第11話 大阪夏の陣――先鋒大将
失意の日々を送る忠朝の心を支えていたものは、
(必ずもう一度戦が起こる)
という確信だけであった。
家康は豊臣家と和睦したが、この和睦が大阪城を無力化するための謀略であったということは、裸城になってしまっている大阪城の姿を見れば誰の目にも明らかであった。豊臣家を決定的に滅ぼすための戦を、家康が近々起こすであろうことはもはや疑いない。
(我が汚名を雪ぐには、その戦で死に狂いに働く以外ない・・・!)
忠朝は、深く思い定めていた。
この頃の忠朝は口数がいよいよ減り、それに反比例するように酒量が増えていた。その顔からは柔和さが失われ、眼光だけが異様に鋭くなっている。
本多家の侍たちも、この年若い殿様の苦悩を知っている。
「殿、気を落とされますな。大御所様(家康)のご勘気、近いうちに必ずや解いていただける機会が巡って参りましょう」
と、口々に忠朝を慰めた。
もともと大多喜の本多家の侍たちというのは忠朝が幼児の頃からこれを愛していた者ばかりであり、忠朝も気さくな男であったから君臣の親近感というのが非常なまでに濃い。忠朝の悩みは即ち彼らの悩みであり、その苦悩はほとんど共有されていると言えるほどで、来るべき戦いに対する忠朝の決意も、当然のように家中に伝染し尽くしている。
家康が掛けた圧力によって、本多家中の内圧は、戦に向けていよいよ高まっていた。
「冬ノ陣」が終わった直後、家康は諸大名に、
「折り返し、すぐにも大阪に再征する。戦の支度を整えておくように」
と命じた。
当然ながら、この言葉が回り回って大阪方にまで聞こえることを、家康は計算に入れている。
大阪方とすれば、家康の魂胆を知ってしまった以上、防戦の準備をしないわけにはいかない。すぐさま浪人を召抱えたり壊され埋められた壁や堀の代わりに鹿砦や柵を植えたりし始めたのだが、このこと自体が家康の狙いであるとまではさすがに思い至らなかったであろう。
家康は、そうなるように大阪方を追い詰めておいた上で、大阪方のこの動きを再征のための口実に利用した。
「浪人どもを大阪城に留めるばかりか、またしても戦備を整え、謀反の気配を見せるなどはけしからぬ!」
と激怒した振りを見せ、
「大阪城という巨城があるからこそ、天下の浪人がそこに集まって秀頼に謀反を勧めるのである。禍根は大阪城という城そのものにあり、ここから秀頼を立ち退かせることが天下静謐への道であり、豊臣家の安泰のためでもある」
という、詐欺師のような理屈を用いて天下の諸大名に号令し、「豊臣家を大阪から移封させるため」に日本中から40万の兵を動員した。
「冬ノ陣」の講和条件のもっとも重大な一項は、「豊臣家の居城も領地も元のまま手をつけない」というものであったが、家康はぬけぬけとその条項を無視しただけでなく、「旧主の豊臣家を滅ぼす」という物騒な言葉を世間に対しては最後まで使わず、なし崩し的にそれを行おうとしたわけである。
これらは、あらかじめ描いた家康の悪謀の絵の通りであったのだが、大阪方の首脳陣の哀れさは、最後の最後まで敵である家康の約束を子供のようなあどけなさで信じていたことであり、家康が演じ続けた「律儀」、「誠実」といったその人間性に期待を持ち続けていたことであり、豊臣家の滅亡を本気で考えるだけの想像力が欠如していたことであったろう。
家康のような男から見れば、大阪方の首脳陣を騙すことというのは、幼児の首を絞めることよりも容易であったに違いない。そして、このあたりの事情と印象こそが、後世の人をして家康を嫌悪させるもっとも大きな原因であり、豊臣家と運命を共にし、壮絶に死んでいった男たちの凄烈さと悲哀さをいよいよ際立たせるのである。
家康が「夏ノ陣」を起こしたのは、「冬ノ陣」の翌年――元和元年(1615)の4月であった。
忠朝率いる本多隊は4月の中旬には大多喜を発し、徳川勢の本隊と共に4月の下旬に京へ入った。
家康は、今回は1万石につき2百人の兵を動員するよう家中に命じている。大多喜の本多家は5万石であり、忠朝が率いる兵数は、つまり1千ということになる。
