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第7話 本多 内記 忠朝

 上総国(千葉県)大多喜と言う土地は、家康が関東に移封となった天正18年(1590)に忠勝に与えられた領地で、以後10年、忠勝によって子を慈しむように丹精されている。

 三層の天守がそびえる大多喜城も、整備された城下町もみな忠勝が縄張りしたものだし、忠勝自身が出かけて行って領地を隅々まで検地し、名主や百姓の話を直に聞いて公正な税を課す一方、貧民を救済し、不正を取り締まり、治安の維持や灌漑などにも気を配った。旱魃や冷害が出た年は、税を軽くしたり城の蔵を開いて無利子で米を貸し与えたりしたし、領地を歩くときは気軽に百姓たちに声を掛け、直接触れ合うことでその撫育に務めた。

 大多喜に住む百姓、町人たちは、このため忠勝には非常によく懐いており、中には、


「殿様にお食べいただきとうございます」


 などと言って、季節ごとに自分の村で取れた作物を持って城にやってくる者さえいるほどであった。

 忠勝は、大多喜に移って来るときに、多くの土着武士たちを現地採用して家臣団に組み込んだ。大多喜に住む人々は、自分たちの殿様が、天下を取った家康に“過ぎたるもの”と言われたほどの名将だということもよく知っていたし、そのことを誇らしくも思っていたに違いない。


 本多家の発祥の地である三河を知らず、徳川家が長く本拠を置いた浜松での生活も短かった忠朝にとっては、この大多喜こそが、物心つくころから慣れ親しんだ故郷であった。家康は、そういう事情をよく心得た上で、忠朝にこの住み親しんだ大多喜城と5万石の領地を与えたわけで、これは家康のとびきりの好意と言うべきであろう。


 忠勝は、本多家の家臣団を引き連れて桑名へ移封ということになった。このことは大多喜の人々を大いに嘆かせたが、新領主が若殿の忠朝だということが伝わるや、人々は安堵して平静を取り戻した。彼らは遠乗りや鷹狩で見る忠朝の姿を知っていたし、その磊落で優しげな人柄についても聞き知っていたのである。

 忠勝は、忠朝のために5万石分の本多家の侍たちをそっくり残し、足りなくなる家臣は桑名で現地採用するという方針を採ることにした。年若い忠朝がいきなり大名になるわけで、家中を束ねるためにも領地を統治するためにも、忠朝によく親しみ、これを十分に補佐できるだけの人材を付けてやりたかったのである。

 さらに忠勝は、正妻であり忠朝の母である(ひさ)をも大多喜に残した。忠勝にとっても、初めて城持ち大名になった大多喜という土地こそが、第二の故郷という実感が強かったのであろう。


 忠朝の大名としての新生活は、順風満帆だった。



 慶長8年(1603)、家康は征夷大将軍に就任し、江戸に幕府をひらいた。

 大阪に豊臣家がまだ健在ではあったが、事実上、世は徳川の天下となり、戦乱は完全に終息した。


 ところで、徳川幕府というと陰湿で固陋で排他的で風通しが悪いというイメージがあり、これがすなわち家康という人間のイメージに結びつくのだが、対外国政策というものを見るとき、家康個人が取った政策というのは、むしろ解放的であった。

 家康の政策は、信長-秀吉の天下政策を引き継ぐものであり、対外貿易はこれを奨励した。

 秀吉が禁止し、晩年はむしろ積極的に排除しようとしたキリスト教に対しても、家康は対外貿易の奨励と保護の立場からこれを黙認している。家康は死の前年にキリスト教の禁止に踏み切ったが、これは新教プロテスタントのイギリスやオランダなどとの貿易関係が確立し、キリスト教とは無関係に貿易が行われるようになったと判断したためであって、家康の主眼はあくまでも対外貿易とそれがもたらす利益に置かれていたのである。

 家康が幕府をひらいた直後というのは、だから外国人に対しては非常に寛容であったし、家康自らが何人もの外国人に会い、その話を聞き、貿易を保護してやったり商売を保護してやったりしていた。このためこの頃の日本の近海には外国船がひきもきらずに往来していたし、日本人の中にも外国人に対する差別や偏見はなかった。


