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第12話 大阪夏の陣――忠朝の覚悟

 元和元年(1615)5月6日の夜、忠朝の運命を決める使者が、本多隊が宿営する陣屋を訪れた。

 家康からの使番(伝令将校)であった。


「出雲守殿(忠朝)、承られよ! 『明日、天王寺口の先手(先鋒)を務めよ』との大御所様(家康)のお言葉でござる!」


 と、馬上から大声で怒鳴り上げた。

 陣屋から走り出てきた忠朝は、反射的に叫んだ。


「確かに承知つかまつった!」


 忠朝は、ほとんど気も狂わんばかりに喜悦していた。あの家康が、雲霞のごとくにいる東軍諸将の中から特に自分を選んでくれ、最終決戦の先鋒という華々しい働き場所を与えてくれたのである。名状しがたいほどの興奮と感動で、身が震えるようであった。

 先鋒とは、この時代の武士にとってはもっとも名誉な役割であり、それに選ばれることこそが主君から武勇を高く評価されているというこれ以上ない証しと言えるであろう。家康から疎まれていると思い込み、その能力をコケにされ続けていた忠朝にすれば、鬱屈していた感情が一時に喜びに変って爆発したようなものだった。


(大御所様は、わしをそこまで買うていてくだされたのか!)


 という思いが歓喜となって身体中を駆け回り、全身を総毛立たせた。

 男にとって、己の能力を他人に認めてもらうほどの喜びは他にないであろう。まして武士とは「己を知る者のために死ぬ」というほどに自らの武勇に矜持を持った生き物であり、今の忠朝にとってみれば、自分をこうも高く買ってくれた家康のためなら、なんの迷いもなく死ぬことができた。


「皆、聞け!」


 忠朝はすぐさま主立つ家臣と本多隊のすべての物頭(部隊長)を集め、酒宴を開いた。


「すでに聞き知っておろうが、明日の決戦、我らは天王寺口の先手を仰せ付けられた。侍にとって、これほどの誉れは他にない」


 集められた44人の武者たちと酒を酌み交わしながら、忠朝は笑顔で、


「わしは明日、必ず死ぬ。皆、よくわしの顔を見覚えておいてくれ」


 と言ったから、本多家の侍たちは呆然と凝り固まり、忠朝の顔を凝視しながらボロボロと涙を流した。

 明日の決戦で本多隊は、たった1千の人数で数万の敵に向かって真っ先に突撃していかねばならない。徳川全軍を一本の槍に喩えるなら本多隊はまさにその槍の穂先の先端であり、錐を揉み込むようにして敵を貫いてゆくもっとも重要な役割を担わされているのである。この先鋒隊の突貫力こそが全軍の勝敗を左右すると言って良く、それこそ生死を忘れて敵中に突っ込んでいかねばならないわけで、敵の豊臣勢がことごとく死兵であることを考えれば、忠朝がこう決意するのも無理からぬことであったろう。


「殿さまが死ぬると申されるなら、それがし、地獄の果てまでも先導つかまつる!」


 と感極まった家臣の一人が叫ぶように言うと、その場にいた男たちが次々に「わしもお供いたし申す!」と叫びだし、「忠死」というものに対する異様な熱気と異常な興奮が辺りを包み込み、陣幕をビリビリと振るわせているようであった。


「わしと同じ枕に死なんと思う者は、この起請文に名を記せ」


 本多家の士分の者はことごとく死を誓い、一人一人が進み出て忠朝から酒を受け、盃を干すと、誓紙に連署した。

 なかには、


「侍として戦に出る以上、命を惜しむなどということがあるか。わざわざ誓紙なぞを書いて死を誓うは、覚悟なき者のようで不面目でござる」


 などと言い、誓紙を突き返すような豪の者もあったが、そういう心根の者たちというのは例外なくすでに決死の覚悟を決めているのが解っていたから、忠朝は咎めず、


「我が家中の者は、一人残らず真の侍よ」


 と嬉しそうに言い、


「されば、わしはこの誓紙を肌身に付けて明日の戦陣に臨もう。皆とは来世にて再会せん!」


 と、爽やかに笑った。

 家康の勘気を受けて以来、忠朝がこのような晴れやかな顔をするのは初めてのことで、本多家の侍たちはこの殿様の笑顔のために死ねることを自らの誇りとした。


 楽勝ムードの中にある東軍にあって、本多隊の陣屋だけが、あきらかに他のそれとは異質の雰囲気を放っている。家康は、こういう情景になることを見越していたからこそ、先鋒大将に本多隊を率いる忠朝を選んだのであろう。



