第4話 関ヶ原――島津隊の突撃
関ヶ原は、諸隊の旗指物が入り乱れ、混乱の坩堝と化していた。
戦場の北部では、家康が本陣を前進させたことを知った石田三成が揮下の全軍に総攻撃を命じた。石田隊の侍大将 島左近、蒲生郷舎らは決死隊を組織して最後の突撃を敢行し、その方面だけで5万はいたであろう東軍の中に駆け入って阿修羅のように奮迅し、擂り潰されるようにして次々と闘死していった。
一方南部では、宇喜多秀家の軍勢が無数のハイエナに食い荒らされる巨牛のような無残な姿をさらしている。正面から福島正則隊、藤堂高虎隊、京極高知隊の総勢1万余に加え、忠勝が指揮する1万の徳川勢が怒涛の攻撃を仕掛け、右側面には西軍から寝返って大谷吉継隊を壊滅させた2万の軍兵が食いつき、左側面は小西行長隊を突き崩した田中吉政隊、筒井定次隊ら6千が反転して突撃を掛けた。
早朝からの合戦で疲労しきった1万7千の宇喜多勢に為すすべなどあろうはずがない。たちまち絶望的な乱戦が始まった。
勝敗を捨て、死を決した軍勢というのは亡者の群れようなものである。宇喜多家の侍たちの目的はすでに勝つことでも生き残ることでもなく、ただ死出の旅路の道連れを1人でも多く作ることであり、いささかでも派手やかな死に花を咲かせることであり、己の死を飾り、武名を後世に轟かせることであった。彼らは文字通り死に狂いに働き、このため戦場は凄まじい様相を呈した。
ある者が敵を槍で突き倒し、その首を掻き切ろうしているところを別の者に後ろから斬り倒され、その斬った者さえ別の者にすぐさま討たれる。走る者は死体に躓いて転び、死体と思っていた者に足を掴まれて倒れ、倒れた者は寄ってたかって槍で突き殺され、その死骸は馬蹄に踏みにじられた。断末魔の叫びは絶えることなく戦場に響き渡り、大地は見えないほどに血と肉塊が敷き詰められていった。
この乱戦で、もっとも凄まじく働いたのが忠勝率いる本多隊であったろう。
早朝から戦い続けている東軍諸将に比べ、徳川勢には当然だが疲労がない。福島隊、藤堂隊らが息をついている間に、忠勝は徳川勢に宇喜多勢の包囲と殲滅を命じ、自ら5百の本多隊を率いて敵の真ん中に突っ込んだ。
忠勝は、采配を使わない。槍一筋を抱えて走り回っていた小身の頃はもちろん、数千、ときに数万の軍勢の指揮を任されるようになってからでさえ、その右手には常に“蜻蛉切”という愛用の名槍があった。忠勝は床几に座らず、戦場では馬上にあって常に矢弾に身をさらし、その槍で自ら敵と格闘し、過去56度の戦場で一度も傷を受けなかったという男なのである。
忠勝にとって最後の――57度目の戦場となったこの関ヶ原でも、当然それは変わらない。忠勝は采配代わりに槍を振り、声を嗄らして手勢を手足の如くに進退させ、戦意のありそうな敵の部隊を見つけては挑みかかり、これを次々と打ち砕いた。
「逃げる敵は、これを討っても手柄にはせぬ。抗う者には容赦するな!」
忠勝が士卒にあらかじめ出した指示は、これ1つであった。
忠勝が40年にわたって愛用した兜というのは鹿の大角をかたどった物で、敵味方でこの兜を知らぬ者はない。長身の忠勝が馬上で背を立てるとその兜の先というのは3m近くにも達し、このため戦場ではひときは目立つ。
末期の思い出にと、無数の武士たちがこの兜を目指して襲い掛かってきた。
忠勝を守る馬廻り(親衛隊)の武者たちがすぐさまそれらを槍玉に挙げ、血が飛び、肉が弾け、ときにその返り血が忠勝の傍らで馬をうたせて往く忠朝の顔にまでかかるほどであった。
忠朝は、忠勝と共に駆けながら、忠勝の戦振りと群がり襲ってくる敵を馬上から悠然と眺めている。
(よほどに肝が据わっておるわ)
と忠勝が感心するほど、その表情には怖れもなければ怯えた風もない。そこにあるのは戦というものに対する好奇心と、死んでゆく敵に対する哀憐の影だけであった。
午後1時を過ぎるころ、どうにか持ちこたえていた天から再び驟雨が落ち始めた。
宇喜多勢がいたはずの戦場からは西軍の騎馬の姿がいつしか消滅し、あたりは累々と敵味方の屍が転がり、動いているのは味方の武士たちのみとなった。
多くの者はその場で大の字になって大きく息をつき、あるいは笑い、あるいは歓声を上げた。
東軍の勝利が、完成したのである。
忠勝は軍勢をまとめると家康の本陣に向けて進軍するよう命じ、同時に諸将に軍をまとめるよう指示を出した。
家康の本陣の前には東軍の大軍勢がとぐろを巻くように集結していった。
ここで、驚くべきことが起こった。
