなければいけない。その度に、被害者になっている人の事を考えていたら、自分の精神を保つ事が出来ない。それだけで、自分の心が壊れてしまうのだと士郎は実感させられたのだ。福寿の助手になるという事は、そうした事にも慣れろという事だと士郎は考えを切り替えたのだ。
けれども、気分は未だに晴れないまま。このままではいけないと、士郎は真横にあった店舗の壁を思いっきり殴りつける。左手には痛みが走り、少し血がにじんだ。それでも、士郎は顔を上げて福寿を見詰める。
そして福寿はというと、いつもの無表情に戻り、話を再開してきたのだ。
「さて、良い顔になったところで、どうするのかい? 今なら引き返す事も出来るかもしれない。言っただろう、人の醜態を目にし、人の醜言を耳にするという事は精神すらも破壊する威力が有ると、それに耐えうる覚悟が無いからには、いつかは自分が壊れてしまう。さて、改めて君の覚悟を聞いておこうか?」
「その必要は無い。こうした事を積み重ねる事によって、俺はそうした事に慣れて行けば良い。それだけの事だ。他の道へは……もう歩けない」
「分かった、ならば捜査を再開させるけど良いかい?」
「あぁ」
士郎は福寿と向き合って答える。その士郎の顔からは先程までの余裕が消えていた。いや、正確には甘さというべきだろう。つまり、士郎は覚悟と決意という階段を一つ上ったのだ。そう、それだけの事なのだ。そして、それは福寿にも充分に分っていた。だからこそ、福寿は士郎から顔を逸らして、士郎が言っていた紫を薄くした残留思念に向き合うと話を続けてきたのである。
「これは藤紫の残留思念さ」
「ふじむらさき?」
「そう、藤紫の意味は戸惑い、疑念、不安、困惑をした時に残る残留思念なのさ。つまり、この場所で折笠彩乃が何か戸惑うような、不安を感じるような出来事が起こった、という事さ」
「なら、先に藤紫から見てみるのか?」
「いや、山吹も一緒にあるという事は、今まで装っていた空元気を無くすような出来事が起こった。つまり、藤紫に繋がるような事が起こったと考えて良いだろう。だから、山吹から見る事にしよう。私の経験から言っても、戸惑いや不安を感じていてから、一気に平静を装う事なんてなかったからね。それに、折笠彩乃が藤紫から山吹に心を変えられる人物とは思えないからね。以上の理由から、山吹から見ていった方が順当だろうね」
福寿はそんな説明をすると士郎に向かって手を差し出した。そんな福寿に対して士郎は一度だけ頷くと福寿の手を取って、すぐに山吹の残留思念に顔を向けた。そんな士郎に対して福寿から何の言葉が無いという事は士郎が、そのまま山吹に触れても良いという事だろう。もしくは、今の士郎がしっかりとした覚悟を持っているのかを試しているのかもしれない。
何にしても、残留思念を見ない限りは事態は進展しない。だからこそ、士郎は意を決すると山吹の残留思念に手を入れて、彩乃の想い出に入っていくのだった。
そして士郎と福寿の前に現れたのはカラオケ店の前だった。そこでは先程と同じく、先程とは違った友達と別れる彩乃の姿があった。そして先程のように彩乃は友達に手を上げて、友達も彩乃に応えるかのように手を上げて、お互いに笑顔で言葉を交わすのだった。
「じゃあね~、彩乃。また、ウチに遊びにきなよ」
「うん、また遊びに行くね」
「あははっ、いつでも歓迎するよ」
「なら充分にもて成してもらおうかな」
そんな冗談を言い合いながらも彩乃は笑顔で友達と別れたのだが、友達の姿が人込みに消えると、急に暗い顔になって、カラオケ店の壁に寄り掛かるのだった。そして聞こえ始める、彩乃の本心。
『さて、どうしようかな。この時間だと、もう誰も付き合ってはくれないし、今日はマンガ喫茶にでも泊まろうかな。少しは節約したいしね。それにしても……』
声が聞こえなくなると彩乃は腕時計を自分に向けた。どうやら時間を確認しているようだ。そして、士郎の手を引っ張りながらも彩乃に近づいた福寿は彩乃の横から腕時計を同じように目にしてから士郎に向かって話しかけるのだった。
「どうやら、この記憶が残された時間は午後十一時過ぎだね。まあ、こんな時間になってしまえば、女子高生の年代とも言える彩乃が遊べる時間を過ぎてると言えるだろうね。それに、下手をしたら警察に補導されるという事も充分に考えられる。折笠彩乃としては、そろそろ今日の宿泊先を決めたい、といったところだろう」
福寿がそんな事を言い終えるのと同時に彩乃は腕を下ろして、つまらなそうに溜息を付くのだった。その間に士郎は福寿に話し掛ける。
「確かに、日付が変わるような時間に、こんなところをウロウロしてれば警察に補導されるなり、犯罪防止の団体に声を掛けられるのは当然だろうけど、それが何を意味してるんだ?」
「さっき見ただろう、藤紫の残留思念を。だから、ここからだね。折笠彩乃に何らかの変化になった兆しが見えて、聞こえてくるのは。だから、充分に注意していたまえ」
なるほど、と福寿の話を聞いて納得する士郎。どうやら福寿が言ったように、今の彩乃には戸惑いや不安に繋がるようなものは見えないし、聞こえない。という事は、これから藤紫に繋がるのような事が起きる。だからこそ、ここからは注意しなくて見なくては、聞かなくてはいけない。福寿は、そんな注意を呼び掛けたのだろうと士郎は納得するのと同時に彩乃の周りまで気に掛けるようにしていた。
だが、そんな士郎に、またしても強制的に彩乃の本心が聞かされる。
『はぁ、マンガ喫茶も飽きてきたしな~。かと言って、これ以上は誰の家にも泊めてもらうワケにはいかないし。さすがに泊めてもらう回数が増えてきたからな~。はぁ~、どうしようかな~。このまま、ここに居ても、厄介な人達に捕まるだけだし。その度に、あのバカ親父に説教を聞かされるのも嫌だし。だったら朝まで、どこかで過ごしてから、それから寝ようかな』
そんな彩乃の本心を聞いて士郎は自然と考えてしまっていた。
そういう事か、彩乃は何度か警察や防犯の見回りに捕まった事があるんだ。つまりは、そうした事は常連となっている。だから、それを避ける手段を知っているし、考える事が出来たって事か。う~ん、たぶんだけど、そうした人達に捕まるたびに、彩乃は父親から説教を聞かされて、それが嫌になってたんだろうな。け、父親も、何で彩乃が、こんな風になったのかって考えてた事は無かったのかな? もっと、彩乃と本気で向き合って、彩乃の言葉を聞けば、たぶんだけど、彩乃は、こんな風にはならなかったんじゃないかな。
