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その二

 怪しい、それが士郎の第一印象だった。福寿に連れてこられた場所。そこは数階建てのビルだが、入口である階段の場所が分かり辛いほど奥まっており、階段も凄く狭かった。そして極め付けは事務所と思われるドアに張られているプレートだ。そのプレートには、しっかりと探偵事務所の名前が書かれていたのだが、いかにも怪しげな名前だった。

 そして、その名前こそ『捨て去り探偵事務所』という意味不明で怪しげな名前の探偵事務所だった。いったい何を捨て去るんだろう? と士郎は思いながらも、ドアの前に立っている福寿が事務所の鍵とドアを開けると、プレートの下にある『外出中』の看板をそのままにして事務所の中に入ると士郎にも入るように促すのだった。

 なんか……意外とまとも。それが士郎の第二印象だった。事務所の中は仕切りがあり、奥までは見えないが、広いとは言えないものの、それなりに事務所の形になっていた。そして、玄関を入って、すぐ横には対面に置かれたソファーが二つ、その間には細長いテーブルが置いてあった。

 そんな事務所に入ってドアを閉めると、福寿がソファーに座って待っているように言って来たので、士郎は素直にソファーに座る。それから一分も経たないうちに福寿が急須と湯飲みを二つをお盆に乗せて持ってきた。

 それから福寿は士郎と対面するように座ると急須から湯飲みにお茶を入れると一つは士郎の前に差し出し、一つは自分の前に置いてから、急須をお盆に戻すとすぐに湯飲みを手に取って、お茶を静かにすする。

 そんな、すっかり落ち着いてる。まあ、出会ってからずっとだが、落ち着いている福寿を目にして、士郎もお茶を一口だけ飲むとすぐに戻し、福寿を見詰めた。そんな福寿が湯飲みを手にしながら口を開くのだった。

「さて、まずは何から説明すべきなのかな?」

 そんな言葉を口にしてきた福寿に対して士郎は一番に気にしている事から尋ねた。

「とりあえず、残留思念が何なのかを教えて欲しい。言葉自体は聞いた事があるけど、それはオカルトの分野だと思っていた。けど福寿が言っている事から違うように思える。だから福寿が言ってる残留思念とは何?」

 そんな士郎の質問を受けて、福寿は湯飲みを手にしながら士郎の瞳を真っ直ぐに見詰めると士郎の質問に答えてきた。

「残留思念についてか、それを答えるにはこちらかも質問をしないといけない。それは君にもさまざまな想い出があるはずだ。楽しかった事、悲しかった事、他愛もない事、それらの想い出を君は鮮明にしっかりと思い出せるかい? その時に話をした事を一字一句間違い無しに、その時の言葉を、気持ちを、鮮明にそれらの想い出を、そこまでしっかりと思い出せるかい?」

「いや、さすがに、それは無理だろ」

 士郎が、そう答えるのも当然だろう。そもそも、想い出なんて、そうそう作れるものでも無いし、時が経てば消えていくものだ。士郎だって、子供の時の想い出なんて、思い出す事が出来るかも分からない。想い出とは、そういうものだ。

 それなのに福寿は、あえて、そんな質問をした。だから、これからの言葉が残留思念に繋がるのだろうと士郎は黙って福寿の言葉を待つ。福寿も士郎の答えを聞いて、そうだろうと言わんばかりに頷くと話を続けてきた。

「そう、人は誰しも想い出の全てを記憶できるワケではない。大まかな事、印象に残った事しか思い出せない。だからこそ、人は写真や日記という形で想い出を残す。だが考えてみたまえ、なぜ想い出を覚えてられないのかを、想い出という過去がどこに行ったのかを」

「そりゃあ、想い出に残る事なんて、あまり無いし、その時は夢中になってるから鮮明に覚えてられないから、後になって鮮明に思い出せないだろ?」

 士郎が、そのように答えると福寿は、その通りとばかりに頷くと話を続ける。

「その通りさ。けど、その答えは一つだけ間違ってる。想い出に残る事は多いのさ、ただ、それを人は持ちきれないだけ、覚えていられないと言っても良い。人は普通に生きてても想い出を山ほど作ってる。けど、それを想い出に出来ないのは……置き去りにしてるから」

「置き去り?」

「そう、置き去りの想い出、それが残留思念だ」

 福寿の答えを聞いても士郎は頭の上にハテナマークを浮かべている。まあ、あれだけの説明で理解しろというのが無理という話だろう。福寿も、それが分っているみたいで、お茶で喉を潤すと更に説明を付け加えてきた。

