第3話 関ヶ原――金吾中納言の裏切り
伊吹山系に掛かる雲はなお低く、関ヶ原は靄の海に沈みこんでいる。
霧の中からは、乱打される陣太鼓の音や法螺貝の咆哮と共に男たちのどよめき叫ぶ声が遠く響いてくる。風が出始め、わずかに霧を払いつつあったが、視界はなお開けない。
忠勝は、多数の斥候を5分とあけずに次々と前線へ走らせた。彼らは戦況を見ては馳せ帰り、刻々と移り変わる戦場の様子を報告してゆく。
戦況は、味方に悪かった。
「福島 左衛門大夫殿、ご苦戦! 宇喜多勢の勢い ことのほか凄まじく、斬り立てられて数丁も退けれらましてございまする!」
「甲州殿(黒田長政)、越中殿(細川忠興)らが石田 治部少輔(三成)の陣に打ちかかりましたが、敵の先鋒大将 島左近、蒲生郷舎の勢に次々と打ち破れら、負けを重ねておりまする!」
「お味方は陣立てがたいそうに乱れ、とりわけ北国街道筋では諸隊の混乱がひどく、大将が寄騎を見失い、寄子が物頭を見失うという有様で、まるで戦になっておりませぬ!」
といった具合で、東軍は全域にわたって敗勢が続いていた。
家康は、この「関ヶ原」の勃発前に、西軍についた諸侯を7割まで内応させており、実際にこの戦場で戦っているのは敵の3割ほどに過ぎなかった。しかし、このわずか3割に過ぎぬ敵―― 石田三成隊 6千、宇喜多秀家隊 1万7千、小西行長隊 4千、大谷吉継隊 2千――が狂ったように奮戦するため容易に破れない。
西軍は、関ヶ原に先着して高地に陣を敷き、地の利を得ていた。東軍の諸将がいかに攻め寄せようにも高地から猛烈な射撃を浴びせてこれを寄せ付けず、怯んだ隙に小部隊で猛然と突撃を仕掛け、東軍を何度も何度も敗走させた。
西軍の前面に配置されている侍大将は、島左近、蒲生郷舎、明石全登、長船吉兵衛、富田重政といった天下に名の知れた豪傑ばかりであった。ことに石田三成隊の島左近、宇喜多秀家隊の明石全登の小部隊戦闘の駆け引きの上手さというのは職人芸としか言いようがなく、鉄砲隊、槍隊、騎馬隊をくるくると入れ替えつつ敵に的確に打撃を与え、ときに全軍をもって突撃し、東軍の諸将を大いに苦しめた。敵を引きつけては打ち崩し、打ち崩しては翻弄するといった按配で、緩急巧みに攻め立てる彼らに東軍はまったく歯が立たない。
東軍でわずかに勝っているのは、小西行長隊の陣を突き崩しているくらいのもので、その一地域をのぞけば、東軍はことごとく負けていたのである。
東軍の諸将も懸命に兵を指揮するのだが、壊走してくる味方の波に飲まれて諸隊は大混乱し、指揮系統がめちゃくちゃになり、それぞれの大将がそれぞれ勝手に戦っているような格好で収拾さえつかず、敗勢を立て直すよすがもない。
忠勝はニコリともせず――焦燥を顔に出すこともなく――悠然と斥候の報告を聴き、ただ静かに戦の推移を見守っていた。
初陣の忠朝は、それどころではない。そうでなくとも緊張しているところに、聞こえてくるのは味方の敗報ばかりなのである。ひたすらに苛立ち、つい意味もなく歩き回り、刀を掴んでみたり槍を握ってみたりと少しも落ち着かない。
「忠朝よ、静かに座っておれ」
と、忠勝は言った。
「大将が焦ればその焦りは全軍に伝わり、大将が動揺すればこれに従う士卒はみな動揺するものぞ。こういうときは、床几に静まり返っていることこそが大将の務めというものよ」
忠朝は苦笑するしかない。これでは生殺しのようなもので、戦場で我を忘れて走り回っているほうが遥かにマシというものであろう。
「なんとももどかしゅうございますな」
忠朝は膝を握って床几に静まった。
この戦況が、実に2時間も続いた。
昼が近づくにつれ、眼下を覆っていた霧がようやく晴れ、関ヶ原盆地が直に見わたせるようになった。
忠朝の、想像以上の状況であった。
眼下の盆地に、東軍の5万の人馬がひしめき合っている。敵はことごとく高地に陣を敷き、これに攻め掛かってゆく味方を迎え撃っては蹴散らし、蹴散らしては追撃し、壊走させてまた陣形を建て直し、その秩序だった動きは見事としか言いようがない。
東軍の軍勢というのは、柵に追い込まれた鶏の群れにも似ていた。統制などというものはどこにもなく、どの部隊も大将の勝手に敵に攻め懸かり、崩されたとなれば自儘に退き、それらの諸隊が揉み合い、折り重なり、ひたすら混乱ばかりしている有様であった。