彩乃の本心から、そんな事を考えてしまった士郎。かと言って、心に動揺は現れなかった。どうやら先程の福寿とのやり取りで、それなりの覚悟と決意を持つ事が出来たのだろう。だからこそ、今の士郎は客観的に物事を見ているのだが、本心は彩乃とその家族を心配している。さすがに心までは、そう簡単に、そして早くは成長しないって事なのだろう。
だから士郎はまたしても彩乃を心配していた。そして、そんな時だった。突如として声が聞こえたのは。
「ねえ、君」
そんな男性の声。その声が士郎を一気にやるべき事に意識を向けさせる。だからこそ、士郎は男性の声が聞こえてきた後ろを振り向いたのだが……遅かった。既に周囲は彩乃の残留思念から離れだし、先程まで見ていた光景は遠くへと消えて行き、辺りは白い空間に覆われる。そして全てが白い空虚に覆われた時、士郎達は現実へと戻って来ていたのだ。そして現実に戻って来た士郎が悔しそうに手を思いっきり握る。
しまったっ! 肝心なところを見逃した。くそっ! 余計な事を考えていたから、彩乃に声を掛けて来た人物を見れなかった。全てを見て、聞かなければいけなかったのに……何をやってたんだ、俺は……。
そんな後悔が士郎の中に生まれる……のだが、そんな士郎に向かって不機嫌な声が届くのだった。
「痛いんだが」
「……えっ?」
突如として聞こえてきた福寿の声に士郎はやっと平常心を取り戻す事が出来た。そして、士郎は福寿に目を向けると、福寿はあるところを指差していた。その指し示している先を見てみる士郎。そこには福寿の手を思いっきり握っている自分の手があった。
改めて事態を察した士郎が慌てて福寿の手を離す。そんな士郎が自分でも動悸が早くなっている事に気付いた。それは福寿の手を握り締めていた事では無い。自分が彩乃の残留思念で男性の姿を確認出来なかった事を悔やんでいたからだ。もし、男性の顔や姿をしっかりと見ていれば、少しは事態が進展しただろう。だが、士郎は確認が出来なかった。それが後悔となって自然と福寿の手を握り締めていたのだろう。
一方の福寿は士郎が握っていた手を、まるで痛みを払い除けるかのように、いつもの無表情で手を振りながら士郎に向かって言うのだった。
「考える事はいつでも出来る。だが、残留思念は一回しか見れない。その大事さが分かったようだね。それにしても、ここまで悔しがる事は無いと思うんだがね」
そう言いながら福寿は士郎が握っていた手をワザとらしく、痛かったと主張するかのように士郎の前に突き出しながら士郎を見詰めてきたのだ。そんな福寿に対して士郎は目を逸らすしかなかった。それ以外に福寿に対して、どういう態度を取って良いのかが分からなかったからだ。
そして、福寿も、そんな士郎の心境を察しているのだろう。手を引っ込めると当たり前のように、いつもの平静な声で士郎に告げるのだった。
「君が私の助手になったのは今日だ。だから、私はそこまで君に期待はしていない。それに、君が確認していなくても私はしっかりと確認した。あの男性の姿をね。まあ、これで残留思念がどれだけ大事なものかが分かっただろう。なら、もう同じ失敗をしないでくれたまえ。人は失敗をするものだ。だが、同じ失敗を繰り返すのは無能者だ。君が少しでも有能なら、一度した失敗を二度としない事だ。それが私が君に求めている事だ。分かったかね、分かったら、次に行こうとしようか」
「そっか……そうだな。って、次? ……あっ、そうか」
福寿が言った事の意味を理解した士郎が間抜けな声を上げると、すぐに自分が何を忘れていたのかに気付いた。そう、残っている藤紫の残留思念だ。だが、その前に士郎は自分自身の気持ちを整理した。そして福寿が言った言葉を考えて己に刻み込む。そう、一つの失敗をした事で士郎は一つだけ勉強したのだ。そんな風に考えようとした士郎が一気に思考を巡らす。
そう言えば、福寿の言うとおりだよな。俺って、今日から福寿の助手になったワケだし。そんな俺を福寿は期待を寄せてはいない。むしろ、逆に俺を鍛えている……というか、いじめてるとも言えると思うけど。何にしても、俺は失敗から学ばないといけないんだな。そうだ、それこそが俺のやるべき事だ。
そんな結論を出した士郎が真面目な顔で藤紫の残留思念を見ながら福寿に話し掛ける。
「良く良く考えてみたら、福寿の推測どおりなら山吹は藤紫に繋がってる。つまり、さっきの男性は、この藤紫に出てくるという事だよな。いや、もしかしたら……その男性が藤紫の原因となったんじゃ」
考えながらも、そんな事を福寿に話す士郎。そんな士郎を面白がるように、福寿は意地の悪い笑みを浮かべながら答えるのだった。
「どうやら手順は分ってきたみたいだね。なら、次からも、そうであって欲しいものだね。そして、私の推測だが、そこは君と一緒だ。この藤紫の残留思念、折笠彩乃に戸惑いと不安を与えた人物、それがさっきの男性だろうね。ちなみに、君は確認していないから最初に言っておこう。あの男性は警察では無いし、防犯関係者でもない。警察なら制服で分かるし、防犯関係者なら腕章で分かる。そして、客観的な意見を言えば、それなりにイケメンで遊び慣れている感じだった。後は言わなくてもわかるだろう?」
ワザとだろう、こんな意地の悪い質問をするのは。まあ、福寿なりに士郎をいじめ、いや、鍛えているのだろう。だが、士郎には完全に自分がいじめ、いや、遊ばれているという事を感じ取っていた。だからこそ、士郎は気持ちの支配されないように、最悪な事態が起こっても平静が保てるように、心を固めてから言うのだった。
「それなりに想定が出来るケースはある。けど、あの男が福寿が見たとおりの男だったら、彩乃は確実に事件に巻き込まれた、または被害者になっている。そう考えられると思う」
自分なりに決意と覚悟を示してみた士郎だが、そんな士郎の言葉を聞いてから福寿は士郎に向かって人差し指を、士郎の眉間に押し付けると、無表情のままに冷たい言葉を発するのだった。
「やっぱり、まだ甘いようだね。まあ、最初から、そこまでは求めてはいないよ。けど、覚悟だけはしておきたまえ。君が思っている最悪と実際の最悪には、相当の誤差があるという事をね。だからこそ、心が壊れないほどの強固な決意と覚悟が必要なのだよ」