「人の頭と心は少しでも印象に残る事、行った事を記憶している。けど、それらを全て鮮明に記憶が出来るほど、人は頭と心を使えない。だからこそ、人は想い出に出来る大多数を、その場に置き去りにして想い出とはしないで忘れ去る。だから、人が少しでも心に感じた事、考えた事は想い出に出来るのだよ。だからこそ人が想い出に出来る事は全て残る物なのだよ。けれども、人はその想い出を全て記憶する事、つまり持ち続ける事が出来ない、だから、そこに置き去りにするのさ。そうして残った置き去りの想い出こそが残留思念だ」

「えっと……ちょっと待って……。つまり、覚え切れない記憶を置き去りにしてる。そう考えても良いのかな?」

「そう、理解してもらっても間違いではない。意外と覚えが早くて助かるよ。まとめると、人が記憶できずに残した想い出。人はそれを鮮明に覚えていられないから、記憶の大多数を、その場に残して立ち去る。そこに残るのが、置き去りの想い出、つまり残留思念なのさ」

 そんな福寿の言葉を聞いて士郎は思考を一気に巡らす。

 つまり残留思念とは人の記憶……と思って良いのか? まあ、福寿の話を聞いている限りだと、そう理解した方が良いのかな。そして、人は覚えきれない記憶。福寿が言うには想い出に出来なかった想い出。人はそれを、その場に置き去りにしている。そうして残った置き去りの想い出が残留思念というわけか。

 そんな風に頭の中で考えをまとめる士郎。いつの間にか士郎が考える仕草をしていたので、福寿も話を進めなかった。士郎が理解するまで待っていたのだろう。そうして、士郎が理解して頭が疲れて、目の前にあるお茶で一旦スッキリさせると、士郎は話を次に進める。

「残留思念については分かったと思う。けど、その残留思念は普通は見えない、はずだよな。けど、俺と福寿には見えてる。何で俺と福寿には残留思念が見えるんだ? さっきの高杉って警部も残留思念を知らなかったみたいだし、見えているようには思えなかった。何が原因で俺達にだけ残留思念が見えるんだ?」

 更なる質問に福寿は答えるためか、お茶をゆっくりとすすると、今度は少しゆっくりとした口調で話し始めた。

「それは、私と君が残留思念を見るための条件を満たしているからさ」

「その条件って?」

「それはたった一つ。自分の中に決して忘れられない想い出を持つ事」

 意外とあっさりとした答えに士郎は再びハテナマークを頭の上に浮かべる。まあ、士郎が疑問符を付けるのも無理はない。なにしろ、決して忘れられない想い出なんて、一つや二つは必ず人は持ってるものだ。誰だって、決して忘れられない過去があるものだろう。

 だからこそ、士郎は疑問に思ったのだが、福寿はそんな士郎が思った事を察したのだろう。更に話を続けてきた。

「君が疑問に思っても不思議では無い。けどそれは、ただ意味を履き違えているだけなのさ。私が言ってる決して忘れられない想い出とは、その時の行動、感触、出した言葉の一字一句まで、全てを鮮明に覚えており、それを今の時点でも完璧に思い出す事が出来て忘れる事が出来ない想い出。それを決して忘れられない想い出と私達は呼んでいる。忘れられない過去とは、その時に思った事、感じた事、言葉の一字一句、そこまで覚えていられない事をいうのさ。だから、忘れられない想い出と決して忘れられない想い出とは似ていても、意味はまったく違うのさ」

 あ~、それは分かるような気がする。士郎には、そう思えた。忘れられない過去でも、時間が経てば、少しずつだが忘れていく。それが起こった事は覚えていても、詳細に思い出すことなんて出来はしない。

 けど、士郎の中には思い出そうとすれば、その場面に再び立つように思い出せる想い出が存在している。それこそが決して忘れられない想い出。少しずつ消えていく忘れられない想い出とは全く違う物だ。

 簡単な例を上げると、結婚して数年が経った夫婦を思い描けば簡単だろう。二人には共通な想い出がある。なら、それを二人に問い掛けると、確実に同じ答えを出せる夫婦なんて、そう簡単には居ない。つまり、どんなに印象に残っている事でも、忘れられないと思っていても、人は想い出を少しずつ忘れていくのだ。それが忘れられない想い出、想い出の破片と言っても良いだろう。それぐらい、人は想い出を鮮明に記憶しておくのは無理なのだ。

