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第9話 大阪冬の陣――家康の思惑

 いま少し「大阪 冬ノ陣」について触れなければならない。


 この当時の大阪城は、現存しているそれと比べても格段の広さを持っている。

 大阪城の城域というのは2km四方という途方もない規模で、上町台地というテーブル型の台地の北端にあり、西に海、北と東は川が幾重にも流れる低湿地で、天然の要害になっている。しかし、城の南側だけは台地が延々と続く広やかな地勢で、要害になるようなものもなく、大軍が自由に進退できる。

 生前の秀吉は、この大阪城の地勢学的な弱点には当然気付いており、南側には古今にないほどの巨大な堀を掘ることによって防御力を高めた。が、城南がこの城の弱点であることには変わりがない。

 大阪城を攻めるにあたって家康は、主力を城南の地域に集めた。


 家康がこの「冬ノ陣」を外交で済ませてしまおうとしている、ということは先にも触れた。

 家康の青写真では、豊臣家を滅ぼすのは大阪城の防御力を無力化してからのことであり、その意味で家康は「冬ノ陣」を「戦闘」とさえ考えておらず、後に起こす大戦のためにもここでは徳川勢を温存し、一兵たりとも殺したくないと考えていた。このため、大阪城を囲う布陣についても非常に気を使い、徳川勢は極力戦闘が行われないような場所に配置し、小競り合いや局地戦はできるだけ旧豊臣系の外様大名たちに任せるという方針を採っていたのである。

 旧豊臣系の大名たちを先に立てるということには、他にも重大な理由がある。家康は、「豊臣家を滅ぼすのは徳川ではなく、旧豊臣系の大名たちである」という事実を作りあげ、そのことを世間に印象させようとしていた。「旧主の豊臣家を滅ぼす」というこの後ろ暗い行為に無数の共犯者を作り出し、「日本国中の大名たちが、よってたかって豊臣家を潰す」というところまで世間の印象を持っていき、徳川家だけが「悪」の印象を受けるようなことがないように図っていたのである。

 この頃の家康というのは、「世間」の機微と言うものを誰よりも知っており、それを操作することにかけては当代一というほどにまでなっていたし、少壮期の秀吉にも匹敵するほどの人間心理の操作者であった。


 家康は、大阪城の堀を埋める陰謀を隠したまま豊臣家と和睦をしようとしている。

 家康とすれば、圧倒的な優位をもって戦況を推移させ、しかも家康の寛大な温情という形で和議を締結したいと思っており、これらの政略と戦略は味方に対してさえも秘中の秘であり、ごくわずかの側近以外には一言も漏らしていなかった。


 当然だが、忠朝には家康の高等政策などは解らない。他の東軍諸将と同様、忠朝はこの「冬ノ陣」をもって豊臣家を滅ぼすものだと思っており、天下の堅城たる大阪城を攻め陥とすことがこの合戦の目的であると信じていたし、そのためには身を犠牲にすることも厭わないほどの覚悟で戦場に臨んでいた。

 しかし、先述した通り、家康には徳川勢を「冬ノ陣」で戦わせるつもりはない。



 忠朝率いる本多隊が配置されたのは、大阪城の東側であった。

 低い湿地で、見渡す限り水田が広がっている。手前から大和川、平野川、猫間川という三本の川が行く手を阻み、しかも大阪方は開戦に先立ってそれらの川の堤防を何箇所も切ってしまったため、溢れ出した水が水田に流れ込み、一面が「巨大な沼」としか表現しようのない状態になっていた。軍勢が大阪城へと進む道といえば大和川の堤防の上しかないのだが、この堤の上というのは騎馬が3、4頭並ぶ程度の広さしかなく、しかも豊臣方はここに4重の柵を植えて防戦態勢を敷いており、東軍としては非常に攻めにくい。

 忠朝にとってさらに悪いことには、本多隊の左前面には上杉景勝率いる米沢勢5千が、右前面には佐竹義宣率いる秋田勢7千がそれぞれ陣取り、本多隊は他の部隊と共に後詰めという形で後方に配置されていたことであった。


(こんなところに陣取っておっては、捗々しい戦などできようはずがない)


 と、忠朝は思った。

 本多隊の役割は後詰めである上、上杉軍と佐竹軍が殺到するであろう堤防の道を使うわけにもいかない忠朝としては、いざ城攻めとなった場合、泥沼の中を突っ切ってゆくほか大阪城へと進む術がないのである。城攻めの前に泥沼で溺れ死んだのでは、人の物笑いであろう。


(大御所様(家康)にお願いし、持ち場を換えていただこう)


 忠朝は、古き良き「三河武士」の臭いをもっともよく残した男であり、このように考えたことも、純粋に「徳川家のために身を粉にして働きたい」と思っているだけであって、それ以外のいかなる存念もありはしなかった。父の忠勝がそうであったように、忠朝は個人的な功名心や射幸心といったものが非常に薄く、そのことは忠勝の遺産相続の話などを聞き知っている家康も、よく解ってくれているはずであった。