 忠朝を先鋒大将に指名するにあたり、家康は、浅野長重、真田信吉、安東 実季さねすえらの総数4千5百を寄騎として付属させた。

 これは、家康の人事の妙と言っていい。


 浅野長重は、秀吉の妻 寧々の義弟であった浅野長政の四男である。豊臣家と浅野家というのは非常に縁が深いのだが、この浅野家の軍勢が先鋒となって大阪を攻めれば、東軍についている諸将も「あの浅野家さえ大阪を攻めているのだから」ということで豊臣家を滅ぼすことに対する罪悪感が減殺されるであろう。しかも長重は元服した頃から将軍 秀忠の小姓として側仕えをしていたほどに徳川家とも縁が深い男であり、徳川家に対する忠誠という面では申し分ない。

 真田信吉は、大阪方の軍団長である真田幸村の甥にあたる人物である。東軍の中ではなにかと風当たりが強い真田家としては、敵を前にして奮戦しなければあらぬ疑いを掛けられぬとも限らないから、徳川家への誠意を示すためにも必死に戦うであろう。

 安東実季は、東北地方で勇将の誉れ高かった安東愛季ちかすえの子である。12歳の頃、同族に裏切られて10倍の敵を相手に150日もの篭城戦を戦い抜いたというほどの男で、年若いわりには実戦の経験が多い。しかも実季は、関ヶ原の合戦のときに西軍に付いたことから以前の所領のほとんどを没収されている。実季とすれば、この機会に手柄を樹て、領地を回復しようと大いに働くに違いない。


 これらの将はみな20代から30代の元気者ばかりで、これと忠朝を競争させることで、諸将をより奮戦させる、というのが家康の狙いであったろう。



 元和元年(1615)5月7日の早暁――大阪城南の空には、まだ星が輝いていた。

 忠朝はいち早く全軍を起床させ、朝食を取るよう命じた。

 忠朝とすれば、この合戦の一番槍だけは絶対に他人に譲れない。せきたてるように出陣の準備をさせ、陽が昇る前には陣屋を飛び出した。

 松明だけを頼りに、本多隊は八尾から平野郷を抜けて諸隊が混雑する奈良街道を西へ西へと進み、天王寺を目指す。忠朝に寄騎としてつけられた4千5百の軍勢が、それに続いた。


 忠朝が向かった天王寺村付近の豊臣勢の布陣の様子を説明しておくべきであろう。

 大阪城の南郊に、茶臼山という丘陵がある。ここにびっしりと赤い旗を並べて布陣しているのが真田幸村率いる真田隊5千であり、その僅かに東の丘――四天王寺の伽藍の脇に陣を敷くのが毛利勝永率いる5千余の軍勢であった。そして、それらの後方に豊臣家の正規兵である「七手組」の軍勢1万5千が遊軍として控えている。


 忠朝は、この日の午前10時ごろ、茶臼山の南方の平原に布陣した。


 ここで、抜け駆けがあった。

 越前少将 松平忠直という人物である。

 結城秀康の子であり家康の孫にあたるこの男は、1万3千余という大部隊を率いていながら「冬ノ陣」においては真田丸に篭った真田隊にさんざんに破られ、この「夏ノ陣」でも昨日行われた前哨戦で苦戦する先鋒隊をまったく援けないという大失態をやらかしていた。

 これに激怒した家康は、忠直を凄まじい剣幕で叱責し、この最終決戦にあたって忠直の家臣が部署を訊ねて来たときも、


「おのれらは昼寝でもしておれ!」


 と言ってこの男に働く場所をさえ与えなかった。

 家康から見捨てられ、徳川勢の編成から外されてしまった忠直は絶望し、


「部署がないなら、抜け駆けして天王寺口の先鋒に出る!」


 と勝手に突出し、いち早く茶臼山の真田隊の正面に布陣してしまったのである。忠直にしてみれば、軍令違反の抜け駆けをしてても死に狂いに働いて戦功を挙げなければ、もはや家康に会わせる顔がない。

 家康は、この松平隊の突出を内心では喜んだ。この際である。本多隊の他にも決死の軍団を作り、真っ先に敵に踊りかからせる方が都合が良い。


 忠朝が天王寺口の予定戦場付近に到着したときというのは、すでに松平忠直の大軍勢が真田隊の前面に重厚な布陣を終えた後であった。忠朝とすれば、主君の孫と持ち場争いをすることもできない。やむを得ず松平隊の東側――毛利勝永隊の正面に陣を敷いた。