 だが、夢で見る以上に、思い出せば、その時の事を、再びその場面に立つように想い出のステージに立てる者も居る。それが士郎と福寿なのだ。二人とも思い出そうと思えば、再び同じ体験をするぐらいに鮮明に思い出せる想い出を持っている。そして、そんな想い出を持っている事が残留思念が見える原因となっているらしい。

 それを悟らせるかのように福寿は士郎に向かって先程の事を言うのだった。

「つまり、君の中にある、決して忘れる事が出来ない想い出があるからこそ、残留思念が見えるし、先程のように紅に惹かれた。君なら分かるだろう、赤よりも赤い、あの紅が意味しているものを。君は想い出の中にあるはずだ、赤よりも赤い、あの紅にまつわる記憶が。思い出そうと思えば、いつでも思い出せる……忘れる事も捨て去る事も出来ない。赤よりも赤い……紅の、想い出があるだろう。そして君は……いつでも、その想い出に舞い戻る事が出来る。そう、君の中にある紅の記憶に、想い出というステージに。さあ、紅に惹かれた時の事を思い出してみたまえ、君はその時に思い出そうとしていたはずだ。君の何かにある、紅の想い出に。赤よりも赤いものに染まった記憶を。だから立ってみたまえ、君の中にある……紅に染まった想い出のステージに」

 そんな時だった、福寿は突如として指を鳴らす。それと同時に福寿の言葉に誘発されるように士郎の中に赤よりも赤い紅の記憶が蘇る。それは先程、紅の前に経った時と同じ感触。だが、今は紅に魅了されたワケではない、ただ、福寿の言葉によって記憶が呼び起こされたに過ぎない。だからこそ、士郎は自然と思い出してしまった。赤よりも赤い……その想い出を。そして士郎は想い出のステージへと降り立つ。

 部屋が、世界が、まるで赤くなったみたいだ。でも、本当に赤に染まっていたのは士郎だ。士郎の身体には、まるで赤い色の絵具を付けた筆を思いっきり振り付けられたように、大小、さまざまな形で赤よりも赤い色で服が染まり、自分の頬にも付き、両手は、その色に染められたかのように肌の色も見えない。そして……両手には強く握られた冷たいもの、けど、それも赤よりも赤い色で染められている。そんな士郎が跨いでいるもの……それこそが掛け替えの無い、もっとも大切な存在。それが赤よりも赤い紅に染まっている。まったく動く事無く、虚空を見詰めながら。もう二度と……士郎に向かって言葉を放つ事も無かった。

 そんな昔の記憶を再生するかのように、または同じ体験を気分になる士郎だが、今では、その想い出に慣れている。だからこそ、想い出のステージに立っても、すぐに現実に戻る事が出来るようになっていた。あそこに入れられた当初は、いつも想い出のステージに立ち続けたというのに。今では、ある程度はコントロールが出来ていた。だから士郎は想い出のステージに立っても、すぐに現実に戻れるようにはなっていたのだが……。

 それでも、思い出した事で士郎は胸を貫かれたように息苦しくなり、左手で思いっきり胸を押さえながら、右手はズボンを強く掴む。そして額に湧き出る汗を士郎は拭く事無く、今は息苦しさを治すために呼吸を整える。そして、無意識のうちに身体中に入っていた無駄な力を無くすために、少しでも身体の力が抜けるよにと身体から力を抜いていく。そうしているうちに、段々と息苦しさが無くなり、呼吸も正常に戻り始めて無駄な力も無くなり始めた。それから士郎はやっと、ズボンのポケットからハンカチを取り出すと額の汗を拭く。

 それでも気分は沈んだ事には変わり無い。決して忘れられない想い出を思い出すと、再び想い出のステージに立ってしまうと、体調は何とか戻るが気分が落ち込むのは、今でもなかなか治らなかった。

 そんな士郎の体調が元に戻り、気分が落ち着くのを待っている福寿。そんな福寿が見えないかのように士郎がお茶を手にして気分を落ち着かせるために、一気にお茶を飲み干す。すると、すぐに福寿が急須を手にして士郎の前にある湯飲みに再びお茶を注ぐ。だが、士郎は湯飲みを手にすることは無く、今はソファーにもたれかかって息を整えつつ、気分を落ち着かせる。

 そんな士郎に向かって福寿は冷静に言うのだった。

「これで分かっただろう、君の中にある決して忘れられない想い出が。その想い出を持っているからこそ、君は残留思念を、人の記憶を見る事が出来る。ちなみに、何で見えるかの原理は分ってはいない。そもそも残留思念なんて、君が最初に言ったようにオカルトに近い存在だ。そんなものを本気で研究して私達に辿り着いた者は居ないし、私達からも言い出さない。そんな事を言っても信じてもらえないと思ってるね。だからこそ、残留思念が見える者は口伝で残留思念が見える者に伝えてきた。私が君にこうやって話して伝えているようにね。簡単だが、これが私達、残留思念が見える者達の歴史さ」

