種田山頭火、十六句の風景 第5話:日記と十六句
作者のかつをです。
第十四章の第5話をお届けします。
今回は、山頭火と村人たちとの別れの場面と、彼がこの瀬野の地で実際に遺した日記の記述を基に、物語を構成しました。
彼の感謝の気持ちが伝われば幸いです。
※この物語は史実や伝承を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
別れの時が、来た。
山頭火は、善助夫婦に何度も何度も頭を下げた。
「この、一夜の御恩、決して忘れません。達者で」
彼は、何か形に残る礼がしたかった。
しかし、彼にできることなど一つしかなかった。
彼は、手帳の新しいページを破ると、そこに墨でさらさらと一句書きつけた。
「もりもりもりあがる雲へあゆむ」
そして、その紙を善助にそっと手渡した。
「こんなものしか、ありませんが。わしの、心です」
善助は、そのあまりにも自由で力強い筆跡をじっと見つめていた。
難しいことは、わからない。
しかし、その言葉の向こうに、この風変わりな坊様の揺るぎない生き様のようなものが、見えた気がした。
「……ありがたく、頂戴いたします。お坊様も、どうかお達者で」
山頭火は、にこりと笑うと背中の笈を担ぎ直し、再び街道へとその一歩を踏み出した。
村人たちが、名残惜しそうに彼を見送っている。
彼は、一度だけ振り返るとひらひらと手を振った。
その姿は、もう昨日までのみすぼらしい乞食ではなかった。
一つの風のような、自由な魂を持った旅人の姿だった。
その日の夜。
彼は、次の宿場で日記帳を開いた。
そして、この瀬野での忘れがたい一日を記録した。
「十月二十六日 晴、風。
(中略)
上瀬野、親切な家、風呂に入れて貰ふ、酒も沢山よばれる、泊。
其中、よかつた句。
朝の柿の葉のかがやく
まつすぐな道でさみしい
(中略)
もりもりもりあがる雲へあゆむ
以上、十六句を得た。」
彼は、この瀬野の地で、わずか一日の滞在の間に十六もの句を生み出していたのだ。
それは、彼の長い旅の中でも特筆すべき、豊作の日だった。
この土地の、豊かな自然。
そして、何よりもこの土地の人々の、飾らない温かい真心。
その二つが、彼の渇いていた創作の泉を再び満たしてくれたのだ。
彼は、日記を閉じると静かに目を閉じた。
瞼の裏に、善助夫婦の優しい笑顔と、あのつやつやと輝く柿の実の鮮やかな色が、浮かんでいた。
旅は、まだ続く。
しかし、この瀬野での一夜は、彼の長い放浪の人生の中で、一つの温かい忘れられない灯火として、その心に灯り続けることになるだろう。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
「もりもりもりあがる雲へあゆむ」。
この句は、山頭火の代表作の一つとして高く評価されています。まさに、彼の前へ前へと、ただひたすらに歩き続ける人生そのものを象徴したような、力強い句ですね。
さて、風のように現れ、風のように去っていった山頭火。
彼の遺したものは、何だったのでしょうか。
次回、「風の吹くまま(終)」。
第十四章、感動の最終話です。
物語は佳境です。ぜひ最後までお付き合いください。