「俺の見解が間違っているというのか?」
「いや、そうじゃないさ。君の考えはまだ甘い、そういう事さ。何にしても、それは捜査を続けていけば分かる事だろう。私には何となくだが、この事件の顛末が見えてきたのだよ」
「てんまつ?」
「そう、折笠彩乃がどうなっているのかがね」
はっきりと言い切った福寿に士郎は驚きを示した。まだ藤紫の残留思念を見ていないのに福寿には折笠彩乃の行方不明が、どんな結末になっているのかが想像が出来たらしい。だからこそ士郎は驚き、当然のように言うのだった。
「なら、その事件の顛末ってのを教えてくれよ」
福寿に分かっている事なら自分にも聞く権利があると士郎は考えたようだ。だが、福寿からは否定の言葉が口にされた。それから、その理由も。
「それは出来ない。なぜなら、まだ決まったワケではないし、君が私の助手を続けるのなら、君は自分で確認しなければいけない。人の醜態と醜言がどういうものなのかをね。まあ、結論を急ぐ必要は無い、次の藤紫を見れば、少しは事態が君にも分かるというものだろう。それと」
「分ってる。今度はちゃんと見て、聞くよ」
「なら結構、では行こうか」
そう言うと福寿は再び士郎に向かって手を差し伸べて来た。そんな福寿の手を少しの間だけ見詰める士郎。やっぱり、少しだけ気に掛かるようだ。そして、それは今になってきたからこそ、少しだけ分かったという事だ。人の醜態と醜言が……何を意味しているのかを。
だが、士郎は戻らないと強い決意を決めていた。未だに自分を許す事が出来ないから、自分を許せるだけの罪滅ぼしをしてないから。そして、こんな事件や依頼を解決に導く事で、少しずつでも自分が自分の望んだ道を進めると思ったから。だからこそ、士郎は大きく息を吸うと、再び決意と覚悟の階段を一つ上げると福寿の手を取った。
それから二人は藤紫の残留思念に目を向ける。それから士郎は福寿の方に顔を向けた。そんな士郎に対して福寿は頷くだけだった。どうやら、覚悟が出来ているのなら藤紫の残留思念に触れろという事なのだろう。
だからこそ、士郎も一度だけ頷くと、再び藤紫の残留思念に顔を向けると、今度はゆっくりと手を伸ばして行き。藤紫の残留思念に士郎の手が入ると、二人の意識も残留思念の中に入って行くのだった。
「う~ん、どうしようかな?」
残留思念の中に入った士郎達が最初に目にして、耳にしたのは、先程と同じくカラオケ店の前であり、男性と向き合いながらも、これぐらいの年代が持っている独特の色気というものだろう。それを前面に押し出している彩乃の姿あり、彩乃は男性に向かってもったいつける言い方で返事をしたところだった。
そんな彩乃の言葉を聞いた男性が優しそうな瞳で手を軽く彩乃に差し出しながら、彩乃との会話を続けるのだった。
「別に変な意味は無いさ。君が退屈そうだったから、この辺りは飽きたのかなって思ってね。だったら、僕と一緒にカクテルでもどうかと思っただけさ。君だって興味はあるだろう、そうした……大人の楽しみってやつにね」
その言葉を聞いた彩乃から先程までの色気が消えた。どうやら、先程の言葉は彩乃にとっては凄く興味がある言葉だったのかもしれない。だからと言って彩乃の警戒心が消えたわけでは無かったのだ。なにしろ、この時間が時間だ。そんな時間にナンパしてくるような男を簡単に信用が出来ないのは当然だ。
けど、男性の声は優しく、表面も悪いようには見えなかった。そんな男性が優しい言葉で、時には大人の魅力で彩乃との会話を続けているのだ。そんな男性に彩乃の警戒心が少しずつ緩んで行っても不思議ではなかった。それだけの魅力を男性は持っていたからだ。
だが、士郎には別な面も見えていた。それは男性があっさりと彩乃と打ち解けた事だ。つまり、こうした事に慣れている、という事だけは士郎にも良く分かった。そして、男性はまるで彩乃の本心すらも分っているような言葉を彩乃に掛けるのだった。
「それに君にも行く所が無いんだろう。だから、そんな荷物を持ってる。なんなら、帰りに君の家に送るし、君の行きたい場所に連れて行ってあげるよ」
確かに男性が言葉にしたとおりに彩乃は普通のバックと少し大きめ、まあ、どこかに泊まり歩いているのだから、それなりに大きなバックが必要だったのだろう。そんなバックを持っていたからこそ、男性には彩乃の立場が分かったのかもしれない。
士郎も男性の言葉を聞いて、やっと彩乃が、そんな荷物を持っている事に気付き、それが不思議じゃない事にもやっと気付いた。けれども、士郎は何も考えずに、ただ成り行きを見守っている。やはり、先程のような失敗はしないというところだろう。
そして……事態は士郎が思っていた悪い方へと向かって行くのだった。
「う~ん、じゃあ今晩だけね。だから番号も教えないから」
「オッケー、オッケー、それで充分さ。君のような魅力的な子と語り合えるだけでも充分に役得だからね。それ以上は望まないよ。さあ、行こうか」
男性がそんな言葉を掛けるのと同時に彩乃の肩にも手を掛けて、エスコートするように歩き出した。そして二人は車道側へと向かって歩き出した。そこまで見て、聞いていると、景色が急に遠ざかり、士郎達は白い虚空へと放り出されていくのだった。
そして二人の意識は現実へと戻る。そして士郎は真っ先に思考を巡らすのだった。
藤紫って、戸惑いや不安を感じた時に残る残留思念だよな。福寿が、そう言ってたし。けど、さっきの彩乃からは戸惑いや不安を感じているようには見えなかった。どちらかと言えば……乗り気? でも……藤紫が残ってた……なんでだろう?
そんな疑問が湧き出すのだが、士郎はすぐに、その答えを見つける事が出来た。
そっか、さっきの事と同じか。人は想い出にもしない些細な事でも残留思念を残すから、彩乃は自分が戸惑いや不安を感じていると分っていながらも、その時は男性との会話に集中して、そして男性の誘いに乗った。けど、やっぱり初対面の男性と行動を一緒にする事に戸惑いや不安を感じていた。だから藤紫が残ったのか。そう考えれば藤紫が残るのは分かるけど……何で楽しそうに男性の誘いに乗った彩乃の気持ち、いや残留思念か、それは残っていないんだ? 彩乃が少しでも男性の誘いに不安以外に何かを感じたのだとしたら、それは残留思念という形で残っていても不思議じゃないよな?
