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第8話 大阪冬の陣――勃発

 いわゆる「大阪 冬ノ陣」というのは、慶長19年(1614)の10月に始まる。

 家康は、このとき73歳。対する豊臣秀頼が21歳である。


 「大阪の陣」がなぜ起こったかということはいろいろな見方があるが、家康の気持ちということで言えば、徳川百年の為に、自分の死後の不安要因を取り除いておきたかったというこの一点に尽きるであろう。

 信長の死後、秀吉が織田家をさらい取ったように。

 秀吉の死後、自分が天下を盗み取ったように。

 家康の死後、やはりまた政変が起こるようなことになってはたまらない。家康とすれば政権基盤を磐石にしておく必要があり、そのためには、秀吉の遺児である秀頼を生かしておくわけにはいかなかったのである。


 また一面、この「大阪の陣」というのは、家康にとって諸大名に対する「踏み絵」という意味もあった。元々豊臣家の大名であった彼らが、主筋である豊臣家を攻める戦いに参加するかどうかというのは、徳川家に対する忠誠というものを見る上でこれ以上ない機会というべきであろう。もしこの合戦に、なんらかの理由をつけて参戦を渋るような者があれば、その者こそが徳川家の将来の敵というべきであり、家康が生きている今の時点で、そういう危険な者は滅ぼしてしまわねばならない。


 家康は、この老齢にも関わらず自ら軍旅に発ち、東軍30万の事実上の総大将となって大阪へと赴いた。

 忠朝が、これに従ったことは言うまでもない。


(侍が忠義を表すのは、戦場をおいてない)


 と確信している忠朝である。久々の合戦に勇躍した。

 忠朝は大多喜から1千5百の全軍を率いて出陣し、徳川本軍と共に征途についた。



 豊臣方は、堺の軍事占領だけはしたものの、最初から天下一の堅城である大阪城に篭った篭城戦を考えていたらしい。東軍に対してなんの抵抗も示さず、家康は11月の中旬には大阪城を完全に包囲した。

 しかし、家康には大阪城をまともに攻める気はない。


 大阪城というのは城域が2km四方にも及ぶアジア最大の城塞で、城攻めの名人と言われた秀吉が丹精を込めて築いた城であるだけに難攻不落としか言いようがなく、しかもそこには諸国の浪人が13万ほども集まって篭っている。彼らは烏合の衆ではあったがその士気は高く、後藤又兵衛、御宿官兵衛、明石全登などといった天下に名の知れた侍大将や、その能力は未知数だが真田幸村、長宗我部盛親、毛利勝永などの二世大名とその郎党たちもここに含まれており、十分過ぎる防戦能力を持っていると言うべきであった。こんな巨城を力攻めに攻めたところで出るのは味方の被害のみであり、しかも蔵には秀吉が貯めに貯めた金銀と糧食と弾薬がうずたかく積まれており、何年囲んでも陥ちるとはとうてい思えない。

 この「冬ノ陣」での家康の狙いというのは、最初から威力外交だった。


 家康は30万の将兵をもって大阪城を囲むと、大阪方の砦を次々と攻略し、さらに城に篭って出てこない敵に対して巨大な攻城砲をもって攻撃した。こんなことで大阪城はびくともしないが、これは大阪城内に篭る女官たちに対する恫喝であった。

 城というのは、力で攻めるのは下策であり、これに篭る人の心を攻めることをもって上策とする。家康の狙いは豊臣家を支配する秀頼の母――淀殿とそれを取り巻く女たちを震え上がらせることであり、この心を攻めることで状況を和睦へと持ち込むつもりでいた。和睦した上で、謀略によって大阪方を騙し、大阪城の巨大な堀を埋めてしまう、というのが家康の魂胆だったのである。


 堀を埋め、本丸だけの裸城にしてしまえば、いかに大阪城が巨城でもその防御能力は無いに等しい。そうなればそこに篭っている連中も討って出て戦うしか術がなくなり、家康は得意の野戦で、味方の三分の一という寡兵の敵を思う様に殲滅できるであろう。

 家康の深謀遠慮というのは、この「冬ノ陣」の時点でその先に起こることを遠く見通していることであり、豊臣家を滅亡させるというその目的のために着々と手を打ちつつあることであった。


 この当時、家康の政略能力は、すでに一世を覆っている。これとまともにやり合えるような役者は、辛うじて奥州の伊達政宗くらいしか残っておらず、その政宗さえもが家康の犬馬となって東軍の一角を担っている。これに比べて大阪方の首脳陣というのは政略的には無能と言うに近く、当然だが家康の敵ではない。家康は思い通りに大阪方を翻弄しつつあり、自分の描いた絵の通りに進んでゆく状況には非常に満足していた。


 家康の不満は、むしろ味方――ことに揮下の徳川勢にこそあった。


 家康ほどの千軍万馬の男になると、見るだけでその将兵の強さというのがおおよそ解ってしまうのだが、かつて戦国最強と呼ばれた武田信玄の軍勢を10年に渡って支え、数倍の北条勢と槍を交え、秀吉率いる天下の兵とも一歩も退かずに戦った家康の徳川軍団は、この「大阪の陣」の頃になると――家康の感覚で言えば――救いがたいほどに腑抜けた集団に成り下がっていた。