 忠朝は数万の敵に突っ込んでゆくような悲壮な決意を持って戦場に臨んでいたのだが、先述した通りこの天王寺口の豊臣勢というのは実質的には真田隊と毛利隊の総数1万がいたのみであり、しかも忠朝の当面の敵は毛利隊5千に過ぎなかったわけである。



 ところで、将軍 秀忠を主将とする岡山口というのも、状況は似ている。

 岡山口の東軍というのは先鋒の前田隊2万を含めて総数5万余。これを迎え撃つ豊臣方は、大野治房を主将とするわずか5千ほどの軍勢であった。それが、前日の前哨戦で消耗してしまった豊臣方の精一杯の兵力だったのである。


 「大軍に戦略なし」という言葉も示すとおり、彼我の圧倒的な兵数の差を考えれば、この「夏ノ陣」というのはどうやっても徳川方の一方的な掃討戦になるはずであった。徳川方としては、数に任せてただヒタヒタと敵を押してゆくだけで良く、家康のこれまでの戦争の経験から言っても、天下に精強と響いた徳川軍団が負けるような要素はどこにもない。

 しかし家康は、それでも念には念を入れようとした。


(もう一工夫あった方が良いか・・・)


 と、この上さらに大阪城に使者を送り、和睦の調停をしようとしたのである。

 言うまでもないが、家康には本気で和睦をするつもりなどあろうはずもない。


 豊臣家の士卒は、前夜からすでに死を覚悟し、この日の一戦をもって生涯の華とするために士気を漲らせている。しかし、和睦があると知れば、ひょっとすれば命が助かるかもしれぬと誰もが希望を持ち、必死の気分などは萎えてしまうのものなのである。家康の狙いというのは、つまり「敵の決死の気分を和らげ、その士気を低下させる」というだけのことで、だからこそ和議の使者の調停結果を聞くこともなく総攻めの下知(命令)を出すのだが、この和睦の使者のために豊臣方の首脳陣は大いに動揺し、すでに決まっていた総大将 豊臣秀頼の出馬さえもが取りやめになった。


 家康の知略は、最後の最後まで戦に勝つという目的に対して貪欲に旋回し続けている。「勝ち」を得るためになりふり構わぬところが「戦国武将」の生き残りである家康らしさであり、一昔前の武将たちにとってみればこの程度のことは児戯にも等しい小手先の謀略なのだが、これに引っ掛かる豊臣方を愚劣とは見ず、これをした家康を卑劣と見るのが豊臣贔屓の後世の人の人情と言うべきであろう。


 いずれにしても、家康のこの謀略によって、豊臣方の士卒の最後の希望であった「秀頼の出馬」は取りやめになり、馬上天下を取った秀吉以来の豊臣家の象徴である“金瓢”の馬標が陣頭に立つこともついになかった。

 結果論だが、家康のこの一手は非常に大きな成果を挙げたと言っていい。



 場面を、天王寺村へと戻そう。


 忠朝率いる先鋒軍5千5百が茶臼山南方の平野に布陣を終えたときのことである。

 後方から馬を飛ばして軍監がやって来、


「この陣は、あまりに前へ出過ぎてござるぞ! いま少し引き下げられよ!」


 と怒鳴った。

 確かに忠朝の先鋒軍は敵に向かって突出し過ぎており、二陣、三陣との距離が開き過ぎている。

 しかし、忠朝はまったく意に介さなかった。


「馬鹿な!」


 と怒鳴り返し、


「出過ぎというなら、他の陣こそが前に出られよ! 一軍の先手(先鋒)に向かって前に出過ぎなどと言うことがあるか!」


 凄まじい剣幕でその軍監を追い返してしまった。

 先鋒というのは前に進むことこそが役割であり、臆病風に吹かれて敵に近づかないというのであれば叱責されるのも解るが、旺盛な戦意で敵に向かって行こうとすることを咎めるなどというのは理屈に合わないであろう。大軍を擁する徳川方とすれば、この合戦は大坂城へ向かって進んでゆく以外に戦略はなく、先鋒に続いて後続軍が前に出るというのが当然なのである。

 まして、敵を目前にした先鋒隊というのは、たとえ半歩でも後退することは許されない。士卒の精神状態は走り出す直前の悍馬のように猛っており、ここで後退してしまえば肩透かしを食うようなもので、張り詰めていた緊張感が途切れ、最高潮に達している士卒の士気が疎漏してしまうであろうことを忠朝は知っていた。矢弾を浴びながら敵に向かって真っ先に進むというのは誰にとっても怖ろしいことであり、後ろからの手綱が利かないほどに猛り狂うことが先鋒という部署に配置された士卒には必要なのである。