そんな事を考えた士郎が、今では手を離して隣に居る福寿に向かって話し掛けるのだが、やはり福寿の方が上手なのだろう。
「福寿」
「君が言いたい事は分っている」
問い掛ける前に先に言われてしまった士郎は言葉を無くしてしまった。まあ、たった一言で自分の疑問が分っていると言われては士郎は黙るしかなかった。そして福寿はというと、やはり士郎と同じように藤紫の残留思念について考えているのだろう。だから今は考えている仕草をしているが、それもすぐに終わり、福寿はいつもの表情を士郎に向けてきた。
「藤紫の残留思念しか残っていないって事だね?」
「んっ、あぁ」
突如として質問をして来た福寿。それは士郎が尋ねようとしていた事だけあって、士郎は手短に肯定するしか出来なかった。そんな士郎の返事を聞いてから福寿は話を続けてきた。
「人の記憶だからと言って、必ずしも人の本音が聞けるとは限らない。藤紫の彩乃は会話に集中しており、本心を抱く事すらしなかった。ただ、それだけの事さ。だが、人は心に嘘はつけない。つまり、先程の彩乃が藤紫に関係が無いように振舞っていても、彩乃の心底、自分でも気付かない深層意識と言っても良い。そこで感じた事が残留思念として残ったのさ」
「つまり、彩乃は、あの男性を完全に信用したワケでは無い。考えなかったし、心の表面では思わなかったけど、心の奥底では戸惑いや不安を感じていたって事か?」
「そのとおりだね。折笠彩乃は男性との会話を楽しんでいたのかもしれないが、本音、心が本当に思っていた事は戸惑いや不安なのさ。まあ、思春期や詐欺師には、こうした残留思念が残る事も多いからね。覚えていたまえ」
「あぁ、分かった」
「なら行こうか」
「へぇ、どこに?」
あまりにも唐突だったので士郎はそんな言葉を発したのだが、その言葉を聞く前から歩き出していた福寿が足を止めると振り返って士郎に呆れた視線を送るのだった。そんな福寿の視線を受けてから、やっと士郎は自分が何をすべきかを思い出して慌てて福寿の隣へと並んで歩き出そうとしたのだ。
「そうだな、さっさと行こう」
「それは誤魔化しかい? なら誤魔化しにもなってないと言っておこうか。少なくとも、君のマヌケな返事を聞いてから、私は君に呆れたのは確かだからね。まあ、今の君に期待はしていないと言ったけど、失望させてくれとも言ってはいない。だから君が折笠彩乃達が向かった所に行く事を忘れていた事には忘れてあげよう。そして、これからはしっかりしてくれたまえ」
「……はい、ごめんなさい」
福寿の言葉が思いっきり胸に刺さった士郎には謝る事しか出来なかった。まあ、士郎は覚える事が多いし、すっかり彩乃達の事を忘れてしまっていても仕方ないと言えるだろう。なにしろ、今日が福寿の助手になった一日目なのだから。
だからか、福寿も軽く士郎をいじめ、いや、遊ぶ……まあ、そんな事をした後に、さっさと歩き出すのだった。そんな福寿を慌てて追う士郎は福寿の横を歩きながらもしっかりと反省をするのだった。まあ、あれだけ間抜けた事をしたのだから士郎がヘコんで反省するのも仕方ないと言えるだろう。
だからと言って、いつまでもヘコんでいたら、また福寿から痛い視線を貰うのは確実だ。だからこそ、士郎は気分を入れ替えると福寿と一緒にアーケード街から出ていくのであった。
そして車道側に出た士郎はすぐに彩乃の事を覚え直す。なにしろ、男性は彩乃を送って行く、そして行きたい場所に連れて行くとも言った。それはつまり、男性は車を所有している証拠でもある。そんな理由で推測が立てられるからこそ、福寿は真っ先に車道側に向かったし、士郎も車道側に出ると、すぐに彩乃の残留思念を探せるようにした。
だが、士郎が彩乃の記録を覚えている間に福寿は彩乃の残留思念を見つけたのだろう。すぐに士郎の手を取ると、まるで見ろと言わんばかりに引っ張ったのである。そのため、士郎も、そちらに目を向けると、そこには確かに残留思念があった。
それに今さっき、彩乃の記録を覚えたばかりだ。つまり、今の士郎には彩乃の残留思念しか見れない。だから、見えているのが彩乃の残留思念だというのが、すぐに分かった……のだが、それと同時に少しだけ驚きも感じていた。
そう、そこに残されていた残留思念。それは先程と同じく……藤紫だったからだ。
「また藤紫かよ」
「当然と言えば当然だね」
福寿の言葉を聞いて、そう言われれば、そうか、っとあっさりと納得する士郎。少し考えてみれば、藤紫が残っているのは当然だと言える理由がすぐに分かったからだ。
なにしろ、彩乃は自覚が無いままに藤紫の残留思念を残している。更に、ここはパーキングエリア、つまり、ここで彩乃は車に乗った可能性が高い。先程は自分でも気付かないうちに戸惑いや不安を感じていたのだ。それがここに来て見知らぬ、初めて出会った男の車に乗る事を実感して、改めて戸惑いや不安を自覚したのだろう。むしろ、この状況で戸惑いや不安を覚えない方がどうかしている。もし、そうだとしたら、すごく楽観的か何も考えていないかのどちらかだろう。
だが、彩乃はここに来て考えてしまったのだろう。だからこそ、藤紫の残留思念が残っているのだと士郎は考えたし、福寿も同じ事を考えていた。なんにしても、ここに彩乃の藤紫が残っているのは当然とも言えるような事なのだ。だからこそ士郎は、それ以上の事は言わずに福寿と一緒に藤紫に近づいて行くのだった。そして藤紫の前に立つと福寿は顔をそのままに士郎に向かって言うのだった。
「何にしても、この藤紫がここで調べられる最後の残留思念だろうね。ここに残留思念があるという事は、この後の移動は車だという事だ。つまり、ここで行き先を特定が出来ないと後が無くなる。それは分っているだろうね、それと自分がすべき事も」
「あぁ、大丈夫」
「分かった、なら行こう」
簡単に返事をしてきた士郎に福寿は手を差し伸べて来た。そんな福寿の手を取って士郎は藤紫の残留思念に手を入れるのだった。さすがに今日だけで四回目だ、すっかり躊躇をする事は無く、普通に残留思念に手を入れられるようになった士郎だった。
そして、士郎達は残された残留思念の中に入る。
そこには高級なスポーツカーと思われる車が止まっており、助手席のドアが開いている。そのドアの前に立ちながらも彩乃は躊躇しているように立ち止まっていた。そんな時だった、またしても彩乃の本心が響き渡る。
『さっきは勢いだけで良いって言っちゃったけど……本当に良いのかな? 何か、かなり抵抗があるけど……うん、大丈夫だよね……たぶん。……けど』
どうやら、随分と戸惑っているようだ。彩乃の考えはまとまる事無く、まるで混乱しているかのように様々な言葉が聞こえてきた。