 そんな福寿の言葉も士郎の耳に入っているのかさえ怪しいほど、疲労感に包まれている士郎であった。それでも、少しは士郎の耳にも福寿の言葉が入っていたみたいだ。だから、士郎は疲労感に包まれながらも福寿に尋ねるのだった。

「これが……俺の中にある……決して忘れられない想い出……なのか?」

 そんな士郎の言葉に福寿は冷静に、そして冷たく言い放つのだった。

「そんな事は私には分からないさ。君の中にある想い出は君だけのものだからね。それが、決して忘れられない想い出だと感じたのなら、そうかもしれないし、そうで無いかもしれない。その答えだけは自分自身で出したまえ、私が介入できる事ではないのさ」

 冷たく言われたはずなのに、士郎には福寿の言っている事が最もだと納得した。それだけ、福寿の言葉が正しいと認識してしまったからだろう。福寿が言ったとおりに士郎の記憶と想い出は士郎だけのものだ。人とは共通の想い出を残せると思うが、それは大きな間違いだ。

 他の人と共通な想い出だとしても、心の中まで一緒だとは言えないし、そんな事は決して出来ないと福寿は言ったのだ。どんな想い出も、どんな記憶も、他人と共有していると思っても、やはり、その人の想い出や記憶は、その人だけの物なのだ。誰も心の底まで共有が出来る想い出なんて作れない。そんな人の想い出や記憶を、この場合は士郎の記憶や想い出を福寿には分かるはずがないのだ。その記憶と想い出は士郎だけの物だから。

 だから、士郎は福寿から冷たく、少し突き放される言われ方をされても不快に思う事はなかった。むしろ、福寿の言葉に含まれた意図が分かったからこそ、士郎は納得したとも言えるだろう。それでも、士郎には一つだけ気掛かりな疑問が浮かんできた。士郎は福寿に、その疑問をぶつけてみようとするが、声がよく出せない自分に気が付いた。どうやら未だに想い出のステージに立った衝撃が残っているようだ。

 だからか、士郎は上半身を元の姿勢に戻すと、目の前に置いてある湯飲みを手に取り、ゆっくりとお茶を数回に分けて、少しだけ飲んだのだ。それだけでも、士郎は落ち着いていく自分の心がはっきりと分かった。けれども、未だに回復しきってはいない。だからこそ、士郎は湯飲みを置くと、そのまま大きく深呼吸すると、事務所の空気が士郎の心を覆うかのように、その記憶と想い出を一時的に封印する。

 その事で少しだけ平常に戻った士郎は福寿に疑問をぶつけるのだった。

「なんで……福寿は、こんなにもあっさりと俺の記憶を引き出す事が出来たんだ。あの記憶は……想い出になっているのは……誰にも話したことは無いのに。だから誰かの話を聞いても、思い出すなんて事は出来ないと思ってた。けど、福寿の言葉を聞いただけで、俺は、その記憶を思い出してしまった。それは……なんでだ?」

 そんな士郎の疑問に福寿は少しだけ悲しげな表情をするが、すぐに先程までの無表情に戻ると士郎の質問に答えてきた。

「それは先程の犯行現場で君に質問した事が関係している。先程も言ったように、君は紅に触れなくて正解だった。もし、紅に触れていれば、君はこれ以上の苦しみでもがいていただろう。私が言葉にした事は紅に関係している。だからこそ、先程は君が紅に触れようとしていた理由を聞いたのだよ。先程も言ったように君と私は似ている。だからこそ、君が紅に関する記憶こそが、決して忘れられない記憶ではないかという推測が付いた。後はそこを少し突付いてやる言葉を口にすれば、君が勝手に想い出のステージに立つ事は簡単に想像が出来る事なのさ」

「つまり、あそこで話した事が切っ掛けになってたという事か」

「その通りさ。何度も言うようだが、私は探偵だ。捜査に必要と思われる事は事前に聞きだすなり、情報を用意しておくのが私のやり方なのさ。けど、これで君が紅の残留思念に触れなくてよかった理由が分かっただろう。それに残留思念についても」