 忠朝は家康の本陣へ出向き、持ち場を城の南側へ換えてもらうよう懇請した。

 これを聞いた家康は、それまでの機嫌の良さそうだった顔を一変させ、


「差し出たことを申すな! われのような口端の黄色い者(若造)に、戦の何が解るか!」


 と、思いもかけず怒鳴り声を上げた。まったく不自然としか言いようのない豹変ぶりで、それに続いて出た言葉はさらに酷かった。


「柄(身体)がでかいだけで、亡父に似ず役立たずな奴め!」


 諸将の面前で、忠朝を罵倒したのである。


 忠朝は、平伏した形のままで雷にでも打たれたかのように硬直した。生まれてこのかた、これほどの屈辱を受けたことも辱めを受けたこともなかった。全身の血が逆流するような感覚が走り抜け、異常に発汗し、怒りというよりも、恥ずかしさと情けなさとで赤面し、顔を上げることさえできなかった。


「・・・・・・・・・・・・・・・・!」


 忠朝は、一言も発することができず、呼吸することさえ忘れ、ただ混乱した。忠朝に解ったことといえば、自分の言動が譜代重恩の主君を激怒させ、忠勝の名を辱めたのだということだけで、わけも解らぬままに自分を責め、どこにもって行きようもない憤りと痛烈な後悔が脳髄を駆け巡り、思考停止のような状態にまでなってしまっている。

 それほどに、この家康の一言は、忠朝にはこたえた。


 家康は、


「いつまでそこにおるのか! 目障りじゃ、早う失せよ!」


 と言って忠朝を退がらせた。

 しかし、その心中は、まったく別のことを考えている。


(忠朝を、追い詰めねばならぬ)


 ということであった。


 家康は、忠朝を後の大戦の重要な局面で使うつもりでいた。


(必ず、使わねばならなくなる)


 というのが百戦を経たこの男の直感であったが、しかし、今のままの忠朝を使うのでは意味がない。忠朝はたかが5万石の大名であるに過ぎず、その兵は1千5百しかおらず、諸将が信服するほどの――たとえば忠勝のような百戦錬磨の戦歴があるわけでもないから大軍を預けるわけにもいかないのである。その意味で、忠朝の戦術能力がいかに優れていたところで与えられる役割は限られており、大した働きが期待できるわけでもない。

 その点、家康は露骨であった。


(忠朝を、死を覚悟するところまで追い詰めておく)


 忠朝の働きに期待するのではなく、その死に期待するのである。


 もともと、勝って当たり前の戦というのは難しい。

 東軍に属する諸将にとって「大阪の陣」というのは勝つことが間違いない戦であり、こういう戦の場合、当然ながら足軽の端々にまで決死の気分というものはなく、諸将は怪我をしない程度に働いて適度に戦功を得、楽をして戦勝者となり、恩賞を稼ぎたいという気持ちになりがちであるということを家康は知っている。そして、家康の経験で言えば、こういう浮ついた気分の軍勢というのがもっとも弱い。


 少壮の頃からの家康の戦歴というのは、少数の兵をもって大軍と戦ってきた歴史であり、たとえ寡兵でも、全軍が決死となったときはいかに強いかということを家康は知り尽くしていた。その意味で、大阪城の堀を埋めた後、負けることが解りきった上で、それでも最後まで豊臣家のために働こうとする連中がいかに恐るべきものかということを家康は直感しており、最後の最後まで豊臣家を侮る気にはなれず、大阪城に篭った浪人たちを軽く見る気にもなれなかった。


(決死の兵にぶつかるには、こちらも決死の者をもってするしかない)


 というのが家康の考えであり、今、この軟弱な時代に死を決することができるほどの武将は「三河者気質」をもっとも濃厚に受け継ぐ忠朝の他には家康は思い浮かばない。


 さらに言えば、忠朝には将器がある。

 将器とは、一面では将の気持ちを士卒に伝染させる能力を言うであろう。将器を持った大将が死を決すれば、士卒は何の疑問も持たずに死を決するものであり、大将の馬前で死ぬことを喜びとし、地獄の旅路の露払いをすることさえも厭わないものなのである。まして忠朝が率いるのは忠勝が薫陶した本多隊であり、この者どもが濃厚に「三河者気質」を継承していることを家康は知っている。忠朝一人に決死の覚悟を持たしめれば、1千5百の本多隊はみな死を決し、「死兵」という最強の集団ができあがるに違いない。


(そのためにこそ、忠朝を殺さねばならぬ)


 と、家康は思っている。

 が、「死ね」とあからさまには言うわけではない。

 このあたりが家康の人の悪さであり、その知恵の悪辣さであろう。


 忠朝は、家康が「死ね」と命じれば、喜んで死ぬことができる若者であった。しかし、家康はそれをしなかった。家康の人使いは常にこうであり、さらに加えるなら「忠死」のような清らかな精神状態よりも、「憤死」というものが持つ怒りの感情のほうがより戦場向きであり、平時の何倍もの奮戦をさせてこそ、物の役に立つと思ったからでもあろう。


 ようするに家康の魂胆と言うのは、忠朝に辛くあたり、不覚者扱いし、その武勇を辱めることで精神的に追い込むことであった。そうしてさえおけば、来たるべき戦いのときに、忠朝は命じられるまでもなく、汚名を晴らすために死に狂いに働くに違いない。



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