そんな時だった。男性が彩乃の背に手を当てると、彩乃に優しく微笑みかけながら言葉を掛けるのだった。
「まあ、君の気持ちも分かるよ。こんな、みっともない男と一緒じゃあ、嫌だって事だろ」
「いえ、全然みっともなく無いですよ。それどころか、なんていうか……凄い車だなって。こんな凄い車を持ってるんですね」
「あははっ、大した物じゃないよ。車は好きだからね、ついついお金を掛けちゃうのさ。これも一千万ぐらいは掛けて改造とかしてるかな」
それぐらいは何とも無いと言わんばかりに笑いながら言ってくる男性に彩乃はついつい心を解放してしまう。
『はぁ~、何か凄すぎて、何て言って良いのか分からない。それにしても、一千万って。相当、車が好きなんだね。それに、何か笑顔が優しいし、まあ、たまには、こんなのもありだよね』
……手馴れてるのか? 男性の言葉と彩乃の本心を聞いて、そんな疑問を抱いてしまった士郎だが、それ以上の事は考えなかった。どうやら、やっと残留思念に入る事に慣れてきたようだ。だからこそ、今は全ての成り行きを見守っている。
だが、やっぱり男性の行動と彩乃の本心を聞くと、男性がこの手の会話や行動に手馴れてると士郎は考えざる得なかった。
その理由の一つに男性の話術がある。男性はワザと自分を卑下して、それを彩乃に否定させた。つまり、彩乃が否定したという事は男性を認めたという事になる。それに、車に関してもさり気なく言っているし、少し子供っぽい部分を見せる事で彩乃に油断を見せる事で自分を信用させてしまった。
それだけの事を士郎は目の前で見て、聞いているのだ。だから、士郎が男性に対して手馴れているという感想を抱いても不思議ではなかった。だからこそ、士郎には余計に男性が怪しく見えてきたのだ。
だが、今は考えている時ではない。事の成り行きを全て見て、聞かなくてはいけない。何一つとして見落としても、聞き落としてもいけない。なにしろ、ここで彩乃の足取りが掴めなくなると、次はどこを探せば良いのかが分からなくなるからだ。
それが分っているだけに、士郎は耳に二人の会話と彩乃の本音を聞きながら、目ではさりげなく車の中を見て、これからのヒントを探している。そんな事をしているうちに彩乃は完全に男性を信用してしまったのだろう。彩乃は車の助手席に座ると、男性はドア閉めてから運転席へと向かった。
そして……何も残さずに車が動き出し、士郎達が目にしていた光景も一気に遠ざかり、二人の意識は現実へと戻って来た。そして士郎はすぐに福寿の手を離すと言葉を口にする。
「どうするんだ福寿、車で移動されたら、もう追えないぞ」
事態に慌てながらも、なるべく冷静に言葉を口にする士郎。そんな士郎とは打って変わって、福寿は冷静にその場から離れて、士郎にも離れるように言うと、二人は歩道の真ん中にまで移動した。それから福寿はやっと口を開いてきた。
「さて、これから次の捜査に入るからね。ちょっと集中力を切り替える必要があるから、君は少し待っていたまえ。それと、くれぐれも私の集中力を乱さないように注意したまえ」
そんな事を言って来た福寿に言葉を掛けようとする士郎だが、福寿は言い終わると、すぐに瞳を閉じてしまったから言っても無駄だと感じたようだ。だからと言って、士郎の心配が消えたワケではなかった。なにしろ、彩乃達は行き先を残さないままに車で移動してしまったのだ。そして……その後は彩乃が行方不明という事態になっている。つまり、ここから先が最も重要だという事は士郎にも分かるほどだからだ。だから士郎は内心で焦りつつも、彩乃を心配するのだが、そんなに時をおかずに福寿は瞳を開いた。
瞳を開いた福寿に話しかけようとするが、先程の言葉を思い出した士郎は黙る事にした。福寿は、集中力を乱すな、と言ったのだ。それは福寿が何かをしているのだが、それには集中力が必要であり、これからの捜査を進展させるものだと士郎は考えたからだ。だから今は福寿を信じて、黙り込む士郎。
そして、それが終わったのだろう。福寿は士郎の方へと向くと口を開いてきた。
「確認すべき事はした。後は君と一緒に残留思念を見るだけだ。さあ、先程まで覚えていた折笠彩乃の記録を頭の中から消したまえ。そうすれば君にもしっかりと見えてくるからね」
福寿の言葉が何を意味しているのかが分からないままに、とりあえず士郎は目を閉じて、頭の中から折笠彩乃の事を忘れるために別の事を考えようとするが、いざ忘れようとすると逆に折笠彩乃を心配する気持ちが出てきて、なかなか忘れる事が出来なかった。忘れようとすればするほど、士郎は彩乃の事が気掛かりになってきたのだ。
だが、これではいけないと士郎は別の事を考えるために、思考を福寿に向けるのだった。もちろん、特別な意味は無い。ただの思い付きで、傍に居る福寿の事を考えようと決めただけだ。そんな士郎が福寿と共に捜査についても思考を巡らすのだった。
何と言うか、さっきの福寿は何をしてたんだろう? まあ、それは、これから教えてもらえるとして……何と言うか、福寿って俺の上司になったワケなんだよな。……あれっ、ちょっと……待て……というか、福寿は最初から俺が福寿の助手になる事を予想してたわけじゃんっ! それって……最初っから俺をこき使う予定に入ってたのかっ! だから偉そう、いや、それは出会った時からか、偉そうな態度だけを見せているのは自分の立場を誇示したいからか? ……まあ、そんな福寿に逆らえないのも事実だけど……なんだろう、何か釈然としない……。
まあ、最終的には自分で決断をした……と思いたい士郎だが、やっぱり福寿の手で踊っていた気分になったのだろう。だから納得が出来ない気持ちも少しだけ沸いてきたが、そこは、やっぱり、自分で決めたと思い込む事で無理矢理にでも納得する事にした。まあ、そうでもしない限りは福寿の助手は務まらないし、偉そうな態度を取っている福寿に不満を感じる事が確実だからだ。
けど、士郎は自分を許すために、自分の贖罪をする為に福寿の助手になったのだ。そこに福寿の意図が絡んでいようと関係は無い……という方向性で納得する事にした士郎だった。まあ、それはあまり考えても、確実に福寿に踊らされた、という結論になるのだから、何らかの形にして納得するしかないのだろう。……それが現実を曲げる事だとしても……。
まあ、そんな事はともかく、士郎はそれだけの事を考えると確実に彩乃の事を忘れたと感じたようだ。だからこそ、目を開く。そして士郎が目にしたのは……先程とほとんど一緒のところにある黒の残留思念だった。
「あの黒って?」
見たまんまを福寿に尋ねてみる士郎。そんな士郎の質問を予想していたのだろう、だから福寿は一気に説明を開始するのだった。