「父上、これは・・・」
「なぁに、負けはせぬ」
忠勝は笑った。
「後詰めの徳川3万が屹立として静まり返っておる限り、前線の諸将はそれだけで安心し、負けると思う者はなく、崩れ逃げ去る者もない。しかし、後詰めの我らが動揺すれば、それを見て前線の諸将が動揺し、敵が勇気付けられ、いま眠っておる西軍の連中までが起きだしてこぬとも限らぬ。この戦は、今が最悪じゃ。ここで我慢いたせば、潮目が変わる」
忠勝は確信していた。
そうであろう。いかに西軍が奮戦しようと、その総数は3万ほどに過ぎず、総数8万の東軍を破ることなど物理的に無理なのである。馬も人間も無限に駆け続けることはできず、疲労が蓄積すれば当然その働きは鈍ってゆく。そしてこの場合、疲れたときが負けるときであろう。西軍の疲労が限界を越えたとき、攻守は必ず入れ替わる。
しかし、この現状をこのままで放置しておくのはあまりにも危険であった。いたずらにこの状態を長引かせれば、内応の約束を守って不戦の構えをとっている西軍の諸候の心がどう変わってしまうかも解らない。彼らが一斉に徳川勢に攻め掛かってくれば、家康がたとえ鬼神でも負けることは確実であり、そうなれば東軍は滅びざるを得ないのである。
しかし、こう戦況が乱れてしまえば、もはやいかなる大将といえどもこれを収拾することは不可能であった。家康がどれほど統率力に優れていようとその命令が伝わるような状態ではなく、たとえ伝わったとしても、そもそもそれぞれの大将が自分の部隊を掌握しきれていないのである。家康がどれほど怒鳴ったところで、東軍の諸将は流れに身を任せているほかどうしようもないであろう。
味方に勇気と叱咤を与えてさらなる奮起を促し、この悪い流れを変えるには、もはや手は1つしか残されていない。
「殿さまに伝えよ!」
忠勝は伝令将校を呼んで叫んだ。
「今こそお馬を陣頭に進めなさるべし!」
総大将が大軍を引き連れて前線まで進み出れば、それを見て味方は勇気百倍し、後ろから押し出されるようにして敵に向かって駆け始めるに違いない。
無論、危険ではあった。総大将の家康が前線に出れば、それを見て敵が勇躍し、家康の首を挙げようと本陣に向かって猛進してくるに違いなく、その勢いに押されてかえって戦況が悪化する可能性もあり、家康本陣が崩されることにでもなれば、その瞬間 東軍は負ける。
しかし、この流れを変えるには、そのリスクを背負うしか手はないのである。
これを聞いた家康は、すぐさま床几から立ち上がり、
「本陣を進めよ」
と短く命じた。
家康は、危険のすべてが解った上で決断のできる男であった。百戦を重ねてきたこの男には、それをするだけの勇気がある。
手はず通り、徳川本軍2万が石田三成隊の陣所のわずか数百mという距離まで前進し、忠勝率いる1万の兵団が宇喜多秀家隊の前面に出て陣を敷いた。
これに押し出されるように味方の軍勢は勢いを得、敵陣に向けて怒涛のごとく殺到した。
流れが、変わりかけていた。
家康は、ここが切所だと思った。
西軍の最右翼に布陣する小早川秀秋に、寝返りを指示した。
小早川勢が逡巡し、動かないのを見ると、
「金吾(小早川秀秋)の陣に向けて鉄砲を撃ちかけよ!」
と命じて、これを恫喝した。
小早川秀秋は裏切りを決し、西軍の宇喜多秀家隊の横腹に向けて山上から雪崩れのように攻め掛かった。
この裏切りが、戦況を一変させた。
小早川隊の前面に布陣して日和見を決めていた朽木、赤座、小川、脇坂の諸隊がたちまち西軍を裏切り、奮戦を続ける大谷吉継隊の側面へ雪崩れ込み、これを突き崩した。
この裏切りを見た小西行長隊は早々と負けを悟り、撤退を開始する。
両脇の部隊を失った宇喜多秀家隊は四方の敵からめった打ちにされ、たちまち大混乱に陥った。
(勝った!)
東軍の誰もがそう思ったであろう。
諸隊はますます勢いを得、西軍を完全に圧倒した。
「懸かれぇっ!」
1万の徳川勢にそれぞれ指示を与えると、忠勝は“蜻蛉切”という名槍を引っさげて自ら陣頭に立った。
忠朝も、5百の本多隊と共にこれに続く。
忠朝の「関ヶ原」が、ようやく始まろうとしていた。