「あぁ、ようやく今まで疑問に思っていた事が分かった気がするよ」

 そう言って士郎は再びソファーの背もたれに頭を預けるような格好をする。それだけ、想い出のステージに立った時の疲労感は凄いと言えるのだろう。だからこそ、士郎は想い出のステージに立たないように、ゆっくりではあったが自分自身の想い出をコントロールするようにしていたのだ。

 だが、あの赤よりも赤い紅。その色を見た時には、やはり士郎の想い出と結び付く物があるのだろう。それこそが士郎にとっての決して忘れられない想い出、と言えるかもしれない。そして、それを思い出すという事は、その時の時間に戻るかのように、士郎は想い出のステージに立たせるのだ。だが、そこは一度でも立てば気分を害し、士郎の心をきつく締め付ける事は確かみたいだ。おかげで、士郎は未だに感じている疲労感で身体を動かすのさえ疎ましく思える。

 けど、そんな状態でも士郎は一つの確証を得ていた。それは……福寿の話が嘘ではないという事だ。確かに士郎には残留思念が見えていたし、それが何なのかも分からなかった。ただ見えていたという事実だけで、福寿が話している事が本当か嘘、という判断を前に福寿の説明を理解するのに精一杯だった。

 それに福寿としては全てが計算済みな事なのだろう。だからこそ、福寿は士郎が自分の話自体に疑問を抱く前に、士郎を想い出にステージに立たせる事を簡単にやってのけたのだ。その想い出は、士郎が決して表に出さない、自分から思い出そうともしない想い出だ。福寿は士郎の想い出については知る術はない。だから、士郎の決して忘れられない想い出が何なのかは、福寿が言ったとおりに福寿自身も知らないだろう。

 それなのに福寿の言葉だけで士郎に思い出したくない想い出を思い出させ、想い出のステージに立たされた。何も知らない福寿の言葉を聞いただけで、そこまでの事を思い出されたのだ。

 普通ならば士郎の決して忘れられない想い出を知らない限りは、士郎を想い出のステージに立たせる事なんて不可能だろう。けど福寿は、それをやってのけた、たった少しの言葉で。その事実だけでも士郎は福寿の言った事が本当なんだと信じる事が出来た。いや、意識の底が信じろと言っているようだった。それだけ、士郎にとって決して忘れられない想い出とは、思い出しくない封印された想い出だったのだが、ここまで簡単に引き出されると、福寿の言葉を疑う事なんて出来はしない。

 要するに、福寿は自分の話に信憑性を持たせるために、士郎に想い出のステージに立たせ、自分は何も知らないと冷たく突き放した。それだけでも、福寿が言ったとおりに、残留思念が人の記憶で、士郎は紅に惹かれた。つまり紅の記憶に共鳴したとも言える。それは士郎の中にある紅の記憶と一致する物があったからだ。けど、福寿とは先程出会ったばかりだ、そんな福寿が士郎の記憶なんて知るはずが無い。それなのに、士郎に紅にまつわる想い出のステージに立たせた。その事だけでも士郎は福寿の話に疑う余地が無いと納得したのだ。

 つまり士郎が紅を見た時の話し、福寿はその話を聞いて士郎の中にある決して忘れられない想い出が紅に関係があると分かり、紅に共鳴させるような言葉を放ったのだ。だから士郎は紅にまつわる思いでのステージに立った。それは今までの話が本当だと、残留思念が人の記憶であり、士郎の中にも紅にまつわる記憶がある事を実証する事によって自分の話が本当だと、士郎の根底に残留思念の事を植え付けたのだ。

 その、たった一つの実証で士郎は福寿の話が全て本当だと理解できた。もし、嘘が混じっていれば、自分は決して忘れられない想い出を思い出さなかっただろう。根拠は、それだけだが。士郎には、それだけで充分だと言える。そこに絡んでくるのが、士郎の中にある紅の記憶であり、先程の紅に惹かれたという事実だけで充分と言えるからだ。

 それに福寿の言葉が本当だから、辻褄が合っているからこそ、士郎は紅の想い出を思い出してしまった。再び想い出のステージに立たされたのだ。嘘や辻褄が合わない事が混じっていれば、士郎は紅に関する記憶を思い出さなかっただろう。

 そう考えれば、福寿の言った事が本当だと認めざる得ない。だが、士郎としては福寿の手の平の上で踊らされた気分で、決して心地良い者ではなく、逆に嫌な気分にさせられた事は確かだ。だからだろう、士郎は頭を起こすと思いっきり疲れた事を身体でアピールする。けど、そんな事は福寿には見抜かれているみたいで、福寿は軽く笑いながら言うのだった。