「ここに来るまでに少し話をしたが、残留思念は使い方によっては便利という事さ。私は残留思念に入る前に、それが誰の残留思念なのかを見る事が出来る。とは言っても、分かるのは顔と名前だけなのさ。だから先程は君が見ている黒の残留思念が誰のものかを確認していたのさ。そして、その黒は確かに、あの男性が置き去りにした残留思念だ。そして、黒が意味するものは、殺意、悪意、計画的な犯行、何にしても良い意味の無い残留思念だ。そして……黒が出てきたという事は、今回の依頼は必ず何らかの事件になっている。黒は、そんな意味を含んでいるのさ」
「って、事はっ! 彩乃は必ずしも何らかの事件に巻き込まれたって事か!」
「まだ断定するのは早いと言えるだろうね。まあ、少しは落ち着きたまえ、そんな訳で、手を出したまえ」
いきなり福寿から手を出せと言われて士郎は首を傾げながらも手を出すと、福寿は何かを握った手を士郎が出してきた手の上で開くと士郎の手には数枚の硬貨があった。その硬貨を指差しながら尋ねるような顔で福寿を見ると、福寿は近くにあった自動販売機を指し示した。……まあ、パシってこいって事なのは確実だろう。
先程までの緊迫感がすっかり無くなり、士郎は溜息を付きそうになったが、何とか大きく息を吐くだけに止めた。そんな士郎が福寿に飲み物のリクエスト聞く。まあ、福寿の助手なのだからパシルのも当然なのだろうと士郎は納得したようだ。そんな士郎に向かって福寿は口を開くのだった。
「私はお茶を、君はさっぱりする物を買って来たまえ。具体的に言えば、害した気分を少しでも晴らせるような、そんな飲み物にしたまえ。まあ、その意味は黒を見れば分かるだろうさ。さあ、時間も無い、さっさと行ってきたまえ」
福寿にそんな事を言われて、納得する部分と納得が出来ない部分があるものの、今は福寿の言うとおりにした方が良いのだと思って素直に自動販売機に行く士郎。そして、士郎は福寿の言葉が何を意味しているのかが分からないが、気分をスッキリさせるめにはスポーツドリンクが一番だと思い、それを選択した。そして福寿の分である、お茶も買うと、福寿の元へ戻り、おつりを福寿に返して、それからペットボトルの蓋を開けようとするが福寿に止められた。
「飲むのは黒を見てからにしたまえ」
「えっ、何でだ?」
「黒を見れば分かる。さあ、先に黒を見てしまおう。全ては黒の残留思念を見れば分かるというものさ」
福寿の言葉に首を傾げる士郎だが、福寿が手を出してきたので、士郎はペットボトルを近くにあるガードレールの柱に置くと、福寿の手を取ってから黒の残留思念と向き合った。
……なんだろう、なんか……気持ち悪い。黒の残留思念を前にして、そんな事を思った士郎。だが、福寿の言葉を思い出すと、何となく気持ち悪いのが分かったような気がした。そう、黒が意味しているのは、殺意、悪意、計画的な犯行、つまり男性が彩乃を誘った時点で、何かしらを企んでいたのは明確であり、黒を見れば、何を考えていたのかがはっきりとする。
だが、黒の意味を考えれば、どう考えても事態が良い方向へと進展するワケが無い。つまり、士郎は黒を目の前にして彩乃が事件に巻き込まれた、または、被害者となったという事を初めて自覚したのだ。
それを自覚するだけでも気分を害されるというのに、これからははっきりと黒を見ないといけない。けれども、黒を見ない限りは何も分からないままだ。そう、今は何を考えていても仕方が無い。全ての答えは……この目の前にある、黒の残留思念が教えてくれるのだから。
だからこそ、士郎は黒の残留思念に向けて手を伸ばすが、やっぱり少しだけ、ためらったのだろう。伸ばした手が止まるが、士郎は呼吸を整えると、覚悟を決した目になり、手を黒の残留思念に入れるのだった。
そして二人は残留思念に入ると、先程と同じ光景が広がった。それは彩乃が車の助手席を前にして戸惑っているところだった。そして強制的に聞こえてくる男の本心。
『ったく、何やってんだよ、さっさと乗れよな。ちっ! 仕方ねえ、もう少し、お話をしてやるとするか。その後は少し酔わせて、天国に行く気分にさせてやるんだからな。まあ、車に乗せちまえば、天国行きが決定だな』
なっ! 先程の男性とは思えないような声が聞こえてきたので驚きを露にした士郎。先程は、あんなに優しげに話していたというのに、まさか、こんな事を考えているとは予想外というよりも予想も出来なかった事だと言えるだろう。
そして士郎は再び目にして耳にする。先程の会話を、男性は本心とは裏腹に優しく彩乃に離しかけ、それに彩乃も心を開くように笑うのだった。そんな時だった、またしても男の本心が強制的に聞かされる。
『さて、これで充分だろ。それにしても、今回は、かなり上玉が釣れたな。これは一回で終わらせるのはおしいな。まあ、充分に犯ってからで良いだろう。それに溜まっているからな、数回は楽しませてもらわないとな。後は……さすがに、もう警察の厄介になるのはごめんだからな。捨てるか。そうなると、犯るのは河川敷が良いだろうな。あそこなら人目に付かないし、こんな時間なら声を上げられても誰も気付かないからな。そうと決まれば、さっさとやるか。久しぶりだからな、さっきから俺の股間がうずいてしょうがねえ』
……信じられない、と言った感じで士郎は男性を見詰めていた。確かに先程の藤紫で男性がナンパに慣れている事には気付いたが、まさか、この時点で強姦まで企んでいるとは、まったく想像も出来なかったからだ。
それに、やっぱり男性の外見と話術があったからだろう。士郎も男性の言葉を聞くだけでは、ここまで企んでいた事にはまったく気付く術は無かったのだ。それが黒を見る事ではっきりとした。けど……黒はまだ続くのだった。
彩乃を助手席に乗せた男性がドアを閉める。それと同時にまたしても強制的に聞こえて来る男性の本心。
『そういえば、少し遠いが、草が高い河川敷があったな。なら、そこで犯った方が手っ取り早いか。なにしろ、これ以上は警察に目を付けられたくはないからな。だったら、見付からないところに捨てるのが一番だな。だが、それには充分に酔わせないとだな。何も分からなくなるまで酔わせた後に天国に行って地獄行きだっ! はっはーっ! ここまでするのは初めてだからな、今からスゲー興奮すら~。まあ、酔ってなくても脅せば良いだけだしな、というか、そっちの方が興奮するかっ! ヤッベー、今からスゲー興奮してきた。なら、少し飲ませて、すぐに犯るのとするかっ!』
途中から福寿と繋いでいる手を離して、自分の耳を塞ぐ士郎。だが、黒の残留思念は、そんな士郎にもっと聞かせるかのように、男の本心を士郎の耳に、脳に直接、男の本心を叩き込んでくるのだ。そう、残留思念を見ている限り、強制的に見せられ、聞かせられるのだ。それが残留思念を見る、という事なのだから。