このとき忠朝は、亡父 忠勝が生前使っていたものとまったく同じ意匠の甲冑を作らせ、それを着て戦陣に臨んだ。この一戦に懸ける忠朝の意気込みと決意が、この一事でも解るであろう。本多忠勝の代名詞であった鹿の大角の脇立てを打った兜を被り、漆黒の具足を着込んだ忠朝は、生前の忠勝がそうしたように黄金色に輝く大数珠を肩から袈裟懸けに垂らし、馬上の人となった。
忠朝のこの勇姿を見た本多家の侍たちは、
「亡き大殿様(忠勝)の再来じゃ!」
と言って涙を浮かべ、士気が沸き立つように騰がった。本多家の侍たちにとっては忠勝はほとんど生きた武神のような存在であったから、彼らの喜びと興奮というのは推して知るべきである。
家康の再征を知った大阪方は、4月26日には大和(奈良県)郡山城を占領し、さらに28日には堺を焼き討ちし、開戦の火蓋を切った。
大阪城の防戦応力を無力化されてしまっている大阪方としては、城に篭った篭城戦をするわけにもいかない。城を出て野戦をする以外に選択肢はなく、大阪に向かって来るであろう東軍主力を国境で迎え撃つほかどうしようもない。
しかし、大阪方が掻き集めた兵力というのは諸国の浪人者を中心に10万ほどであったに過ぎなかった。これに対し、家康が全国から動員した兵力は40万である。
勝敗は、戦う前から解りきっていた。
ここに到って、豊臣方に参集した浪人者たちの望みというのは、華々しく戦って後世に名を残し、美しき死に華を咲かせるというこの一点に尽きたであろう。
その兵は、ことごとくが死兵であった。
家康は、5月5日に京を発った。全軍を二手に別け、本隊は河内路を、別働隊は大和路を経由して大坂城南を目指して進軍する。
これを探知した大阪方は、こちらも戦力を二分し、敵が戦力を合流させる前にこれを叩き、あわよくば家康の首を挙げる、という方針を立て、大阪城を出撃した。大阪方がこの戦に勝利を収める方法があるとすれば、東軍の総大将たる家康の首を取るしかない。そしてそこにこそ、大阪方の士卒にとっての一縷の望みがあった。
家康は、東軍本隊の先鋒を井伊直孝と藤堂高虎に任せた。
井伊直孝は「冬ノ陣」が初陣という実戦経験の少ない若者であったが、沈着にして剛毅な男で、「冬ノ陣」の働きを見るところ名将の片鱗を匂わせている。さらに言えば、徳川最強と謳われた井伊家の「赤備え」3千2百を率いているわけだから、これは当然の人選と言えた。
藤堂高虎は、旧豊臣系の大名でありながら秀吉の生存当時から次の時代を見越して家康に接近し、今では徳川家の家来のようになってしまっている男である。戦国生き残りの武将で、伊達政宗などと共に東軍の武将の中でもっとも豊富な実戦経験を持っている上、5千の兵を引き連れており、先鋒の任も率なくこなすであろうと家康は判断した。
家康は、この「夏ノ陣」こそはできる限り身内で決戦を済ませてしまいたいと思っている。旧豊臣系の外様大名たちに手柄を立てさせてしまっては、それらの大名に莫大な恩賞を与えねばならなくなり、大きな大名を作ることそのものが徳川家の支配体制にとっては不都合であったし、そもそも豊臣家を滅ぼしたところで、浮き上がってくる領地というのは70数万石に過ぎないのである。これでは諸将に配るための恩賞の土地がない。
だからこそ、家康は身内から先鋒大将を決めねばならず、別働隊の先鋒大将にいたっては、水野勝成というわずか3万石の大名を抜擢し、これに3千ほどの軍勢を付けて先鋒を命じている。
水野勝成は数少ない戦国生き残りの実践家ではあったが、大軍を指揮したこともなければ先鋒を任された経験もない。家康の苦悩は、水野勝成程度の男を先鋒大将にせねばならぬほど、徳川家の将領級の人材が払底しきっていたことであったろう。
大阪方では、後藤又兵衛、毛利勝永、真田幸村らの2万弱の軍勢をもって大和路の東軍を攻撃せしめ、木村重成、長宗我部盛親らの1万余の軍勢をもって河内路の東軍本隊に攻撃を掛けた。
戦闘の詳述は避けるが、大阪方の奮戦の様というのは比類ないものであった。軍団長である後藤又兵衛、木村重成が討ち死にするほどの決死の戦いぶりで、東軍は圧倒的な兵数があるために勝つには勝ったものの甚大な損害を被ることになり、とくに先鋒に選ばれた藤堂隊、井伊隊、水野隊らの損耗は凄まじく、物頭(部隊長)級の人物があらかた討ち死にし、ほとんど戦闘不能という状態にまで追い込まれてしまったのである。