「ふふふっ、まあ、そんなに嫌な顔はしないでくれたまえ。こうでもしない限りは、私は私の話を実証する術が無いのだから。だから、君に不快な思いをさせてまでも、こんな事をしたのだからね。けど、これで私が話が事が本当であり、残留思念についてもオカルトではないと実証されただろう」

「……別に、そこまで疑っていたわけじゃない」

 確かに士郎は福寿の話を聞いて、話の真偽を疑っているワケじゃなかった。それは本当の事だが、福寿は先回りしたように話を続ける。

「けど、あのまま残留思念について話を終わらせてしまえば、君は迷っただろう。私の言っている事が本当か、嘘かを。そして君は確かめるだろうね、残留思念に触れて、それが本当に人の記憶かどうかを。先にも言ったように下手に残留思念に触れて消されると私の捜査に関わってくるし、君にとっても良くはない。だからこそ、私は早い時点で君に私の話が本当だと実証して、理解させる必要があったのさ」

「……まあ……そういう可能性もあったかもしれないけど……」

 福寿に言われて、やっと、その事について考えてみる士郎。確かに、福寿の話を聞いただけならば、それが本当か嘘か分らず。それを確かめる手段として士郎は残留思念に触れていただろう。けど、福寿は士郎の決して忘れられない想い出と紅の残留思念が絡んでいる、という情報だけで士郎を想い出のステージに立たせたのだ。

 その事実を士郎に叩き付ける事で福寿は自分の話を士郎に納得させて、実証してしまったのだ。だから今の士郎は、残留思念に触れてまで福寿の話を疑おうという気は起きなかった。けど、あのまま話が終わって、この事務所を後にしていたら、士郎は絶対に残留思念に触れていただろう。自分の事ながら、士郎は福寿の言った事を否定は出来なかった

 けど、このまま福寿の思惑通りに進めるのは士郎にとっては気分が良いものではなかった。だからだろう、あえて意地の悪い質問をぶつけてやろうと、先程の福寿が口に出した言葉から引っ掛かっている事を福寿に向かって質問する。

「俺が残留思念に触れる事は良くないって、言ったよな。その理由は何なんだ? そこまでしてなんで、俺に残留思念を触れさせたくないようにしてるんだ?」

 まるで福寿の言っている事が理不尽なように質問をする士郎。だが、福寿から返ってきた答えは士郎の想像を絶するものだった。

「それは残留思念が人の記憶だからさ」

「いや、それはさっき聞いたから」

 まさか、またしても同じ説明をされるとは思っていなかった士郎だが、士郎にとって予想を超えていたのは、ここからだった。だからか、福寿は少し顔を下げながらも説明を続ける。

「人の記憶には心に思った事も含まれている。つまり、人の本音を聞くのと同じだ。実際に残留思念に触れると、人の本音まで聞こえてくる」

「まあ、人の記憶だからな」

「なら、君は人の本音を聞くだけの覚悟があるのかい? 人の本音がいつも清らかな物だとは限らない。いや、むしろ醜いものが多いだろう。君はそんな人の本音を無理矢理に聞かされても気分を害さないとでも」

「それは……」

「更に言えば、犯罪に関わる残留思念を見てしまう事が一番悪い。その意味が君には分かるかい?」

「……いや」

「つまり、人の醜い部分を見るのと同じだ。君は、人の醜態を目にし、人の醜言を耳にする覚悟があるのかい。残留思念には、そうした一面もある。だから、もう一度だけ聞こう、しっかりと考えて、答えを出してくれたまえ。君は、人の醜態を目にし、人の醜言を耳にする覚悟があるかい?」

「…………」

 ……そういう事か。福寿の言葉を聞いて、士郎は再び想い出のステージを引き寄せる。だが、今度はステージに立つのではなくて、観客としてステージに目を向ける。そこには、赤よりも赤い、紅に染まった自分。決して、取り返しが付かない事をした結果として、足元にある。大事な存在。そして聞こえてくる、その時に思った、幼かった時の本音。

 今度は観客としてステージを思い出したからだろう。先程のように身体には影響は出ないが、気分を害された事は事実だ。そして昔の自分に見た、人の醜態と、人の醜言。正に福寿が言ったのは、この事だろうと士郎には察しが付いた。

 けれども、またしても昔の事を思い出さなければいけなかったと思うと士郎の気分は沈みはしたが、それを決して表に出さなかった。それも、あそこで学んだ事の一つだ。自分だけが思い悩んで気分を沈めていても何の解決にもならない。だとしたら、心の奥に追いやっておくのが一番だと、士郎は心の整理が付くと、顔を上げて福寿を見詰める。