 ちなみに、この徳川幕府が日本人の海外渡航と在外日本人の帰国を全面的に禁止し、オランダと中国以外の外国との交易を廃止するいわゆる「鎖国政策」を取って世界との接触を閉ざすのは1635年であり、これは三代将軍の家光の時代のことであって、家康とはなんの関係もない。


 さて、慶長14年(1609)――忠朝27歳のときのことである。


 数日雨に降り込められ、やっと天気が秋晴れの空を取り戻した9月の晦日、忠朝が早朝から日課の馬責めと弓の稽古をしていると、


「殿! 一大事でござりまするぞ!」


 と、家老の一人が血相を変えて忠朝の元へ注進に来た。


「この太平な世に、一大事とは何事じゃ?」


 忠朝が苦笑すると、


「い、異国の船が、岩和田(現 御宿)の沖で浅瀬に乗り上げ、身動きが取れなくなっております由、近くの村の者から早馬が参っておりまする!」


「なんと・・・!」


 これは、さしもの忠朝も仰天した。

 忠朝は不測の事態に備えるために直ちに陣触れを発し、すぐさま駆け集まった数百の軍勢を引き連れて岩和田の浜へと急行した。


 岩和田沖で座礁していたのは、乗員・乗客373人を乗せたサン・フランシスコ号というスペイン船であった。

 サン・フランシスコ号は、3隻の船団で太平洋を東航中だったのだが、折悪しく大暴風雨に遭遇し、3隻はそれぞれ難破。サン・フランシスコ号だけが岩和田の浅瀬に打ち上げられ、引っ掛かっていたのである。

 忠朝が駆けつけたとき、すでに浜は黒山の人だかりとなっていた。

 近隣の漁民たちが船を集めて遭難者の救助を始めており、スペイン人たちが和船の小船に分乗して次々と浜へ辿り着いている。彼らは一様に船の難破と仲間の悲劇に衝撃を受け、命が助かった安堵とこれからのことに対する不安とがない交ぜになり、混乱し、焦燥していた。

 状況的に見て純粋に海難事故であると判断した忠朝は、すぐさま彼らに衣服と食料を提供するよう家臣に命じ、船に残っている者の救出を急ぐよう指示すると共に、江戸に向けて急使を発し、状況を伝えさせた。


 このサン・フランシスコ号には、スペインの前ルソン総督代理 ロドリーゴ・デ・ビーベロ・イ・ベラスコという男が乗船していた。ロドリーゴはスペイン政府の高官で、この後日本に1年ほど滞在し、家康や二代将軍 秀忠に会い、この時まだ国交が確立されていなかった日本とスペインの友好と通商のために尽力し、家康が命じて作らせた日本初の洋式船サン・ブエナベントウーラ号(日本名 安針丸)に乗って帰国。帰国後、『日本見聞録』という著作を発表する人物である。

 この『日本見聞録』には、岩和田で座礁したときの模様や、そのとき武装した兵を引き連れてやってきた忠朝らの様子が克明に記載されている。ロドリーゴによれば、このとき忠朝は遭難者たちを手厚く保護し、実に317名の命を救った。彼らが滞在した37日間、岩和田の村民たちに命じて遭難者たちを物心両面から厚遇し、非常に感謝されている。ことに忠朝は、ロドリーゴとは個人的な友情を深め、大多喜城に招いたりスペイン人使節として二代将軍秀忠に拝謁できるよう根回ししてやったりした。

 翌年、ロドリーゴが帰国するとき、お礼を言うために大多喜に立ち寄ると、忠朝は名馬を贈って友との別れを惜しんだという。


 忠朝という男の人柄が偲ばれるエピソードとして、面白い。



 さらに、もう1つエピソードがある。

 サン・フランシスコ号の難破の翌年――慶長15年(1610)の10月、忠朝にとって痛恨の出来事があった。

 敬愛する父 忠勝が、63年の生涯を閉じたのである。


 兄である忠政から急飛脚が来たのは、その年の9月のことであった。

 忠勝が、病に伏したという。

 とるものもとりあえず、忠朝はすぐさま桑名へと駆けつけた。


 忠勝は、死の直前まで意識がはっきりとしていたらしい。自らの死を悟って遺書を書いたりもしてあったのだが、二人の息子が久々に揃うと、これを枕頭に呼び、遺言をした。


「もはや改めて申し聞かせることもないが、侍たらんと思うならば、上様(将軍 秀忠)のためにいかに死ぬかをのみ考えよ。侍の手柄など、忠義に勝るものはなく、忠義とは、つまりは上様の命に従って死ぬことができるかどうかだ」