そんな男の本心をたっぷりと聞かされた士郎は呆然としていた。それは、先程の男性からは、まったく想像が出来ないほどに醜い本心だったからだ。そして……残留思念を見ているのだから、これが男が企んでいた事である。
つまり、男は最初っから彩乃を犯すつもりで話し掛けたのだ。それは悪い方向に向かっていく事態に士郎は心の準備をしていたのだが、実際に男の醜い本音を耳にすると、そんな準備すらも打ち砕くほどに、男の本心を、そして現実を士郎に叩き付けてきたのだ。そんな黒の残留思念に対して士郎は何も出来ない。もう、見る事も聞く事もしたくはないだろう。だが、黒は無残にも士郎に男の本心を聞かせた。それだけでも、士郎は胸を貫かれたような痛みが走ったように感じた。
そして男性が運転席に座ってドアを閉めると、すぐに車が発車するのと同時に、光景が一気に遠のいて行き、士郎達の意識も白い虚空へと弾き飛ばされて行った。
意識が現実に戻って来た士郎は、まるで糸が切れた操り人形みたいに膝を落とすと、そのまま地面を見詰める。もう、何を考えて良いのかも分からない、と言った感じだ。そんな士郎の頬に冷たい物が当たると、士郎はやっと顔を上げた。そこには、いつの間にか士郎が買ったペットボトルを士郎の頬に当てている福寿の姿があった。
そんな福寿が何も変わらず、無表情のままに士郎に向かって言うのだった。
「さあ、まずは、これを飲んで気分を落ち着かせたまえ。だから今は何も考えるな、何も感じなくて良い。ただ、これを飲んで気持ちを静める事だけをしたまえ。頭は動かすな、今は心を静める事に集中したまえ」
そんな福寿の言葉を聞いた士郎が力が入っていない手で頬に当てられているペットボトルと取ると、手から伝わってくる冷たい感触が気持ち良かった。それから士郎はすぐにペットボトルの蓋を開けると、すぐに口を付けて、中身の半分ほどを一気に飲み干したのだった。
それから士郎はやっと立ち上がるとガードレールに腰を掛けて、すっかり疲れきった顔で手から伝わってくる冷たい感触とペットボトルを見詰めている。福寿はそんな士郎の隣に立つと、同じく先程、士郎に買いに行かせたお茶が入っている缶を開けると、中身を飲んでから士郎に向かって話しかけるのだった。
「さて、少しは落ち着いたかね。まあ、気分が最悪なのは分っているから言わなくて良い。それに、今回のケースは分かり易かったからね。だから、その程度で済んだし、私も君に慣れされるために、今回は一緒に黒を見た。本来なら、黒とか犯罪に関わる色を見せるのは、少し耐性を付けてからなんだが、今回のケースは充分に予想が出来たからね。だから一緒に黒を見たのだが、これも勉強の一環だと思ってくれたまえ。まあ、この程度ならすぐに慣れるだろうけどね。それぐらい、今回の事は分かり易いと言っても良い。何にしても、これで次に行くべきところが絞り込めるからね。上出来と言えるだろうね」
そんな福寿の言葉を聞くと士郎は手にしているペットボトルを投げ出して、隣に居る福寿の襟元を思いっきり掴むと、こちらに向かせて右手を上げる。……だが、そこで士郎の動きは止まった。そして福寿は、そんな士郎を突き放すかのように、更に冷たい言葉を槍にして士郎の胸に突き立てるのである。
「私を殴って気が済むのなら、そうしたまえ。だが、君が何をしようと現実は変わらない。残留思念は過去の記憶、つまり既に行われた事だ。更に言えば、私は今までに、これ以上に酷い裏切りや本心を見て、聞いてきた。それに比べれば、今回のケースは分かり易いし、想像も充分に出来る範囲内だった。君がそれを出来なかったという事は、君の考えが甘かったという事だ。若い娘が三週間も行方不明になっている時点で、強姦というケースは想像が付いたはずだ。むしろ、強姦目的という事が一番に考えられるという事だろう。だが、君は考えなかった、いや、考えたくなかったと言った方が正しいかい。そんな君に残留思念は現実を突き付けてきた。それに耐えられないほどに君は弱かったようだね」
そんな福寿の言葉を聞いた士郎の手からゆっくりと力が抜けて行く。それは士郎が納得してしまったからだ。そう、士郎にも強姦という事は充分に考えられた。だが、士郎は、それを視野に入れる事を拒んだ。ただ行方不明というだけで、犯罪に巻き込まれた可能性を考えたくはなかったからだ。
だが、頭の片隅では、その可能性も少なからずも考えている部分もあった。けど、それを認めたくはなかったのだ。それは当たり前と言える事だろう。誰だって、不安な時に悪い方向には考えたくは無い。けど、少しは悪い方向へも考えるというものだ。けど、それを認めてしまったら、認識してしまったら、心はそれに耐えられない。だから人は悪い可能性が大きいとしても、良い方向へと考えるのだ。
けど、士郎達には、それは許されない。いや、犯罪に関わる者として、事件に関わる者としては、それは当然の覚悟と言えるだろう。最悪のケースも予想内に入れていれば、どんな事態になっても冷静に対処が出来る。つまり、どんな現実を突き付けられても充分に耐えられる心を持てるのだ。
改めて自分の立場を、自分がやると決めた事の重さを感じた士郎。だからだろう、ゆっくりと福寿から手を離すと再びカードレールに寄り掛かり、もう何をして良いのか分からない、と言った表情で呆然とする。それも仕方ないと言えるだろう。なにしろ、士郎にとっては初めて犯罪に関わる残留思念を見て、聞いたのだから。
そんな士郎とは正反対に福寿は襟元を正すと、お茶の缶をガードレールの柱に置いてから士郎の前へと立った。それから思いっきり士郎の頬を叩くのだった。
突然の出来事に驚きの眼差しで福寿を見詰める士郎。そんな士郎に対して福寿は、ほとんど見せない微笑を見せると、叩いた士郎の頬に手を当てながら言葉を口にするのだった。
「私は君に確認したはずだ、君は、人の醜態を目にし、人の醜言を耳にする覚悟があるのかと。そして君は答えた、その覚悟があると。なら、そろそろ目を覚ましたまえ。今は弱くとも、君は強くなると決めたのだからね。だから強くなりたまえ、そのうち、私と一緒に歩けるほどに。君のような男には、そんな姿が良く似合う」
「……福寿」
先程とは打って変わって優しい言葉。士郎は、その言葉を聞いて、それこそが福寿の本心かもしれないと思った。決意をしても、覚悟があっても、人の醜態を目にし、人の醜言を耳にするのは苦しいものがある。だが、福寿はそれら全てを耐えるだけの心がある。そして、士郎にも、そんな心を持って欲しいと思っている、のかもしれない。