 言葉なんて出ては来なかった。今の気持ちと福寿への答え。それをなんて言って良いのかが士郎には分からなかったのだ。だからこそ士郎は黙って福寿を見詰める。すると福寿は静かに一回だけ頷くと口を開いてきた。

「どうやら、私の言った事が分かったみたいだね。なら、今すぐに答えてくれとは言わない。じっくり考えて決めると良い。私への答えと……今後の事を」

「今後の事?」

 福寿の言いたい事は分かったつもりだが、いきなり今後の事を話に出してくるとは、士郎は予想外であり、言葉をそのまま返すしかなかった。それでも、福寿はまた一回だけ頷くと話を続けた。

「先程も言ったように、君が残留思念に関わるのは良くない。けど、それは現時点での話だ。今の時点で下手に残留思念に触れて消されると私も困るし、君にとっても悪影響だというのは分ってもらえたと思う。残留思念が見ている限りは、君は残留思念を忘れる事は出来ないし、再び紅を目にしたら惹かれるかもしれない。それだけでも悪影響だというのは分ってくれたと思う」

 福寿がそこまで話すと確認するかのように士郎を見詰めてきたので、士郎も黙って頷くと福寿は更に話を続ける。

「だから、私から君に今後の事で二つの提案を出す。それをじっくりと考えて、答えを出してくれという事さ」

「その二つの提案って?」

 士郎が気になって重たい気分のままだが、それなりに興味が出たのだろう、少しだけ身を乗り出す。そんな士郎とは正反対に冷静というかマイペースにお茶を口にしてから、福寿は二つの提案について話してきた。

「一つは君が残留思念を見れないようにする。そうすれば、君はいつものように普段の生活に戻れるだろう。それに、残留思念が見れないという事は触れる事が出来ないという事だ。だから、君はここで聞いた事も全部忘れて、普段の生活に戻れば良い。私には君が残留思念を見れないようにする事が出来る。そうして普段の生活に戻って、普通に生きれば良い。そして二つ目は」

 そこまで言うと福寿は再びお茶を口にする。それは福寿なりに気を使ったとでも言えるだろう。つまり、士郎に少しだけだが話を整理する時間を与えるという事だ。たった少しの時間だけでも士郎は福寿の話を整理して、しっかりと理解できる。その時間を与えたのだ。

 だが、士郎の頭は、そんな事をせずに、じっくりと福寿が出してくる二つ目の提案を聞こうとしていた。そして福寿は二つ目の提案を士郎に提示する。

「二つ目は……私の助手となって、ここで働く事だ」

「……えっ?」

 さすがに二つ目の提案は予想外過ぎて、士郎もすぐには理解が出来なかったようだ。だからだろう、士郎は間の抜けた返事をすると思考を巡らす。その間にも福寿は静かにお茶を口にし、士郎の頭が福寿の言葉を理解するのを待つのだった。

 そして、士郎は何とか言葉を口にする。

「それって……つまり、俺がここで……福寿の助手となってアルバイトでもしろって事か?」

「まあ、そう解釈してくれても構わない」

「出来れば、その理由を教えて欲しいんだが」

 やはり、いきなり福寿の助手になれと言われても士郎は戸惑うばかりだろう。だからこそ、士郎は詳しい説明を福寿に求めたのだ。そして福寿も、そう来るだろうと思っていたのだろう。今度はしっかりと説明する。

「君には残留思念が見える。そして残留思念を見続ける限り、君は残留思念の事を決して忘れる事は出来ないだろう。ならば、私の下で働き、私の目が届く範囲で残留思念に関われば良い。そうすれば、私の依頼にも支障が出ないし、君も残留思念に関わるのだから、残留思念を特別だとは思わずに、見えるのが日常生活になって行く。つまり、残留思念に慣れるというわけさ」

「えっと……つまり、残留思念と積極的に関わる事で残留思念に慣れて、残留思念が見えるのが当然になって、それが日常生活に溶け込む……って事か?」

「そんな感じだろうね」

 士郎の言葉を、そのまま肯定する福寿。どうやら士郎が理解した通りなのだが……やっぱり年下の福寿に使われるのは釈然としないのだろう。だが、残留思念や探偵に関しては、確実に福寿の方が知識と経験においても秀でてるし、残留思念についても一日の長がある。

 つまり年下である福寿の下で働くという事は残留思念に関しても学ぶ事であって、学ぶからこそ、残留思念が特別ではなく、日常の光景となって気にしなくなる。福寿の下で働くという事はそういう事なのだろう。