東軍は主力を大阪城南まで進ませることこそできたのだが、家康は、翌日行われるであろう最終決戦のために、先鋒大将を決めなおさねばならないハメになった。
しかも、2名いる。
大阪城南から大阪城へ攻め上る攻め口は、二筋であった。天王寺口と岡山口というのがそれで、家康は自ら天王寺口の総大将となり、岡山口には将軍 秀忠を総大将とした軍勢を進ませるつもりでいた。この大阪城南に集中した城攻めの主力というのは総数13万という途方もない規模で、大阪方の出戦能力の実に3倍にも相当する。
しかし、この大戦の先鋒が務まるほどの部隊は、もはやどこにもいない。
密集集団戦というこの時代の戦争の形態を考えるとき、真っ先に敵にぶつかってゆく先鋒隊の強さというのが、そのまま戦の勝敗を左右すると言っても過言でないほどに重要であった。先鋒部隊が崩れれば、連鎖的に後ろの部隊も崩れざるを得ないわけで、これがために全軍が壊走を余儀なくされるという例は枚挙に暇がない。その意味で、先鋒隊というのはその軍の最強部隊をもってあてるのが常識であり、どれだけの損害を被ろうと決して退くことなく、ひたすらに前のめりになって敵に向かって突き進んでゆける突貫力が何よりも求められる。つまり、先鋒大将には士卒を死に向かって猛進させる無類の統率力と抜群の戦術能力が不可欠であり、あるいはそれに代わる百戦の実戦経験を持った者だけがこの最重要の任に耐え得るのである。
家康は、大阪城決戦の前哨戦の段階で、井伊直孝と藤堂高虎、さらに小身者から無理やり水野勝成を抜擢してこの任を与えたが、いわばこれがギリギリの人選であった。これらの将の部隊が前哨戦で消耗してしまった以上、もはや先鋒大将を務められるほどの人材はいない。
(平八郎(忠勝)か、せめて小平太(榊原康政)でも生きておれば・・・・)
家康は思ったであろう。戦国の頃に家康を支えて活躍した勇猛で練達な指揮官が一人でも生き残っていれば、家康は何の不安もなく彼らに先鋒を任せることができたのである。しかし、それらの人材はことごとく家康ほどの天寿を保つことができず、今はこの世にない。
(やむを得ぬ。加賀の前田家を使うか・・・)
前田利家という戦国の武人が興した前田家は、加賀で100万石の勢力を誇っている。利家の子の前田利常という男の器量を買うつもりもなかったが、前田家の兵数はほぼ2万という巨大なものであり、しかもその兵は強悍な北陸勢であった。外様大名を使いたくない家康とすれば不快なことこの上なかったが、事態がこのようになってしまった以上、この大兵団を先鋒に用いるほか手がない。
家康は、前田利常に岡山口の東軍の先鋒大将を命じた。
さらに、もう一人は――
(忠朝しかおらぬ・・・)
と、家康は思った。
忠朝は実戦の経験こそ少ないが、先鋒という役割は、老巧な者よりも思い切って勢いのある若者に任せた方が上手くいく場合があるということを家康は知っている。まして忠朝は、本多隊がどれだけ崩されても、どれだけ被害を被っても、忠勝の名を辱めぬために、そして自らの汚名を晴らすために、決して退くことはしないであろう。こういう場合を見越していたからこそ、家康はあらかじめ忠朝をして死を覚悟するところまで追い込んでおいたのである。
(忠朝が、もし本当に平八郎(忠勝)ほどの男であれば・・・・)
家康は、そのことにも一縷の望みを持っている。
(どれほど過酷な戦場に放り込んでも、必ず役割を果たし、しかも生きて戻って来るに違いない)
家康は、古き良き「三河武士」を誰よりも愛している男であった。家康がその人生でもっとも愛した家臣は本多忠勝であり、その忠勝にそっくりの臭いをもっている息子の忠朝を憎いと思うはずがない。家康は、あるいは家中の若者の中で忠朝をもっとも愛しているのだが、その忠朝を死に向かわしめねばならぬところが大将というものの辛さであり、その役割の過酷さであったろう。
しかし、家臣に死ねと命じることこそが大将の仕事であり、討ち死にすることを承知の上で、大将の命に従って粛々と戦場に赴くのが武家という渡世であるはずだった。そしてそれこそが、古き良き三河武士のあるべき姿であり、その誇りであったに違いない。
家康率いる天王寺口の東軍の総数は、7万5千余。
家康は、わずか1千の本多隊に、全軍の先鋒を命じた。