どちらにしても、福寿の助手を続けるという事は、こうした現実を突き付けられても耐えられるだけの心を持たないといけない。それだけの強い決意と覚悟、そして心を持たないといけないのだ。そして福寿は、士郎になら、それだけの強さが持てると確信しているのだろう。だからこそ、かなり厳しいけど黒を見せたのかもしれない。そう、士郎と福寿は似ている。という事は、士郎も福寿と同じように心が強く出来るという事なのだから。少なくとも、福寿の言葉を聞いて士郎は、そんな風に思ったのだった。
そんな時、福寿が突如として士郎の頬に当てていた手で頬を掴むと、そのまま引っ張ったのだ。その事に先程まで感じていた、少しだけ感動が出来そうな心境も一気に吹き飛び。士郎は福寿の手を払い除けるのだった。
そして士郎は不機嫌な目を福寿に向けると、福寿は意地の悪い笑みを浮かべていた。そんな福寿に対して士郎は思ったままに、不機嫌な言葉を口にする。
「思いっきり叩かれたところを引っ張られたら痛さが倍増するだろう」
「おや、私としては十倍以上を期待していたのだが」
「福寿は俺を痛めつけたいのか、いじめたいのか、はっきりしてくれ」
「私は君で遊びたい」
「いや、そこで本心を堂々というなよ」
「これは失敬」
そんな会話をした後にお互いに意地の悪い笑みで笑う士郎と福寿。それから士郎は福寿に向かって握手を求めるかのように手を出すが、福寿は士郎の手を叩き払ってしまった。それでも、士郎は少しだけ優しい顔付きになると福寿に向かって言うのだった。
「悪かった」
そんな士郎の言葉に対して、福寿は意地の悪い笑みを浮かべたままに言い返すのだった。
「別に構わない。なにしろ君には強くなってもらわないといけない。少なくとも、私の助手が務まるぐらいにね。それに、これぐらいの方がいじめがい、いや、鍛えがいがあるというものさ」
相変わらずの言い草に士郎は再びガードレールに腰を掛けると福寿も士郎の隣に戻って再びお茶の缶を手にして中身を口に入れた。そして士郎も少し意地の悪い顔で福寿との会話を続けるのだった。
「それはそれはご苦労な事だね。まあ、せめて福寿探偵の足を引っ張らないぐらいには成長する事にしたよ」
「おやおや、すっかり性根が曲がってしまったようだね。まったく、だから、最近の若者は」
「どこのお年寄りだよ。それに、性根が曲がったのは一番近くにいる奴の影響を受けたからだろうな。恨むのなら、そいつを恨めよ」
「やれやれ、まったく、厄介な事をしてくれた者も居た者だね」
「自覚が無い事は老化の始まりらしいぞ」
「そうか、なら君が気を付けたまえ。少なくとも私の方が若いから、老化は君の方が早いのだからね。それに私はまだまだ成長期さ、将来は君が土下座して私の助手にしてくださいと言うほどの女性になっているだろうね」
「残念ながら、福寿からは、そんな期待は出来ない。顔はともかく、他は無理だな」
「とりあえず、君の上司として思いっきり殴らせてもらうか」
「職権乱用はよくないぞ、労働組合があったら充分に訴えられるぐらいだ」
「まったく……」
そんな会話をしていると、福寿はその言葉を最後に溜息を付くと、士郎の肩を軽く叩くのだった。そんな福寿に対して士郎は真剣な顔付きになると話を元に戻してきた。
「それで、彩乃達の行き先は検討が付くのか?」
「それは問題は無い。あの男性については私が調査をすれば明日には分かるだろう。なにしろ、私には男性の名前が分っているのだからね。私の捜査網を使えば男性の事が分かる。後は黒が残した言葉、キーワードとも言えるね。それを頼りに地図を見れば、ある程度は場所が絞り込める。その後は……置き去りの想い出、残留思念を見つけるだけさ。例え……どんな残留思念だったとしてもね」
「……一つだけ聞いて良いか?」
「なんだね」
「この場合……最悪な残留思念は何だ?」
そんな事を尋ねてきた士郎に対して福寿は再びお茶を口にして、すぐに返答はしてこなかった。別に特別な意味は無い。強いて言えば福寿は今の士郎を見たくはなかったのだろう。だから福寿は顔を逸らしたのかもしれない。そして福寿はいつもの無表情に戻って、静かに言うのだった。
「それは意味の無い質問だね、何を基準にして最悪とすれば良いのかが分からない。それに、黒が出てきたという事は、今回の依頼が確実に犯罪に関わっている可能性が大きい。どんな犯罪を最悪にすれば君は納得をするというのかい。弱さを出すのは悪い事ではない、だが、君はこれから強くならないといけない。だから弱音は聞かないよ」
「……すまん」
福寿の返答に短く答える士郎。やはり未だにショックが抜け切れてはいないのだろう。少なくとも、士郎の第一印象として男性は手馴れているものの、優しげに見えた。とてもではないが、黒で聞いたような事を考えるような人物には見えなかった。
だが黒は、そんな士郎の期待にも似た思いを崩壊させた。士郎が考えていた希望を粉々に打ち砕いたのだ。だからこそ、士郎は福寿に頼るような事を聞いたのだろう。だが福寿は、そんな士郎を突き放した。いや、これは士郎が自分自身で自分の心に決着を付けなければいけない問題からこそ、あえて突き放すような言葉を口にしたのだろう。
だが、それでは過酷だ。だからか、福寿は話を続けるのだった。
「だが、まだ決まったワケではない。ほかのケースも考えられるからには、それなりの覚悟をしていたまえ。それが今の君に出来る事だからね。今は弱くても良い、君はこれからの経験で強くなれば良いのだから。だから、君は自分で口にした事を実行して、私に見せてくれたまえ。時間を掛けても良い。いつかは君が望んだ事を、それをやる姿を私に見せてくれたまえ」
「……分かった。そうだな、いつかは……時間は掛かっても強くなるよ。福寿の隣に、助手ではなくてパートナーになれるぐらいにね」
そんな士郎の言葉を聞いた福寿が安心したかのように笑うと士郎にとっては意外な言葉を口にするのだった。
「ふふふ、なら、そんな時が来るのを期待しながら待たせてもらおうか。さて、それでは帰るとしよう」
「……へっ?」
福寿の思い掛けない言葉に士郎は思いっきり間の抜けた返事をする。そんな返事をして来た士郎に対して福寿はアーケードにある時計を指し示しながら言うのだった。
「既に十時過ぎだ。それに、ここで捜査をする事は何も無い。こんな時間に、こんな所で呆然としていたら警察や防犯組合にお世話になるだけさ。まあ、君が、そうなりたいというのなら止めないが。少なくとも私の事務所に君の荷物も置いてあるのだから、それだけは取りにきたまえ」
「あぁ、もう、そんな時間なのか」
士郎も時計を確認すると確かに時計の針は十時を過ぎていた。そして、士郎が時間を確認したのを見届けると福寿はさっさと歩き出してしまった。だから、士郎が時計から目を戻した時には福寿の後姿を目にしたので、士郎は急いで福寿の隣に並び、そのまま一緒に歩いていくのだった。