 まあ、士郎は福寿が年下という点を気にしているようだが、事務所を見る限りでは、福寿は探偵としてしっかりと独立している事は確かだ。だが、やっぱり福寿が年下という事が引っ掛かるのだろう。それでも士郎は迷っていた、別に嫌というわけではないのだが、納得できないというか、釈然としないのも確かなようだ。

 けど、福寿が年下という事を除けば、二つ目の提案も悪くないように思えた士郎だった。やはり、あそこを出てから数ヶ月しか過ぎていない事と、早く自立したいという気持ちがあったのだろう。いつまでも、あそこでの関係を引きずりたくはない、というのが士郎の本心なのだろう。それに自立するという事は自分の力で生きていく事だ。つまり、もう、あそこに頼らずに済む。それだけでも、士郎にとっては魅力的な提案とも言えるだろう。

 けど、残留思念の本質を考えると……躊躇をするのも確かだった。だからこそ、士郎は迷うように考え込むのだが、福寿は湯飲みを空にするとお盆に戻し、士郎に向かって話し掛けた。

「先程も言ったように、すぐに答えを出せとは言わないよ。残留思念についても、今後の事についても、じっくりと考えたまえ。それに、ここでこちらに足を踏み入れれば、もう二度と普通の日常には戻れないからね。日常に戻りたいと思うのなら、ここで引き返すべきだろうね。そうすれば、君は残留思念についても、紅の記憶についても悩まなくなるだろう。普通の日常で普通に暮らせば良いだけさ。……けど」

 もう話す事は無いとばかり福寿が湯飲みをお盆に戻してしまったので、士郎も福寿の話を聞きながら湯飲みを空にすると元の場所に戻し、福寿がさっさとお盆に戻してしまった。それから福寿は更に話を続ける。

「こちらに足を踏み入れるという事は、残留思念に関わるという事だ。だから再度、問おう。君は、人の醜態を目にし、人の醜言を耳にするだけの覚悟はあるかい? もし、その覚悟があって、私の下へ来るのだとしたら歓迎しよう。だが、中途半端な覚悟しか持てないのなら引き返すべきだ。覚悟を持てない者は精神を壊される。それだけ、人の記憶、人の本心、それらの醜さは精神を壊すには充分な破壊力がある。それを踏まえた上で覚悟を決めてくれたまえ。だから、また、問おう。君は、人の醜態を目にし、人の醜言を耳にするだけの覚悟はあるかい?」

 そんな問い掛けを投げ掛けながらも、福寿は立ち上がると士郎にも立ち上がるように仕草をすると、そのまま事務所の出口に行くように手を向けるのだった。どうやら、福寿はこれ以上の事は話す気は無いらしい。もし、これ以上の事を話すのだとしたら、士郎が覚悟を決めて、再びここを訪れた時だろう。

 そんな福寿の問い掛けが士郎にも分かったからこそ、荷物の鞄、と言っても中身はほとんど無いのだが、それを手にすると福寿が示した通りに出口へと向かう。そして士郎は事務所のドアに手を掛けるのだが、そのままの格好で福寿に問い掛けるのだった。

「最後に一つだけ。君は俺と良く似ていると言ったけど。それが意味している事は何?」

 そう、その言葉を福寿は何回か口にしているが、決して話そうとはしなかった。だから話題にも説明にも出てこなかった。けど、士郎の中にはその言葉に引っ掛かるものがあったのだろう。だからこそ、福寿に向かって尋ねるのだが、福寿は士郎の背中を見ながら口を開くのだった。

「その答えは、もしも君が私の助手になったら話そう。まだ、迷っている君に話すべき話ではないからね。だからと言って、焦って答えを出しても意味は無い。じっくりと考えて、しっかりとした答えと、確かな覚悟を持った時に答えたまえ。どちらにしても、答えが出た時には再び、ここに来ると良いさ。その時は君が選んだ道を進ませよう。だが、君はまだ迷っている。だから、引き返す事も出来るし……あまり進めないが、こちらに来る事も出来るのさ。それでも、どちらを選択するかは君の自由だ。だから、じっくりと考えてから答えを出したまえ。今、言える事はそれだけなのさ。さあ、そろそろ行きたまえ。私には仕事もあるし、君にも君の事情があるだろう」

 士郎は、それ以上の事は何も言えなかった。何にしても、考える事は山積みだ。まずは、それらをしっかりと考えて答えを出さない限り、ここに来てはいけないと感じていた。だからこそ、士郎はしっかりと考えようと心に誓いながら、捨て去り探偵事務所のドアを開くのだった。




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