第10話 大阪冬の陣――終結
「大阪 冬ノ陣」というのは、大小の局地戦の総称である、という言い方をすることもできる。それらの局地戦は、豊臣方が開戦に先立って設けた砦を東軍が陥とす、という形のものがほとんどで、大局的に見れば些細な小競り合いと言うに過ぎなかった。
たとえば、大阪城の南西――木津川の河口付近でも、いくつかの砦を巡る攻防戦があった。
そもそもこの木津川河口というのは、大阪城を海から支援する勢力がいる場合こそ非常に重要な地域ではあったが、今度の「大阪の陣」の場合は豊臣家は孤立無援であり、この地域が持つ戦略的価値というのも無いに等しい。しかし、大阪方の首脳陣はそれでもこの地域にいくつかの砦を築き、兵を置いて守備していた。
篭城する大阪方にとって、たとえそれが局地戦でも敗ければ兵の士気が低下するため、無駄な敗戦は極力避けるべきであったが、陥とされて当然の砦をわざわざいくつも城の外に置き、防衛線を無用に拡大した上、それらの砦が攻められてもろくに救援にも行かないというこの一事を見ても、大阪方の首脳陣がいかに無能であったかが解る。
東軍としては、当然ながら敵の砦を放置しておくわけにはいかない。大阪城を包囲した上で、それらの砦を虱潰しに抜いていったのだが、この木津川河口の地域は大小の川と運河が網の目のように地を割っているため、軍船を持っていない大名では満足に動けない。
家康は、当然それを知っている。阿波の大名である蜂須賀至鎮や伊勢志摩の海賊大名 九鬼守隆などに命じ、順次これを攻め潰していった。
余談だが、関西以西の武者たちは源平の昔から船戦に長けている。これに比して東国の武者というのは馬上の戦闘に習熟し、ことに坂東武者は騎射の技術に優れていたという。ちなみに家康も東国の武者らしく馬術は達者だが、海戦には疎く、徳川軍団も旧北条氏の水軍勢力を吸収してはいるもののその力は貧弱で、家康はその長い生涯で一度も船戦をした経験がない。
この木津川河口の砦の攻略は、11月の中旬から月末にかけて行われた。
このとき、家康は、城東に陣取る忠朝をわざわざ名指しして、木津川の中洲にある博労淵という地域の砦を攻略するよう命じた。
博労淵を攻めるには、大阪城を大回りに迂回して大阪湾まで出、そこから船を仕立てて木津川河口へと進むほかない。しかし、忠朝には当然だが軍船の用意などはなく、そのことは家康も知りすぎるほどに知っている。
困りきった忠朝は、
「せっかくのご指名ではござりまするが、我ら軍船を持ってはおりませぬゆえ、その任は誰か他の者にお命じくだされますようお願い申し上げまする」
と家康に言上した。
このときの家康の受け答えも痛烈だった。
「平八郎(忠勝)は、かつてわしの下知に不服を唱えたことがなく、戦ができぬなどと申したこともついぞなかったが、出雲守(忠朝)は、その子とも思えぬことを申すものよ。もう良い。お前のような うつけ には頼まぬ」
と不愉快そうに言い、忠朝に大恥をかかせた。
「武略天下無双」とまで評される家康の発言というのは非常に重い。ことに家康に信服し、これを畏怖する者たちにとってその言葉は千斤の重みを持つものなのだが、家康ほどの男が折に触れて忠朝をコケにし、無能者扱いするので、並居る諸将に及ぼす心理的影響というのは殊のほか大きかった。人々は忠朝という人間を軽く見るようになり、忠朝を直接に知らない者たちでさえ、
(出雲守(忠朝)というのは、あの中務(忠勝)の子息でありながら大御所様(家康)の勘気を受けている不覚人)
と認識するようになり、陰口が聞こえてくるようにさえなった。
忠朝の精神は――家康の狙い通り――鬱屈していかざるを得ない。
家康の周到さは、忠朝に辛く当たるようになってから、兄の忠政にはそれまで以上に目を掛てやり、親しく言葉を掛けたりその働きを褒めてやったりし始めたことであった。
家康は、忠朝らの父であった忠勝に対する愛は誰よりも深い。忠勝が率いた本多家というものに対する信頼や愛着、その働きに対する期待も大きいのだが、今回のことで「家康が本多家そのものを疎んでいる」と思われては、本多家の侍たちの心まで腐らせてしまうことになるであろうことを家康は知っている。そういう人間の心理の機微に家康ほど通じている男もなく、忠政に目を掛けることによって本多家に対する信頼と心安さを強調することも忘れなかった。
追い込むのは、あくまで「忠朝個人」でなければならなかったのである。
このことは、忠政をも大いに悩ませた。
「忠朝よ、大御所様(家康)のお言葉には異を唱えるな。そのご機嫌を損じてはならぬ」
と、二人きりになると親身に忠告してくれたりするのだが、家康の覚えが殊のほかめでたい兄の言葉では忠朝の捻じれてしまっている心を解きほぐすことなどできようはずもない。そもそも、なぜ家康が自分にこうも辛く当たるのかが、忠朝にはさっぱり解らないのである。
「大御所様のご機嫌を窺うあまり、できもせぬことをできると言うことが忠義の道とは私には思われませぬ。できると請合うておいて、いざという段になってできぬことの方が、はるかに都合が悪いのではありますまいか」
と、柄にもなく理屈を並べたりするあたり、忠朝はこのことがよほどにこたえ、悩み抜いていたのに違いない。
「お前の気持ちは解るが、理を立てず、非を鳴らさず、ひたすら上様(将軍 秀忠)や大御所様のお言葉に従うのが侍の務めであると、親父殿は申されておったはずじゃ」
忠政は諭すが、「父に似ず不出来な息子」という烙印を押されてしまっている忠朝の鬱屈は去らない。
忠朝は気を紛らわすように毎晩陣中で深酒を重ねるようになり、その評判はさらに悪いものになっていった。
「冬ノ陣」は、家康の思惑通り、和睦という形で終結した。
この乱で家康の思惑を外れたのは、大阪城南に「真田丸」という出丸を築いてここを守備し、東軍に多大な流血を強いた真田幸村の知略と、大阪城内で士卒の心を掴み、豊臣家の首脳陣の信頼を勝ち得た後藤又兵衛の武略であったろう。この二人の活躍によって城南に陣取った東軍の主力は連日のように敗戦を重ね、家康は「東軍の圧倒的優勢という状態で戦を推移させる」という当初の方針が実現不可能にさえなった。
家康は悪知恵の限りを尽くして大阪方の首脳陣を精神的に追い詰め、城内の内応者や仲介者を通じて女官たちの耳に甘言を吹き込み、その心を和睦へと傾けさせた。「冬ノ陣」は誰がどう見ても勝敗付かずの引き分けであり、見方によっては大阪方の優勢とまで言える状態だったのだが、大阪方の首脳陣の無能さでは政略で家康に敵うはずがなく、結局和睦は結ばれ、家康の悪謀によって大阪城のすべての堀は埋め尽くされ、壁は取り壊され、その防御力は皆無となった。
このことによって豊臣家の滅亡は決定的になるのだが、後世における家康の悪名というのも、このとき決まったと言っていい。
さしたる働きをすることもなく、忠朝の「冬ノ陣」は終わった。
残ったのは、戦費の負担と、家康の勘気と、諸将の蔑みの視線だけだった。
この頃から、忠朝に生来あった陽気さと磊落さは陰を潜める。
忠朝はどこまでも鬱屈し、酒に逃げるような日々を過ごして半年が過ぎた。