 忠朝とすれば、ここは激怒してでも後方の諸隊の前進を促し、大将の気迫を士卒に伝染させるほかなかった。


 しかし、ここで驚くべきことが起こった。

 忠朝に付けられていた4千5百の軍勢が、ぞろぞろと後退を始めたのである。

 忠朝は仰天し、伝令将校を走らせて元の配置に付くよう命じたが、諸将はその命令に応じなかった。


「大御所様より、いま少し陣を下げよという下知が参っておりまする。雲州殿(出雲守/忠朝)こそ下がられるが宜しかろう」


 と、彼らは口々に言った。

 寄騎の諸将にとって、怖ろしいのは大将の忠朝ではなく、家康であった。軍監の言葉というのは総大将である家康の言葉と考えるべきであり、家康の心証を損ねないというのが彼らにとっての至上の「政治」である以上、家康に疎まれている忠朝の言葉に従うよりも、家康その人の言葉に従っておくべきと判断するのは当然であったろう。


 先鋒隊の遥か後方に本陣を据える家康は、この事態を知らない。そもそも家康は、先鋒隊を引き下げろという指示を出してさえいないのである。


 確かに家康は、開戦の直前、旧豊臣系の外様大名たちに対して陣を数百m下げるよう命じた。外様大名たちに活躍をさせず、徳川家で武功を独占したいというのが、その真意だった。


「この戦で、義直(家康の第9子。このとき15歳)と義宣(同じく第10子。13歳)に戦の駆け引きを仕込んでやりたいゆえ、諸将はみだりに開戦せず、よろしく馬を数丁後方に下げ、ゆるゆると敵へ向かうように」


 家康らしい非常に曖昧な表現で、そのことを通達した。

 しかし、この言葉を額面通りに受け取り、しかも拡大解釈した軍監の一人が、突出し過ぎてしまっている先鋒隊を見、勝手に陣を引き下げるよう命じて回ったのである。この状況で先鋒隊を引き下げるなどという命令を家康ほどの男が出すはずがなく、軍監の男が家康の腹の底までを理解していればこんな愚かな指示を触れ回ることもなかったのだが、この言葉は家康の意思として先鋒軍へと伝えられてしまった。

 これを聞いた将たちにすれば、陣を引き下げざるを得ないであろう。


 喜劇的なことだが、忠朝率いる本多隊は、敵の目前で孤軍になった。

 最前線のもっとも重要な部署でこのような馬鹿げたことが起こっているなどとは、さしもの家康も想像だにしていなかったのである。


 忠朝は、唇を噛むしかなかった。

 もしこの先鋒大将が、忠朝の父である忠勝であったなら、このような事態は起こらなかったであろう。忠勝が合戦に関しては天才的な男であるというのは天下に隠れもないところであったし、家康がもっとも信頼を置く重臣であるということも諸将は当然知っていたから、その言葉には家康の言葉ほどの重みがあったのである。諸将は忠勝が右と言えば右へ走るし、左と言えば何の疑いもなく左へ走ったに違いない。

 しかし、忠朝には忠勝のような実績も名声もなく、ないどころかその武勇は家康からコケにされ続けていた。率いる兵もわずか1千という頼りなさであり、忠朝と同年輩の寄騎の将たちが心からこれに信服するはずがないのである。


(連中は、わしを軽んじておるのだ・・・)


 忠朝は、自分の命に従わない諸将をそのように理解し、奥歯を噛みしめた。


(これが、わしの武運か・・・・・!)


 あふれてくる涙をどうすることもできなかった。

 自身の生涯を飾るべきこの晴れ舞台のギリギリの土壇場で、率いる武将たちに去られた忠朝の情けなさと惨めさというのは、筆舌に尽くしがたい。

 しかし、腕でぐいと涙を拭ったとき、忠朝の顔から迷いは消えていた。


(この上は、我が一手にて敵に突っ込む・・・!)


 事ここに到った以上、誰よりも見事に戦い、誰よりも見事に死んで見せるほか、世間に対して忠朝の武勇を証明する手立てはない。



 家康は、この悲惨な事態を知らぬまま、


「寄せよ」


 という一言で全軍に開戦を命じた。

 元和元年(1615)5月7日の正午ごろのことであった。



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