 「小牧・長久手」で徳川勢が秀吉と戦った頃ならば、家康の元には綺羅星の如くに有能な武将たちが揃っていた。大軍の指揮を任せられる百戦錬磨の大将として酒井忠次、石川数正がおり、合戦に関しては天才としか言いようがなかった本多忠勝がおり、小部隊戦闘をさせれば右に出るものがいないほどの巧者であった榊原康政がおり、「赤備え」という徳川最強部隊を率いた井伊直政がいた。無類の統率力で守戦の名人であった奥平信昌がおり、40年もの戦歴を誇った大久保忠世、忠佐兄弟がおり、家康のためなら喜んで命を投げ出した平岩親吉、鳥居元忠がおり、伊賀者を統率して硬軟自在の用兵を見せた服部半蔵がおり、弓を持たせれば無双と言われた高木清秀、内藤正成がおり、「槍の半蔵」と呼ばれた渡辺守綱がおり、他にもこういう連中がそれこそ数え切れぬほどにいたのである。


 しかし――


(太平が、長く続きすぎたのだ・・・)


 と、家康は心中で何度も愚痴っている。


 家康が天下を取った「関ヶ原」の一戦からすでに15年――世から戦は絶え、しかも戦国の風雲を家康と共に戦い続けたかつての武将たちはみな死に絶え、この大阪表にいるのはいわゆる二世武将 ――青白い顔の秀才官僚のような連中ばかりだった。

 家康が天下人になったために徳川家の若者たちは増長し、太平の世の中で華美で豪奢な生活に慣れ、戦国の頃の徳川家の質実剛健の気風をすっかり忘れ去っていた。家康が愛した「三河者気質」は廃れ、戦場の勇者は探さねば見つからないほどに少なくなり、その意味で、家康はたった一人で時代に取り残されたような格好になってしまっていたのである。


 たとえば、「井伊の赤備え」という徳川最強軍団でさえそうであった。「赤備え」というのはかつて戦国最強を誇った武田信玄の遺臣たちによって編成された部隊なのだが、家康がその器量を愛した井伊直政はすでに死に、跡を継いだ長男の直継は病弱で「大阪の陣」には参加さえしていない。代わって「赤備え」を率いている次男の直孝は若手では辛うじて覇気も勇気もありそうな有望株ではあったが、まだ24歳の若造で初陣さえ終えておらず、合戦を絵物語で知っているだけの男であり、どこまで使えるか解ったものではない。井伊家の士卒にしても、信玄の時代を知っている人間というのはほとんど皆無と言ってよく、それどころか過半がこの「大阪の陣」で初陣という有様であり、武者姿こそ真紅で統一して人形のように美々しく着飾っているが、そういう格好ばかりつけたがる若造たちは戦場では必ず命を惜しみ、ろくな働きができないということを家康は熟知していた。


「どいつもこいつも綺羅ばかり飾っておるが、顔は青白く、身体はひ弱げで、頼もしさのかけらもない!」


 家康はこの味方の情けなさが不快でならず、


「近頃の者どもは・・・!」


 と、ほとんど毎日のように毒づいていた。


 家康の見るところ、かつての三河の気風をもっともよく残しているのは、忠勝が薫陶し、育て上げた本多家の武士たちであった。

 長男の忠政は戦場の勇者というタイプでこそないが、家康が死ねと命じれば喜んで腹を切ることができる三河者らしい忠誠心を持っているようであり、次男の忠朝にいたっては、かつての忠勝にもっとも近い臭いを残している人間であろう。

 ことに、忠朝に従う大多喜の本多家の侍たちの姿が、家康を大いに満足させた。本多家の侍の多くは、色も剥げたような古びた甲冑に身を包み、無地の陣羽織を無造作に羽織っているような者が多かった。いかにも貧乏臭く、見た目こそ映えないが、それに反して彼らが乗る馬というのはよく肥えて琵琶股も鍛えられており、十分に軍用に耐えうるだけの訓練を施されていることが家康には見て取れた。それは、槍を担ぐ男たちにしても変らない。容姿こそ地味だがその筋骨は十分に鍛えられており、日に焼けた顔つきは引き締まって精悍そのもので、行軍してゆく足音が一糸乱れず揃っていることでも、忠朝が普段から彼らを十分に調練していることが解る。


(やはり、家風よな・・・・)


 忠勝は、三河の昔から暇さえあれば手勢を野山に連れ出して駆け回らせ、常に鍛えることを忘れなかった。このため合戦巧者の多い徳川軍団の中でも忠勝の本多隊ほど戦場行動が巧みな部隊はなく、たとえば夜襲などの不測の事態が起こったときにいち早く馬を出すのは常に本多隊であったし、どんな困難な任務を与えても楽々とそれをやり遂げたものであった。

 忠勝が死んだとは言え、その遺風は本多家の中に脈々と息づいているのであろう。


(忠朝を、使わねばならぬ)


 と、家康は思った。

 忠朝には「関ヶ原」における実績もあり、何よりあの忠勝が、忠朝の将器を非常に評価していたことを家康は記憶していた。

 家康とすれば、戦国を知っている指揮官たちが死に絶え、他の連中がこうまで腑抜けてしまっている状況を見てしまえば、たった5万石の小身者ながらも忠朝には期待を掛けざるを得ない。


 家康が考えているのは、外交で終わるであろう「冬ノ陣」ではなく、豊臣家を滅亡させるために起こす次の戦いのことであった。この時から半年後に起こるその戦いは、後世の人によって「大阪 夏ノ陣」と呼ばれている。



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