 忠勝は、苦しげな息の中で続けた。


「我が本多家は、大御所様(家康)のご恩によって大名と呼ばれるほどになったが、どれほどの大身になろうとも、徳川のお家の譜代の郎党であることに変りはない。徳川家のために死ぬことを、わしへの忠孝の道と心得よ」


「お言葉、肝に命じましてござります!」


 二人は声を揃えて言った。


「忠政は、嫡子でもあり、本多家を継ぐことはすでに決まっておる。この桑名の城と領地、武具、馬具、茶道具にいたるまで、わしの物はことごとくその方に譲る」


 忠政は頷いた。


「軍陣に備えるつもりで、わしは今まで掛かって一万五千両を蓄えた。忠朝にはくれてやる物もないゆえ、その黄金を与えて遣わす」


 忠朝も頷いた。


「家を出たとは言え、血を分けた同じ本多じゃ。忠朝、兄をよう援けよ」


 それだけ言うと、忠勝は瞑目し、顎を振って二人に退出するよう促した。その後、しばらくして静かに息を引き取った。

 言うまでもないが、忠朝と忠政、そして本多家の人々の悲嘆はひとかたでなかった。


 ところで、忠政は、この忠勝の遺言に対しては不満を持っていた。


(父の物は、嫡子のわしがすべて相続するのが世の道理ではないか)


 この頃は嫡子相続が当然であったから、忠政の想いにも一理はある。

 忠政は、決して強欲な男ではなかったが、道理には煩いところがあった。本多家のために忠勝が貯めた軍資金を、本多家を出た忠朝にやってしまうのは、忠政の感覚で言えばそもそも話がおかしい。この軍資金は、本多家の万が一の時にこそ使うべきものであり、自分が保管しておく方が理にかなっていると思ったのである。

 忠朝が大多喜に帰った後、忠政は忠勝が蓄えた黄金をそのまま蔵で封印し、忠朝に譲ろうとしなかった。


 忠朝は、そんな経緯は解らない。

 遺産相続がそのままになっているので、使者を出して問い合わせようとすると、忠政の元から松下河内という忠朝もよく知っている家老が事情の説明にやって来、


「実は赫々然々(かくかくしかじか)で・・・・」


 と、言い辛そうに忠政の意向を伝えた。


「・・・左様か」


 話を聞いた忠朝は、さっぱりとした笑顔で言った。


「兄者の申されておることが道理じゃ。あの軍資金は、本多家のいざという時のためにこそ使うべきである。まして兄者は大身で、家士も多く抱えており、軍馬の蓄えはいくらあってもあり過ぎるということはあるまい。父上は、わしを可愛いと思ってあのような遺言をしてくだされたのであろうが、その父の言葉に甘えておっては義にもとる」


 ちなみに黄金1万5千両というのは、現在の価格に単純に直すとおよそ45億円にもなる。もちろん当時の物価の安さを考慮に入れれば、貨幣としての実質価値はそれよりも遥かに高かったに違いない。

 忠朝は、それほどの黄金の相続権を軽々と放棄した。


 忠政は、この忠朝の言葉を伝え聞き、その清々しいほどの無私な態度を知り、こんなことを言い出してしまった自分をひどく後悔し、恥じた。すぐさま忠勝の遺言に通りにすることを決意し、そのことを忠朝に伝えたが、今度は忠朝が固辞して受けようとしない。

 黄金1万5千両だけが、宙に浮いてしまった。

 困った本多家の家老や重臣たちは相談し、黄金を仲良く二分割することで折れ合ってもらうことを提案し、ようやくそこで話が落ち着いた。


 しかし、忠朝は、


「もし万が一のことがあれば、その時は改めてお願いしますので・・・」


 と言ってついに自分の取り分を受け取ろうとはせず、桑名城の蔵の中にそのまま預けて封印し、生涯びた一文手をつけなかったという。



 忠朝というのは、おおよそこういう男なのである。


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