西軍の中で、この関ヶ原の主戦場の真正面に居ながら戦闘に一切参加しなかった部隊がある。石田三成隊と小西行長隊の狭間に陣を敷いた、維新入道 島津義弘率いる島津隊1千5百であった。
薩摩(鹿児島県)の島津氏は、今回の乱では当初は家康に合力しようとしたのだが、連絡の行き違いから家康の部下の鳥居元忠によってそれを拒絶され、成り行きで西軍に参加させられてしまったという奇妙な行きがかりがあった。その後、西軍の総帥である石田三成はこの島津氏を重く用いず、「朝鮮の役」で鬼神のごとく働いた維新入道にさえ丁重な辞儀をしなかった。島津氏ほどその武勇に誇りを持っている大名はないのだが、三成によって受けた仕打ちから島津氏は西軍のために働く気を失くしきっており、この戦場でも三成の陣に隣接して陣を敷きながらこれを一切援けず、東軍に向けて積極的に攻撃を仕掛けることもなかった。
「もはや、西も東もない。我が陣に寄る者はすべて敵であり、容赦なく攻撃する」
というのがこの島津氏の態度であり、このため壊滅した西軍の宇喜多勢がこの方面に逃れてきたときでさえこれに容赦なく銃撃を浴びせ、追い払った。
東軍の諸将も、この島津氏の不気味な沈黙の意味が解らなかった。敵であるからには討ち滅ぼすべきであろうが、誰もがこの薩摩人たちの武勇を知っているからあえて近づこうとはしない。不戦の態度をとっている島津の陣よりも、西軍の旗頭である隣の石田三成の陣へと攻め込みたいと思うのが当然の人情であり、結果として島津氏の陣地はそこだけ忘れ去られたように戦場から取り残されていた。
西軍があらかた片付き、後に「床几場」という地名がついたその本陣から島津勢の陣を見渡していた家康は、この際、この薩人たちをも壊滅させるべきであると思った。当然であろう。すでに東軍の勝利は確定している状況であり、この場にいる西軍の部隊をそのままにしておく必要などはどこにもない。
そのとき、この島津勢1千5百が、突如として家康の本陣目掛けて猛進し始めたのである。
ありえない光景であった。
家康の本陣の周りには、西軍から寝返った者も含めて10万を越える軍兵が満ち満ちている。その無数の敵に向かって、たった1千5百の兵力で突撃を仕掛けるなどというのは、無茶無謀を通り越して悲壮と言うしか仕方がないであろう。
島津氏の将や幕僚たちは、西軍の壊滅を見て、退却することを決めた。しかし、戦場において敵に攻撃も仕掛けず背中を見せて逃亡するなどは勇猛をもって至尊とする薩摩人にとっては考えられない恥辱であったし、そもそも後ろは伊吹山の天険である。進む先というのはどの道 前にしかなく、敵中を突破しなければ脱出するすべはない。
薩人たちは、降伏することも逃散することもせず、眼前の10万の敵を突き破って「退却」することを決めた。これを勇気というなら、それは超人か、あるいは狂人の勇気としか言いようがないであろう。
彼らは狂ったように雄叫びを上げ、鋒矢型の突撃陣形をとってまっしぐらに家康の本陣へと駆けた。
その勢いは、凄まじかった。
島津維新率いる薩摩人というのは、「朝鮮の役」において1万余の軍勢で明軍20万を蹴散らしたという世界史的に見ても稀有な驚くべき戦歴を持っている。その兵一人一人の強悍さというのはまったく比類がなく、この当時の本邦では間違いなく最強と言うべきであったろう。この薩摩兵が死を決して怒涛の勢いで攻めかかってきたため、勝ち戦に安堵していた東軍諸将はたちまち浮き足立った。
それも、当然であったかもしれない。東軍の武将たちは、薩摩人たちが朝鮮で見せた度を越えた勇猛さを知っており、決死になった彼らに打ちかかる事がどれほどの犠牲を伴うかということが解っていた。勝ち戦の中にある東軍の将士にとって、ここで討ち死にするほど馬鹿げたことはなく、まして東軍の勝利が確定してしまったこの状況では、残った敵を討ってもさしたる功にはならないのである。
つまり東軍には、この薩摩人たちに全力でぶつかろうとする者はいなかった。
波が割れるように東軍10万の大軍勢が突き破られてゆく。
島津隊の前に立ちはだかった者たちは例外なく跳ね飛ばされ、蹴散らされ、あるいは逃げた。
味方のあまりの不甲斐なさに激怒した家康は、徳川家で最強の二将――徳川随一の「合戦師」である忠勝と、「赤備え」という徳川最強部隊を預けられていた井伊直政に、この島津隊の迎撃を命じた。
忠勝はすぐさま揮下の軍勢をまとめ、諸隊の間を縫って西へと軍勢を向けた。
忠朝は、忠勝と共に駆けている。